06/25/10:10――サラサ・百の眼を持つ者
知っている。
どこか暖かさを孕み、鼓動が打つたびにそれを包み込むような、優しさに満ちた水のゆりかご――それを胎児の夢とでも言えばいいのだろうが、当の本人は知っているとだけ直感が飛来し、ではどこなのか、といった思考から結論にまでは至らない。軽く目を瞑れば、ただそれだけで入眠に誘われるような心地よさの中で。
ただ、サラサは腕を組んで唇を尖らせていた。
「ふむ……困ったの。幼子よ、何をふくれておる」
「んぬー……」
地面――は、あるのだろうか。少なくとも、足元には存在を示すように波紋が広がっているのだから、上下左右の感覚はある。和装をやや、はだけたような恰好の女性は、胡坐で腰を下ろした姿勢のまま、太もも付近に肘を置き、躰を傾けるよう頬杖をついた状態で、サラサを見ている。
また迷子になったのは、わかる。これで三度目だ。けれど、そんなことはどうでもよかった。
そう、どうでもよかったのだ。
母親に抱かれれば、眠たくなるような安心があった。
父親に抱かれれば、泣きたくなるような落ち着きがあった。
けれど玉藻に抱かれた時は、そう、ただ単純に気持ちよかったのだ。それを寸前で空振りさせられたのだ、その不満たるや筆舌に尽くしがたいだろう。
「のう、幼子。迷い子か?」
「あー、うん迷子。迷子なのはいいんだけど。どーでもいいんだけど……」
「だからなにゆえ、そうふくれておるのじゃ。
「そーじゃないと思うけど――」
「ん、また来客か」
そう時間をおかずして、水の中に足を踏み入れる女がいる。
いや。
「――タマちゃん!」
「おお、いたかサラサ! ほうれ、来い、来い!」
「やっほーい!」
「うむ、――はははは! でっかくなったのう!」
「うん!」
「……何事じゃ?」
「む、なんだ貴様、妾とサラサの挨拶を無視して、勝手に呼びつけるとは良い度胸じゃのう。なんじゃこれは、喧嘩売っておるのか?」
「待て待て、
「む……そうなのか?」
「そうとも」
「あー、そうなんだー。どういうことだろ……」
「サラサ、心当たりがあるのか?」
「うん。あのねー、三回目なんだけど……あ! そうだ思い出した、タマちゃん離して」
「嫌じゃ」
「ぬう……じゃ、ちょっと叫ぶけど、いい?」
「おお構わんとも、大きな声でいいぞ」
許可が得られたので、背中側から抱かれたまま、サラサは大きく息を吸って、空間を振動させるような、大声を上げる。そうだ、声は腹から出さなくてはならないと、古城の中で教わった。
「べーさん! たっけてー!」
助けてもらうような状況ではないが、まあ似たようなものだろう。
「――なに?」
「ほう……?」
その男は、外套の裾を揺らしながら、上空より舞い降りた。とん、と足がつけば波紋が広がり、それを視認してから、ふむと頷きが一つ。
「おー、べーさん、やっほー」
「ああ、サラサ、どうやら私をきちんと呼んだようだな。忘れていなかったのは褒めてやろう。――が、何をしている。狐は椅子か?」
「なんじゃ、お主か。随分と古臭い姿をしておるのう」
「貴様は変わっていないがな。――そちらも、久しぶりだな、
「そうさのう、妾の眼はもう欠けておる。百には至らんよ、雷の。しかしどういうことじゃ、これは。幼子――サラサといったか」
「うん、そうだよ」
「妾のことは……うむ、困ったな。貴様らに水のと呼ばれても構わんが、どうもこの子にそう呼ばれるのは〝筋違い〟にしか思えん。どうしたものか……うむ、そうじゃ、サラサ、妾のことは
「千鶴さん?」
「そうとも。遥か昔、そう呼ばれておったのじゃ」
「わかったー」
「ふん、よくぞ覚えておったもんじゃのう?」
「うるさいわ、化け狐め」
「……水の、いくつか確認をするが、構わんか? サラサ、また退屈かもしれんが、適当に聞いているといい。狐の揺りかごが気持ちよくて眠いかもしれないが、我慢だ」
「はーい」
「水の」
「なんじゃ」
「この場についてだが、お前の領域で間違いはないな?」
「そうとも。妾は長い時間をここで過ごしている――が、そもそも妾の存在とは水じゃ。こうしている今も、妾は水龍として〝外〟に存在しておる。おるが、いかんせん姿を保つことはなかろう」
「では、外に姿そのものを見せるとなると、この場からは消えるか?」
「そうなるのう。
「そうとも、私も同様だ。では水の、長い時間と言ったが、貴様はこの場にて一人でいたのか?」
「基本的には、そうだとも」
「発端を遡ってくれ。――この場を〝認識〟した時、貴様は一人だったか?」
「――……否、それは否じゃ。いつとも、明確には言えんが、傍には
「ふむ……――サラサ、確認を一つしよう。なあに、そう難しいことではない」
「なあに?」
「私とお前が出逢っただろう。あれから、何日が過ぎた?」
「えっと……だいたい三日くらいかな」
「二番目に来ているのか?」
「うん」
「そうか、ありがとう」
「おい、おい雷の、妾にもわかるよう説明せい。というか、妾自身、確かにサラサを追っかけてはきたが、どうしてここにおるのかも、ようわかっとらん。のう百眼、お主とこうして顔を合わせるのだとて、大陸が落ちて以来ぞ」
「そうじゃのう……雷の、何を懸念しておる」
「懸念ではない。事実確認と、現状への理解だ。そしていくつかの符号がある。私の場は、乾いた古城であった。これは〝かつて〟の私が隠居していた場であろう。おそらく心象風景そのものといったところだが――いや」
言葉を切ったビィフォードは、顎に当てていた手を外し、外套を軽く叩くようにして気を改め、サラサを見た。
「サラサ、私が確認したいくつかの〝仮説〟を、ここで説明しようと思う。理解できないかもしれないし、できるだけ軽く説明するつもりだが、そう、覚えておいてくれ」
「うん。話を聞いて、覚えておくんだね。わかった」
「そもそも、私がこの姿になるのは、外ではよくあることだった。よく――とはいえ、人の尺度とは違うものだがな。しかしだ、私の古城、私の場というのを認識したのは、サラサと出逢った時が初めてになる」
「――あ。そういや父さんが、雷の気配はなかったのかーって、聞いてた。なかったよね」
「うむ、そうだ。私がサラサに、雷龍ビィフォードの名で呼ばせていないのも、そこが理由になる。なんというか、私は雷龍なのだが、この場において、この姿では、どうにも齟齬のようなものがある。齟齬……と、うん、そうだな、核に限りなく近いと言えよう。だから雷をまとってはいないのだ」
「うん? 最初から雷じゃなかったの、べーさん」
「そうとも! 最初は、原初はそうではなかったのだ」
「雷の、今はどうなのじゃ。その古城とやらを、妾は知らんが」
「貴様が持つ、この場と同じよ。そして、私にも時間感覚がある。これは私が外を意識していたからだろう。古城の玉座に腰を下ろし、のんびりと日数を数えていたが、やはり三日ほどだ。これは今までになかったことでな、どうしたものかと考えていた」
「ほう、日を数えるなんぞ、妾でもせんのう……コノミと旅に出たのは、昨日のことのようじゃ」
「お主は昔っからそうじゃろ……」
「うむ!」
「サラサ、お前は城に入ったことはあるか?」
「お城? えっと……どこの?」
「どこでも構わんが」
「前に一度、ウェパード王国には、父さんと一緒に行ったことあるよ。国王様? が、なんか父さんの知り合いだって言ってたような……」
「ふむ、現行の王はリクイスじゃの。妾との共感性も高い」
「そこはいい。興味は――まあ、今のところ、私にはない。いいかサラサ、その城を想像してみろ。城と呼ばれるものは、沢山の部屋があるだろう」
「うん、いっぱいあるね。庭とかも」
「ここは、そういう〝部屋〟が沢山あるのだ。最初から用意されていたのか、それとも発生したのかは、今のところ定かではない。だが、部屋があるのは確かだ。それはアルの場であったり、私の古城であったり、そしてこの水の場でもある」
「……? 部屋がいっぱいあるの? 家じゃなくて?」
「家ではなく、部屋だ。いわばこれらは、大きなものの一部でしかない。扉を開いて、出て、次の扉を開けば、違う部屋がある――が、現状では私には〝自由〟がない」
「好き勝手に動けないってこと?」
「そうだ。だから、お前に私の名を呼ばせた」
「あー、そういやアルさんも、そうだったよね。私が助けてーって呼んだら、来てくれた」
「家がそうであるように、部屋にも鍵をかけておくものだ、サラサ。鍵がなければ、勝手に入ることもできない」
「む……おい雷の、妾はサラサの負担になるようなら、忠告と共に止めさせるぞ。見ての通り幼子じゃ、親だとて黙ってはおるまい」
「それは再三、私が確認した。術式の行使など、その他の影響を受けていない。精神的にも、肉体的にも、負担はないのだ。そうだな、サラサ」
「うん? ……うん、たぶん。何も変わったところ、ないよ」
「私だとて、負担をかけようとは思っておらん。何故なら、丸顔は良いからな!」
「丸顔って言うなー」
「なんだサラサ、丸顔は良いものだ。なあ水の」
「む? 妾はそういう意識はないが……」
「なんだと? おい狐、貴様はどうなんだ?」
「うむ、お主とは話が合いそうだ。今度は酒でも飲もう」
「やはりそうだな! ――と、それはともかくとしてだ、これも仮説だが、おそらくサラサが〝鍵〟であればこそ、だろう。何故ならば鍵とは、誰かに使われるものだからだ」
「この場合は、お主か、妾になるのか」
「そうだ。意識、無意識の判別は未だつかん。そして、サラサ、考えてみてくれ。城には、鍵がかかっていない〝場所〟も、あるな?」
「えっと、さっき言った庭とか?」
「そう――交流の場、とでも言うべきか。どうも私には、そうした場があるような気がしてならん」
「城か」
「そういうことだ。サラサ、だいたいこんなところだ。結局のところ、情けないが、よくわからない――という結論になっている」
「ううん、ありがと、べーさん。私も考えてみる」
「そうしてくれ。それと、勘違いはするな。私はこの状況を楽しんでいる。実に面白い。また呼んでくれて構わないからな」
「はあい」
ひょいと、玉藻の腕の中から出たサラサは、大きく伸びを一つした。
「む、そういえばサラサ、帰り方は知っておるのか?」
「うん、アルさんが教えてくれた。場所をイメージして、そっちへ行くんだけど」
「また不安定なやり方じゃのう……うむ、よし、ならば手を貸そう」
「タマちゃんが手伝ってくれるの?」
「うむ。良いかサラサ、まずは両手を合わせろ。そしたら、右手を半分だけ右に動かせば、指が交互になるじゃろ?」
「うん」
「その状態で、右の親指と小指を曲げる。となると、立っているのは八本になる」
「だね……でも私、こんな印は知らないよ?」
「――なんだ、使えるとは聞いておらんぞ?」
「うん、使えない。使ったこともないけど、暇つぶしに母さんから教えてもらったんだ」
「ふむ……いや、まあよかろ。その印を組んだまま、しばし待っておれ」
さてと、玉藻は複数の印を組み始めた。
「……水の、これはいったいなんだ?」
「なあに、妾たちは信仰の対象じゃろ? であれば、
「ふむ、であればこその、印か。なるほどな……どの程度、サラサの負担になるかどうかを見極めてから、私も考えておくか」
「甘いのう」
「だから言っただろう、丸顔は正義だ」
「ふん」
「――あ」
そうして、やや遅く、サラサはその変化に気づいた。
「タマちゃんの〝感じ〟がきたー」
「よし、よし、それでいい。そうじゃの、その印を狐と呼ぶといい。良いか? 狐、吉祥天、在、皆、前、狐の順で組め。それで捉えられよう」
「はあい」
言われた通りの順で印を組めば、足元の波紋がリンドウたちの住む場を映し出した。やったのはサラサだが、これは、玉藻の力である。
「おおー」
「うむ、それならばすぐに戻れよう。使い方は、またあとで教えてやる。そこでだ、サラサ」
「うん、なに?」
「戻って、適当に話したあと、つまり少し時間をおいてから、今から教える順序で印を組んでくれ。それまで、妾はここで少し、話をしておるからのう」
「わかったー。どういう順序?」
「良いか? 狐、内縛、外縛、手刀で一度切り、薬師如来、刀、狐の順序じゃ」
「……うん、よし、覚えた」
「ま、忘れたら自分で戻るから構わんぞ。じゃが、覚えておいて、やってくれ」
「はあい。じゃあ、べーさん、千鶴さん、私戻るね。また逢える――よね?」
「もちろんだ」
「そうよのう、次は食事でもしながら、話し合おうぞ」
「うん、楽しみにしてるね!」
そうして、笑いながら手を振ったサラサは、足元の光景へ踏み出すよう一歩。
その〝場〟から、退室して、元の場所へと戻る。
「ただいまー……あれ? 父さん、戻ってたんだ」
「おう。サラサはまた迷子だったみたいだな」
「うん、タマちゃん来てくれたから、安心だったよ。べーさんもいたし」
「サラサ、そこは部屋だったか?」
「今度は水の人だったー。あと、べーさんはね、城だって言ってた。城の部屋だって」
「はは、同一見解か。そりゃ光栄なことだな……。だとすりゃ、お前は鍵か」
「そう言ってたけど、うーん、ちょっとわかんない」
「まあ、そうだろうな。親父」
「そうだね、今のところ危険性はなさそうだけれど、サラサ自身も無自覚なままではいられないだろう。少なくとも移動に際しての術式は感知できなかった。どうだろう、コノミ」
「私が見る限り、位相がズレた感覚が一番近い。玉藻がどう追ったのかは、定かじゃあないが、今の私では不可能だ」
「だろうね、僕でもそうだ。何故ならば、鍵を使えないし、持っていない上、僕は鍵じゃない」
「結局はそこなんだよなあ……しかしサラサ、雷を呼べたんだろう?」
「うん、たっけてーって叫んだら、来てくれたよ」
「なんとも言えねえところか。――ん? おいカイドウ、サギはなんつってた?」
「あずかり知らぬところってやつだろ。うちの本も言ってたが、あるいはサギが旅をしていたら、気づいただろうってさ。こりゃしばらく四番目には近づかない方が良さそうだ」
「……ま、そうかもな」
「ところで父さん、ギィールは?」
「おう、ちゃんと預けてきた」
「カイドウ、お前、納得させたのかよ……」
「俺だけの考えじゃねえけどな」
「そっか。あー、ちょっとおなかすいたかも」
「昼はまだちょっと先だけれど、そうだね。クズハに言っておくよ」
「――あ、ばあさん中? 昼食手伝うよ、人数いるし。もうちょい後でね」
「その時になったら言うよ。――さて、コノミ」
「なんだ?」
「コノミにとって納得できる落としどころで構わないよ」
「最初からそれを言ってくれっての……カイドウ、数日はこっちいるのか?」
「シュリとサラサが、海に出たいって言うまではな」
「それお前、明日くらいには言うだろ……」
「えー? 私、母さんより我慢するよ?」
「あのなサラサ、我慢とか言ってる時点で同じなんだよ。まあいい、ティレネに逢いたいならこっちに来いよ。あるいは、来るかもしれんが」
「あ、うん! ティレ姉ちゃんにも逢いたい!」
「おう、伝えておく。じゃあな」
こっちはてめえの娘で手一杯だと、コノミは笑いながら去って行く。その後ろ姿に、カイドウはぽりぽりと頭を搔いた。
「ったく……相変わらずだな、あいつは」
「え、そなの、父さん」
「ん……ま、かつてと違って今は、俺がやろうと言っても、首を横に振るんだろうが、強いぞ、あいつは」
「母さんよりも?」
「…………、いやたぶんシュリのが強い」
それはもちろん、母親として、だが。
「んー、そろそろいいのかな? あ、そういえば、私が迷子になってた時間って、どんくらい?」
「おそらく、サラサが体感した時間とそう変わらないはずだ。ズレを明確にはできないが、あってもせいぜい十五分くらいなものだろうな」
「そっか」
まあいいやと、サラサは肩を軽く回し、肘を真横に向けるようにして両手を合わせる。
「――ん?」
「よせシュリ」
反射的に介入しようとするシュリを制し、させるがままにする。
言われた通り、印を組む。教わったばかりの狐の印から始まり、最後を狐で閉じれば、サラサは僅かに躰が〝沈む〟ような感覚を知った。沈むというより、空気が張り詰めたというか、流れができたというか――。
「――うむ」
そうして、玉藻が再び姿を見せた。
「どうじゃサラサ」
「あー、ちょっと疲れたかも?」
「ちょっとか。確かに妾の力を使ってはおるが、状況的には妾を召喚したようなものぞ。それでちょっとか。ふうむ……これは、なるほど、面白いのう。雷が自分の印を模索しておったが、笑い話にはなりそうもないな」
「ちょっと玉藻」
「うむ、話はあとでしてやろう。まずはサラサだ、一通り使い方くらいは教えておいて損はなかろ。かといって、あまり時間を取られては、妾がティレネに怒られる……ままならんのう」
知ったことではなかったが、さてと腰を下ろした玉藻は、すぐにサラサへと印の使い方を教え始めた。これが、いわば本格的な仏術の一歩ではあったが――それをあろうことか、天魔である玉藻に教わっているという、この恵まれた状況に、当人が気づくのはだいぶ先のことである。
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