08/22/17:00――オボロ・大きな壁
いつ以来のことだろうか。
思い返しても記憶にないのならばそれは、きっと孤児院から売られ、槍使いと共にいた時間にあったのだろうし、少なくとも軍部に入ってからはなかったはずだ。
戦場は常に地続きである。
結論から言ってしまえば、軍人は全力で行動を起こしてはならない。何故ならば〝次〟があるからだ。それこそ、ベースに戻ることにすら力を使うことになる。もしも、全力を尽くしたのならば、尽くせと言われたのならば、それは死ねと命じられていることに等しく、上官ならばまず口にはしない。ことシャヴァ王国軍に限って言えば、全力を尽くせと言った上官は、真っ先に自分がその行動を起こしてしまう。
だからだ。
訓練の中でも、こうして、動けなくなるまで続けるなんて馬鹿な真似を、したことはなかった――。
仰向けに寝転がり、ようやく呼吸も落ち着いてきたが、木木の隙間から見える陽光がまぶしくても、身動きをしようとすら思えないほどに疲労している。一応、周囲の目から逃れるために森の中で倒れたのは僥倖だったが、しかし。
「なんだ」
見つかってしまえば、意味がない。
「珍しいこともあるもんだ」
「コノミ殿……」
躰を起こそうとすれば、肩、肘、手首などの関節から力が抜けていくのがわかり、地面を触れただけで、やめた。会話はできるので、問題はない。
「どうかしたか」
近くで足を止めたコノミは、いやと苦笑してから煙草を口に咥えた。
「――うちの両親に、何かされたか」
「はは、いえ、直接的には、なにも」
そう――間接的なものだ。
庭で一人、鍛錬を行っていた時に、人がくる気配を感じて止めた。それは隠れている誰かを見つけたというよりも、隠れずにただこちらへ向かっている様子だったので、来客かと思ったのだが、そこに現れた男女二人は、見た瞬間に槍を構えるのではなく、脳が警告を発して最大限の〝逃げ〟を打つための隙を見つけるため、警戒に入った。
突破しようだとかは思いもしなかった。槍を構える時間だけ無駄だとすら、それは自己否定にも繋がるようなことも、口の中に広がった血の味と共に、考えさせられ、しかし。
「四人――でした、自分に見えたのは」
女性のほう、刀を佩いた、つまりイザミの姿が四つに見えた。その四つは同じ姿勢で、同じ構えをした。居合いの姿だ、そこまでは非常にゆっくりと感じるほどで、ともすれば遅いと、そう感じたくらいだ。
けれど、次に気付いたのは、その四つが全て自分の背後に行った時だ。通り抜けたと感じた時、オボロは自分の視界に誰もいないことに気付き、慌てて振り向けば。
捉えていたはずの本人が、柄尻に片手を置いた姿勢で背中を向けていて――何よりも。
怖かったのは。
その隣に、男の姿も確認できたことだ。
「予測というか、攻撃の意図は四つでした。しかし、それは意図です。自分には〝本人〟を除外して四人だと、認識できていたはず……なのですが」
「……」
「搖動に使われたのか、紛れたのかもわからないまま、自分は〝死んだ〟のでしょう。未熟さを痛感させられました」
「オボロ、確認だ。お前が二人を視認してから、お袋が四人に増えたまでに、どれくらいの時間があった?」
「……? 見てから、でありますか? 数秒……おそらく、十秒はなかったかと」
「――そうか」
舌打ちが一つ、コノミは視線を逸らすようにして難しい表情をした。
「それが、どうかしたのですか?」
「わからないか? 事前情報はなかった、あったとしても瞳の魔術品ってだけで、それがどんな作用をするかは、知らないまま。その上で数秒だ、冗談じゃない。――見抜かれたんだよオボロ、そして利用された」
「それは……わかるもの、ではないのですか?」
「戦闘を見れば、あるいはな。それも私の話だ、数秒では不可能だろうね」
「……経験でしょうか」
「知識も、そうだろうな。並外れた観察力に、経験……化け物だと一言でまとめりゃ、それはそれで正鵠なんだろうが、抗う道筋は見つからねえよ」
「あのお二人が、コノミ殿のご両親ですか」
「でけえ壁だ、クソッタレと毒づいても何もかわらない。武術家としてのお袋は――人伝だが、あのレーグネンに九割まで出させたとは聞いている」
「九割……? 想像すらできませんが」
「この辺りじゃ敵はいねえと、そういう話だ。もっとも、お袋は親父に勝てた試しはないんだがな」
「上を見れば切りがない、なんて言葉が浮かびました」
「下を見ても満たされることはない、だろ」
「……コノミ殿は、それでも、目指しているのですね」
「そういうことだ」
ずるずると、躰を引きずるようにして、どうにか木に背中を預けるよう、上半身を起こす。呼吸は断然、こちらの方が楽だ。
「差支えなければ、あのお二人について、教えていただけませんか」
「そうだな――」
少し、考えるような間があき、これは主観だがと、断りが入る。
「親父は、先に〝完成〟しちまった人種だ。どう言えばいいんだろうな……もちろん、経験による蓄積なんかもあるから、全部が全部とは言わないんだが、そうだな」
「完成……」
よく――わからない。
何をもって完成というのか、そして、完成とは完結ではないのか。
「成功ではなく、ですか?」
「ん……たとえばだ、ミヤコさんはうちのお袋に楠木を継いだわけだ。一応、楠木を名乗っているものの、それはあくまでも、名残りみたいなもので、現役じゃあない」
「はい、そう聞いています」
「つまり――継承時点で、その継承ってもんがどんな形であれ、成された時点でミヤコさんは一つの区切りとして、終わったわけだ。そうだよな?」
「そうなりますね」
「たぶん、最高潮の時点は、そこだったんだろうと、私は思うわけだ。継承間際、その前後。うちのお袋が追い越す前後が、ミヤコさんにとっての〝完成〟だった――つまり、数字でたとえるのなら、百だった。継承をした時点で、その数字は次第に減っていくと考えてくれ」
「その場合、イザミ殿は、百以上だったと?」
「いや、そいつは違う。お袋にとっては、尺度が違うから、九十だと思っていても、ミヤコさんの百を超えることだってあるさ。まあつまりだ、最高潮の時点を完成と定義して、百だと考えてくれ」
「わかりました」
「で、お袋の場合は、私たちと同じだ。こう言っちゃなんだが、当たり前のように、積み重ねてきた。口癖は〝未熟〟だよ。お袋はいつも自分の未熟と向き合って、どうやればいいのかを錯誤しながら、数字を重ねていく。いつ百になるのかもわからないまま、それでもと鍛錬して、経験して、成長していくんだ」
「……それはそれで、参る話ですよ。自分が見たイザミ殿でも、まだ足りないと、未だ熟さぬと、そう思っておられるのですか」
「その通り。だが、親父の場合は違う。さっきも行ったが、完成が先なんだ」
「既に百で、減っている……と?」
「いや、そうじゃない。たとえば――まあ、私だって半信半疑だが、お袋に言わせれば、二人が出会った十代後半くらいの年齢の時には既に、親父はもう完成していたって話だ。親父はその時点でもう、百だった。そして、今もまだ、何も変わっちゃいねえ」
「――、変わっていない? 百のまま、ずっとそのままで? 成長もなく?」
「そう、成長はない。ただ、経験によって〝確認〟をすることはある。それと――進化に似た、領域を超えることもまた、あるって話だ」
「……?」
「百であるはずの親父は、常に八十だ。〝百になれる〟って証明をずっと手の内に抱きながら、八十で充分に対応できる。これはミヤコさんに聞いた話だが――あれは、親父は、八十も出しちまえば、五神の中でも三人ならば、そう難しくはないってさ」
それは――どういう気分なのだろう。余裕? それとも、落胆? 百を出す相手がいないことへの不満?
もしも、自分ならばどうだろう。オボロなら――既に完成していても、八十の状態を維持していることを、どう思う?
――いや。
違う。
「コノミ殿」
そうではない。
「それはもしや――コウノ殿は、なれるけれども、〝百〟になりたくはないと、そう思っているのではありませんか?」
「それは――……」
ちらりと見上げれば、コノミは腕を組み、瞳を細めて地面に視線を落とした。
「……なりたくは、ない? どうして?」
「理由はわかりません。相手がいなくなる、自分が持たない、持続が難しい、条件付きになる、さまざまなことが考えられます。しかし、百になれることを証明として、もしも自分がその立場ならば――あるいは、デメリットのようなものがあって、ならないようにしていると、そう思えたのです」
「なれる相手を探している……? いや、そういう旅じゃない。必要に迫られなければなる必要もない……と、そうでもないか。オボロ、そいつは私にはない考えだった。参考になる」
「そうであれば幸いです」
「まあ、なる必要がないってのも事実なんだろうけどな。私なんて、さっきやり合ってたけど、右手にナイフ一本で術式なしだ」
「今のコノミ殿が、ですか。……参る話です」
「私がわかるか?」
「失礼ながら、隠していると気付いてからは、多少探りを入れさせていただきました。コノミ殿は今、なんというか、非常に〝濃く〟映るのです。まるで、本来ならば分身のように複数見えるはずのものが、一つに凝縮されているかのように」
「お前の〝瞳〟は、本当に怖いな……」
「はは、そんな観察にしか役には立たないと、自分はお二人に教わった気分ですよ」
「それでも挫折する理由にはならないな」
その通り。
自分の手は、まだ、槍を握っているのだから。
「ところでオボロ、こいつには答えなくてもいいんだが――」
「なんでしょう」
「お前、シャヴァ王国との繋がりは、完全に消したのか?」
「繋がり、でありますか?」
「そうだ」
「そう――ですね」
オボロはあそこを出てきた身だ、戻ったところで一般市民と変わらない扱いになるだろうし、軍部とはもう関係がなくなっている。そういう意味ではもう繋がりはないのだけれど、それでも。
「何度も使える手ではありませんが……一応、元上官には逢えるとは思います。自分の繋がりといえば、そのくらいでしょうか」
「なるほどな。軍部を敵に回すよりも、そっちの方が楽そうだ――ああ、今のは半分冗談な。そういう状況に陥りそうなら、先に相談する」
「はあ、そうでありますか……?」
「以前から、シャヴァ王国の〝動き〟ってやつを、見てみたいとは思っていたんだ。だが、そのために干渉をするとなると、それなりに理由がいるし、私の実力不足もあったからね。――まあ、現実逃避だと言われれば、それまでだ」
現実逃避? ――似合わない。
だとして、それは何だ? 今ではなく、もっと先に、それをする必要があるようなことを、なにか考えている――?
いや、詮無きことか。
オボロがこの国へ来たように、興味を抱くのも自然だろう。ただし、その考え自体は、自分のものと大きく違っているだろうけれど。
「そろそろだな」
「え、……ああ、そうですね」
二人は、空を見上げる。時刻はおおよそ、一七三○時。
定時だ。
浮遊大陸が、これから十五分ほどの時間をかけて、ゆっくりと追加する――。
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