煙草



無数の灯篭が君の頬を照らし 輝く心の雫たちを いやに悲しく映し出した

あなたの考えていることは ねぇ

きっとさよならでしょう 僕は知っているんだ


そよぎ込んだ冬の乾いた風

半分だけ開いていた窓を 吹き抜けて

やにでくすんだレースカーテンを 腫れ物を触るように撫で 揺らした

ここにもう君はいない 僕の使わない道具だけを残して

君は行ってしまった そうだ これで家でも燃やしてみようか


火打石が高らかに心臓を抉る その子気味良い音は まるで悪魔のようで

君が打ち鳴らしていた軽快な号令は 僕にとっては寂しさの温床でしかなくて

無数の灯篭が君の頬を照らし 輝く心の雫たちをいやに悲しく映し出していた

あなたの考えていたことは ねぇ

きっとさよならだったのでしょう 僕は知っていたんだ


くっきりと浮かび上がった顔の輪郭は 僕の大好きな柔らかさを秘めていて

最後に一度だけ抱き締めたくなってしまった けれど君は拒んだね

あの日も確か同じように風が吹いていた 君の髪をそよがせ

腰まで伸びていたその束の先は すでに僕ではない誰かのほうを向いていた

そんな気が どうにもしたものだ もちろん悲しかったさ

諦められるのは君だからであって 僕ではない

納得できるのは君だからであって 切り離された僕のほうではないんだよ


握り拳がやかましく壁を穿うが

その世紀末みたいな唸りは 週末の空き部屋に埃を舞わせて

君が掛け鳴らしていた陽気なコンロは 料理のできない僕には置物でしかなくて

無数の刃が僕の深くを刺し 散りばめられた光をいやに鋭く僕に流し込んでいた

僕の叫びたかったことは ねぇ

ずっと愛していたよだったんだ 君は知っていただろうか




あらゆる感情は 気持ちは

大きな視点から見れば無意味で 無価値で なんの役にも立たないように見えて

好きという感情も 愛しているという心情も

それを毛嫌いしている人のいうことのほうが

むしろ正しいようにさえ聞こえてきたりもするんだよ

頭を洗面器に突っ込んで 冷え切らない水道水をつむじから被って 現実を

君がいないということの意味を考えれば そこにはなにもないから

あるのは事実の積み重ねと 熱を持った僕の体と 熱を失くした君の香りだけだ


僕はこの気持ちをどう持て余したらいいのだろう

僕は君が好きだったという事実を薄めたくない でも記憶は無情に冷たくなる

冷静という言葉を振りかざせば振りかざすほど 君が好きだった気持ちが嘘に

君はこの気持ちにどう整理をつけたのだろう

それともこれもまだ僕が僕の期待の中で あなたを美化しているだけだろうか

君はこの出逢いを 世界を

出勤前のおにぎりぐらいにしか思っていなかったということでしょうか ねぇ


無数の灯篭が君の頬を照らし 輝く心の雫たちを いやに悲しく映し出した

あなたの考えていたことは ねぇ

きっとさよならだったのでしょう 僕は知っているんだ

たとえ別れだとしてもその涙に救われた

僕の愛は報われた そんな気がしたものだよ

でもその涙はなんだったのでしょう あれほど純粋で美しかった涙が いまは

僕を騙すための芝居だったようにしか思えなくなっているんだ 哀しいよ ね

無数の灯篭が君の頬を照らし 輝く心の雫たちを いやに悲しく映し出した

あなたの考えていたさよならは ねぇ

どんなさよならだったのでしょう 僕にはわからない

重荷を捨てて清々していたでしょうか 僕はなぜ隣にいられたのでしょうか

あなたの心の中で 僕はどれくらい鮮烈に生きていたでしょうか


あなたを愛していた僕の中で いま君があの涙ほども生きていないのだから

きっといまのあなたの中で 僕はセーターの毛玉ほども生きてはいないのでしょう

火打石の撒き散らした閃光が 刹那のうちに消えるように

あなたと過ごした日々も きっと人生の一服程度でしかなかったのでしょう

その煌めきは煙のように形を変えて

空気に溶けて

もとからなにもなかったかのように 僕を世界に揺り戻すのでしょう


くゆらせた愛情を灰皿で圧し殺して

あなたはきっと この先も何箱も

誰かを吸い続けるでしょう


吸い続けた副流煙を 肺から追い出して

僕はきっと この先しばらくは

愛から離れて生きていくでしょう


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