09/16/01:00――チィマ・夜の王
夜の街というのは、チィマにとっては慣れた時間である。
アルケミ工匠街は夜間であっても部屋の明かりが漏れている場所が多く、気遣いながらの移動となった。普段ならば月明りしかないような状況であり、そこに建造物があったのならば、頂点を飛びながら移動するのではなく、物陰に隠れるよう、しかし空中を飛ぶようにして渡るのがセオリーではあるものの、明かりがあちこちにあれば、それも避けなくてはならない。
昼と夜、陽光が逆転する世界は生まれてからの付き合いだ、どうとでもなる。だが、認識そのものは良いとしても、意識だけは〝夜〟にしなくては、浮いた存在になってしまうので、注意を払う必要もある。
しかし――街から出てしまえば、人がいない場所であるため、随分と気が楽になる。振り向けば街が見える範囲を、のんびりと散歩だ。
人が眠る時間というのは、いささか暇を持て余す。そのため普段ならば魔術研究の時間にしたり、一人でできることをやるのだが、であればこそ、夜でなくては逢えない人なんてのもいるわけで。
だとしても、どうして俺なんだろうと首を傾げながら、その二人組に近づいた。一人はついこの前に逢った猫目であり、そして黒のスーツ姿の男が隣にいる。
「来たにゃー」
「物騒な呼び出しだよな、これ。街を出てすぐにピンポイントで俺に気配投げてきたし。そっちが雷龍ビィフォード?」
「うむ、そうとも。私のことは――なんだろうな、べーさんでも構わないが、猫の、どう思う」
「お似合いにゃ」
「ははは、そうか、そうか。いやすまんな、チィマ。古来より私は個人の名を持っておらん。かつては夜の王と呼ばれ、吸血の主と呼ばれ、今はこの有様だ。あまり拘泥せんのもいかんのだろうなあ」
「いやだから、こういう役目は姉ちゃんだろ。なんだって俺に回すんだ……」
やってられねえとばかりに、最近は量が増えてしまった煙草を取り出して火を点ける。ストレスをため込むよりはマシだ。
「どうせ主導権は握れないだろうから先に聞いておく。べーさん、あの場所の雷でどのくらいの労力を割いたんだ?」
「ほう……ビヒモスの選択がその思考を後押ししたのか」
「そうだよ」
なんだろうなと、一度空を見上げて。
「話を聞いた限り、浮遊大陸が落ちたお陰で制約が解かれた――ってのが本筋なんだろうけど、俺は基本的に穿った見方をする癖があってさ。役目を終えたってことは、その先には〝消える〟ってことにしか聞こえなかった」
「消える? 私たちが?」
「そうだろうな。言いたいことはわかるよ、――それはない。まあ俺が断言して何になるって話だけど」
だが、消えることはない。
そもそも。
「あんたたちみたいな存在は、最初から〝殺せない〟はずだ。試したこともないから推測だけど、俺はそう思う。だから消えるってのは言葉の綾だ。現象としては〝眠る〟に限りなく近いはずだ。まるで――」
その考えに至った時に、ふと思い浮かんだのは。
「――将棋で奪った駒が、そのまま使われずにとっておかれる状況みたいにな」
「そうかにゃ? あっしはこの前に目覚めたばかりだにゃ」
「すべてが該当するとは思っちゃいないよ。けど――サラサ姉ちゃんの認識で作られた〝城〟ってやつが、姉ちゃんの認識がなくなったらどうなる? いや、そもそも、どうして認識された場に、あんたたちが集まった……否、集められたんだ?」
そうやって、チィマは。
「悪い方を考えちまう。で、これがまた大きく外れてないことが、この前に証明されちまった」
本当に参る話だ。
――サクヤも、同じ見解だったなんて。
「わかってるはずだろ、あれが〝鳥かご〟だって。だからこそ、一人は拒否してんだろ」
「ベルゼの爺にゃ」
「妖魔が覇権を争う時代は〝来る〟だろう。それは近いかもしれないし、遠いかもしれない。ただその時に、あんたたちが、あんたたちのままである保証は、どこにもないけどな。魔術的な意味合いでも〝元に戻す〟なんて条件は、かなり厳しい」
厳しい?
まあそうだろう、厳しいものだ。
限りなくゼロに近しいのだから、間違ってはいない。
ただし、その可能性にしたって――。
「あくまでも〝
元に戻すというよりも、ゼロに戻す方法なのだから、不可能の領域に近いものになる。
ましてや、こんな大きな存在ならば、なおさらだ。
「あんたたちは身軽になろうとしている。本来なら時間がかかることを、加速させているようにも見えるが――きっとそれが、姉ちゃんと一秒でも長く共に在るための方法だと、俺は思いたい」
「間違ってはおらんとも。――そうとも、お主の思考は正道を示している。我らだとて盤面の駒よ。そしてきっと、駒である自覚ができるのは、こうして終わりの刻に
「面倒な話にゃ……」
「今であればこそ、あやつはどこまで見越しておったのか、訊ねたくもなるが、いかんせんあの小娘どもはもうおらん」
「――、その人たちは、いわゆる世界の理を知っていたって?」
「おいおい、理とはよく言ったものだな? ははは、連中にとっては〝
「嘘にゃ。夜の王が白旗なんてお笑いにゃ」
「ははは、どうだかな。そうであればいいが……ともかくだ、チィマ。その話をサラサにはしたか?」
「いいや、今のところ推測だし、俺じゃなくあんたたちが話すべきことだろうと思ってる」
「気にせんだろうサラサは」
「俺から言えばな」
「いや私から言っても同じだ」
だろうなーと、紫煙を吐き出す。
「ところで、なんで猫目さんも一緒なんだ?」
「雨のに叩きだされたにゃー」
「ははは、同窓会のようなものだ。街から離れたここらならば、良かろうと思ってな。問題があるようならば、チィマが対処すると、サラサのお墨付きだ」
「ちょっ、ま――」
それ一番大丈夫じゃないやつだろ、と言う間もなく、
染めたのだ。
白色に。
「――だから待てって!」
迅速に外周を計測して、自分を中心に1キロほどの距離を目隠しのための結界を張る。一キロ、冗談ではない。
「これがサクヤさんの言ってたトラブルか……!」
ちろちろと、真っ赤な舌を出す、チィマよりも巨大な顔を持った白い蛇が、頭を抱えたチィマの横に顔を見せた。白色に染まったこの景色は、つまり、蛇の胴体だ。
「蛇のー、久しぶりだにゃー」
『……』
抱き着こうとした猫目はしかし、胴体を掴めずに空振りをする。
「ははは、相変わらずだ。爪を立てる貴様が悪い」
「最初の頃だけだったにゃ……」
「いやすまんなチィマ。さすがに私の部屋で出すわけにはいかず、いろいろと困ってはいたんだが、猫のが顔を見せたのでな」
「そいつを最初に言ってくれよ! 準備くらいさせろ!」
「最初に言うとだいたい断るから、先に行動した方が良いとサラサは言っていたが?」
断るというか逃げるのだが。
「先制されたのかよ……」
面倒になって、どっかりと大地に腰を下ろせば、白蛇の顔がやはり近づいて来ていたので、紅い目の下付近を軽く撫でる。
「あー綺麗だなー蛇さん。猫目さんとは大違い」
「にゃんと⁉」
「わかっておるのかチィマ、こやつは
「え? 雰囲気でそれはわかるけど、蛇さんのこと? それとも猫目さんのこと?」
「にゃに⁉ おみゃあさん、あっしが女じゃにゃいとな⁉」
「べーさん、質問が来てる。答えてやったらどうだ」
「私は答えても構わないが、傷つく猫を見たくはないし、今は気軽に喧嘩もできん。なあ蛇の」
『……』
「ははは、そうだろう、そうだろう」
「むうー、おみゃあさんは動じないにゃあ」
「感情ってやつは基本的に、偽るようにしてるんだよ、俺。昔からの癖でな。特に一人の時はそう」
もちろん、例外はあるけれど。
「驚くことはあっても、嬉しそうに笑ったりするわけだ。こんな綺麗な蛇さんを前にして、騒ぐ馬鹿はそうそういないと思うけどな」
「言うではないか」
「ん? 口説きとかじゃなく事実だろ。〝神気〟を感じるんだよ、蛇さんから。昔っから、そういう手合いには敬意をと教わっている。まあ手を出そうなんて思うこと自体が、ばかばかしいけどな」
「ほう」
「蛇のはもともと、場を鎮める天魔にゃ。場の主だからにゃあ、綺麗にゃ」
「私とこやつ、それとたまに猫は、昔によく遊んだものだ」
「遊んだって……玉藻さんとか小娘呼ばわりしてなかったか、猫目さん」
「そうにゃー」
「ははは、私たちは人のおらん場所で、のんびりと過ごしていただけだ。もっとも、人が住めないような状況だったので、最初から人が生きていなかっただけだが。……もう随分と昔のことだ、私も忘れている」
いつしか、猫目もべーさんも腰を下ろしており、酒を片手に飲み始めていた。
『……』
「え? ああ、大丈夫、夜は長いし付き合うよ蛇さん。……だよな? そう言ったんだよな? 酒の催促じゃないよな⁉」
返事は、ちろりと口から舌を出す仕草。合ってるのかどうか判別は不能だったので、ストックしておいた酒瓶を取り出して置いた。
「……飲んでいいよ。安いヤツだけど」
「なんだ気前がいいではないか。しかし――うむ、ハクナ? おい、ハクナ。酒盛りだ付き合え。どうだ?」
「ハクナさん呼ぶのかよ……」
「なんだ困るのか貴様」
「困りはしないけど」
「貴様らの中では唯一と言っても良い飲み仲間だ、呼ばんでどうする」
初耳だった。
おそらくまだ起きているだろうことは知っていたが、作業中だろうと思っていたら、すぐにハクナは姿を見せた。
「……おー、白い。綺麗。蛇? ハクナ、よろしく。チィマお酒どこ?」
「え、俺が出すの? 蛇さんのより安いのなら一本あるけど」
「それでいい」
蛇が空間を作り、向かい合うようにして四人。酒を提供しておきながらも、チィマだけが飲まないでいる。
「おいチィマ、酒を開けてやれ。蛇が飲めん」
「っと、気が利かなくて悪いな」
コルクの栓を開けて、やはり地面に置くと、ごくりと嚥下する音だけが聞こえて、量が減っていた。奇妙な飲み方をするものだとは思うが、ある意味で奉納とはそういうことかと納得しておく。
「おお、そうだハクナ、貴様の方が世界の理については詳しいだろう」
「ん? なにそれ、なんかあった?」
「話の流れだけど――詳しいのか、ハクナさん」
「詳しいっていうか……私の場合、世界そのものを一つの〝仕組み〟として捉えてるから」
「仕組み?」
「……うん」
「そこで面倒になるな、ハクナ。酒の代金だ、一席持て。それを肴に私は飲もう」
「あっしは聞き流してるにゃー」
『……』
「蛇は乗り気なんだ、いいけど」
グラスなんてものもないので、チィマのくれた酒瓶に直接口をつけてハクナは飲む。なかなか豪快なのが新鮮だった。こういう姿を見たことがなかったからだ。
「チィマ、質問」
「はいよ」
「同じ
「そりゃ、いるよ」
「うん、いる。――何人?」
「人数って言われても……俺はせいぜい、三人くらいしか知らない」
「うんそう。なんでだと思う?」
「そりゃ個人ごとに魔術特性なんて違うからだ。個性みたいなものだし」
「じゃ、次。違う魔術特性をいくつ挙げられる?」
ちょっと待ってくれと、しばし思考の時間を費やして。
「……知っている限りじゃ、せいぜい五十かそこらだ」
「多い?」
「いや、言われてみれば、随分と少ないよな……」
「重複するものも多いから。大きく俯瞰してしまえば、内世界干渉系と外世界干渉系の二つに区別される魔術も、一つずつ数えて行けば膨大な数になる。でも、その明確な境界線が引けないから、似た術式ならば、同じものとして捉える。間違いじゃない。で、同じでいい。極論を言えば、どんな炎でも、それは炎だから」
「本当に極論じゃないか、それは」
「実際はそうでもない。たとえば――あ、チィマ、小さい火を作って」
「いいけど」
掌の上に火を発生させれば、その隣でハクナは
「違いはなに?」
「過程が違う」
「それが人間の視点。でも世界は、この二つを〝同じ〟として捉える。――あ、もういいよ」
「極論じゃなくなるってわけか……」
ついでとばかりに、二本目の煙草に火を点ける代わりとしてから、消した。
「火の属性そのものも、四大属性の一つになる。四大属性だって、七則の一つ」
「地水火風天冥雷――これが世界を作ってるんだろ?」
「〝属性〟っていう法則は担ってる」
「法則……いや、確かにそう言われればそうだけど」
「そこで私はこう考えた。じゃあ、――ほかに法則は何がある?」
「――、そんな発想をしたのかよ」
「だって気になったから。チィマは思いつかない?」
「いや」
そうでもない。
「少なくとも二つ……いや、一つは瞬間的に思いついた」
「それは?」
「〝破壊〟と〝創造〟だ」
「うん、私もその思考はした。ほかにも〝時間〟――現在、過去、未来。魔術特性ほどじゃないにせよ、数はあって、それは世界の中にある」
「世界を作ってる、とは言わないんだな?」
「世界の構造って、どんなだと思う?」
「構造か。人がいて、法則があって、術式が――ん? 法則の中で生活している人が術式を使う……? 術式とは、つまり、術だ。技でもある。法則そのものではないにせよ、いわゆる下部構造になる……のか?」
「正解だけどもっと大きく。――世界はただの〝器〟なの。その中に、法則を作って、それが効果を発揮するために〝意味〟を与えて、ようやく〝
「あー、そこらサクヤさんが関わってるだろ」
「うん、かなり思考を加速させてくれた」
「いや加速因子じゃあないんだから……」
「…………」
「どうした? 追加の酒はないぞ。っていうか俺が酒ばっかストックしてるみたいだけど、そうじゃないからな。魔術品以外の保管は結構面倒なんだ」
言うが、不満そうな顔は変わらず、何かしらの術式が展開したかと思えば。
「サクヤ。サークーヤー、寝てるー? 起きてるー? つまみー、つまみが欲しいなー、五人分くらいないかなー、欲しいなー、起きてるー? つまみが欲しいなー、食べたいなー」
呪いのような言葉をしばらく続けていたが、ぴたりとそれが止まって術式が消えた。
「それでね?」
「あ、続くのか、よかった」
「ここに器がある。法則もできた。どうやって中に仕込む?」
「一般的な魔術的思考なら、まずは〝書き込め〟となるな」
「そう。つまり〝書き込む〟法則が必要になる」
「待ってくれ。だったら〝台帳〟もいるって話だろ、それ」
「そうやって連鎖的に法則が増えて、世界は成り立っている」
「あー待った、待ってくれ、俺にもなんとなく繋がってきたのがわかる。魔術特性、火を作ること、そういうのが世界の縮図として俯瞰できるって部分もな。拡大解釈を続けてから、今度は縮小して行く視点――で、一番重要なのは〝本人の意志〟だろ」
「そう、人が無意識だけれど、世界は意識的にそれを行う」
「〝決定権〟――その裁定を下すのが〝
「実際に意志があるわけじゃない。どちらかというとシステマチック。こうなったらこう、みたいな仕組みが無数に作ってある。人が干渉するのはまず不可能。だって構造がわかんない」
「……そこまで至った理由は?」
「論理補強は私だけど、――世界を知ってるから」
視線の先を辿れば、実に嬉しそうな顔をしてべーさんが酒を飲んでいた。
「いやいや、私だとてすべてを知っているわけではない。詳しい者がいて、よく話を聞いていただけだ」
「聞き流してもどーしてか残るんだにゃあ……」
『……』
「ははは、そうとも、私たちにとっては酒の肴だ。何しろあの爺だとて、私たちが理解できると思っておらんかったからな」
「ベルゼの爺さん」
「あー、あの人。逢ったこともないけど」
「その方が良い。どうも貴様は、アレが好きそうな人種だ――手厳しくなる」
「うん。サラサにも手厳しい」
「マジかよ……あ、サクヤさん」
「――おいてめえチィマこの野郎、いるならいるで止めろ。なあ? 寝てるところを叩き起こされてつまみだけ作ってデリバリー? これが夢の中なら放っておいてくれ。新顔もいるし。なんなんだよクソッタレ――お前は最後だハク、まだ食うな」
「んあー」
顔くらいは洗ったのだろう。疲れて見えるのは睡眠不足というより、急いでつまみを作ったからか。
「簡単なものしか作ってねえけど、あー……べーさんも後回しな。蛇さん食えるか? とりあえずこっちの小皿、好きに食べてくれ」
周囲を見てわかったのか、チィマが置いた蛇の酒の隣に小皿を置く。すぐにその中の一つが消えた。
『……』
「ん? ああ、そりゃ気持ちは込めるよ、いつでも。手は抜くが料理は料理だ、俺の専門だから。ありがとな蛇さん。で、そっちのちっこいのは?」
「猫目にゃ」
「ああ、あんたがそうか。じゃあこれな。――よし、あとは好きにしていいぞ。ハクは説教な……てめえ、あれほど夜中に起こすなと言っただろうが! 飲むなら飲むで、ちゃんと事前に言え! それか途中で俺を呼ぶな!」
「美味しい」
「お前いっつもそれしか言わないだろ⁉」
「事実」
「あーもう……チィマも、な? こいつ呼ぶなよ?」
「わかったけど、呼んだのはべーさんだから」
「おい。あんた言ったよな? 酒盛りにハクを呼ぶ時は俺に一言添えるって、言ってたよな?」
「さてどうだったか……」
「どうだったか、じゃねえだろ。んで、なんの話をしてたんだ?」
「世界の仕組みについて、いろいろと聞いてたんだよ」
「ああ、それで俺の魔術特性に絡んで、つまみを要求したのな。ちなみに言っとくけど、俺は一個世界は作れない」
「小さいものでも?」
「まず無理だな。チィマ、ここに結界張ったの、お前だろ?」
「そうだよ。軽い目隠しだけど」
「結界とは、いわゆる世界の器と同じだ。俺の術式はその中にある環境を生成する役割になるわけ。つまり、囲いを作れない。どちらにせよ、術式は法則を遵守したものだ。法則を作ることは不可能だし、破ることもできねえよ」
「下部構造だって結論はさっき」
「さて、ここで問題だ。浮遊大陸があった頃、そして現状の七龍、七つの大陸、こいつは誰かが〝意図〟して作ったって話がある。一体どういう手段がありゃ、んなことができる?」
現実的に起こっていた話なのに、続けば続くほど空想に限りなく近くなっていくようなこの感覚は、一体なんだろうか。
「〝世界の意志〟に書き込むか、あるいは誘導する――だな。読めることが前提で」
「ま、だからべーさんみたいなのが、七つもいるんだろ」
「……本人は楽しそうにやってるけどな」
「ははは、気楽が一番だ。いずれにせよ、私たちが消えたところで、今すぐ終わるわけではない。何しろ、私たちと貴様ら人間とでは、最初から尺度が違うからな。いらん心配はするな」
「心配はしてねえだろ。いや、そもそも、なんでこんな話になったんだ?」
「なんでって、消えるとか存在の話から――ん、ちょい待ってくれ、なんか……」
「どうしたよ」
「結界にノイズが入った。けど……覗き見とかそういう干渉じゃない。むしろ場が乱れたような――ハクナさん?」
笑い声が上がる。
猫目と、べーさんが笑っている。
ハクナと同様に、見ているのは――空。
「月見酒よ」
瞬間的にチィマの世界が黒に染まり、何事かと思う間よりも早く、空に浮かんだ月が景色として飛び込んでくる。
今まで見ていた、黄色の真月の隣に。
一回りほど小さい紅月が、そこに浮かんでいた。
「なんだあれ……
「結界に触れたのはそれか。おいべーさん、なんだありゃ」
「これについて、私たちから言えることはない。あるとすればそれは、雨の倅――あの小僧が、いなくなったと、それだけだ。ああいや、もう一つ。貴様の目だチィマ、陥穽の一つが元に戻ったと」
それくらいなものだと、月を見上げながらべーさんは酒を飲む。嬉しそうに、だ。
「雨のが……?」
「レーグさんか。ふん、意味深だな。ハク、陥穽とはなんだ?」
「構造的欠陥。この場合、耐用年数における劣化などの不慮の事故に限りなく近い。簡単に言えば見落としや過失」
「どれほど精査したところで、条件次第では出てしまう欠陥――ってことか。この場合は、つまり、世界の」
がりがりと頭を搔いたサクヤは、自分の作ったつまみを一つ、口の中に放り入れた。
チィマの〝
「古き遺産、最後の一人――って認識で合ってるか、チィマ」
「ん、ああ……そうなるはずだ。あの野郎、挨拶もなしか」
「――何を言っている。貴様、あやつから酒を貰って、一戦交えただろう。挨拶としては充分ではないか」
あれが、挨拶。
つまりべーさんは、それを察することができなかった野郎が間抜けだと、そう言っているのだ。
「古いものがいなくなったから、変わった? ――自然過ぎて頷けねえな、こりゃ」
「自然なんだろう。少なくとも、浮遊大陸が落ちてから、こうなることは決まっていたように思う。ただ――俺の認識が、想像が及ばなかっただけだ」
「魔力波動があるよな、あれ」
「ある。けど……自然界に発生するものとはちょい違うし、人が持つ固有のものとも違う。作用自体は〝ない〟に等しいから、何かしらの因子が合致した場合にのみ効力を発揮するものかも」
「今はまだ……ん? ハク?」
「
空を見上げたまま、虚空を睨むようにしてハクナは集中していた。
「陥穽を塞いだ、個人が持っていた? 作る前には壊す、壊す前に直す? 器に穴……補強、それは持続のため。――あ」
「ハクナさん?」
「予備」
呟くように言うと、チィマの方へ顔を向ける。
「補強じゃない、予備だ」
「――、嫌な想像をしちまったぜ……」
「サクヤのたぶん正解」
「簡単に説明してくれ、ハクナさん」
「壊れかけの家があったとする。新しく作るためにどうするか」
「家を壊すんだろ。でも、ハクナさんは補強をするとか何とか言ってたよな。俺の目のことだろうけど?」
「たとえ話。新しい家を作るなら、まず、仮住まいが必要になる。それから壊して、作り出す」
「――バックアップ」
「そう」
「当たるんだよなあ、俺のこういう嫌な感じ……」
「見た目には穴を塞いでいるように見えて、こっちを〝主〟と仮置きしつつ、本物を修繕……というか、新しく取り換える?」
「その流れが近い。でも、これが〝急に〟なのか〝今ようやく〟なのかは不明。わからん……」
「そこまでの見解を求めちゃいねえよ。はー、しかし大丈夫かね、フルールは」
「なんでそこでフルールさん?」
「ほら、ハーフとはいえ狼だろ、あいつ。月を見て盛り上がって――あ、ギィール置いてきたから問題ねえか。部屋に一人だし。大丈夫だ。あー心配して損した」
俺も飲むか、なんて言ってハクナの酒――チィマのだが――を奪うようにして、飲み始める。
「なんにせよだチィマ、目の前を疎かにしちまったら元も子もねえよ。だろ?」
「はは、まあね。とりあえず」
睨むようにして紅月を見上げてから、視線を足元に落として、チィマは苦笑する。
「この当たり前の〝夜〟に、慣れることが先決だ」
だからとりあえず、飲もうと思ったのだが。
残っている酒がなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます