04/02/16:30――オボロ・退役の希望

 上官の呼び出しがあれば、いくら休息日であっても制服に着替えて出頭する。軍帽も当然のように頭に乗せた。長く軍人をやっていれば、呼び出しなど何度もあるので慣れたものだ。

 兵に割り当てられるのは六人十畳の共同部屋。自分のスペースなどベッドしかなく、足を放り出して寝るのが一般的だ。二段ベッドなので足の踏み場くらいはあるが、備え付けのロッカーが場所を取っているので、休日に軍靴を磨くのにも肩を寄せ合うことになる。今から向かっている上官は尉官であるため、当然のように個室で、部屋も広く、以前に行った時には備え付けのケースに酒瓶が並べられていたか。

 上下関係がはっきりしている軍部において、上官の意向に従わない者はいない。かくあるべし、と教え込まれたその制度に疑問を抱く余地など、ありはしないのだ。であればこそ、慣れていても尉官の部屋が並ぶ棟を歩くのは緊張もする。すれ違う時には必ず廊下の隅に寄って、挨拶をしつつも直立を保ち、その姿が消えてからまた歩き出す。これもまた礼儀の範疇だ。

 未だ十三歳のオボロは、あまり肉付きが良くなく、ほっそりとした印象が強い。食堂に行けば初老の女性は、口癖のようにもっと食えと言うし、同じ階級の同僚たちも、あるいは上官ですら、うちの飯はそんなに不味いのかと嫌味を口にするくらいだ。だからといって小食ではない。大食いというほどではないが、食べられる時に食べないと、食べられない時に後悔する経験もあるので、好き嫌いもない。

 また背丈もそう高くないことから、甘く見られるのだろう。実際に若いことを隠していないし、周囲の視線に慣れるくらいには、軍に入って長いのだが。

 ようやく到着したオボロが懐にある角形の時計に目を走らせれば、呼び出しを聞いてから十五分経過。良い時間だろうと思ってノックをすれば、入れと短く部屋から聞こえたため、最後に軍帽の位置を改めたオボロは、中に入った。

 まずすることは、扉を閉めること。そして、踵を鳴らすように直立し、左手を拳にして親指側を胸に当てる最敬礼と共に、声を上げた。

「オボロ・ロンデナンド伍長、きました!」

「休め」

「はっ」

 両手を腰の裏に回し、足は肩幅に開く。そうして前を見れば、客用のソファがテーブルを挟むように配置されており、正面には事務机で書類をしたためる上官の女性がいる。同じ軍服だが、肩付近にある記章は大尉の証だ。

 イリカ・メドラート大尉。

 オボロの直属の上官であり、そしておそらく、軍部の中でもっとも過ごした時間が多い女性だ。というより、最初から今までずっと、直属の上官のまま――階級が上がっても同じだっただけだ。いや、だけ、というには、いささか語弊もあるか。

「休息日に、すまないな」

「いえ、構いません。片付けた仕事も、自分はミスが目立ちました。休むよりも反省をしておりましたので」

「はは、結構なことだ。五日間の任務だ、今日くらい休んでも罰はない。――オボロ」

 呼びかけ、手を止めて顔を上げれば、視線が合う。睨むような瞳だが、その奥には優しさが混じっていることを、オボロは知っている。そして、場合によっては、何もかもを切り捨てるような冷たい瞳になることも。

「軍を辞めたいそうだな」

「――」

 一瞬、どう答えればいいのか、わからなかった。

「……は、まだ報告はしておりませんが、確かに自分は、それを考えておりました」

「何故だ?」

「それは……」

「いや、先の仕事で、何があった。お前の装備だけ補充届が出されていることも、それ以外はお前の言うミスも、報告には上がっていない。結果を見れば十分な働きだ」

「恐縮です」

「何があった」

「……哨戒中、人の形をした、化け物に遭いました」

 一瞬、驚いたように目を丸くしたイリカが、ペンを机に置いて視線を逸らすように吐息を落とす。

「およそ、十六年前のことだ。ある人物が例外的に確保A指定になったことがある」

「確保A……小隊規模の捕り物で、殺害許可でありますね」

「そうだ。いや――それは、結果論だ。対象は二名のみ。派遣されたのは二個分隊だった。最初の予定では、多すぎると考えられるほど、我我は慎重を期した。それは対象が研究していた内容が、海に関わることだったからだ」

「危険対象ではなかったのでありますか?」

「そういう経歴は一切なかった――が、応援要請があって、結果的に一個小隊が全滅した。断片的な情報を重ねれば、武力で圧倒されたのではない。地形を使ったゲリラ戦闘で常に逆手を取られていたのだろう。だが、次の増援が向かった先にあったのは、炎上した森だけだ。対象も死亡したと、記録にはある。私はな、オボロ。そうした〝化け物〟が実在することを、疑ってはいない」

 だから。

「お前の言葉を疑うつもりはない。そして、何がどうあったのかを詳しく聞くこともしない。――怖いからな」

 冗談交じりに笑うが、本気だ。彼女は大尉だが、そもそもこのシャヴァ王国軍の中に、椅子を温めるだけの上官は、存在しない。常に、必要とあれば前線に出るだけの実力を、衰えさせずに持ち続けるからこその、階級だ。そんな彼女でも、恐怖はある。

「正直な話をしよう。私の個人的な見解を言えば、お前を失うのは、困る」

「恐縮であります」

「社交辞令ではないのも、わかっているだろう? 私がこの椅子に座っていられるのは、半分は私の実力であり、半分はお前の働きだ。今までずっと、私の野望のために、右腕としてよく働いてくれた。結果として、内部で敵を作ることになっても、だ」

「以前にも申し上げた通りであります、メドラート大尉殿。自分は、誰かの役に立つことで、道具として使われている実感が、生きている価値として得られると」

「それでいて、お前はコウモリと違って、仕える相手を変えたりはしない、不器用な野郎だ。本来ならば曹長くらいにはしてやりたいが――お前はまだ、若すぎた」

「いえ、自分は今の階級であっても、重く感じられます」

「確かに責任は増えるが、な。だがなオボロ、付き合いは五年以上になる。最初は使い捨てなら幼い方が困らないと思っていた私も、幼さを過ぎて若さを持ったお前に、十は年上の私であってもだ、お前には軍以外の生き方も経験した方が良いと、そう思うこともあった」

 それは――よく、特に老いた上官や、元軍属の人から、言われていた。若すぎると。軍に骨を埋めるには、まだやることがあるだろう――と。

「だからだ。お前が軍を辞めたいと耳に挟んだ時、それは同僚がお前を蹴落とすための告げ口だったかもしれないが、それでもだ。――ようやくきたかと、私は覚悟を決めたよ」

「――自分は」

「迷っては、いないんだろうな」

「は、迷いはありません、マァム」

「それでいい。だが、軍を辞めてどうする。まさか、いじめに音を上げたのか?」

「いえ……〝化け物〟に、道を示されました」

「――そうか。その道とは、なんだ」

「それはまだ、わかりません」

「わからず、どうする」

「国を出ます、メドラート大尉殿。自分は槍を片手に、ウェパード王国へ行こうかと思っております」

「国を出るのか」

「はい。留まっていては、面倒をかけるかもしれません」

 それについては考慮しなくてもいいがと、椅子の背もたれに体重を預けたイリカは、そうやって他人を含めた動向を気にするから、いいように使われるんだと苦笑する。使っていた当人なので、口にはしなかったが。

「ウェパード王国が、我がシャヴァ王国にとってどういう立ち位置か、わかっているな?」

「は――非常に厄介な均衡であることは、理解しております」

「そうだ。今のウェパード王国は貿易拠点として、流通そのものを担っている。もちろん、その拠点を手に入れることでの経済効果は、軽く見積もるだけでも、五百年は有利になるだろうことは誰にでもわかる。だが、手が出せてはいない」

「自分が聞いた限りでは、攻め込むことはもちろんのこと、敵対もしていない、とのことでしたが」

「そうだな。敵対しているように見せていて、良好な関係は築いていないが、しかし、争いにまで発展することは避けている。ウェパード王国は、癪な話ではあるが、それだけ懐が広い」

「懐でありますか」

「ここ数年間、入れ替わりで三名の偵察が出されている。――密偵と、そう呼ぶべきだろうが、ウェパード王国にとっては〝お客〟でしかない。事実、立場が発覚したところで問題はなし。盗んだ情報そのものに価値はあったが、そもそも相手側は隠してすらいなかった。その三名は情報を渡したあと、ウェパード王国へ行くと国を出て、帰ってきていない。まったく、なんの冗談だと呆れるところだ」

「懐柔された、のでありますか?」

「いや――違うな。その関連も詳しく聞き出したが、言葉に詰まることもなく、つまり情報を隠すことなく話した。その上で、あいつらは、あちらの居場所を好んだと、そういう結論に至った。まるで麻薬だ。それがないと生きていけないと思わせられる。だがこの劇薬は、肉体ではなく心に影響するものだ。下手に囲えば、面倒が起る」

 だったら、逆に取り込んでしまえばいい――のだが。

「厄介なのは、ウェパード王国軍の錬度だ。我我のように戦闘を前提として、戦場を身近にし、時には荒事を引き起こして利を得るのと違い、あくまでも連中のやることは妖魔からの護衛や、防衛戦。半年に一度、小競り合いがあるかないかといったレベルでしかないのにも関わらず、騎士団の錬度は我我に近しい。衝突した際の損害規模の計算は年に一度行っているが、勝ち負けを度外視したとしても〝国家〟そのものが建て直せるか否か、といったものだ――いや、すまん、これは忘れてくれて構わない」

「いえ、これから自分の目で確認する際の参考にさせていただきます」

 そうかと、頷いた彼女は、立ち上がって机の前へ――オボロの前に立つ。視線を上げなければいけない背丈の差は、彼女が高いというよりもむしろ、オボロがまだ低いのだろう。

 何かを言おうと口を開き、しかし、一度それは閉じられる。なんだろうと思っていると、イリカは苦笑して一歩下がり、机に軽く尻を乗せた。

「――未練だな」

「は、……未練でありますか……?」

「不思議か?」

「いえ、どのような意味なのか、よくわかりません」

「はっきり言わんとわからんか。貴様は私のものだ。誰がなんと言おうとも、私の部下であることを、誰に譲るつもりはない。だがなオボロ、であればこそ、今この瞬間に私が、お前の軍帽をこの手に取ってしまえば、お前は私の部下ではなくなってしまう。それが今になって惜しいと、そう思えてしまう」

「恐縮です、大尉殿。しかし……自分は、それほど優秀な兵隊だとは思っておりません」

「そうかもしれん。だがなオボロ、お前の代わりなど、どこにもいない。オボロ・ロンデナンドという人間は、お前にしかなれんのだ。人を失えば、取り戻せない。であればこそ、我我は権力ではなく、生き残るために剣を手にする。その剣の一つが、新しい何かを見つけて旅立つのならば、それを歓迎すべき立場の私が――未練を抱き、惜しいと思う。ここに何の不思議がある」

「は……その、ありがとうございます」

 ただの兵隊だと思っていた。自分の代わりなどいくらでもいる、単なる消耗品だ――その考え自体は、間違っていない。王国軍として見れば、なんら変わらぬ評価が個人に対して突き付けられる。けれど、イリカ・メドラート大尉個人としては、直属の部下として、想いもあったのだ。

「その」

 迷いは、もうない。ただ、少しだけ戸惑いが生まれてしまって。

「――自分は、メドラート大尉殿に恩を返せたのでしょうか」

「お前はよくやってくれた。最初に言っただろう、私がこの椅子に座っていられるのも、その半分はお前の功績だと。恩を返せていないのは、私の方だ。そのための未練だ。手放すことが惜しいのではない――返しきれないものを持ってしまったが故に、悔やむのだ。お前に自覚がないのならば、尚更な」

「申し訳ありません、マァム」

「謝る必要はない」

 軽く瞳を閉じたイリカは立ち上がり、今度は両手で、オボロの軍帽を手にした。

「――オボロ・ロンデナンド伍長」

「はっ!」

「貴官の退役を認める。今日中に荷物をまとめ、以降三日間は街に滞在し、連絡がなければ好きにして構わん」

「諒解であります、マァム」

「オボロ、これが最後の命令だ。もし戻ってくることがあれば、私の元へ帰ってこい。お前の席は、必ず、私が用意しておく。だが戻らないのならば、それに越したことはない。以上だ」

「はっ」

 一歩後退したオボロは、左の拳を胸に当てて敬礼をする。

「お世話になりました、メドラート大尉殿! オボロ・ロンデナンド伍長、これより最後の命令を遂行します!」

「ご苦労。――元気でな」

「はっ、ありがとうございます!」

 六年だ。

 長いとも、短いともわからない時間だったが、世話になったのは確かで、新しい一歩を踏み出す時、何かを捨てなくてはならないのも、世の定め。古巣を発つのならば、それは新しい門出だ。

 ――それでも。

 ここから先は、一人だ。同僚も上官もいない道を、歩いて行かねばならない。

 申し訳ない気持ちと、惜しい気持ちはオボロにもあった。けれどそれ以上に、真っ白で見えないここから先のことに、胸を高鳴らせていたのが、事実である。


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