08/28/08:00――オボロ・古巣と帰る場所
まだ半年にもならないのに、シャヴァ王国の雰囲気を感じて、懐かしいと思うのならば、オボロ・ロンデナンドという人物は、それだけ軍人から離れた道を進んでいる、ということの証左なのだろう。
ほぼ三日間、馬上での強行軍だったというのに、コノミは顔色一つ変えていない。一日は雨だったのにも関わらず、疲労さえ感じられないのだから、大したものだ。
軍属時代、よく打ち上げをやっていた酒場に顔を出せば、飲み物の注文すら必要なく、まだ開店もしていないのに店主は応じてくれた。いくつかの暗号を言えば、カウンターに果汁飲料を置いて、しばし席を外す。
「直通か」
「はい。何度も使おうとは思いませんが、まず大丈夫かと。しかし――」
コノミ殿、という呼び方はしない。というより、できない。ここにくる時に釘を刺されているからだ。自分が名乗らない以上は、名を呼ぶなと。
「もし自分がいなかったのなら、どうなさるつもりだったのですか?」
「私が、
「よく言えば忍び込む、悪く言えば強行突破――ですか」
「だから、パイプが残ってて助かってる」
それは、お互い様だろう。オボロだとて、コノミの目的や行動をこの目で見たいがために、付き添っているに過ぎない。もちろん、ほかに用事もあったのは確かだが、第一の目的はそこだ。
無言で飲料を飲み干した頃、店主が戻る。連絡がついたらしく、オボロはラミル金貨を一枚置いて、酒場を出た。向かう先は、上官たちが使っている宿舎だ。
「お前にとっちゃ、古巣なんだろう」
「そう――なります」
人を避けるよう道の隅を歩いて、そう遠くない距離。中に入るのには、以前と同様に軽い緊張がある。
「ですが、軍人に戻りたいと、今はまだ思えません」
「そうか。だったらそれは――」
それは。
「――お前にとっちゃ、大切なものなのかもしれないな」
「え……?」
宿舎の中に入ろうとして、振り向くが、いいから行けとコノミは顎で先を示した。
ほっとしたのは、目的の部屋に行くまでに、誰ともすれ違わなかったからだ。それでも緊張はあるし、どんな顔をすれば良いのかもわからないまま、オボロはノックをする。
「オボロ・ロンデナンドであります」
入れと、中から聞こえた声が懐かしい。恩を返せない自分が、のこのこと顔を見せることには複雑な感情が入り混じるが、それでも、懐かしいのならば喜ぼうと、そう思って入る。
彼女は。
イリカ・メドラート大尉は、テーブルに軽く尻を乗せるようにして、いくつかの書類に目を通していた。
「――」
目が合う。けれど、続く言葉が出ずに、やがて、イリカは小さく苦笑した。
「すまない」
謝罪の言葉がきた。背後で扉が閉まり、オボロは包みに入ったままの槍を片手に、何かを言おうとして、しかし、口を閉じて。
「用意していた言葉が、抜け落ちたようだ。久しいなオボロ、すまない、再会の言葉が上手く出てこなかった」
「いえ、メドラート大尉殿。まだ半年ばかりですが、自分も、どのような顔を見せれば良いのか、ずっと迷っておりました」
「はは、そうか。ならば、迷ったままにしようオボロ。会話をしている内に見つかるかもしれない――それで? そっちの小娘のような部外者を呼んだ覚えはないが」
「は、それは……いえ、失礼」
オボロは、横に移動してコノミに場所を譲る。本来の目的は、旧交を温めることではないからだ。
「言いたくはねえが――」
堂堂と、コノミはいつものように自然体で、煙草に火を点けた。
「――シャヴァ王国軍ってのは、この程度なのか」
「なに?」
「先に言っておく。私から手を出すつもりはない。だが、そっちが手を出すのならば話はべつだ」
「ほう……」
「――大尉殿!」
僅かに腰を上げるようにしながら、右手が腰のレイピアに伸びようとするのを見て、さすがにオボロは口を挟む。というか、のっけからこんな状態では、緊張が嫌なものに変わるのは、自然なことだ。
コノミが喧嘩腰ではないことも、わかる。だからこそ厄介だが。
「どうしたオボロ。今のお前ならば、その小娘くらい――」
「大尉殿……!」
背中に浮かんだ汗が嫌だ。けれど、どうしようもなく、槍を持ったオボロは警戒をあえて表に出しながら、苦渋の表情でイリカの行動を止める。
この状況下でなくとも、オボロはコノミに、今はまだ、何一つとして届かないことを自覚している。もし二人が戦闘を始めようものならば、オボロは。
「よしておけって言ってんだよ。私じゃなくてオボロの言葉だ、そのまま受け取れ。わからねえか? わかるだろ、大尉殿? ――あんたと私がやり合おうとしたのなら、オボロは私じゃなくてあんたを止めると、態度で出してるんだ。どうして? 簡単だろ? ――その方が、確実だからだ」
しばらくイリカはコノミを睨んでいたが、腰のレイピアから手を引いた。ほんの十数秒のことだったが、生きた心地はしなかったオボロは、深呼吸をしつつ、平静を装う。
「話しがあるのは私だ。その前に、結界を張らせてもらう」
コノミはジャケットのポケットから取り出した、ガラス玉のようなものを、部屋の四方に放り投げる。空気が激変するほどの変化はなかったが、僅かに魔力を感じた。
「さて、いつまでこいつが継続するかわからない。――続くようなら、それだけお前らが間抜けだったと自覚してくれりゃ結構だ。言いたいことは三つ、よく聞け」
一方的に、コノミは言う。
「一つ、海が開かれた」
「なに――」
「聞けと、私は言った。二つ、ウェパード王国には造船のための設計図が存在する。三つ、開かれたのは海だけじゃない」
一気に言い放ったコノミは、紫煙を吐き出しながら。
「……なんだ、覗き見の連中はまだ解除できないのか」
「その情報は確かなものか、小娘」
「あんたは現実になって尻に火がつくまで、信用しない間抜けなのか? オボロの上官なんだ、そんなことはないと期待した私の方が間抜けか?」
「……貴様」
「言っただろう、喧嘩をしにきたわけじゃない。――浮遊大陸がなくなったことは、当然のように知ってるはずだ。けれど、海を確認しに行くような馬鹿は、まずいない。私やオボロみたいにな」
「――オボロ、見たのか」
「は、この目で確かに。それと、自分は今まで、彼女に嘘を吐かれたことはありません。また、今の言葉に自分が否定できるものもありません」
「……なるほどな。小娘、ほかに話せることはあるか?」
「あるよ、いろいろとね。たとえばだ、ウェパード王国は〝揺るがない〟だろう」
「どういう意味だ?」
「海が開かれれば、ほかの大陸から誰かが来ることも考えられる。だが、あの国は貿易拠点だ、その意味は揺るがない。たとえ、造船技術を持っていたとしても、今すぐに作ってどうにかしようとは考えないだろう――が、逆に、外から来る者たちを受け入れるための準備は、するだろうな。あの国は、私から見て、目的を持たない。いや、あるにはあるんだが――あんたたちとは違う」
「こちらから、技術の提供を呼びかけろと?」
「勘違いしているようだから訂正してやる。私は、ウェパード王国の特使じゃあない。仮にあんたたちが戦争を吹っかけようとも、知ったことか――ああ、いや、そうなったら、私があそこで暮らしている以上、敵対することにはなるか。こいつは忠告だが、あと二十年は止めておけよ。住居を奪われるからって、敵対する人間に化け物がいるからな」
「……。開かれたのは海だけではないと言ったな」
「言った」
「それは人以外の行き来が可能になったと、そう考えて間違いないな?」
「そうだ」
「お前は、何が危険なのか知っているのか」
「知ってる。いや――全部は知らないが、一つだけ知ってる。空を駆ける竜族、大空の覇者、連中に手出しはするなってことくらいは」
「空の――覇者だと?」
「この国じゃ、敵は地上だ。たとえば、よほどの錬度がなければ傷一つつかない鱗を持った、全長十メートルにもなる空を飛ぶ竜族に対しての、効果的な撃退方法を持っていない。それどころか、想像すらしたことはないだろう? 軽く反撃をするだけで、この国一つくらいは火に包まれるようなブレスを吐くことができる連中が、この世界に存在しているってことを。そんな世界を、日常にしている大陸があるってことを」
「…………」
「知らないから、どこもかしこも呑気なものだ。知っている連中、知ろうとしている連中は、今頃必死に考えてる。あらゆる可能性を考慮している。たとえば――技術力が数段上の大陸から、船によって一個師団が到着した時に、本当に今持っている技術で対抗可能なのか? そもそも、一口に船を言っても、果たして、本当に今作っているこの船と、ほかの大陸での船が、一緒なのか?」
そしてと、コノミは言う。どこか面白そうに、笑いながら。
「――この国の思想と同様に、侵略を前提とした行軍が現実になった時、どう対抗すれば上手く切り抜けられる? 空を飛ぶ不思議な大陸が一つ、無くなったんだ。そんな大げさな、それこそ世界が変わりそうな〝異変〟があったのに、書類仕事とは暢気なものだと、そう言ってんだよ」
「何故だ」
「どうしてこんな情報を教えるのかってか? ――それを知ってお前がどうするのか、そして、シャヴァ王国がどう動くのか、それを見るためだ。私はどこにも属さない、ただ一人の女だからな。こういう状況でもなけりゃ、一つの国が〝動く〟のを、間近に見ることもできやしない。まあ、こうして来てみれば、大したことはないと思ったのも事実だが……逆に、いつでも潰せるような国を、放置しているのはどういう理由なのかも、知りたくなってな」
「いつでも潰せる?」
「ああ、私一人で充分だ。人数を揃える前に頭を全部潰せばいい。揃えたところで同じだが……」
だが――その程度なのに、干渉しない理由はなんなのか、コノミは知りたいのだろう。彼女の両親が、一時的にとはいえ敵に回ったとしても、それを赦している理由が知りたいのだと、オボロにはわかった。
けれど。
たとえそうだとしても、コノミの行動は、まるで。
シャヴァ王国を助けるための、助言にしか、聞こえない――。
「こんな簡易結界も破られないのか……ま、いい。放置だ。オボロ、三日も早馬で駆け付けた割には、くだらん結果になった。のんびりと私は戻るから、お前も好きにしろ」
「――待て」
「コノミだ。忘れてもいいぞ」
そうして、コノミは、続く言葉も態度もなく、部屋から出て行ってしまった。額に手を当てたイリカが、深い吐息を落とす。
「その……」
「ああいや、いい、構わないオボロ。……小娘だと初見で侮った、私の落ち度だ。こっちの質問まで見越されていた事実は否定できん」
「は……あちらの国で知り合い、未だ半年程度ですが、戦闘でも会話でも、自分は彼女には敵わないので」
「すまん。あの女――コノミの真意はともかくとして、私はすぐにでも動かねばならんくなった」
「お察しします。では、一つだけ、伝言があるのでお伝えします、大尉殿」
「伝言? 私に?」
「は――ファルイデラ・ケーニッヒ殿より」
「――」
「いつか、必ず、メドラート大尉殿に挑むと」
「……あの野郎は」
「は、ウェパード王国の騎士団に所属しており、一度手合せをさせていただきました。大尉殿の突きと、非常に酷似していたので、お訊ねしたのですが……」
「騎士団か」
「副団長でありました。古い――お知り合いだと」
「そうだな。ガキの頃は、ただの一度ですら、私はファルに負けなかった……が、現実はそうじゃない」
「違う――のでありますか? ファル殿は、挑むと、そうおっしゃられておりましたが」
「違うよ。あいつは〝本気〟になれていなかっただけだ。こっちは軽いレイピアなのに、野郎は剣だ。左利きなのに、右しか使わなかった」
――ああ、そうだ。
そうだった。
オボロもまた、左の突きに、やられたのだった。
「そうだな。挑むと言ったのならば、お互いの立場なく、ただ、やり合うのも面白いかもしれない。そう伝えてくれ」
「は、諒解しました」
「オボロ、お前はこの現状をどう見る。個人的な見解を聞かせてくれ」
「は、直感の域から出ませんが、多くのものが混ざり合うような予感を持っております。事実、海の異変に気付いた時も、自分は……言葉にすると難しいのですが、たとえば、空気が乱れる、その先に属性が混じることがあるような、そういう感覚がありました」
「何もかもが混ざり合う、か。ある意味では転機かもしれないな。――ついでだ、これも聞いておこう。ウェパード王国について、どう感じた?」
「生活に関してならば、何もありませんでした」
「なにも?」
「はい。王国が何をしていて、どうしているのか、その動きを住民の大半は理解していません。自分であっても、酒場に出ている依頼の中に、王国からの仕事が含まれていると、そのくらいしか感じませんでした」
だからこそ、迷ったのだ。
「指針は己で見つけるしかない。自由と呼ばれる無数の選択肢を前にして、自分も戸惑いました」
「敵対した場合、あるいは手を組んだ場合のメリットは?」
「――後者はありえません」
「なに?」
「あの国は、敵対した国と対峙することはあっても、どこかと手を組むことはないと、自分は判断しております。それだけの〝強さ〟を持ち――自分たちが誰かを利用すること、そして利用されることを、拒絶しております。おそらく、それは、水龍ウェパードに限りなく近しいからだと、勝手に思っておりますが……」
「なるほど、面白い見地だ。では敵対した場合はどうなる?」
「落としどころへ、落とされると思います」
「事態の早期解決――か」
「それもありますが、……これも、おそらくですが、ウェパード王国の騎士団は、住民に被害が及ばぬ限り、出ません」
「ではどうする」
「おそらく、どうもしません。言い方は悪いですが――勝手に解決すると思っています」
「……オボロ」
「は、なんでしょう」
「私はこれまで、何人かの〝草〟と話を聞いてきた。ウェパード王国へ潜り込ませた者は、かつて話した通り、軍を出た。だが、そんな言い方をしたのはお前が初めてだ。オボロ、お前は一体、何を見た」
「そう――ですね。ウェパード王国が作る、環境でしょうか」
おそらくあの、ともすれば呑気にも感じる雰囲気は、意図して作られており、日常として存在するものだと、オボロは思う。
「原理としては、非常に簡単なものです。気に入ったものがある。それを横から手を出され、汚されようとしているのならば、止めようと思う。――ただ、それだけのことではないかと、自分はこの半年ほどで、結論を出しました」
「それだけのことか?」
「はい。あるいは――そう誰かに思わせるような環境を、作っているのかもしれません。あの場所には長く留まる旅人もいますし、コノミ殿のような化け物じみた手合いも、います」
「ふむ……たとえば、もし仮に、我らが軍靴を鳴らして突入したのならば、どうなると思う」
ちらりと、部屋の隅にある宝石へ視線を走らせたオボロは、未だに結界が作動していることを確認し、深呼吸を一つした。
「不躾な物言いになりますが、よろしかったでしょうか」
「構わん。お前はもう軍人ではない、いかなる不敬もここでは見逃そう」
「ありがとうございます、大尉殿。――四分の一の行軍が終わった頃、国王様は殺されるでしょう」
「――暗殺か?」
「そうです。行軍に参加していなかった尉官、佐官なども同様の末路を辿ると考えられます。おそらく、化け物と呼ばれる人たちがあの国にいたとして、手を貸すのならば、その程度のことしかしないかと」
「その程度、とは言うがな……いや、いい。参考になった。だとすればあの国は、現状――否、これから世界が変わって行くとしても、順応こそするが、変化はしない。そういう見解で差異はないな?」
「はい、そう思います。――たとえ、玉座に座る者が変わったとしても、続いて行くでしょう」
そして。
「……シャヴァ王国は、変わらねばなりませんか、大尉殿」
「わからん。わからんが――残念ながら、今のお前のように、変化はしないと断言できるだけの要素がない。この差はなんだ?」
少し、自嘲めいた笑みを浮かべた問い。わかりきった正解を訊ねるような雰囲気に、オボロは頷く。
「変わるだろうことを予想していた者と、しない者の差かと」
「その通りだ。やれやれ、厄介な案件だな、これも」
「――メドラート大尉殿。不躾ついでにもう一つ、よろしかったでしょうか」
「なんだ、言ってみろ」
「よろしければ、休暇をとって、ウェパード王国に行ってみるのは、いかがでしょう」
「――私が、あの国に?」
「はい。国王への面会も可能かと」
「……なんの冗談だ?」
「いえ、冗談ではなく、その、もし望まれるのならば、今の自分はただ一人の人間であると、その言葉があれば、面会もできます。肩書きを、一時的にでも外せば、それだけで」
「間者を出す必要もなく……それだけのことで?」
「はい。ただ、正面から探りを入れても、笑って返されるだけの〝怖さ〟はありましたが」
しばし、顎に手を当てて、黙した彼女は、笑って。
「……そうだな。わかった。この問題を片付ける際に、そういう〝理由〟を作ってでも、一度行ってみよう。私はあの国を肌で感じたことはない。今後の対策にも良い刺激になりそうだ」
「その際は、お呼びいただければ、話し相手にはなれますので」
「はは、考えておこう」
それから、改めての連絡方法を交換し、握手をして、別れる。フリーになったオボロと違い、これからイリカは忙しくなる。なるが、しかし。
この段階で情報を得たことは、必ず、昇進の役に立つ。シャヴァ王国軍は、そういった考え方が主流だ。
けれど、最後に。
「オボロ、戻ってくる気はないか?」
そうやって誘われて、けれど、オボロは首を横に振った。
まだ――オボロは、武術家になっていない。そして、その道は軍人とは違うのだと、痛感できたのならば、今のオボロにとって、ここは古巣だけれど。
帰る場所では、もう、ないのだ。
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