08/24/16:00――エンデ・終わりに触れて
空を見上げれば、姿を小さくしながら、がらがらと崩れて行く浮遊大陸がある。見納め、とでも言うべきだろうか、エンデは終わりを見届けることを優先して、ずっと空を見ていた。
終わりだ。
その、終わりに触れ、携わることができた。これ以上ない経験だ。騙って聞かせることができるかどうかはわからないけれど、それでも、物語の一旦を担えたのならばそれは、喜ばしいことでもあるけれど――しかし。
なんだか、ミステリ小説の最後だけを読んで、解決を知るような気分にもなる。
本当に良かったのか、なんて考えだせば最悪だ。自分の行動を振り返り、陰鬱な気持ちと共に自己否定へと突っ走る。最後に、いや良かったんだと自己暗示に似た結論に至れば、あとはもう虚飾にまみれた自分が残るだけだ。
良いのか悪いのか、正しいのか間違っているのか。
二元論で騙られるそれが、決してその二つのどちらかでなくてはならない、などという現実は少ないけれど、正誤の判断は己が下すものだ――というのは、間違いなく、欺瞞でしかなくて、あるいは傲慢とも言えるものだと、エンデは考えている。
正誤を決めるのは、いつだって第三者だ。自分の決定など、その他大勢の前ではあっという間に覆る。だからこそ人は迷い、惑い、悩んでしまう。自己決定が尊いものであると思い込み、押し付けられた正誤を否定し、結果的にどちらかを受け入れてしまえば――やがて、その行為自体にすら、正誤の疑問を抱いてしまう。
思い悩む。治りかけの傷に浮かんだかさぶたを引っ掻き、また元に戻してしまうように、ぐじぐじと答えのない思考に埋没してしまう。
そうだ。
答えが出ないとわかりきっているのに、それを理解し納得していても、考えることをやめられない――それが。
後悔と、そう呼ばれるものだ。
それは、時間があればあるほど、毒のように浸食を始める。
「――時間に倦めば、誰しもが〝そう〟なるのでしょうね」
「……鷺城鷺花。それと、確か君は、アクア――と、そう呼ばれていたね」
声をかけられて気付けば、空にはもう、何もなくて。
この場にも、三人しか残ってはいなかった。
「彼らは?」
この広い場所には三百人近い人がいたはずだけれど。
「もう行ったわよ。それぞれ、好きな場所へ」
「そうか……見送るのも忘れていたよ」
深呼吸を、一つ。視線は足元から、やはり空へ。何もないとわかってはいても、眺める先は、終わりの先だ。
「物事を成すには決断が必要だ。けれど、決断とは必ずしも一つとは限らない。更に言えば――時間さえあれば、より良い方法を思いつくことだってある。君はどうなんだろう、鷺城鷺花」
「正解は」
あえて、その言葉を選んで、鷺花は言う。
「考えることを辞めないこと」
「同じところを、ぐるぐると回って思考に囚われることを、継続して?」
「そうよ。そしていつか、その先に待っている〝答え〟を見つけることができる」
答え――それはと、四歩離れた距離にいる鷺花へと視線を改めて向けて。
「それは、なんだい?」
鷺花は僅かに目を伏せ、口元に微笑みのようなものを浮かべて、隣のアクアへと一瞥を投げて、顔を上げた時にはいつも通りの表情で。
「――それだけではなかった」
「……え? それは?」
「決断を迷い、決定を悩み、時間があればあるほどに、疑心暗鬼になってしまう。けれど、――時間があれば気付く。それだけではなかった。決断に至るまでの道で、出逢った人がいる。決定を下す前に、相談した人もいた。今ならばもっと良い手が打てた――けれど、今もまだ、隣には誰かがいて、出逢った人がいる」
「――そうか」
決定が一つではなかったように、決断が必ずしも一つとは限らないように。
そこへ至る道もまた、そこにはあったのだ。いくつもの錯誤があって、時には励まされて、時には否定されて、ああ、それでもと。
長い時間の果てに、懐かしみを覚えながらも、それはいつだって傍にあるものだと認識できたのならばそれは、きっと。
「救いだとて、誰かが押し付けたって、良いものか……」
正誤と同じように、だ。
「終わり続けていたところで、後ろ向きにずっと歩いていたわけじゃない。停滞と同様に、ただ滞っているだけの時間は、限りなく前進に近い停止だ。……なるほどね」
「そういうあんたは?」
「俺? ……直感は合っていた、のかな。区切りとでも言えばいいんだろうか、俺の中にも一つの終わりが訪れたような気分だよ。結果的に俺が鍵になってしまったことも――まあ、そうだね、文句はあるけれど、それはきっと、半分は俺のものだし、半分はセツに返しておくよ」
「セツもこの結果を見越していたわけではないわよ。ただ――僅かばかりの期待と、らしくもない自嘲は交じっていたでしょうけれどね。それを私が指摘すれば、否定するから、あんたから言っておきなさい」
「鷺城鷺花の言葉だと?」
「面白い冗談ね」
「ありがとう。まあ――うん、そうだね、俺も少し休みたい気分だ。皮肉交じりで言えば、停滞しようと、そう思う」
「あんたも、セツの〝場所〟で過ごしてたから、停滞には馴染みやすいけれどね。ただセツの場合は、作り方そのものが違うから、楽園とは全く似なかったけれど」
「――そういえば、セツはどうして?」
「あの子は面倒になっただけ」
停滞というよりも隔離だと、鷺花は仕方なさそうに苦笑する。
「セツの居場所そのものを、外界から隔離して、時間の流れを誤魔化したのよ。停滞というよりも、遅延かしら。あの場所での一年が、外の世界での五年になるような誤魔化しね。数字自体に信憑性はないけれど、感覚としては掴みやすいでしょう?」
「確かに、終わり続けているような、停滞の空気はなかった。当たり前のように時間が流れていたと感じたよ。けれど、まあ、外に出てからは少し驚いたものだ。――ああ、そういえば彼が言っていたな。セツならば狂うこともなく生きていられるだろう、と。であればこそ、面倒になったという表現も、的を射ている」
「――彼?」
「ああ、そうか、君の名前は出さなかったけれど、この場所の特異性が発揮されているか、あるいは浮遊大陸がなくなったことでの制限外しになっているのか、現状では君への対価を感じない以上、話しても問題ないだろう」
「多少の制限は外れたけれど、生き様そのものに類する制限は変わっていないはずよ。そして、この場所の特異性はもうない。あくまでも避難場所としての〝利用〟が前提であって、それももう終わったから」
「――すれ違った。きっとその表現が正しいんだろうね。エルムレス・エリュシオンは知っていたみたいだけれど、破壊を担う魔法師……だと言っていた。合っているね?」
言えば、沈痛な表情をした鷺花が、奥歯を噛みしめるようにして何かを堪えたのだが、しかし、盛大な吐息と共に肩を落とし、しばらくして意を決したように顔を上げるが、しかし、しかめツラが直っていなかった。
「うん」
その表情を見て、頷きを一つ。
「エルムレス・エリュシオンも似たような表現をしていたけれど、だからこそ、彼は大笑いしていたんだね。ようやく俺にも理解できたよ。こう、気が晴れると言ったら申し訳ないけれど、痛快だ。――俺がやったわけじゃないから、他人事だけれど」
「昔はそうでもなかったのよ……それが当然で、当たり前のように会話をして、存在を認めていたけれど、それは昔の状況だったからこそで、現状ではまず逢うことのない相手が、破壊――つまり終わり、楽園の崩壊であり浮遊大陸の終わりに、僅かでも立ち会ったというのならば、それはきっと師匠の術式が一個世界を完成させるほどに、あるいはそれに限りなく近いものであったことの証左でもあるのだけれど、だからこそ終わりに立ち会ったあんたが、アレに出逢っていたというのは、こう、なんというか、忸怩たる思いなんて一言で済ませられないほどの屈辱というか……」
「盛大な言い訳をありがとう。俺を睨んでも仕方ないじゃないか」
「そうだけど」
にこにこと笑いながら、隣に立ったアクアが鷺花の頭を撫でている。どういう関係かは知らないが、特に鷺花も嫌ってはいないようだった。
「君は、いや――君たちはこれから、どうするつもりなのかな?」
「そうね。役目を終えたから――ではないのだけれど、これも一つの区切りとしたのならば、私も何かに拘泥することを、一時的にとはいえ辞めるのも手だと考えている」
「へえ?」
「だから、あちこち見て回ろうかと思ってね。そうしたら、アクアも一緒するって言うから」
「なるほど? 留まり続けた君が、旅を始めようというのならば、それを〝らしい〟とでも言えばいいのだろうか」
「どうかしら。私は生まれてこのかた、まともに旅なんてものは、したことがないのよ。楽しみがあるかどうかは、さておき、そういうのも悪くはない」
「君はどこに行っても君のままだ。であるのならばそれは旅ではなく、放浪に限りなく近いのかもしれないね。これは好奇心だけれど、まずはどちらに?」
「二番目。まだミヤコが生きてるだろうから、ちょっと顔くらい見ておかないとって思ったからね。コウノやイザミの縁を辿れば、たぶんあそこだから」
「そういう手管は、さすがだよ。じゃあ一つだけ――もしも、コウノに出逢うことがあったのなら、話をしようと、それだけ伝えてくれないかな。逢えなければそれでいい」
「ん、そのくらいならね。あんたはセツのところへ?」
「うん、戻るよ。――はは、もう戻ることはないだろう、なんて偉そうなことを言って出てきたからね、言い訳を考える時間はなさそうだけれど、どうにかするよ。世界の変化を肌で感じるのは良い経験になりそうだけれど――」
きっと今のエンデでは、気が抜けてしまっていて、感じるだけで経験にはならないだろうから、変わってからの世界を見ようと、そう思う。
「この場所は?」
「残しておくわよ。挑む目標があるのは、悪いことじゃないでしょ」
「そんなものか」
小さく苦笑しながら、やはり、視線は空へ。
何もない、空へ。
「後悔?」
「――いや、そうでもないよ。たとえば感情論で言えば、俺はあの場を拒絶していたし、嫌悪していた。壊したいとは思わなかったけれど、エルムレス・エリュシオンはそれを諾として、壊したんだ。かといって、名残惜しいと思えるほど、滞在したわけでもない」
それでも、考えたくはなる。
「終わってしまった物語を読み返すのは難しい――そう、言われたんだ、彼に」
「それが〝私たち〟の物語ならば、その通りよ」
「どれほどの時間が経過すれば、浮遊大陸なんてなかった……そんな世界になるのだろうかと、そう思ってね。そして、なってしまっても良いのかと、そんなことを考えていたんだ」
「そうねえ。風化することを前提とするのならば、せいぜい二千年ってところでしょうね」
「はは、それは経験からくる言葉かい」
「そうよ」
「うん、だろうね。それでも俺は、今この時点では、
やはり、そういう意味合いでは、虚脱感が近い。
「満足なんて欠片も抱いていないのに、人はこんなふうになるものか――」
「次の一歩が見えなくて、今の一歩があるのに、前の一歩が見えなくなれば、そうなる」
「――ああ、なるほど。そうかもしれないね」
「自己把握も?」
「どういう状況か的確に判断を下せるのならば聞くよ。ほかでもない鷺城鷺花の言葉ならね」
「〝混乱〟」
「そう見える?」
「適切な表現だとは、思っているわね。わからなくはないけれど」
「そうかい? その見解を聞いた俺が落ち込むのを見たくはないかな」
「……、策士が一番気を付けておくべきことって、知ってる?」
「想定外の事態」
「その通り。だから本当の意味での策士――私は一人しか、大昔にいた一人しか心当たりはないけれど、その人はまず、想定外の事態を想定した。これは当たり前のこと」
「だろうね」
「ただ――その人の凄いところはね、想定外が起きた時に〝驚く〟自分も、想定して、覚悟していたのよ」
それは状況そのものではなくて。
状況を見た時に動じた己自身のことだ。
「まあ、何が恐ろしいかっていうと、そんなことは彼が策士として動いていた間、ただの一度もなかったってことだけどね……」
「凄まじいな――大きな策は?」
「三回だけ」
「どんな化け物だい、それは。言い換えれば、三度しかやらせてもらえなかったんだろう? 他者の警戒というよりも、周囲がよせと、お前が動くような事態にはしないと、そうやって動いたんだろうし……」
「そういうこと。そして、――そういうことなのよ、エンデ、あるいはヌル。どれほどの想定をしようとも、突発的な事態は訪れて、それへの理解が追い付いても、己が追い付けるとは限らない」
「そこに生じるのが混乱……か」
「前へ進むのか、足元を見るのか、後ろがあるのかないのか、確認ができたところで、決断はすぐにできるとは限らない。典型的な心身の不一致からの混乱ね」
なるほどと、思う。誰でもない鷺城鷺花からの見解ならば、それを否定したところで、どうして水は流れるんだと小川に向かって問答しているのと同じだ。
「ずっと、俺は進んできた。しばらく休むことくらいは、まあ、許してもらえるだろうし、俺自身も許せるだろう。〝次〟がもしもなかったのなら――」
その時は。
「――フェイに逢って、約束を果たすよ」
そうならないことを祈って、エンデは足を動かす。
「行くよ」
「ん、そうなさい。門から外に出れば、セツのところへ直通よ」
「ありがとう。ああ、そうだ――君たちの旅に、喜ばしい何かが訪れることも、祈っておくよ」
「次は?」
「――わからない。今はそう、思うことにしておく。次があるとも、ないとも、そんなことを考えたところで、俺は〝停滞〟してしまいそうになるからね」
良い皮肉だと、声を立てて鷺花が笑っている。けれど振り向かず、やや疲れた足取りで、エンデは門へ向かった。
この場は、かつてVV-iP学園と呼ばれていた、最後の砦。
そこへの興味はなく――ああ、そうか。
今のエンデは、興味の向く先が、定まっていないのだ。
ただ今は、深い眠りに落ちたい。何も考えずに埋没したい。
かつての揺り籠の中で、それを彼女が許してくれるのならば、どうか。
どうか、束の間の休息を――。
「はは」
笑う。
これから逢うのに、まだいないのに、返答が聞こえた気がした。
――甘えるんじゃねーよ。
「やれやれだ、気が重いねえ」
本当にその答えが返ってくるかどうか、確かめに行こうじゃないか。
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