空歴460年

02/09/13:50――サラサ・初めての迷子

 その日が、肌を刺すような冷たい日であったことを覚えている。

 船室じしつから甲板にわへ出たサラサは、毛糸で編んだ防寒用の帽子を目深にかぶりなおすよう、両手で位置を正す。手には風と水を通さない薄手のタイプの上から、厚いグローブを装着しているため、暖かいけれど細かい作業には向かない。やや強い風が吹くたびに足元は揺れるけれど、生まれた頃から馴染んだ海は慣れたもので、防風用の上下ジャケットは風を通さず、ただしそれだけで、我慢はできるけれど寒いものは寒い。

 場所は――どの辺りだったのだろう。八歳の頃、と言われても、そこまで細かくは覚えていない。ただ、流氷の姿は見えなかったので、一番目の大陸アインの近くでなかったことは確かだ。

 その時に考えていたことは、さて、こんなに寒いのに魚たちはどうやって動いているのか――とか。妖魔たちは寒さを感じないんだろうか――とか。どうすれば暖かさを維持できるか――とか。

 たぶん、そんなとりとめのないことを考えていたように思う。とにかく寒かったけれど、船乗りという人種は、だからといって船室に閉じこもったりはしないのだ。空を見れば天気を読み、風を感じれば先を読む。目的地に到着するよりも、まず第一に、転覆しないことが最低条件。座礁しそうならば引き返し、違う道を選べばいい。嵐に遭遇したら無理をせず、じっと去るのを待つか、そもそも遭遇しないよう心掛けるべし。

 ――なんてのは全部両親の受け売りで、サラサはそれほどの技量はない。だからといって無自覚ではいられないし、いや、ないのだから覚えろと、そういうことなのかもしれないのだけれど。

 そんなふうにぼんやりしていた。

 いろいろ考えて、なんとはなしに視線を泳がせて。

 ただ――それだけだったのだ。

 ふと我に返ったように気づけば、そこは何もない空間だった。

 驚きは当然あった。ちょっと飛び跳ねたくらいだ。帽子の装飾である二つの尻尾みたいなものが、ぴょんと跳ねたくらいに驚いた。

 どこだと自問自答して、真っ先に浮かんだのが夜の海だった。しかも凪ぎの海。物音ひとつしないような暗さの中、目を凝らしたところで何も見えない。だからこそ、怖さを孕む。実際にサラサは怖かった――が、だからといって怯えたり、叫び声を上げたり、ということはない。

 世の中に怖いものはあると、サラサは知っている。海で生活していれば、二度も三度も遭遇する。怖いからといって身動きができなくなれば、それは致命傷だ。怖いなら、怖いと受け入れた上で、足を一歩でも動かさなくてはならない。

 止まるな。

 動け。

 そして怖さを忘れるな。

 なんてことを、いちいち父親は教えてくれるのだから、きっとたぶん、優しいのだろう。

 ともかく、最初の印象は夜の海であったところで、そこがどこなのかはわからない。空を見上げれば月が――うん? おかしい、さっきまで明るかったのに、もう夜になったのはさすがに頷けない。そこまで呑気にしていたら、船の上で生活なんてできない。

 左右を見渡しても何もない。そこでようやく、自分の足元に何もないのだと気づく。飛び上がり二度目だ。驚いた。感触があまりなく、硬いような柔らかいような。とりあえず移動して大丈夫なのかなと、そろそろと足を動かしてみれば、唐突に落っこちるようなことはなさそうだ――が、油断はできまい。

 ふぬう、と腕を組んで首を傾げるが、考えてわかるわけがなかった。

 慎重に、おそるおそる、どれほど歩いただろうか。いや、歩いた〝距離〟なんてものは、景色すら変化のないこの空間において意識するだけ無駄なので、時間的にと考えるべきだろうが、そんなものを計算するほどの余裕もない。

 ただ。

 その男を、発見することができた。

 いや。

 男は最初からそこにいた。ただ、サラサには見えなかっただけで――あとになって考えてみれば、男の周囲をぐるぐると回っていただけだ。いや、だったら声くらいかけてくれと思うが――。

「……おじさん、だれ?」

 ――こちらから声をかけなくては。

 男の方は、対応できなかったのである。

「――驚いた」

 何故ならば男は。

「人が来る……? そんなことが、ありえたのか」

 そもそも、来訪者を前提としていなかったのである。

 見上げた男は、とても――綺麗だった。

 上下のスーツに、ネクタイ。けれど何より、この空間の中で発光すらしている金色の髪と、同じ色の瞳。

「人じゃないみたい……」

「私は人ではないが」

「……人じゃない⁉ すげー!」

「凄くはない。お前が人間であることが、凄くないようにな」

「そう言われれば、そう……なのかな?」

「何をしに来た」

「それを教えて欲しいのです」

 素直に言えば、男は見上げていた視線をまた戻し、幼さを残すサラサの顔を見て、そして。

「……?」

 首を傾げた。なので、サラサも小首を傾げる。

「えーっと」

「なんだろうな」

「うん。なんだろ。えっと、おじさん、名前は?」

「私か。私はアルフレッド・アルレール・アルギス」

「あるふ……あの」

「アルでいい」

「アルさん」

「そうだ。――ああ、来たな」

「へ? 誰かきた?」

「そうとも。おそらく状況を正しく理解しているやつだ」

 もっともらしく頷いているが、つまり役立たずが二人揃っていることの証左なのだけれど、サラサは当然のようにそんなことは微塵も思わなかった。

「よう」

 ――なんて。

 彼女が出現した。三度目のびっくりである。

「って、なんだー? こんなガキが一緒かよ。おー、どしたよ?」

 同じ、金色の髪と、金色の瞳をした、少女とも思えるような風貌をした女性だった。きちんとしゃがんで視線を合わせてくれたのでありがたいが、しかし。

「人?」

「オレは――……人だと断言はできねーが、まあ、この野郎よりは人だ。んで、お前の名前は?」

「サラサ」

「おう。オレは――小夜さよだ」

「小夜さん」

「その通り。はあん、なるほどね、状況は理解したぜ、アル」

「理解したか、助かる」

「ったく――」

 ここからの説明は、当時のサラサにはよくわからなかった。

 どうやら閉鎖された空間の中、ただ時間の流れに身を委ねたアルだったが、そこに鍵としてのサラサが混入したが故に、それを察した小夜がここへ来たという流れのようだ。実際にサラサが来なければ鍵は開かず、接触は難しかったとのこと。

「……?」

 だが、よくわからない。

「つまり、サラサは〝迷子〟ってことだ。現実からは神隠しみてーにいなくなっちまってる。両親が心配してるだろ」

「するかなあ」

「そりゃオレに聞いてもわかんねーよ。あーいや、ん、サラサの両親の名前は? 言っても良いって言われてるか?」

「え、うん。父さんはカイドウ、母さんはシュリだけど」

「――なるほど? おいアル、てめーの〝気の迷い〟が生んだシュリの子だ。縁は合った、だがそれだけの理由じゃなさそうだぜ、おい」

「そうか」

「アルさんの気の迷い?」

「ああ、そうだ。実際にセツのよう血を別けたわけではないが……そうだな、うん。ところでセツ、きちんとこの子は戻せるか?」

「〝次〟はともかく、今なら問題ねーよ」

「そうか……」

「お、おおう、そうだった。私、戻らなきゃ」

「忘れんなよ、お前も」

「サラサ、母親に言伝を頼む。金色の従属としての特性はない、とだけ」

「金色の……従属? なあに、それ」

「オレやアルしかいねーけど、あれだ。犬族とか竜族とか、そういうのあるだろ? それと似たようなもんだ。さて、いくつか忠告しておくから覚えておけ」

「え、私に?」

「お前が原因だろーが……あのな? この〝迷子〟はたぶん、続くぜ。相手も変わる。制御できるようになるのは、まだ先だろーしな。で、いろいろと説明してやりてーけど、なんだ、どうせ覚えられねーだろうし、全部は言わねーよ。ただ、ここで話したことを、外で話していいかどうかは、相手の判断に従え」

「えっと……ここで話したことは、黙ってる?」

「その方が良い場合が多いってことだ。ま、今回のことに関しては、べつに気にしねーから、話してもいいぜ。ただし、両親にだけ、にしとけよ。でだ、もしも〝次〟があったら」

「次に、こんな感じになったら?」

「そうだ。たぶんわかるだろ。んで、その時になったら、とりあえず大声でアルを呼べ。そうすりゃ助けてくれるから」

「おい」

「あー? てめー、このままでいいと、本気で思ってんなら、三千回殺すぜ?」

「…………わかった」

 脅しに屈した瞬間である。

「ってことだ、サラサ。やり方はこいつに説明しとく。次があったら――」

「アルさんを呼ぶ」

「そうだ。ま、今回は戻っておけ。――ありがとな」

 ありがとう?

 これは、感謝されるようなこと?

「なんで――」

 そう口にした瞬間、足元に慣れ親しんだ感覚が訪れた。うぬ眩しいぞ、とばかりに目を細めれば、自分は甲板に立っている。

 戻ってきた。というより、帰ってきた。

「サラサ、寒いでしょ。中入りなさい」

「あ、母さん。うん、ただいまー」

 いつも落ち着いてるなあと、母親であるシュリの態度には感心させられる。だがサラサが知らないだけで、いなくなって二十分経過した現在まで、父親であるところのカイドウがどれほど苦労したか。半狂乱とまでは言わずとも、できることを全部やろうとした挙句、海の王まで呼び出して力を借りようとして、いいから落ち着けとどうにか宥めたのである。

 だが、そんな慌てた様子を娘に見せるようでは、親としてどうか。そういう判断だろうが、まあ、カイドウは苦笑している。

「で、どうしたの?」

「うん、迷子してたみたい。なんかね、よくわかんないんだけど、人じゃない人に逢った。あと、人っぽい人」

「……なにそれ」

「わかんない。ただ、私が鍵だったとか、なんとか……あ、忘れないうちに言っておくね?」

「なあに」

「母さんに、コンジキの従属、の特性は、ないんだって。なんかねー、人じゃない金色の人がいてねー、なんだろ、ちょっと困ったけど、戻れたみたい。うん」

「相変わらず要領を得ないっていうか……」

「あのなシュリ、お前が原因だからな。鏡見て言ってるのと同じだ」

「うっさい」

「ちなみに、その二人の名前は言えるか?」

「あ、うん。……ねえ父さん」

「どうした」

「あのさ、あっちにも、両親の名前は言えるかーって、確認? されたんだけど、そういうものなの?」

「おう。言えるかどうか、伝えても良いかどうか、まあそういう確認はな、いろんな場面で必要になる。あまり気にしなくてもいいけど――んで?」

「えっとね、アルと小夜」

「ふうん? シュリ」

「いんや、知らない。っていうか、金色の従属ってなに……?」

「私は知らないんだけど」

 はふう、と吐息して操縦席を見ながら、小さな暖房機の前に手を差し出す。手袋はしたままだが、やはり暖かい。夕方までは特に作業もないので、問題はないだろう、なんてことを考える。現実逃避ではない、通常思考だ。

「――思い出した。親父の書庫にあった文献に、確か三行だけ……」

「三行って、そんだけ?」

「ああ。吸血種の異名、身体再生に特化した金色の従属、身体能力に特化した闇夜の眷属。かつて王と呼ばれた始祖の指からは、金色が二つと、黒色が一つ――だったか」

「ふうん? 金色の特性ねえ……まあいいか」

「よくはねえだろ」

「後回しってこと。んでサラサ、問題は?」

「だいじょぶ、ふつー。でも、なんか次があるかもって言ってた」

「癖になる――ってところか。かといって、今のところ対抗手段も思いつかないな。俺ならまだしも、サラサじゃ制御も難しい」

「うん。だから、もし次があったら、助けを呼ぶから、だいじょぶ。――って、小夜さんが言ってた」

「サヨ、ねえ……」

「ん?」

「いや」

 ベルとは名乗らなかったんだなと、言いたかったが、それをサラサに聞かれることを避けるため、カイドウは曖昧に濁す。あくまでも可能性の話だ。信憑性は高い。金色の髪は、彼女しかカイドウは知らないのもあるが。

「まあいい。サラサ」

「あーい」

「次があったとしても、ちゃんと帰って来い。で、しばらくはちゃんと報告すること。言えないことは、言えないでいい。わかったな?」

「わかった」

「んー……まあいっか」

「よくはねえだろ、シュリ。だから原因はお前だって言ってんだろ……? お前の存在の特異性からの関連情報を並べて洗えよ。結論はそっから先に落ちてる」

「カイドウが知ってるなら、いいじゃん。ねえ?」

「父さん、物知りだもんねえ」

「ねー」

 こうして、カイドウは苦労を重ねるのである。

 そこだけは子供が生まれても、昔から変わらなかった。


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