空歴441年

03/24/20:00――オボロ・おぼろの月夜

 その日の真月は、もやに包まれたかのよう――。

 姿こそ確認できるものの、フィルタを一枚介したかのように明瞭ではない。どこか隠れ切れていない月光の世界は、見なくていいものを隠してくれているようで、オボロ・ロンデナンドは昔からこんな夜は、野営の見張りを買って出てでも、ずっと空を見上げたくなる。

 空を見上げている時の心情を、言葉にすることは難しい。いつか同じような光景を見たかもしれない、なんて回顧もさることながら、やがて雲に覆われて見えなくなるか、それとも晴れて姿を見せるのか、そんな先のことを考えているわけでもなく――いや、そうした考えがあったとしても、それだけではない、というのが正しいのか。

 原初に還れる気がする、なんて想いもあった。やや高くなった湿度が躰にまとわりつけば、水の中を幻想させられる。軽い風が吹くだけでも体温を奪われる環境の中、それに抗おうと己の波打つ鼓動を意識すれば、今ここに自分が在るのだという錯覚に囚われ、おいと同僚から声をかけられれば我に返る。

 その、繰り返しだ。

 今までもずっと、そうやって、こんな真月の日を過ごしてきた。

 五歳の頃に孤児院から売られて二年、シャヴァ王国軍に入って六年――ずっと、変わらない真月の姿を、毎夜確認するのは、習慣だったけれど、いつも同じ場所で確認できるわけでもなく――こんな、いつもの朧月の日なのに、化け物と出遭ってしまうことも、ある。

 夜間の哨戒中に仲間とはぐれてしまったのに気付いたのは、十五分も前のことだ。空に浮かぶ僅かな白色に包まれた真月を見上げていたのが原因だろうけれど、それだとてほんの数秒のことでしかない。敵地も近いことから、言葉を交わしていなかったのも原因で、この土地に慣れているのが、一番若いオボロだという現実に、同僚がやや反感を抱いていたのも、一因にはなるのだろう。それでいて哨戒部隊の中で階級が一番高いなんて状況が初めてだったオボロにも、やはり原因はあるのだけれど。

 森の隙間から差す月光を浴びて、その男は真月に臨んでいた。

 見上げていた、と表現できなかったのは、それ以上の何かが、男の気配と共に在ったと、それが錯覚であったところで、オボロはそんな確信を抱いた。思わず小盾を含んだ行軍用の軽鎧であることも忘れて、己の得物である槍を、両手で構えたほどだ。

 気付いてから、構えた。それでは遅いとわかっていながらも、そうせざるを得ない。神秘性に息を呑むというよりもむしろ――静謐さが、恐怖を増長させる。ここはまだ戦場ではないが、国境に近く、いつ戦場になってもおかしくはない場所なのに、その男は、両足がついている場こそが己が領域だと言わんばかりの態度で、真月に臨んでいたのだ。

 民間人の可能性など、最初から考慮しない。だが、それと同時に、敵である可能性も排除していた。もちろん、味方であるなんて、あるわけがなくて。

「――良い夜だ」

 ぽつりと、独り言のように漏らされた言葉で、現実が直視できる。オボロは弾かれるように左足を軽く前へ出すと共に、左手に持った小盾を前面に持っていき、右手の槍は強く握ったまま引く――半身、視線は男を捉えて離さない。

 やや希薄とも思える存在感。消えてしまいそうだったと、声をかけてくれた同僚が言っていたのが、よくわかる。きっとそれは〝現在〟を意識していないからだと、場違いにも思いを抱く。

「そう思わないか」

「――っ」

 言って、男がこちらを見た瞬間、一気に背中を張り付かせるような汗が浮かんだ。

 ――勝てない。

 言葉にすれば簡単であればこそ、その事実は否応なく痛感させられる。確信だ。オボロは男に背を向けた瞬間に殺されることが自覚でき、状況を打破するために前へ進んでも殺されることを理解させられた。その理由こそが、今までオボロが生きてきた技能であり、基本とも呼べる技術なのだが――圧倒的だ。

 そうだ。

 手数が違いすぎる。

 たぶん、一手と呼ばれるものの差だ。

 どれほど早く、どれほど強く、何をしようとも、その刹那の間があれば、男は軽く五手は行動できる。そういう〝意図〟が、オボロには見えた。

 圧倒されたのならば、まず呼吸を意識する。逃げられないのなら、挑むしかないのだ。呼吸、鼓動、己が生きていることの自覚から始め、状況に対応するしかない。

 けれど、ふいに圧力が消えた。何故とは思わない。好機だとも考えない。消えただけで、男が目の前にいるのは変わらない現実だから。

「装備からして、シャヴァ王国軍だな。ちょうどいい――」

 声は呑気に、ただ率直に届く。ただそれだけなのに、どうして、この男はどんな状況、どんな場所でも、〝こう〟なのだと、そんな確信が抱けてしまうのか。遭遇して間もないというのに――どうかしてるのは、相手か、己か。

「――〝一番槍〟なんて呼ばれている野郎がいるらしいと、小耳に挟んだ。どういうやつか、お前は知ってるか?」

「……」

 呼吸はやや早く行われている。粘ついた唾液まで意識すれば、声は枯れる。だが、返事を求める男に対して。

 逡巡は早く、オボロは口を開く。この男は敵ではない。だったら警戒そのものも必要ないとも思えるが、しかし、それは間違いだ。男が何を望んでいるのかも定かではない上に、生存本能が警戒を呼び起こしている。つまり、警戒は正解なのだ。

 ――逆に。

 きっとこの場において、正解は、それしかないのかもしれない。

「自分が」

 だから、言う。

「そう、他の者に言われている」

「へえ――だったら、納得だ」

「――」

 納得? なるほどと、頷ける? こんな若造を前にして、誰しもが、手合せをするまで、あるいはした後であっても、なんでこいつが一番槍なんだと、先陣に立って口火を切れるのだと、疑問を浮かべるのに。

「もったいねェなァ、軍属にしとくにゃ惜しい。まだ早かったと言うべきか」

「……」

「俺にはなれねェし、俺に挑むのも、ちょいと難しいが――武術家として生きるのも、面白いとは思うんだがなァ」

「――武術家?」

「俺の言ってる武術家は、きっとお前が見てきた野郎とは違うンだろうぜ。そして、武術家とは俺のことだ」

 正面を向いて、顔を合わせる。袴装束の男は自然体のまま、そう豪語して、言い切って、口元に笑みを浮かべた。

「今日は良い夜だ――」

 意識を一切逸らしていないのにも関わらず、男の左手にはいつの間にか、一本の槍が握られていた。

「一番槍。もしも、お前が武術を知りたいと願うのならば、ウェパード王国へ行け」

 オボロは返事をしない。そもそも、どう答えたらいいのかもわからないし、その視線は男の持った槍に向けられている。

 冷たい、槍だ。水というよりも、氷に近い気配がそこに在った。

「そこで俺の――レーグネンの名を出せば、国王に逢える。武術を知りにきたと言えば、お前はきっと、間近に見ることもできるだろうし、あるいは、お前が武術家になることも可能だろう。……と、ここまでは、一番槍を見たら言おうと思っていたことで、ここから先が、今日の真月に免じてのサーヴィスだ」

 いやと、男は苦笑して首を振る。

「たまにゃ〝海氷柱うみつらら〟を使ってやりたいッて理由の、後付けだな。安心しろ、お前の読み通り俺は敵じゃねェし、お前の仕事にゃ関係がねェ。だから俺はお前を殺さねェし、殺されるつもりもねェ。どうせ、ことが終わるまでお仲間は気付きやしねェだろうし――だから、まあ、そんな理由でいいだろ」

 どうであれ。

「見てやるから、来い。俺が〝槍〟ッてやつを、ちょいと見せてやる」

「――」

 深呼吸をする。

 わざと男から意識を逸らして、あろうことか目を瞑って、オボロは深呼吸を二度行った。油断ではない、あえて警戒を外して己を再確認したその行為は、つまり。

「訓練の手合せと、そう考えてよろしいか」

「おゥ」

 ならばと、小盾を外したオボロは、重心を落として両手で槍を握った。

「――胸を借ります」

 わかってるじゃねェかと、そんな言葉が耳に届いた直後には既に、視界一杯に広がった槍の先端が、目の前にあった。極限の状況下で、ひどくゆっくり進む現実の中、予備動作もなく十メートルの距離を投擲したのだと理解し、避けられない自分を確認してしまう。それでもと、強引に上半身を逸らすようにして時間を稼げば、自然と視界が広がることになり、投擲した本人が追い付いて、槍を握るのが見えた。

 見えた。

 つまり、眼前で、止められた。

 穂先が消える――風が、水気を伴って背後へ流れる。盛大に飛沫を上げるような激流ではなくて、溜まりを避けてゆるやかに流れる小川のように、するりと抜けた。

「――はっ」

 二秒、無意識に止めてしまった呼吸が再開すると共に、躰を覆っていた鎧が音を立てて砕けた。

 もしも鎧がなかったら致命傷だった? ――否だ、そうではない。

 硬直してしまった躰を強引に動かして、振り返れば、槍を肩に乗せた男が、こちらを見ている。速すぎて対応できなかった己の未熟さへの後悔は、先送りしておいて。

「槍を扱うのに、鎧は邪魔だろ」

「――」

「ちなみに今の一連の技を〝露飛沫つゆのはじき〟なんて呼ぶ。最初の投擲で小川にしぶきを上げさせて、続く線の攻撃でしぶきの全てを弾くのが、習得方法だ」

 からからと、砕かれた鎧が地面に落ちる。残ったのは行軍用のブーツに、上下が一体化した作業着に似た服だけだ。文字通り、身軽になって、けれど握った槍の感覚だけは、ずっとある。

「――いいか。技とは、積み重ねた鍛錬の〝結果〟だ。技に強さは関係ねェ、どこまで己が扱えるのか、そんな証明そのものだ。そして、武術家として至る〝先〟でもある」

 言葉を重ねる男が、こちらの落ち着く時間を待っているのだと気付いて、肩から無駄な力を抜いて、改めて向かい合う。けれどその言葉が、時間稼ぎには聞こえない。実際に技を見せられたオボロは、そこに、経験が含蓄されたものだと、理解できた。

「槍の極意は〝壱の槍〟だ。かつては一ノ極意〝槍〟とも呼ばれていた。貫かぬ槍はなし――ただの突きこそが最高にして最大の極意と謳う。時間はねェが、可能な限り見せてやる。――武術家の槍を、記憶に刻め。それがきっと、お前にとっての最初の一歩だ」

 一方的な言葉は、選ぶのはお前だと言外に伝えてきていて、そうして、たった十五分、あるいは二十分程度の、オボロにとっては転機となった時間が訪れる。幾度となく死を想像させられ、己の未熟さに打ちのめされて、それでもと、オボロは立ち上がった。

 月を見上げている。

 一人になったオボロは、槍を握りしめて真月を眺めた。

 臨もうとも、挑もうとも思えず、ただ眺める。その時間の終わりは、同僚が発見して声をかけるまで。それを理解しながらも、真月からは、目を逸らすことができなかった。


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