天使のお茶会

@hiroku

第1話 貴方に天使の届け物

 天使のお茶会

                                蒼井ひろく


 眠気は毒。

 それは僕の全身を支配していた。毒は動脈から毛細血管にまで至っている。頭のつむじから足のつまさきまで。侵された僕の体は、先生の授業の声(まるで動物にハエがたかるような音だ)に、流されるままだ。ハエの音に、僕は何も抵抗ができないでいる。願わくは、早く授業が終わり、休み時間になりますように。

 授業中でもかまわずに眠ってしまえばいい。

 それができたらどれほど良いだろうか。でもできない。僕はいびきがうるさいからだ。机に突っ伏し、深い眠りに身を委(ゆだ)ねようものなら一体どうなるだろう。いびきをかく僕はハエの注意と共に起こされ、クラスメイトには失笑される。それをきっかけにいじられかねない。そんなストレスに耐える覚悟は無かった。

 高校一年生、田中ソウタ。それが僕の番号。

 真面目に授業を受ける生徒たちを、僕は笑っていた。そんなに頑張って、どうするの? だけど本心では羨ましかったんだ。本当は、起きて授業を受けたい。黒板のチョークの文字をノートに取りたい。先生の授業や雑談を、吸い取り紙のように吸収したい。そして家で十時間以上も睡眠をとらずに、勉強に熱中したい。そしてテストでは高得点を取り、クラスでも一目置かれる存在になりたかった。そして、そして、そして――。

 でもできない。

 眠いから。

 家での趣味が欠かせないこともある。

 こんな悩みを抱えているのは高校生でも僕だけだろうか。いや、僕だけではないだろう。現にこの教室にだって、ノートを取らずに机に突っ伏している生徒がいる。だけど、こんなふうに僕みたいに悩んだりはしないだろうな。僕みたいに眠気のことを校長先生に相談しに行ったり、近くの都立病院の医者に精神科を紹介されたり、しないんだろうな。そして本当に、精神病院に足を踏み入れるような、そこまで眠気過多について深刻に考える高校生は、数少ないだろう。

 チャイムが鳴った。

 僕は顔を上げる。数学の先生が黒板消しで文字を消し始めている。

 僕の最後の抵抗の言葉を聞いてほしい。

 昔から言われている格言があるじゃないか。

 若い頃の苦労は買ってでもしろ。

 そういうことだろ。他にもあるぞ。

 臥薪嘗胆。

 今は辛酸を舐める時期ということだろうか。

 確かに僕は若いが、辛酸なんて舐めたくない。できることなら、リア充になりたい。素敵な恋人と出会い、登下校を共にし、一緒にお昼ご飯を食べたい。だけど僕には無いのかもしれない。

 休み時間になった。

 クラスで一番、話の合う友達の河部マコトがこちらへやってくる。

「ソウタ。お前、また寝てただろ」

 彼は呆れ笑いを浮かべる。

「寝れなかった」

 僕は表情を歪めた。


 *


 やっと六限の授業が終わった。

 僕は教室のそれほど多くない友達に別れを告げて、廊下へ出る。マコトはこれから部活があるので、僕の帰りはいつも一人だ。

 廊下を歩いて、階段を二つ降り、玄関で靴を履き替える。靴は、黒色のナイキだ。やっぱり、高校生にもなったらナイキぐらい履いてないとね。

 玄関を出て、建物を振り返る。犬が伏せっているような形をした校舎。古い建物で、そこら中に汚れが染みついている。さすがに木造ではなく、コンクリートだ。桜川高校という。この桜川町でただ一つの高校であり、東京都では底辺の高校。四年制であり、通う生徒の学力は低い。部活も強いという噂を聞いたことは無い。なんでそんな高校を選んだの? 理由は簡単だ。僕の家から一番近いから。自宅は、桜川町の川辺の方にあった。距離が近ければ、それだけ睡眠時間が確保できる。電車代もいらない。

 僕は前を向き、歩き始める。入学してから、まだ一か月しか経っていない高校を並木道。桜の花はもう散っていた。

僕はピカピカの一年生だ。だけど僕には、ドロドロの一年生という言葉が似合っていそうだった。僕の体は白血球が毒に負け、肉は溶解しどろんどろんに溶けるのである。

 いつもの通学路を歩いていた。

 空を見上げると、快晴だった。太陽の光がまぶしく、家々の影が道路に背を伸ばしている。

 横断歩道の前で、信号が青に変わるのを待っていた。

 その時だ。

 不意に頭痛がして、僕は顔をしかめる。何だろう。後頭部に右手で触れる。

 横断歩道の真ん中に、人が立っていた。

 まだ赤だぞ?

 それは、白い服を来た、同年代くらいの女だった。彼女は辺りを見回し、僕を見つけてにこっと微笑む。

 左側からセダンの車が猛スピードで迫っていた。

 右側の道路には、赤の軽自動車がハザードランプを付けて停車している。

 セダンが警笛を鳴らした。避けれない。このままではぶつかる。ブレーキのかな切り声。僕は走り出していた。

 童貞で死ぬのかよとか。

 そんなこと思っている暇も無かった。

 僕は女の体を両手で抱きしめ、思いっきり道路を蹴った。多分火事場の馬鹿力が働いたのだろう。僕と彼女は鳥のように宙を舞い上がり。くるくると回転して地面に落ちた。そして道路をごろごろと転がり、止まる。僕は息を荒げていた。視線が定まらず、行動ができないでいた。近くで車のドアが開く音がした。

「だ、大丈夫ですか」

 誠実そうな若い男性の運転手が駆けつけていた。そこで僕はやっと意識を定まらせる。女の体から手を離して立ち上がり、男性に応答する。

「大丈夫です」

 制服をパンパンとはたく。汚れがあったが、骨を折るような重傷は無い。ちょっと腕に擦り傷が出来た程度だ。

 僕は女の安否を確かめる。

「馬鹿かてめえは」

 僕は父が子供を本気で叱るような声で叫んでいた。こんなに大きな声が出たことに自分でもびっくりした。そして、自分にはこんなヒステリックな一面があるのだと言うことを新発見していた。

 女はきょろきょろと辺りを見回し、

「はれ?」

 人差し指をあごにつけ、頭を斜めにした。きょとんとしている。

「あー、本当に良かった!」

 後ろの方で、若い男性は心から喜んでいた。両腕を天に向けてバンザイしている。車で人を引いてしまえば、それがどんな状況であれ、運転手は暗澹たる人生を余儀なくされる。それを回避できたことは、確かに僥倖だった。

 僕は女の頬を突っぱねた。

「痛っ」

「おい、お前」

「何ではたいたのですか」

「今、お前は他人を殺人犯にするところだったんだぞ」

「何で?」

「分からないのか?」

「んー」

 女は両目を閉じ、人差し指で頬をさわり、そして瞳を開いた。

「すいません。私、この世界に来たばっかりで」

「は?」

 僕はびっくりした。この女、車にはねられそうになったショックで、脳味噌がおかしくなったんじゃないのか。

「私は天使です」

「何を言って」

「こんにちは、人間さん」

「……何を言って」

「ここはどこで、今は何時ですか?」

 僕は唖然とした。口を半開きにして、頭を振って思いなおす。

「ここは桜川だよ」

 僕は立ち上がり、後ろにいる女をひきそうになった男に近づいた。

「すいません。救急車と、警察を呼んでください」

「警察?」

「大丈夫です。非はこの女にあります。貴方の悪いようにはならないでしょう。それよりも、時間が経った後でこの事件が警察に伝わったのなら、すぐに伝えなかった非を、貴方は被ることになると思います」

「そ、そそ、そうだね。分かった。警察を呼ぶのは分かったよ。でも、救急車は? 君たちは、怪我でもしたのかい?」

「事故による怪我は、後になって現れることもあります。そしてこの女性は……」

「もしかして、骨を折ったり?」

 男性は泣き出しそうな面で、顔をくしゃっとさせた。

「いえ、もしかしたら、知的障害があるのかもしれない」

「知的障害者?」

「自分を天使だと言っています。思考が錯乱しているのかもしれません。とにかく、救急車を」

「わ、分かった」

 男性はスーツのポケットからスマホを取り出し、操作して耳に当てる。僕はもう一度、女のそばに近寄り、膝を落とした。

「ここを離れるぞ」

 僕たちはいまだに道路の中にいた。次から次へと待っている自動車が列を成している。

「はい。分かりましたわ」

 女は元気溌剌と言った具合に微笑んで、立ち上がった。やはりこの女、変だ。

 よく見ると、彼女はすごく美人だった。顔が綺麗。そして女と呼ぶよりも、少女と言った方がふさわしいように思えた。

 僕たちは歩道に移動する。

 それから救急車が来るまで、僕と少女は調子の出ないトランペットの音みたいな、づれた会話を交わした。

「あの、桜川と言うのは、地球で言うとどの辺なのでしょうか」

「……東京です」

「あの、東京というのは、地球で言うとどの辺なのでしょうか」

「……日本です」

「おお、日本!」

 彼女はどうしてか、歓喜に目をうるうるとさせた。両手をにぎにぎしている。

「なんで喜ぶんだ?」

「私、日本に来たかったんです」

「天使だとか言ってたな」

「はい。私の名前はミル。この世界を守護する天使の一人です」

 透き通った声だった。

「天使は常識が無いのか?」

「常識ですか? ありません」

「何で?」

 僕は唇をとがらせる。

「だって、私は人界に来るのは、これが初めてですから」

「ふーん」

 何か、すごい電波がゆんゆんと飛び回ってるような会話だ。僕は恥ずかしくなって、下を向いた。

「じゃあお前が天使だったとしよう」

「違います。天使だと、認めてください」

「認めるとしよう」

「はいっ」

「この桜川に、何をしに来たんだ?」

「決まってるじゃないですか」

 自称天使は、両手の平を合わせる。子気味の良い音が鳴る。

「お茶会です」

「お茶会?」

「はい。天使同士の、お茶会です」

「天界でやれないの?」

「天界にお茶はありません」

「分かった」

「分かってくれてうれしいです」

「違う?」

「はい?」

「貴方が僕の手に負えないことが、分かったんです」

 救急車が到着した。


 *


 救急車は二台来た。僕と、ミルという名前らしい少女のためのものだ。僕らは担架に寝せられ、最寄りの都立病院へと運ばれた。遅れてパトカーが到着した。現場を様子は、救急車で運ばれて行ったために、それ以上は見ていない。救急車の隊員は僕の家の電話番号を聞いた。しかし、かけても家には誰もいない。父は仕事が転勤族で、今は青森にいるはずだし、母は乳ガンで入院していた。

 十分と待たないうちに、病院へつき、救急外来の医者に診察を受けた。僕は特に隠すことは何もなかった。事件の様子をありのままに語り、擦り傷が出来た箇所を見せた。

「後で腫れてくるかもしれない。とりあえず、レントゲンを撮りますから」

 医者の言うことに従って、僕はレントゲン室に行った。今度は担架では無く、病院の廊下を歩いての移動だった。足は特に怪我をしていないと思ったし、骨も多分大丈夫だ。

 レントゲンを数枚撮り、診察室へと戻ってくる。そこでミルと再会した。彼女は医者の診察を受け終えたのか、丸椅子に座っていた。この様子だと、外傷は無いようだ。髪が長く、艶々としている。髪も異常は無さそうだ。

 僕の近くに先ほどの先生がやってきた。

 僕からしゃべりかけた。

「あの、一緒に救急車で来たあの子は、大丈夫なんですか?」

「うん? ああ。大丈夫だ。彼女は天使らしいから」

「は?」

 僕はびっくりした。天使というのは、認知して扱うことが容易な存在なのだろうか。それとも天使と初めて出会ったのは、僕だけなのだろうか。そんなはずは無かったし、僕はこのお医者さんがユニーク言葉を選択して、僕の質問を煙に巻こうとしているのだと思った。僕は続けて口を開く。

「彼女は天使なのですか?」

「ああ、そうみたいだね」

「……、ぼ、僕は天使と出会うのが初めてで、ちょっと理解が追い付かないのですが」

「私だってこれが二度目さ」

「先生は、前にも会ったことがあるんですか」

「ああ。それより君の怪我についてなんだけど」

 それから僕は、自分の骨に異常は無いことと、擦り傷は腫れてこない限り安心であるが、安心はしないようにとの説明を受けた。安心であるが、安心ではないというのは、ちょっと頭がこんがらがる。

 入院の必要は、僕には無く、ミルにも無いとのことだった。先生は僕の両親に来てほしいと言ったので、僕は家の事情を告げた。父は遠いところにいるが、母ならば、この病院の八階に入院している。今は抗がん剤での治療で、ベッドに横になっているはずだ。

 僕と先生は、今から母親の病室に移動することになった。その折に、どうしてかミルも同伴することになった。


 *


「ナイスガッツ。さすが我が息子ね」

 事件の顛末を聞かされた僕の母は、左手を右手の二頭筋に当ててガッツポーズを取った。

「母さん、体の具合はどう?」

「へっちゃらよう」

 口ではそう言っているが、かなりきつい薬を使っているという説明を医者から受けたことがある。今も左腕には点滴の管が通っている。そして、おかげで母は髪が全部抜けて、今はニット帽を被っている。部屋も四人部屋では無く、個室だ。

「ミドリさん。そういうことで、息子さんには家へ帰宅してもらいますが、後で怪我が出現することもありますので、ご承知ください」

「ええ、分かったわ」

 ミドリというのは僕の母の名前だ。

「それよりさ、母さん。天使と会ったことある?」

「私の事?」

 後ろに控えているミルが反応した。

「天使でしょ? あるわよ」

「そ、そっか。僕は生まれて初めて見るからさ、面食らっちゃって」

「あんたテレビも見ないし、新聞も読まないからね。その上忘れることが得意だし、また忘れたんじゃないの?」

「ふ、ふーん」

 天使という存在は、誰が知っていてもおかしくないようだ。新聞の記事にも書かれることがあるということは。ミルは知的障害があるのではなく、僕が知らなかっただけということだ。

 医者が口を開く。

「それでなんですが。この天使のミルさんは、人界にお茶会に来たということなんです。ですが泊まる家が無いので」

 母がびしっと僕を指さす。

「ソウタ、家に泊めてあげなさい」

「すいません。お世話になります」

 ミルが上品に言って頭を下げた。何か、僕の意見を無視して話が進んで言っている気がする。

「そんな」

「そんなじゃないだろ! この馬鹿息子。天使の女の子が困ってるんだ。優しく、泊めてあげなさい」

「わ、分かったよ。だけど、どうすれば」

「どうすれば、って何」

「メシとか、色々」

「家事なら私がします」

「ほら、ミルちゃんも譲歩してるんだから、あんたも納得しなさい。というかしろ!」

「わ、分かったよ」

 昔から母には逆らえない。勝気で男勝り。病院という場所がとても似合わない女性だ。

「じゃあ、えっと、ミルさん?」

 僕は後ろを振り返った。

「はぁい☆」

「お茶会まで、よろしくお願いします」

「こちらこそ!」

 ミルはどうしてか照れていた。嫁入りするわけでもないのに。

「それじゃあ、私はこれで」

 医者は下がっていくようだ。

「ありがとよ」

 母が親指を立てた。

 そして、医者とは入れ替わりに、外で待機していた警察の二人組が訪問してきた。ドアをノックする音がする。

「すいません。ちょっと時間をもらってもいいですか」

 カーテンは開かれていた。イカツイ顔をした壮年の男が一人と、柔道が強そうな、筋肉ダルマというあだ名が似合いそうな男が一人、こちらへ近づいてきた。

「警察かい?」

 母はとたんに嫌そうな顔をした。

「何をしにきたんだい。でも、悪いけど帰っておくれ」

 母は早口でまくしたてた。

「違うんです。田中さん。私たちは事情聴取に来た訳ではないんです」

 壮年の男が微笑みを浮かべて、ベッドへ近づいてきた。

「だったらなんだって言うんだい」

「都知事が息子さんに表彰状を送るとのことです。天使を助けたということで」

「へ、ふ、ふーん」

「都知事!?」

 僕はまたびっくりした。

 母は首を傾けて、

「ソウタ、やったぞ。都知事に会ってきな」

「悪いけど遠慮するよ」

 僕には言い分があった。有名になりたくないのだ。学校で寝てばかりの僕が都知事に賞賛されても、その賞賛に見合うような生活をする自信が無い。僕は、暗い悩みを抱えていた。

「何だよお前。気持ち悪いなあ。都知事が頭を下げてくれるって言うんだ。遠くにいるお父さんも、喜ぶぞ」

 僕は舌うちをした。

「仕方ないなあ」

 滅多に帰ってこない父。父さんが喜ぶのなら、都知事に会うぐらい安いものかもしれなかった。

 それから僕は、次の休みの日に都庁へ行くことになった。母の病室を出ると、警察が僕に事情聴取をした。最初の言葉は嘘だったようだ。でもそれは簡単なもので、僕はここに運ばれてきた時に医者に言った話を繰り返すことになった。そして、僕とミルは二人で病院を出た。



 帰り道。

 五月の夜はそれほど寒くなかった。スマホを取り出して見ると、午後八時過ぎ。いつもなら眠るためにベッドに入る時間である。

 帰宅途中の車が狭い道を走っていく。そのランプの明かりが僕たちを照らしては過ぎていく。遠くで踏切の音が鳴っていた。そしてどこかからか、料理の匂いがうっすらとする。

 僕とミルは前後に連なって歩いていた。先頭はもちろん僕。歩道が狭いせいで、並んで歩けない。

「あのー」

 ミルが遠慮がちに声をかけてきた。僕は立ち止まって振り返る。

「何?」

 ちょっとトゲのある声になってしまった。

「あの、ソウタさんは、力がとても強いのですね」

「弱いよ」

 僕はぼそっと言って、前を向いて歩いて行く。

「そんなことないです。私を抱えてジャンプした時、あの車の背丈よりも高く飛んでいましたよ」

「火事場の馬鹿力」

 僕は歩いて行く。

「火事場? ふんふん、ソウタさんはお強いのですね」

「弱いよ」

「私が知っている、宮本武蔵よりも強いかもしれません」

「何で武蔵を知ってるの?」

 僕だって、宮本武蔵ぐらい知っている。

「常識が無いんじゃなかったの?」

「お友達に聞きました」

「じゃあ日本の常識も、お友達から聞いてきてくれよ」

「はい、すいません」

「いや、怒ってるわけじゃあないんだ」

 僕はまた立ち止まった。

「貴方は、ミルさんって言うんだっけ」

「はい!」

 ミルは両手の平を合わせて握り、笑顔を浮かべる。ちょっとくらっと来た。カワイイと思ってしまった。

「ミルさん」

「ミルですわ」

「……ミルさん」

「ミルですわ」

「ミル」

「はぁい」

「ミルはなんで、ここに来たんだっけ」

「お茶会のためです」

「ふーん、お茶会ね」

 僕は左手に折れた。こっちの道路の方が、道幅が広い。二人並んで歩けるようになる。ちょっと遠回りになるが、それくらいかまわないだろう。

「天界にはお茶が無いんだっけ」

「うん。でも、天界のことについては、人間には秘密です」

「なんで?」

「秘密です」

「ふーん、まあ知りたくないけど。お茶会には何人が出席するの?」

「今のところ八人です」

「八人ね」

「皆、遠くに住んでいる友達です。ですがこの度は日本に集まり、親睦を温めるためにお茶会をすることになりました」

「なんで日本に集まるの?」

「それは、んー、言っても良いのでしょうか」

「ごめん、言わなくていいや。秘密なんでしょ?」

「うん」

「そっか。天使のことについて聞きたいけど、秘密なんじゃあしょうがないね」

「申し訳ありません」

「いや、いいよ。それよりミル、お腹空いてない?」

「空きました」

 ミルがお腹に両手を当てる。くーっと音が鳴る。ミルは顔を赤くして、てへへと笑った。

「梅屋……違う、メシ屋にでも行く?」

「いいんですか?」

「いいよ、ついてきて」

 それから僕たちは牛丼屋さんにご飯を食べに行くことになった。距離はそんなに遠く無い。梅屋の席は混んでいて、僕たちは牛丼を持ち帰りで買って、家に向かった。僕は間接的に天使についての質問を繰り出す。

「ねえ、天使は、このまっ黒の夜空を、星空にしたりできないの?」

「それは人間の仕事ですね」

「人間の仕事って?」

「つまり、いつか人間が成しえる偉業ということです。人間の手の届く範囲の仕事を、天使はしません」

「ふーん。じゃあこの世から、犯罪を無くしたりしないの?」

「しませんよ」

「そっか」

 人間の力でいつか犯罪の無くなる世の中が来るのかもしれない。

 僕たちのその場しのぎの会話が続く。でも、初対面の人同士の会話なんてものはそんなものだろう。これからミルが同じ家に住むのならば、仲良くなれるかもしれなかった。

「ねえ、お茶会っていつあるの?」

「夏です」

「七月? 八月?」

「八月の頭です」

「ふーん。お茶会が終わったら、やっぱり天界に帰るの?」

「もちろんです」

「そっか」

 僕はちょっとがっくりした。

その時思ったんだ。

あまり、ミルに辛いようにしてはならないと。だって、お別れが悲しくなるといけないから。

 それから、ミルが家に来てから、少しずつ日数が過ぎていく。


 *


 ミルが家に来たって、僕の生活は変わらない。眠るために学校へ行き、眠るために家に帰り、そして眠るためにベッドに入る。どうして生きているのか、よく分からなかった。

 家事はミルがやってくれているので助かっていた。ただ、料理以外はだけど。最初の朝に、ミルが作ってくれたお煎餅を焼き肉のタレで焼いた物を見た時、僕はげんなりとした。仕方ないのだ。彼女には日本の常識が無いのだから、料理が分からなくとも納得できた。

 問題は彼女の服のことだった。

 彼女は白いワンピースしか持っていなかった。僕は母の着物を貸して、彼女の着替えとしていた。もちろん寝る場所も、両親の部屋を提供している。

 あれから二週間ほどが過ぎた日曜日のこと。僕はミルのモーニングコール(扉のノック)で目を覚ます。時計を見ると、朝の七時だった。

「ソウタさん。朝です」

「分かった。今起きるよ」

 僕は寝間着から普段着に着替える。白のパーカーとデニムのズボン。そして脱いだ寝間着を持って部屋から出た。

「おはようございます。ソウタさん」

 部屋の外ではミル元気満天という顔で微笑んでいた。どうして朝からそんな風に元気でいられるのだろう。

「おはよう、ミル。今、メシ作るからさ」

「はぁい」

 ミルは両手の平を合わせて握った。

 僕らは一階に降りて、リビングとキッチンがくっついた室内に入る。僕はキッチンに立って、ベーコンエッグを二つ焼いた。お皿に載せてちぎったレタスとミニトマトを添える。トースターで、パンをこれも二枚焼き、お皿に載せる。リビングのテーブルに運んで、朝食の完成だった。

 ミルはしきりにテレビを見ていた。興味津々と言った風である。

「どうしたの?」

「見てください。天使が出ています」

 僕はソファに座り、テレビに顔を向けると、天使が本当に出ていた。フランスでイスラム過激派によるテロが起き、死傷者が五十人超出たようだ。日本人の被害は無いとのこと。しかし天使は無傷で生還したようだった。

「知ってる天使の友達?」

「いえ、知らない人です」

「それよりご飯食べようぜ。冷めちゃうよ」

「あ、はぁい。ありがとうございます」

「いいんだよ」

 僕たちはパンをかじった。

「ミル」

「なんでふか?」

 彼女は口をもぐもぐとさせながら応答する。

「今日さ、暇だったらで、いいんだけど」

「うん」

「お前の服を買いにいかないか?」

「服ですか? すいません、私はお金を持っていないのです」

 ミルは残念そうな顔をして、顔を落とす。

「いや、俺が出すよ」

 もちろんおこずかいからだ。

「そんな、悪いです」

 彼女は顔を上げる。

「いいんだって。それより、十時から行くから、準備しとけよ」

「ちょ、ちょっと待ってください。悪いです」

「行くから、準備しとけよ?」

 僕は有無を言わせずに言った。

「この御恩は、いつかお返しします」

「じゃあキスで」

「キスでいいんですか?」

「じょ、冗談だよ。冗談」

 そして僕たちは、十時から出かけることになった。


 *


 一週間前の土曜日、僕は都庁に行った。電車では無く、家に黒塗りのリムジンのお迎えが来た。僕は松本都知事に表彰状をもらい、カメラのフラッシュを浴びまくった。テレビカメラでも撮影された。おかげで僕は、新聞とテレビ、どちらにも出演にすることになり、恥ずかしいったらこの上無かった。帰りもリムジンで帰ることになった。

 次の日、学校へ行くと変化があった。同じ学校の生徒が、僕に好奇の視線を寄せるのである。その中には好意的なもの多く、友達たちも鼻が高いようで、その日は僕のテレビ出演の話題で盛り上がった。マコトなんかは自分のことのように喜んでいた。


 *


 ファッションセンターシラハマという服屋で、ミルはうんうんと悩んでいた。二万円渡してあり、好きなものを買ってくれと僕は言った。それにしても、なんだろう。同年代ほどの女子と一緒に歩くのは、こんなに素晴らしいものだったのか。素敵な気分になれる。それはミルが愛嬌のある顔立ちをしているからという事も、ずっと背中を押してくれていただろう。身長は低いが、百五十半ばほどで、髪は長く、腰まで届いている。そしてこれは僕の勘違いかもしれないが、彼女からは良い匂いがした。それは香水のようなものでは無くて、小型の飛行機の搭乗者だけが知っているような、高い天空の中にただずむ、淡い空気の匂いだ。

「ソウタさん。これとこれ、どっちが似合いますか」

 ミルは両手にブラジャーとショーツがセットになったものを一枚ずつ手に取り、こちらを向いていた。いつの間にか、下着売り場に来てしまったようだ。

「い、いや、そんなの、自分で決めろよ」

「嫌ですぅ。ソウタさんが、選んでください」

「む、無理だ。服ならまだしも、下着くらい自分で選んでくれよ」

「嫌ですぅ」

 ミルがぷっくりと頬を膨らませる。

 僕は勘弁してくれと思った。

「僕、ちょっと自分の服探してくるから」

「お待ち遊ばせ」

 ミルが左手の下着を元の場所にひっかけて、僕の手を握った。僕はまた彼女の方を向く。

「離してくれ」

「ソウタさん。ちゃんと決めてくれないと、私は困ってしまいます」

「いや、困ってるのは僕なんだけど」

「ソウタさん、青年の日本男子としては、女子をきちんとエスコートしなければいけないのではないですか?」

「いや、何でそんな常識知ってるの? それに僕はまだ少年だ」

「ソウタさん、早くしてくださいなぁ」

「そっちでいいよ」

 僕はミルが左手に持っている下着のセットを指さした。

「分かりました。これを二つ買いましょう」

 彼女はカゴの中に二つ入れ、また移動していく。僕の手を握ったまま。何だろう、懐かしい気分が溢れる。そうだ、小学校の入学式で、知らない女の子と手を握りながら体育館へ入場したあの時の気分だ。照れくさいのだけど、どこかほっとするような。恋人たちは、いつもこんな思いを味わっているのだろうか。そうに違いない。

 それから僕たちは、数枚の服とスカートをカゴに載せた。彼女の選ぶ服のセンスは、良いのか悪いのか良く分からなかった。実際更衣室で着てもらったが、ミルは顔にデンッと花が咲いているので、どんな服を着ても似合うような気がした。ただ、今は春であり、もうすぐ夏になるということで、ピンク色のものや花柄の物を僕は選ぶように誘導した。

 会計にて、お値段、一万八千円余り。残り千円ちょっと残っている。スマホで時間を確認すると、ちょうど十二時を回ったところだ。

 ファッションセンターを出ると、ミルはしきりにお礼の言葉を述べた。僕は荷物を持とうとしたが、彼女が固辞したので、僕は手ぶらだった。

「なあ、腹空かないか?」

「空きました」

「じゃあ、センタッキーへ行かないか」

「洗濯機?」

「いや、違う。鶏肉屋さんだ」

「行きます行きます」

「よしっ」

 ノリが良い奴は大好きだった。


 *


 センタッキーはそれほど混んで無く、僕たちは窓際の方を選んで座れた。僕はチキンサンドのセットを、彼女はカツサンドのセットを注文した。食事が来ると、僕はチキンにかじりついた。彼女はその様子を不思議そうに見ていた。

「どうしたの? 食べろよ」

「ううん。ちょっと考え事をしていました」

 ミルは少し眉を寄せる。

「考え事?」

「はい。これは秘密の話なのですが」

「秘密? だったら言わなくていいよ」

「いえ、聞いてください。人間というものは、誰でも鳥になりたいという願望があると聞いたことがありまして」

「鳥か。そうだな。鳥のように空を飛べるなら、自由だと思うぞ」

 僕はフライドポテトを二本口に放り込み、ドリンクのコーラをストローですする。

「じゃあソウタさん。鳥になりたいと言いながら、もう一度チキンを食べてください」

「いいぞ?」

 僕は気分が高揚していた。ミルと一緒に外食するのは、なんだか恋人同士みたいな気分だった。それを味合わせてくれる彼女に感謝していた。

「鳥になりたい」

 僕はチキンをかじる。

「おほほ」

 彼女は右手を口元に当てた。

「どうしたんだ?」

 僕はむしゃむしゃと、肉を咀嚼する。肉汁が半端無くおいしい。香ばしい匂いが、鼻いっぱいに広がる。

「鳥になりたいと願いながら鳥を食べるソウタさんは、どこか哀愁が漂っていますわ」

「哀愁?」

「ええ」

「まあ、別に鳥になりたい訳じゃなく。空を飛びたいだけなんだけどな」

「それはそうですね」

 彼女はまた微笑んだ。

「ご飯冷めるぞ」

「はい。いただきます」

 それから僕たちは、他愛のない会話を楽しみながら、食事をした。帰る頃になっても、僕らはまだ遊び足りなくて、百円ショップに行って物色したりした。


 *


 月曜日。

 朝、僕が学校へ行く支度をしていると、ミルがトースターでパンを焼いた。どうしたの? と訊くと、私にもこれぐらいできますとのことだった。……ふーん。僕はいつも通りベーコンエッグを焼いて野菜を散らし、ミルの焼いたパンと共に朝食を摂った。そしてカバンを持ち、家を出た。

 平日は、ミルは家でお留守番をしている。道路に出て、また事故を起こしてしまうといけないので、川辺の公園までしか行かないようにと言ってある。本当は外に出ない方が安全なのだけど、彼女だって外の空気が吸いたいだろう。咲き誇る花を見たいだろう。川の橋を渡る車の群を見て、何か考えたいだろう。そう思ったんだ。

 通学路を歩いて行く。僕の家から高校までの距離は、徒歩十分ほど。近いというだけで選んだ高校に行くのは、なんとも言えない気分だった。

 ふと後ろで不穏な足音があった。僕はびっくりして振り返ると、電信柱の影に身をひそめる人間の姿が確認された。

「マジかよ」

 間違いなくミルだった。もう見慣れた、さらさらとした長い髪が揺れたのを確認した。どうしてか僕を尾行している。

 僕は気づかないふりをして、また前を向いて歩いて行く。後ろから軽い足音がついてくる。僕はまた後ろを向いた。ささっと、家の角に影が隠れる。困った。仕方なく、僕は彼女の隠れた家の角に行く。そこには家の中を冒険する飼いネコのような無邪気な顔を浮かべたミルの姿があった。どこから持ってきたのか、サングラスをかけている。

「ミル」

「は? いえいえ、私はミルではありません。人違いでは無いでしょうか」

 彼女は顔を前で右手の平を振る。しかし、声はミルのものであったし、着ている服は、昨日ファッションセンターで勝ってきた花柄のワンピースだ。

「そのサングラス。どこから持ってきたの?」

「これは、お母様の部屋に、いえ、違います。私が買ったんです」

「どこで?」

「ファッションセンターシラハマです」

「いつ?」

「昨日です」

「誰と一緒に?」

「もちろん、ソウタさんと一緒に、ですわ」

「おいっ」

 僕は握りこぶしを掲げる。しかし叩くつもりはない。おどしだ。

「ひえっ」

 ミルが怯えた声を上げて小さくなり、両手で頭を押さえる。

 僕は盛大にため息をついた。右手を伸ばしてミルのサングラスを外す。

「なんでついてきたの?」

「それは、もちろんソウタさんを護衛するためです」

「護衛?」

「はい。この日本には、どんな悪が潜んでいるか分かりません。ソウタさんの肉体は、私がこの命にかけても守ってさしあげるしだいでございます」

「いや、日本って、世界でも一番安全な国なんだけど」

 僕は右手で眉間をもんだ。

「その油断が命取りなのです」

「で、本当の目的は何だ?」

「ソウタさんの学校を見たいと思いました」

 彼女は後頭部に右手を当てて、てへへと笑う。

 僕は呆れを通り越して苦笑する。

「じゃあ、ついて来いよ」

「いいのですか?」

「今日だけだぞ」

「ありがとうございますぅ」

「ふん」

 僕はまた、通学路を歩き出す。横にミルが並ぶ。

「ソウタさん。ソウタさんは高学歴ですか?」

「……低学歴」

「ソウタさんは、頭が良いと思います」

「それよりさ。なんで高校を見たいと思ったんだ?」

「ソウタさんの通う場所を見たいと思うのは、変ですか?」

「変だ」

 僕たちの歩く靴音が鳴る。家々のブロック壁を過ぎていく。彼女と一緒に歩いている姿を友達に見られたら恥ずかしい。でも、僕はこの間もっと恥ずかしい目にあったばかりだ。都知事に表彰された件で有名になってしまった。恋人が出来たと噂が流れても、かまうもんか。

 駅からほど近い学校につくと、僕は立ち止まった。

「これが学校だ」

 犬が伏せっているような格好をした建物。白いコンクリートは汚れ染みがいたるところにある。

「へー、ふーん。ここかぁ」

 ミルは瞳を大きくして吐息をついた。

「それじゃあ、お前は帰れよ」

 通学する生徒たちが、好奇の視線をくれては通り過ぎて行く。

「嫌ですぅ」

「は、何言ってんだ」

「ちゃんと中まで見ないといけません」

「ミル、いいか、良く聞け」

「はいさい」

「いいか。周りの生徒を見ろ、皆、どんな服を着ている?」

「えっと」

 ミルはキョロキョロと辺りを見回す。

「男性は黒色の服を、女性は紺色の服を着ています」

「学ランとセーラー服だ。それを着ないと、学校には入れないんだ」

「ほほぉ、つまり私は女ですので、セーラー服が必要ということですね」

「そうだ。お前持ってないだろう」

「はい、持っていません」

「分かったら帰れ」

 僕は今歩いてきた場所を指さす。

「嫌ですぅ」

 ミルはぷっくりと頬を膨らませる。

「何でだ」

「セーラー服をもらってきます」

「誰にだ」

「誰かにです。もういいですよ、ソウタさんは先に入ってください」

「マジか」

 もしかして、自分が天使であるということを良いように使って、誰かからセーラー服を取り上げかねない。それは、さすがにまずいだろう。

「違うんだ。ミル、いいか良く聞け」

「はいさい」

「セーラー服を着たとしても、お前はこの学校には入れないんだ」

「どうしてですか?」

 彼女は驚いた顔をする。

「あの、な。えっと、そう。校長先生の許可が無ければ、入れないんだ」

「ほほぉ。校長先生の許可ですね」

「ああ、だから、ミルは入れないんだ。帰ってくれるか」

「違います」

「何が?」

「間違っていますよ。ソウタさん!」

 彼女は謎を解いたどこかの名探偵のように声を張り上げた。

「な、何が間違っているって?」

「つまり、私はセーラー服と、この高校の校長先生の許可があれば、学校に入れるということです」

「……」

「だんまりですか。やはりソウタさん、犯人だったんですね」

「いや、何の話をしているんだ」

「ふふん、分かりましたソウタさん。今日のところは、帰ることにいたします」

「おお、そうしてくれるとありがたい」

「さようなら、ソウタさん。永久に。もう会うことは無いと思いますが、泣かないでくださいな」

 彼女は歩いて行く。

「おい、天界へ帰るのか?」

 俺の声に、彼女は答えなかった。

 ふと、後ろから肩を叩かれた。

「おっすソウタ」

 知っている声だ。友達のマコトである。僕は振り返る。

「おはよう、マコト」

「おいおい今のは彼女かぁ? ういうい、お前もついにリア充へ進化だな」

「いや違う。テレビで放送されたと思うけど、あいつは天使だ」

「天使? 今のが?」

 マコトはスポーツ刈りの頭を右手で触る。

「ああ、それより、教室へ行こうぜ」

「ちょっと待て」

 マコトは僕の首に手を回した。

「お前とあの天使の関係について、詳しく話してもらおうじゃねえか」

「話すことなんてないぞ」

「嘘つけ。今日は返さんぞ」

「お前部活があるだろ」

「さぼる!」

「とにかく、教室へ行くぞ」

「俺の冗談ひろってー」

「知らん」

 僕はマコトの手を振り払って、玄関へと向かった。


 *


 一年生の教室は、一棟の三階にある。僕は教室に入ると、窓際の一番後ろの席に腰を下ろした。最初の席替えで、誰もがうらやむこの窓際一番後ろを獲得できたのは、とても僥倖だった。ここならば寝てても気づかれないで済むことが多い。

 僕はまだホームルーム前だというのに、机に突っ伏した。もはや寝る態勢である。眠くて眠くてしょうがない。

「おいソウタ」

 またマコトがやってきた。僕は顔を上げる。

「何だ?」

「天使の話、聞かせろよ。今度一緒に遊びに行こう」

「それは駄目だ」

「何で」

 マコトは僕の前の席を借りて腰を下ろす。ちょうど前の席の女子は、いなかった。

「ミル……、あの天使は、日本の常識が無いんだ」

「ミルちゃんって言うんだ。うはー、カワイイ名前だなあ」

「話を聞け。道路に出たら引かれかねない。だから、一緒に遊びに行くというのは、却下だ」

 理由は、本当は違う。ミルみたいな素敵な顔をした女性を、男友達に会わせたくなかったのだ。それは嫉妬から来る感情だったのだが、僕は意識できずにいた。

「俺たちが守ってやればいいじゃん」

「とにかく駄目だ。ミルについては、お前は関わらんでくれ」

「おー、あー、お前、皆の天使を独占する気だな」

「何でも良いよ。とにかく、気にしないでくれ」

「ふーん。まあいいけど」

 チャイムが鳴った。担任の先生・倉成哲が教室に入ってくる。そこでびっくりした。倉成先生の後ろには、セーラー服を着たミルがくっついてきていたからだ。跳ねるような軽い足取りである。僕は開いた口が塞がらなかった。

「あれ、天使来てんじゃん」

 マコトが目をぱちぱちとさせる。

「マジか」

 僕は眠ることさえ忘れて、状況を見守るしかなかった。帰ったんじゃなかったのか。というかセーラー服をどこで仕入れたんだ。校長先生の許可をもらったのか。

「皆、ホームルームを始めるぞ。席につけ」

「ソウタ。後でな」

「うん」

 マコトが自分の席へと戻っていく。教壇に立つ先生とミル。彼女は教室中を眺めまわして、僕を見つけるとペロリと舌を出した。先生が口を開く。

「皆、突然だけど、今日からこのクラスに編入性が来ることになった。天使のミルさんだ。よろしくな」

「よろしくお願いいたします」

 ミルが上品に腰を折って、頭を垂れた。

 クラスメイトの、特に女子の声が飛ぶ。

「天使?」

「え、この前の事故の?」

「すっげカワイイ」

 先生が手を叩く。

「はいはい、静かにして。それじゃあ、ミルさん。自己紹介をお願いします」

「はい」

 彼女は胸を張った。

「皆さま、私はミルと申します。趣味は散歩です。何卒、よろしくお願いいたします」

「はいはーい」

 女子の一人が手を上げた。

「はい、武藤」

 先生が名指しする。

「ミルさんは。天使だということですが、どうして人間の世界に来たのですか?」

「決まっています」

 ミルは人差し指を立てた。

「お茶会をするためです」

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