06/22/06:20――ギィール・ハギレとの遭遇

 寒さはそれほど感じなかったものの、周囲が明るくなり出す空気を感じたギィールは、ゆっくりと目を開く。自分は毛布にくるまって横になっており、そういえば昨日はと、一連の流れを思い出しながら躰を起こせば、水平線の向こうから朝日が昇る時間であった。

「――あ、おはよ」

「あ……おはよう、ございます」

 デッキブラシを片手に持ったサラサが、後部甲板に顔を見せた。起きた気配に気づいたのだろうか、すぐに船室へ向かって声を上げる。

「母さん、起きたー。と、まだ寝ててもいいよ。私のは日課の掃除だから。えっと、私はサラサ。よろしくね」

「自分はギィールです。サラサさん」

「む――さんはいらない」

「いや、しかし……」

「せめて、ちゃんか殿にして。様もだめ。言いにくいから」

 言いにくいのはギィールの方だろうに、けれど当人がそう言うのならば、従うほかになく。

「では、サラサ殿……で、いいですか」

「うん、おっけー。朝ご飯はサンドイッチだけど、いい?」

「はい――あ、おはようございます、シュリさん」

「ん、おはよう。はいどうぞ、水もね」

「ありがとうございます。あの、自分にも何かできることはありませんか?」

「仕事? 船乗りでもないのに頼まないよ。とりあえず、食事を終えたら、躰が動くかどうかだけ確認しときなさい」

「わかりました」

 頷き、食事を受け取って視線を流せば、サラサは後部甲板の掃除を手早く終わらせていた。

「……ん? あ、私はもう食べたから気にしないで」

「そうでしたか。その、日課ということは、毎日ですか?」

「うん。気づいた時には掃除してるけど、甲板掃除は毎日。自分の家だからね」

「――おう、起きたか」

「おはようございます、カイドウさん」

「おはよ。サラサ、前甲板」

「うん?」

 横から目を細めるようにして進行方向を見て、すぐにサラサは前甲板へと移動した。

「躰は動くか、ギィール」

「あ、はい」

 二つ目の残りを口の中に押し込み、立ち上がれば、僅かに引きつるような痛みはあるものの、躰は動いた。

「問題なさそうです」

「おう。寝起きで悪いが意識を切り替えろ、飯は後だ、そこに置いておけ。前甲板に出ろ」

「はい」

「――十一時方向にハギレ! えっと、距離は……えっと、接敵までだいたい一二○秒!」

 ハギレとは、なんだと思いながら、前甲板に移動する。

「なんですか?」

「進行方向が零時で、十一時。見えない、あの黒いの。ハギレっていう妖魔の群れなんだけど」

 背後の船室が開く音に振り向けば、シュリが船の上部にある帆の傍に立っていた。

「ん、確認した。カイドウ、後追いがいたっけ?」

「距離は離れてるが、二隻はいるな。輸送船だ」

「んじゃ、八割がた数を減らそっか。どうする?」

「おう。――ギィール!」

「はい!」

「心の準備時間はない、自分の身は自分で守れ。サラサ、お前もだ」

 のそりと、カイドウも甲板に出る。左手を握って開けば、そこには一振りの刀が出現した。

 ――武器だ。

 いや、得物なのかと、ギィールは視線を逸らし、ハギレと呼ばれる妖魔の群れへと目を向ける。

 どうなのだろうか。

 その刀も、嫌いなのだろうか。

「――気にするな、ギィール。こいつはお前に向けるものじゃねえ」

「はい……」

「こっちもフォローはしてやるが、期待はすんな。でだ、ハギレは知らないだろ?」

「妖魔自体、自分は遭遇経験がありません」

「そっか。ハギレは海上で一番よく遭遇する、下級の妖魔だ。群生してるから、それなりに厄介だがな。姿は魚とほぼ同一と考えろ。口があって牙がある。それで人だけじゃなく船も壊す。海の上を跳ねるからな」

「進路変更完了、正面ね」

「はあい」

「ん。攻撃の際は、可能な限り側面を心掛けろ。それだけで身を護ることはできる。――いいな、ギィール」

「わかりました、やります」

「おう。接敵まで二十秒、概算八十」

「うっし!」

 そうして、サラサは腰の裏に手を伸ばす。先端を背中の上へと向けるよう装備している小太刀は、逆佩きであり、故に下へと落とすようにして右手で引き抜く。順手でも逆手でも抜きやすい位置だ。

 小太刀は一本だけ。深呼吸をしてから、順手で持った小太刀を顔の左側へ向けるよう、手の甲が額に当たるような構えをして、左手が内側に添える位置へ動いた。

 ギィールは。

 大きく深呼吸をして、正面のハギレに対して半身、左の肩を出すような構え。拳は握らず、けれど軽く関節を曲げたような手になる。左の肘をやや突き出すように、腕は地面と水平にするよう腹部付近へ。右はだらんと下げるようにしつつも、やはり手は関節が曲がっている程度だ。

「――来るぜ」

 カイドウは、意識をギィールへと向けていた。正直に言えば、シュリとカイドウにとって、この程度のハギレならば欠伸をしながら、食事をしつつでも、あっさりと殲滅できる。自分の身を守るどころか、船に欠片すらの傷つけずに突破することだとて可能だ。けれど、それではサラサが成長しない。最低限は手伝うが、経験は積ませた方が良いのである。

 そして――ギィールがどこまでできるのかを見定めるのも、都合の良い展開だった。

 海の中で突撃を選択するハギレはすべて、シュリが展開する糸によって細切れになる。船の上を飛び越えるものの七割は、カイドウが居合いで対応した。残りの三割が、子供たちの仕事である。

 いつものように、見慣れた通り、サラサがやるのは〝舞〟である。小太刀一本に関しては、実際のところ教える技術を二人は持たない。ただし、小太刀二刀を扱うシュリは、それなりに一本でも扱えることもあり、その基本を教えたのである。だからそれは、あまりにも実戦慣れしていない、まるで舞踊のようなものになってしまう――が、身を守るには十分だ。

 対して、ギィールのやり方は荒っぽい。おそらく下積みが不完全なのだろうし、師事を受けてもいない――が。

 受け流している。

 そう感じたが、即座にカイドウは否定した。そうではない。やや乱雑さは目立つが、受け流すというよりもむしろ、視覚にあまり頼らず、感覚に身を委ね、状況を捌いている――あるいは、戦闘の流れそのものを未熟ながらに把握しようと、手を伸ばそうとしている

 二分も時間はかからなかった。

 お互いに速度を持って衝突したのだから、抜けるのも早い。そして、ただの一匹ですら船に傷をつけられず、あまつさえ、後方へ逃れるハギレはいなかった。それを確認するのに十秒を要してから、カイドウはシュリに一瞥を投げる。それを受けて、シュリが両手をぱんと鳴らした。

「はい、お疲れさま。サラサ、進路変更したけど、このまま進むとどうなる?」

「えっと……」

 脳内に海図を思い浮かべながら、納刀。その横で、どさりと座り込んだギィールを横目に、深呼吸一つで既に落ち着いたサラサは、ひらひらと手を振って船室へ向かう。

「海図見たいー」

「ん、天気予測はしてるね?」

「してる!」

 すれ違いざまに、ぽんとサラサの頭を叩いたカイドウは、一度後部甲板に移動して、残った食料と水を手に取ると、それをギィールのもとにまで運んだ。

 どうにか話せるようになるまで、更に六十秒を要したが、まあ、そんなものだろう。

「お疲れさん。寝起きの運動にしちゃ、ハードだったか?」

「はい……あの、このようなことは、よくあるのですか?」

「ん? 嵐に遭う頻度と比べれば、どっちもどっち。俺たちにとっちゃ日常だ。実際、これ以上の酷いことも経験してるし、お前らに運動させなくたって、あっさり抜けられるレベルだよ」

「そう……ですか」

「――情けないと、そう思ってんのか?」

「はい。程度は知りませんが、自分は、こうして座り込んでしまいました……」

「悔しいのか」

「……それは、わかりません。ただ、自分の弱さを、許せそうにありません。自分は弱いから、逃げ出すしかなかったのです」

「そうか」

 それは勘違いだと、今のカイドウなら訂正することもできる。説教じみた助言も可能だ――が、それをやれば、ギィールは足を止めることになるかもしれない。その判断が、口を噤ませた。

「自己流か?」

「そうです」

「どういう鍛錬をした? 期間は?」

「おおよそ一年……くらいです。自分は武器が、嫌いです。それはきっと怖かったからです。それに立ち向かう……武器を壊したくて、方法を考えて、鍛えました。最初にやったのは、目隠しです」

「視覚に頼るから、怖いってか」

「そう思いました。それから、身動きせずに空気……風などを感じるような鍛錬もしました」

「――馬鹿にされたろ」

「はい……」

「けどそいつは、方法は違えど、必要な鍛錬だ。魔術師にとっても、武術家にとっても、肌で感じることで、肌そのものを境界線として、外と内とを区切る――と、言ってもまあ、わからんかもしれないが、それを笑うような生き方を、俺たちはしちゃいねえよ。なるほどね、それであの動きか」

 半身の構え。一度目は右の拳を瞬間的に握ったものの、対妖魔では〝手ごたえ〟が薄いこともあり、次からは掌打での攻撃を中心としていた。しかも、あまり腕を伸ばさない。伸ばしたら引かなくてはならない、なんて考えではなく、単純にぎりぎりまで引き付けていたからだ。

 だから、受け流しているように見えた。ぎりぎりまで引き付けて、最小限の動きで回避と攻撃を同時に行う。だが鍛錬方法を聞けば納得だ――そういう戦い方しか、まだ、知らないのである。

 そして。

 掌打だけではなく、肘も使う。蹴りは使わなかったが、おそらく突き詰めれば肩で触れることすら、一つの攻撃になるのでは、ないだろうか。

 サラサが生まれたことで、カイドウの内にも生まれたのは、先を想像することだった。特にそれが成長と呼ばれるものであれば、なおさら、どうなるかを考えてしまう。

 そう――突き詰めれば。

 その方法、その経験、その人生の先は――果たして、どうなるのだろうか。

 もちろんそれは、想像でしかない。確定できるものではないし、意表を衝かれるからこそ、面白いと頷ける要素も、今までに何度も感じてきた。

「ギィール、たとえ話をしよう」

「はい」

「と、その前にこれ、食っておけ。そろそろいいだろ」

「あ……ありがとうございます」

「ん。で、たとえ話な。お前は武器が怖いから嫌いだと、そう言った。まあそれが事実かどうかはさておき、今こうして俺は武装してるわけだ。どうだ、怖いか?」

「いえ……」

「どうしてだ?」

「先ほどの、ハギレ、でしたか。その時に、傍にいたサラサ殿も見ていましたが、不思議と、武器を壊したいとは思いませんでした……けれどそれは、自分に向けられていないからでは、ないのでしょうか」

「試してみるか?」

「……え?」

 ゆっくりと、カイドウが上半身を捻り、腰の刀に右手を伸ばす。ギィールにとっては真正面、思わず息を呑むような圧迫感と共に、視線から本気さを感じ取り、背筋がぶるりと震えた。

 軽く、左手が鍔を押し上げる。

 たったそれだけで――呼吸が止まった。

 怖い。

 動けない。

 そう、そうだ。

 前も――そうだった。

 武器を持った相手を前にして、怖くて、動けなかった自分が、情けなくて、弱くて、だから――。

「と、まあ、子供を相手だ、本気じゃできねえけどな」

「――」

 ふわっと自然体に戻れば、呼吸が戻り、額の汗を拭うことができた。

「すまん、大丈夫か?」

「あ、はい……」

 これで本気ではないと言われたところで、ギィールには到底信じられない。死を覚悟できるほどの人生経験はなかったが、怖くない今のカイドウが、見ていて変な感じだ。同一人物だとは思えない。

「さて、ここで質問だ。怖かったか? 素直に答えてみろ」

「はい、怖かったです……」

「だろうな。今のをサラサにやっても、びびる。前にやったこともあるしな。でだ――ここで、昨日も言った勘違いの訂正ってやつだよ。ギィール、お前は刀が怖かったのか? それとも、俺が怖かったか?」

「あ……」

 そう――言われれば。

「自分は、カイドウさんが、怖かったです……」

「だろ? で、お前が相手をした武器を持った連中ってのは、そうじゃなかったはずだ。武器を抜いたから、怖くなった。怖かったのは武器で、相手じゃない」

「そう、……なのかも、しれないです」

「得物を扱うってのは、そういうことなんだよ。武器を振り回すわけじゃない。――だがな、ギィール。それでもだ。その上で、お前は、その怖さを、その弱さを、己を、許せないと思うか?」

 できることならばと、そう前置しても、ギィールは。

「……はい。自分は、強くなりたいのです。弱いまま、流され、そうやっていれば自分は、役立たずのままです……」

「そこらは根深い問題だろうし、正直に言っちまえば、俺の知ったことでもねえ。お前の問題だと、そう言い切って、あとは勝手にしろと、そんな気分だ。実際――できることがあったとすりゃ、そいつは、お前の背中を軽く押してやるくらいなもんだ」

「はい……」

「だからだ、ギィール。お前の背中を押してやろう」

「……え?」

「武器が嫌い、そう思って鍛えたお前自身、今のお前を、受け入れられるか?」

「鍛えた自分……ですか?」

「そうだ。一年だぜ、ギィール。特にお前みたいな子供にとって、一年ってのは長い。その時間を使って、あるいは耐えて、それでも鍛えるなんてのは、俺がお前くらいの頃には――……ま、一人じゃ無理だったと答えておくか。そうして使った一年は、無駄だったか?」

「しかし」

「結果は結果だ、お前は弱かったんだろうし、逃げたんだろうさ。けど、だからって鍛えた一年が、全部無駄だと思うなら、今まさにハギレを抜けたお前は、どうなんだ?」

「……わかりません」

「わからんか。まあそうだよな……つまり、簡単に言えば、提案だよ。――お前のその武器嫌い、そのために得た体術、それを〝突き詰めて〟みる気はないか?」

「――、突き詰める……ですか?」

「そうだ。今のお前は、自己流だ。それは否定しねえよ。しねえが、誰でもできるレベルだ。俺だってできるし、シュリだって難なくやって見せるさ。けど、十五年後のお前がそれを続けていたのならば、どうなるかわからない。あれだけのハギレを相手に、たった一人で立ち向かえるかも、しれない。お前は、一年で鍛錬して得た〝結果〟が、本当にこの程度だと思うか?」

「……でも、実際に自分は、この程度です」

「そうだ。だったら? もう一年、鍛錬したらどうなる?」

「それは……」

「それも、わからないものだ。けど、一年でそれは完成したと思うか? 自分がやってきた鍛錬の〝先〟は、もうないと、そう思えるか?」

「……わかりま、せん。カイドウさん、先は、自分はもっと強く、なれるのでしょうか」

「なれるさ。我慢で飲み込み、奥歯を噛みしめ、涙を堪え、それでもと前へ一歩でも踏み出す限り、誰にだって先はある。何にだって先がある。だから――提案だ」

 カイドウは、小さく笑った。子供を相手に、随分と回りくどい、やっぱり説教じみたものになってしまったけれど。

「お前が先を望むのならば、鍛えてくれる相手――師事をしてくれる相手を、紹介してやってもいい」

「教えてくれる、人を、ですか……?」

「そうだ。とりあえず――陸地につくまで、あと三日くらいはある。それまでに、いろいろと考えて、決めろ。いいか、決めるのは自分だ。だから、質問は自分にしろ。己が譲れないものを見つけて、掴んでみせろ。その上で、決めてくれ。俺としては――どっちでも、構わないからな」

「……はい」

 そして、カイドウも考えなくてはならない。

 さてあの相手を説得させるためには、どうしたらいいのだろうか、と。


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