09/15/10:30――チィマ・その記録結晶は
それを部屋と表現するには、いささか迷うところだが、玉藻の部屋の景観はというと、森の上の丘みたいな風景――と表現しても良い場所であった。部屋よりも土地と言った方が通りやすいか。
抱えられていた腕を振りほどき、ぐるりと周囲を見渡せば、のどかな雰囲気と共に、緑と土の香りがする。
「――ここ、サラサ姉ちゃんの部屋と繋がってるのか?」
「領域は同じじゃよ。猫目、この場はサラサが〝認識〟によって作り上げた城、その一室じゃ。懐かしい顔はだいたい、ここで部屋を持って呑気に過ごしておる。ベルゼの爺は別じゃがな……」
「爺言うにゃ。あっしが婆みたいじゃにゃいか」
「――へえ? 猫目さんは、そっちと同世代か。随分と古いんだな……夜の王様と同じく」
「そうだにゃあ、夜のとは昔馴染にゃ。あっしも部屋欲しいにゃあ、温泉作りたいにゃ」
「温泉?」
「そうにゃ。源泉に浸かってた時期が懐かしいにゃ……」
「三番目にはあるらしいがのう」
「でも小娘、このちっこい
「ははは、もちろんだとも!」
豪快に笑い、どっかりと丘に腰を下ろす。八本の尾は健在で、そのベッドが悪質なほどの熟睡に誘うことをチィマは知っていた。
そして。
「何しろ
「にゃんだって?」
「さすがに止めた。食ってしまえば後戻りができんからのう……じゃが、間違いなくこやつは〝食わなかった〟だけで、食えないわけではないのじゃよ」
「おい……昔の話だろ、水に流したはずじゃないのかよ」
「うむ。じゃからこうして、話題にもできる」
「だったら訂正してくれ。俺にはせいぜい、尾の一本が限界だった――ってな」
妖魔として高位にある玉藻は、非常に強い金気を持っている。戦闘状態になれば、尾にある一本一本の毛が、そこらのナイフよりも鋭くなることは知っていたし、実感した。だが当時、完全に敵視してしまったチィマには、逃走の選択が潰されたのを自覚していたし、だとするのならば、挑むしかなく。
金には火だ。これは木火土金水の五行によって証明されている。だが、半端な火であっても意味がない。それこそ、玉藻が持つ金気に匹敵する火気でなくては、至らないからだ。
命を賭して。
あるいは、命の代わりに。
それで釣り合うのはせいぜい、尾の一本だと徹底して、チィマは挑んだ。
ありったけの火系術式を、一点にのみ集中させるような荒業で、いわば部位破損を狙った形でしかないのだ。
クソッタレと、思い出したチィマは吐き捨てる。
だって、そうだろう?
自分の命は、玉藻の尾が一本でしかないのだから。
「――やってらんねえ」
「む、なんだチィマ、不機嫌そうじゃのう」
「どうせ酒の肴にしたいだけだろ。それとも、猫目さんの下手な糸と遊べって?」
「にゃはは、下手とは言い切るにゃあ」
「だってあれ、見まねだろ。――ツラ出せよ雨の、てめーの客じゃねえのか」
既に〝感覚〟は知っている。であれば、あの嫌というほど水気を身にまとった〝人間〟の存在を、引っ張り出してやればいい。
丘には不自然な、水の跳ねる音がして、袴装束の男は姿を見せる。
「――なんだ、猫目がいるじゃねェか。それで俺を呼んだのか、お前」
「相手をしろって言ってるんだよ、クソ野郎」
「おー雨の。一体どーにゃってんのかにゃあ」
「どうもこうも……柱になった連中の束縛が消えつつあって、人はまだちゃんと生きてる。お前の出番はねェよ」
「にゃあんだ、そうにゃのかー……天魔は?」
「残ってるのもちょいちょいッてとこだ」
「詰まらんにゃー」
「滅ぶ気があるンなら、災害としてどっかの大陸で暴れりゃいい。刹那的な快楽だけは得られるぜ」
だろうなと、煙草に火を点けながらチィマも同意する。
何しろ、突出しているのは自分たちだけではない。どの大陸にだとて対抗できる人物は存在するはずだ。俺たちは特殊だ――なんてこと、チィマは口が裂けても言わない。
人の想像力には限界がある。驚きとは、想像の外、可能性のはずれに位置するものだ。そして、人が驚かないことなど、この世には存在しない。
極論を言えば。
チィマ一人で、玉藻の尾が一つしか奪えないのならば、――十人も揃えてやればいいだけのことだ。
「にゃはは、そこまで馬鹿じゃにゃいにゃ」
「ふん。おい玉藻さん、俺はもういいだろ。帰る」
「仕方がないのう……」
「報酬にゃ」
背を向けようとしたが、何かを投げられたので受け止める。
「あの場で見つけられたのは、その二つだけにゃ。あんがとにゃ」
「……、次がないことを祈るよ」
一歩、背中を向けて踏み出せば、サラサの領域にたどり着く。煙草を消していなかったと、処理をして吐息。割烹着姿の
「虚眼さん」
「はいはい、なあに?」
「玉藻さんのとこに、猫目さんが来てる」
「…………」
珍しく、ギィールのナイフを形代にしている妖魔は、非常に嫌そうな顔をした。
「聞かなかったことにする」
「あーうん、俺もじゃあ言わなかったことにしとくよ……」
ぽりぽりと頭を搔き、左手の中にある、先ほど渡された二つの宝石を見る。
やや球形に近くはなっているが、元は角形だったのだろう。表面が濁ったような色になっているが、内部浸食はない。つまりそれは、手が汚れても、それが手でなくなることはないと、そんな現実と同じだ。
――だが。
「記憶媒体か。……おいおい」
軽く見ただけで、相当のセキュリティがかかっているのがわかる。おそらく壊すことは最初から年頭にない。そして、この中の記録を見られる連中にとっては、ないも同然の防御術式なのだろう。
「師匠並みじゃないか」
宝石を一個弾く。
「――上等だ」
と、普段のチィマならば挑戦するところだけど。
「どうしたもんかな」
今は一人じゃない。頼むこともできるし、使いようはいくらでもある――が、誰かにやらせて育てようなんてのは、烏滸がましい。
だったら?
「とりあえずやっとくか……っていう言い訳で通じるかな」
防御術式、迷彩系術式の解除なんてのは、パズルと同じだ。こればかりは、初見でやり出すのが一番楽しいのを、チィマは師であるリンドウから教わっている。
けれど、初手で動きを止めた。
製作者の署名が残されていたからだ。
「……姉ちゃん、ちょっと姉ちゃん。悪いんだけど、フルールさんこっち呼んでくれない? さすがに俺じゃ招けないし、頼むよ」
あてがわれていた自分のスペースには何もないので、そこに腰を下ろして少し待てば、玄関が出現して扉が開き、フルールが入ってきた。手を上げて招く。
「どうかしたのかい」
「迷いの森の跡地で遭遇した妖魔が、面白いものを拾ったってね」」
「ボクを呼んだ理由はわかったけれど、なんでそんな隅に座っているんだ?」
「俺のスペースだったから」
「いや……そこは荷物置き場だ、こっちに来ないか」
「あー」
そういえばそうだったと、立ち上がる。狭いところの方が安心するから、自然とそちらを選択していた。
「これなんだけどな」
「ん……? ああ、記録用の魔術品のようだね。解析は?」
「これから。俺、こういうのの解析とか結構好きでさ、パズルみたいで」
「ボクはそれほど得意じゃないよ」
「いや、最初のアクションを入れたら、サギシロさんの署名が入ってたんだ」
「――、……ボクにはそこまで、今のところは見えないけれど、サギシロが作成した魔術品で、目的は何かの記録である――そこに間違いは?」
「ないよ。で、記録ってのは誰かに見てもらうものだと俺は当たりをつけてる」
「ならば」
小さく、肩を落とすようにして吐息を一つ。
「チィマ、解析はできないけれど、ボクはこの中身を取り出せるかもしれない」
「え?」
「それは言い過ぎかもしれないね。少なくともボクには、この記録を正式な手順で、本来の使われ方で使うことができると、そういうことだよ。――以前、本人からそれを教えてもらったことがある。いや、あれは教えて貰ったというか……うん、なあ?」
「いや俺にそんなことを言われても」
「だろうな。どうする? 鍵はボクが持っている、今すぐにでも使えるけれど」
「そっちの方が簡単そうだし、やってみてくれ。中身がなんであろうと、どういう作りをしているかまで、わかるってわけじゃないんだろ?」
「さすがにそこまでは別手段だよ。……ん」
掌の宝石を指で転がすようにしつつ、やや持ち上げたフルールは、疑似的な陽光へ透かすようにして見て。
「――映像記録?」
「へえ……俺にも見えるよう展開できないか?」
「それは難しくない」
見てみようか、なんて気楽なものは、その映像が始まってすぐに吹き飛んだ。
――雨だ。
どこともわからない瓦礫の中、何かを話してすぐに、それは開始される。
拳銃による発砲が、最初の合図。それが相手へと届き、軽く避ける仕草をして回避した途端、ぞくりと背筋に悪寒が走った。
「――止めてくれ!」
映像に見入りそうになっていたフルールが、怒鳴り声にも似たチィマの言葉にびくりと震えるようにして、停止を入れた。
「ど、どうした?」
「ごめん、大声を出して……けど駄目だ、一旦消してくれ。また再生することは可能だろ?」
「それはなんの問題もないよ、この魔術品が持つ本来の使い方をしているだけだ」
「じゃあ頼む」
言ってから、大きく深呼吸をしてから、首を軽く振るようにして、煙草に火を点けた。
「……ありえない」
そうだ、ありえるはずがない。
「うん? 悪いがチィマ、ボクにはあまりよくわかっていない。見た限り、相当の腕を持つ四人が戦闘を開始するところだったはずだ。相手は一人、つまり三対一の構図だ。そして小柄な少女が拳銃を一発、その弾丸を相手が意に介さず避けた」
「そうだね、いや確かにそうだ。けど、たったその現象を引き起こすために、何手をそこで費やした? ――フルールさん、間違っても〝
「それはボクも見えたけれど」
「ありえないんだよ。弾丸の飛来に対して、それを防ぐための術式が三十手」
「――あの一瞬で、かい?」
「三人のうち二人が、その術式を無効化させて弾丸を届かせるために、四十手は少なく見積もっても費やしてる。わかるか、フルールさん。ほぼ直線で飛来する弾丸を届かせるために、それが避けられるとわかっていながらも、煙草を吸うついでで、今映ってた連中はそれをやったんだ……場の支配どころの騒ぎじゃない。単一が持つ〝実力〟を越えてる」
「チィマ……?」
「はっきり言うよ、俺じゃこの場所に立っていることもできない。誇張なく、……俺の知りうる誰もが、ここにはいられない」
「――」
『慧眼だねえ、チィマちゃんは』
「っ、……驚かすな、キージ。尻尾が跳ねたじゃないか」
『竜族特有のユーモアってのは、俺にはよくわからないね。チィマちゃん――じゃ、駄目か。フルールちゃん、今から全員に伝言だ』
「うん?」
『初代、〝
「それは構わないけれど、今かい?」
『当然だろう? 魔術品なんてのはね、今手元にあるからといって、明日もそうであるとは限らないものなんだよ、フルールちゃん。いつなくなってもおかしくはないものを前にして、今は時間がないからって間抜け顔で見送るのが竜族の流儀か?』
「伝言はもう送っているよ……ん? サラサは拒否、ハクナも必要ないそうだね」
「キージさん」
『その話は後にしようぜ、チィマちゃん』
「……諒解」
手元にあるからといって、明日もそうだとは限らない――だ。
そのことへの追及は後回しらしい。
――しばらくして、サクヤとギィールがやってきた。
「悪い、待たせたか?」
「いや構わないよ、手際の悪いどっかのトカゲが原因だし」
「ボクは何ももたついていないが⁉」
「冗談だって、フルールさん」
「初代ベルの戦闘――とのことですが?」
一応、手に入れた経緯を軽く説明して。
『じゃ、見ようか。再生回数に制限はないから、俺の言葉にも耳を傾けてくれよ。フルールちゃん、そこそこ大きめで映像投影にするんだ』
「わかったよ」
「ギィールさん、覚悟した方がいい。あるいは……遠いものとして受け取った方が、いい」
「……、わかりました」
そうして、映像は最初から流れ始めた。
『――昔の、話だ』
脳内に直接響くような声は、映像に集中したところで聞こえてくる。
『お前らも知っているだろうけれど、こいつは大陸崩壊時、今の大陸になる直前の出来事でもある』
戦闘前の、弾丸が一つ。
『対峙しているのは初代ベル。
それは昔語りというより、ただの独白だったのかもしれない。
『最初に言っておく、彼らは
なんでも屋だと、笑いの気配。
『そして、初代ベルは――何も持っていなかった』
「……何もか?」
『そうだよサクヤちゃん、何もだ。であればこそ、その空白に何かを入れることができた。雷系の術式を入れて、知識を蓄えて、経験と共に技術を得て、ごくごく当たり前のように努力を積み重ねた』
「空白に何かを積みいれるように、か」
『その通りだよ』
「だがその空白だって――」
『いつか埋まる。だから幼少期、それこそ十歳くらいのベルは試したんだ。どの程度の代償を支払えば、空白を得られるのか? その発想の根源にあるのは、代償を得たがゆえに何かしらの才覚を得た人間の存在だろうね。だからまず、彼は片足を棄てた』
「――」
『地雷除去訓練の最中、わざと雷系術式が暴走したように見せて、自分の意志で片足を吹き飛ばした。それがどういう痛みを伴うか、経験したかったとも言っていたようだね。性能の高い義手義足が存在したのも、後押しをした理由だろう。実際に彼は、その後に片腕も失った。失うなら早い方がいいってのがあいつの見解らしい。――未熟な頃なら、そんな間抜けも、馬鹿をやったの一言で済むからだ』
成長してからでは、わざとらしさが残ってしまう。
『そして片目も失った。代わりに魔術品の目を預かり、法則を切断可能な刃物を持った。先にある可能性を思考して、立場を自分で演出し、誤魔化しを周囲に点在させ、誤魔化しを上回って有り余る実力を持った』
だがと、魔術書は言う。強く、強くそれを否定する。
『彼はまっとうな人間だ』
それを勘違いしては、ならないのだ。
『チィマちゃんみたいに、最初から
「ごくごく当たり前の、……ただの人間だってか? こいつが?」
『そうだ、それだけは外せない。彼はそうであるべきだと律していたし、――その部分だけを、強く、誤魔化して生きてきた。最初から持っていない魔術回路を空白に保持し、適性を
考慮して自分の道を作り、人間であることを誇り、高位妖魔とは真正面から会話をした。気になるなら問えばいい――雷龍も、水龍も、風龍も、地龍も、冥龍も、忘れてはいないはずだ」
であればこそ。
『人の可能性であるのならば、それは、――最初から何かを持っていた〝特殊〟な連中が、追いつける場にいない。強者の天敵は常に弱者だ、その構図は今も昔も変わっちゃいない。
映像の中、彼は自分の手にあるものを、彼女たちに渡している。
『そして、空白を埋めていた何かなんてのは、ベルにとっては〝荷物〟だ。最初に渡された、ただ一つ。雷系の術式を使うだけで――今までの〝遊び〟を圧倒できる』
「なんてこった……」
『二十歳を過ぎた時点で、ベルの中身はぼろぼろだった。当然だ、わかるだろう? そんな無茶をして五体満足でいられるだなんて、それこそ人間じゃあない。だが誤魔化した。壊死した部分は雷系術式で強引に神経を繋いで、ごくごく当たり前を演じて仕事をして、ほかの五神に対して〝こいつは違う、化け物だ〟と思わせ続けた。それが――ようやく、この期に、最後の花火を上げることができた。その映像記録が、これだ。五神が代代受け継ぐ記録だよ』
「……、ここに二つってことは、残り三つか」
『いや、残りは四つだ。――今止めに入ったのがエイジェイ、そして二代目のキツネだ。もう一つはキツネが継いでいる。かつては五神に並ぶ一人だったんだよ』
映像は再び、最初から流れ始めた。
『よく聞いてくれ、俺からの〝最後〟の忠告だ。――ベルは追うな。この映像を見て、何を思うかは自由だし、影響を受けるのも構わない。けれど、そこに至ろうとするのは、そればかりは残念ながら断言できる――間違いだ。正しくもないし、それは罪だ。隣に誰かがいるのならば、それは止めておけ』
「キージ?」
『俺の人格は、イヅナが死んでから発生したものだ。所持者がいたからこそ、俺はこうして遊んでいられた。けれど――ま、サギシロはもういない。俺もそろそろ、ただの本に戻るってことさ。いいかいフルールちゃん、魔術書なんてのは、明日になったら手元を離れてもおかしくないんだ。後悔だけは、するんじゃないぜ』
「――口うるさい本がそう言うんだ、聞いておくさ。ボクだってそこまで馬鹿じゃない」
その返事が聞こえたかどうかはわからない。
ただ、魔術書が言葉を発することは、もう二度と、なくなった。
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