06/25/09:40――サラサ・祖父たちの住処へ
船を下りて真っ先にやることといえば、サラサの場合、二度、三度と飛び跳ねることだった。大地の感触を確かめるよう、足場が揺れないことを躰に覚えさせるために、そうやって地面を確認しておく。海の上で過ごすことが多いので、そうするのだ。
「――んじゃ、俺はあとから行く」
「んー。よろしく言っといて」
「おう。じゃあサラサ、良い子にしておけよ。俺はギィールを預けに、ちょっと行ってくるからな」
「はーい。陸路?」
「いんや、術式で飛ぶ。面倒だからな」
「そっか。気を付けてね。ギィールも、元気でね?」
「はい、サラサ殿も」
軽く握手をして、それで終わり――と、思っていたのだが、ふいに、声をかけられた。
「おう、船乗りか?」
声に振り向けば、やや背の高い禿頭の男であった。それに対して、カイドウが一歩、前へ出る。
「客か? 悪い、今到着したばっかで、出向の予定はないんだ」
「かーっ、そりゃついてねえなあ、俺も。こりゃこの大陸に留まれってことか」
「はは、そういう〝タイミング〟もあるさ、槍使い」
「おう」
そう、カイドウの言葉通り、彼は包みに入った槍を、軽く肩に乗せていた。
「邪魔したな」
「いや――ああ、そうだ」
いつもならばそこで終わりなのに、しかし、カイドウは言葉を続けた。何かあるんだろうかと、顔を上げてサラサは見るが、父親はどこか嬉しそうな表情である。
「槍使い」
「なんだ? 船に乗る時は、お前さんを頼れってか? それともほかの船の紹介か?」
「いや、――オボロ・ロンデナンドは今も槍を担ってるぜ」
「――」
「伝言は、それだけだ。けど、そろそろいいんじゃねえかと、俺は思うわけだ。俺らとは同世代、もう三十路を過ぎちまってる。大陸を渡る時は俺に声をかけろと言ってあるから、まだここ、
「はは――そうか、もう、そんなになるか。お前さん、名は?」
「カイドウだ」
「そうか。カイドウ、ありがとよ」
ひらひらと手を振って、それ以上の会話はなく、禿頭の槍使いは去っていった。
「……父さん、知り合い?」
「知り合いの、知り合いってところだ。そういえばオボロには逢ってなかったか……まあいい。んじゃシュリ」
「ん。さあ行こうか、サラサ」
「はーい」
一度、港の食堂を通り過ぎて、街道へ出る。もう母親と二人きり――といっても、そう珍しいことでもないし、祖父たちの家へ行くのは初めてではなし、ルートもきちんと覚えていた。
「オボロ――さんだっけ。母さん知ってる?」
「ん、知ってるよ。槍の武術家でね、父さんとは昔馴染なの」
「へー、強い?」
「うん」
「母さんや父さんより?」
「そこは、どうだろ。でも間違いなく、私たちの方が怖いよ?」
「そこは疑ってない!」
威張るところではないが、しかし、胸を張ってサラサは言い切った。さすがのシュリも苦笑顔だ。
実際には、あまり二人は怒るような親ではない。きちんと諭すのがカイドウの役目であるし、何も言わずに蹴り飛ばすのがシュリの役目だ。どちらにせよ、何が悪かったのかをサラサに考えさせるのが目的なので、やり方が違うだけだが、それは逆に言えば、悪いことをしなければ、何も怖くない、ということなのだと、サラサも教え込まれている。
――というか、まあ。
いわゆる夫婦喧嘩ともなると、小太刀や刀を抜いて暴れまわるくらいのことは平然とやるのだから、そりゃ怖くもなる。
「んで、ギィールはどうするんだろ……」
「気になる?」
「ちょっとね。数日とはいえ、一緒にいたし。あの暗い顔がどーにかなればいいかなーって」
「逃げ出してきたんだから、仕方ないのよ。まあ預ける相手があれじゃ……どうなるかは、わからないけど、あんまり気にしなくてもいいからね。忘れた頃にまた逢えるだろうから」
「そっか。んー、二番目は湿気があるなあ」
「そうね。よし、じゃあ走ろうか、サラサ」
「走る?」
「陸地だと存分にできるでしょ」
「おっけー」
「じゃ、行こう」
うん、と頷いてすぐに、サラサは軽く走り始める。シュリにとっては散歩程度だが、合わせるようにして駆け足になれば、次第に速度が乗ってきた。スロースターターとでも言えばいいのか、六十秒を過ぎた頃には陸地が馴染んだのか、上半身を前に倒し、風の抵抗を少なくするようにした疾走になる。それを横目で見ながら、シュリは周囲の安全確認も含めて視線を飛ばし、ついていく。
サラサにとって、長時間の運動はまだ苦手だ。年齢的なものもあるが、そもそも経験がなく、必要に迫られたこともない。陸地でならば、走ることは基礎訓練になるが、船の上ではそれもままならないのが実情だ。ただし、三半規管を含め、バランス感覚だけは一流である。
それでも、十五分ほど走ったあたりで、疲労が見えた。街道からは外れ、大地を走らせたので負担は少ないが、体力的には限界に近い。森も見えていたので、停止を呼びかけ、腰にある水のボトルをサラサへと手渡した。
「はあ――、と、母さんのは?」
「ん? じゃ、ちょうだい」
「うん。……くそう、ぜんぜん疲れてないし」
「そう?」
サラサが産まれてから、シュリは弱味を見せなくなった。ともすれば見栄にもとれる態度だ。親であればこそ、この程度で疲労は見せない。実際にそう疲労もしていないが、それでも、余裕を見せておきたいのである。
けれど。
これもまた、親になって心に決めたことだが――娘に嘘は吐かない。
「でも、そこそこ息は上がってるし、うっすら汗も出てる。サラサ、座っていいよ。さすがに疲れたまま、じいさんたちに逢うわけにもいかないし」
「わかったー。……はふう、走るのって、やっぱ大変」
「陸地に住んでれば、当たり前の行為なんだけれどね」
残りの水もサラサに渡し、飲むように言う。ここでなら水など、いくらでも補充が可能だ。
「湿気てるけど――なんか、安心する」
「サラサは、海以外でどの大陸が好き?」
「行ったことない大陸もあるじゃんか。でも、二番目は好き。安心するし、落ち着くし、じいさんいるし」
「そっか」
「母さんは?」
「私は海が一番好き。父さんほど、私は陸地を歩いてないの」
「ふうん……よしっ、もう立てる!」
「じゃあのんびり行きましょ」
「はーい」
森の中に入れば、木陰も多く、この中を走るのはまだサラサには無理だろう。障害物が多すぎるゆえに、速度が出せない。出したところでぶつかるか、転ぶのがおちだ。
散歩のように、のんびり歩いて十五分ほど。結界を越えたことにサラサは気づかなかったが、やがて視界が開け、ログハウスのような小屋が見えた。既に、庭にあるテラスで呑気に会話をしていた二人が、こちらに気づく。
「――じいちゃん!」
「やあ」
小走りに近寄るサラサに苦笑しつつも、さて、どうしてコノミ・タマモまでここにいるのだろうかと、頭の片隅で考える。大した脅威は感じないし、問題はないとは思うが、考えておいて損はあるまい。
リンドウ・ジェイ・リエールは、嬉しそうに微笑んで、サラサを迎えた。まだ六十くらいの年齢なので、引退は早いだろうとも、思う。
「いらっしゃい、サラサ。元気そうで何よりだ」
「うん! じいちゃんも元気そう! コノミさんも、こんちは!」
「おう、サラサ、いい挨拶だ。カイドウはどうした?」
「父さんは、なんか用事があるって、あとで合流かな」
そう言って、サラサはきょろきょろと周囲を見渡す。
「――で、コノミさん、タマちゃんは?」
「あいつならそろそろ……あ、来た」
「おおう! タマちゃん!」
王国側からだろう、森を抜けてきた人よりもスケールの大きな狐は、八本の尾を揺らしながら姿を見せると、すぐに両手を広げた。
「なんだサラサではないか!」
サラサが走り出し、そのまま玉藻の腕の中へダイブ――。
「ん?」
「おや」
――しようかと、その瞬間に、ふわっと姿が掻き消えた。
「ありゃりゃ、また迷子か、あの子は」
「なんだシュリ、今回が初めてってわけじゃねえのか。いやに落ち着いてるな」
「三回目」
「……――なんだ! 迎え入れる準備万端で両手を広げたこの
「知るか」
「おいコノミ!」
「怒鳴るな馬鹿。――好きにしろ」
「うむ! そうするとも!」
なんでこのタイミングなんじゃ、とぼやきながら、足を二度ほど踏み鳴らした玉藻の姿もまた、同様に消えた。それを見送り、コノミがふんと、鼻で一つ笑う。
「そろそろ、玉藻にも好きにやらせるか……いつまでも首輪つきってわけにも、いかねえしな。んで? どうなってんだ、ありゃ」
「うん、情報が足りないな。シュリ、三度目だと言ったね」
まあね、と言いながら、空いた席に腰を下ろしたシュリは、ちらりといなくなった庭を一瞥して、吐息を一つ。
「カイドウはいくつか仮説を立ててるみたい。最初は海の上で、二回目は七番目の港。よくわからない空間に行ってて、少なくとも二回目に関しては、雷龍ビィフォードに逢ってたみたい。話を聞く限り、相手も人型だったみたいだけど……」
「だとすりゃ、今回は水龍ウェパードか?」
「可能性は高そうだけどね」
「……シュリ、主体はどちらが?」
「ん? 呼び寄せたのか、呼び出されたのかってこと? サラサの話を聞く限り、前者。少なくとも一度目の時、相手はよくわからないけど、意図したものではなかったし、お互いに混乱してたみたい。混乱というより戸惑いか……ベルが介入して、落ち着かせたみたいだけど」
「なるほどな。どうだ、リンドウさん」
「いや、僕としても仮説をいくつか立ててある段階で、口にはできないよ。カイドウも来るんだろう? その時に、話し合えればと思う」
「そっか。――で、どしたのコノミは」
「うん? ああ……この頑固爺をどうしようかって話だ」
「頑固とは、酷い言いぐさだね、コノミ」
「なんの話?」
「もうあちこち出歩く必要もなくなったから、借りてるあっちの家を、私が買おうって話を持ち掛けたんだよ。そしたら、金はいらんと言いやがる。老後の資金なんざ、いくらあってもいいだろうに」
「え、なに、もう旅はいいの? というか――コノミって、コウノに挑むとか、超えるとか、そういう目的だっけ?」
「ん……なんつーか」
まあなあ、なんて曖昧に言いながら、子供がいないことを改めて確認しつつ、コノミは煙草を取り出して、火を点ける。
「あ、煙草。娘がいる時は吸ってないの?」
「いや、ティレネがいても、外では吸ってる時もある」
「……そういやティレネはいないね」
「今は親父が戻ってるから、世話を頼んだ。つっても、お前んとこより二つ年上なんだ、放っておいても問題はないが……ちょっと前、それこそ一ヶ月ほど前に、親父に挑もうと、そう思ったんだよ」
さすがに妊娠中は動けなかったので、その勘を取り戻すための時間と、娘が育って落ち着いた頃合いを見計らって、まあやってやろうと、そう思ったのだが。
「その時に、まあ、……わかっちまったんだよ」
「なにが」
「子供にとって親がどう見えるか、そいつは今までの私だ。けど、私も一児の母親になって――親としての視点を、持った。だからわかったんだよ……結局、今の私と親父との差なんてのは、ほんとうにごく僅かでしかないってことにな」
いつからそうだったのかは、わからない。けれど、少なくとも今はそうであることがわかった。
「はは……今更ながら、リンドウさんの苦労も、わかるってもんだ」
「僕は苦労なんて、してないよ」
「そういうとこなんだよな。てめえのガキの前で、無様を晒す親はいねえ。どんな状況であっても、子供の目がありゃ、余裕を見せる。この程度は問題ないと、それを示すことで、子供には安心を与えたい。少なくとも私の目が届く範囲にはな」
それは――シュリが先ほど、見栄を張ったように。
「それは、強さだ。親としての立場だ。子供を相手に、届かないことを示して、安心を与え、そして同時に、憧れに似た感情を抱かせる。わかるか?」
「うん、よくわかる。っていうか、私がそうだし、カイドウもそう。届かないのが現実で、まだまだ子供には追い付かれないけれど、いつか追いついて欲しいとも思うし――その時は嬉しいだろうけど、それでもまだ、私は背を見せながら、守ってやんなくちゃって思う」
「だよな。私がティレネにとってそうであるように――親父は、私にとってそうだったんだよ。現実として、届かなかったさ。ずっとそうだった。けど、親になって、改めて対峙して、気づいたんだ。ああ――〝たったそれだけ〟のことだったんだ、ってな」
「――はは」
「おい、笑うなよ、リンドウさん」
「いや、ちょっと、クズハと出逢った頃を思い出したよ」
「ばあさん――クズハと?」
「うん。その頃はまだ僕も十六かそこらだったよ。その時に、大人と子供の差はなんだろう、なんて話をしてね、その流れで、ある人の言葉を引用したんだ。それを思い出した」
「どんな言葉なんだ」
「うん。ある人の言葉に、こうある。一人前の条件は、誰かを育て、その子を一人前だと認めてやった時、初めて自分は一人前でいられる。似たようなものではこうだ。育ての親に、あるいは師に、一人前と認められたのならば、そこからが始まりであり、ようやく誰かを育てることができるのだ」
「……うん。今なら、わかる」
「だな」
「あるいは――そう、守られることは弱者の特権ではない。守る者が〝守れる〟という実感を得られるための特権だ。ゆえに、守れた者がいつか守る者になることは難しく、守ることを示唆するためには、決して守ってはならない。けれど親という例外は、必ず存在する」
さすがに当時は、僕もよくわからなかったよと、リンドウは苦笑した。
「けれどね、コノミを否定するわけではないけれど、腰を落ち着けるのはまだ早いと、僕は思うよ」
「そうでもない。それを言うなら、隠居は早いと言ってくれ。さすがの私でも、隠居生活は御免だ。仕事だってするし、育てようとはするさ。けどな、それ以上に今は、ちゃんと帰ってこれる場所ってのを、用意しといてやりたいんだよ」
そう――そうなのだ。
優先順位が、変わってしまった。
「自分の事情より、子供の理由、だね?」
「そういうことだ。特に母親は、どっちかって言えば、そういう役割だろ」
「そうかもしれないね。けれど、ティレネは随分とコノミに〝憧れ〟を抱いている」
「あー、サラサも、コノミのことは恰好良いって、よく言ってる」
「なんだそりゃ……悪い気はしねえけどな。んで、カイドウは何してんだ」
「七番目で、ちょっと面白い子を見つけてね。乗せたのは私だから、仕事じゃないんだけど……どうも、孤児で、派手な喧嘩をして逃げてきたみたい」
「逃げた? ガキなのか?」
「たぶん、サラサとそう変わらないとは思うよ。でも、逃げた自覚がある。逃げたいと請うて船に乗った。忠告はしといたけど、それでも逃げるって」
「――、どっちだ?」
「罪として思い込んでる方」
「ガキの癖に、状況そのものを自分の中に飲み込んでやがるのか……」
「一応、こっちまで運んだけど、カイドウがねー、選択肢を与えた。一人で生きるか、それとも誰かを師として仰いで、生き方を覚えるか」
「そのタイプなら、選ぶのは後者だろ。しかも、悩むに悩んでから、折り合いをつけて――それでもと、選び取る。第三の選択肢は見えてねえ」
「その通り。かといって、誰かに言われて納得できるものでもなし。でまあ、ちょっと預けるってことで、行ってる」
「ふうん。で、何が面白いんだ、そいつは」
「武器が大嫌いで、独学仕込みの体術を、忍耐の二文字で身に着けてる。一年くらいやってたみたいだけど、それこそ一日中突っ立って、肌を空気が撫でる感覚を身に着けたりとか、そういう馬鹿やってたみたい」
「そりゃあれか? そうやって一年鍛えた〝成果〟に対し、その結果に対し、てめえは弱かったんだと自己嫌悪に陥って、その先に逃亡を選択した――ってやつだろ」
「うんそう。やっぱそうなるもん?」
「耐えられるヤツに、そういうのは多い。溜まってたもんが爆発したってのとも、ちょいと違うんだけどな」
「……さて、そこまでわかった上で、カイドウは誰のところへ預けに行ったのかな、シュリ」
「ああうん、サギんとこ」
言えば。
二人は揃って、目を逸らし、手元に向かってため息を落とした。
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