03/12/04:20――リンドウ・朝の鍛錬

 早朝、こっそりと寝床を抜け出した彼女は、外に出てから両手を上にあげ、うんっと伸びをした痛みに顔をしかめると、行為を途中でやめた。まるで斬られたかのよう、右の胸の下から脇腹を通って背中側に傷があるため、いくら治癒力の高い猫族とはいっても、ここ数日では傷が塞がるので精いっぱい。無理な運動をすれば、また開いてきてしまう。

 それでも、やはり数日ぶりの外はいい。無茶をしなければ大丈夫だろうと、ちらほらと見える猫たちの姿を見ながらの、早朝散歩だ。

 足取りは軽く――けれど、歩幅は小さく。

 ぐるりと集落を一周しようかと思って、まずは入り口付近に足を向けたところ、どういうわけか見張りが立っていない。今日の当番はいないんだろうかと思っていると、木の陰になるところに、いた。しかも、あらぬ方向を凝視していて、こちらに気付いていない。

「――なにしてんの、シラヌキ」

「……おう、お前か。ちょっと見てみろ」

「え、なによ」

 いいから、と言われて指の先を、ひょいと覗き込んだら、そこに。

 そこに、リンドウはいた。

 甲冑をつけた人型は、もちろんリンドウの術式である。ただし背の丈をリンドウと同じくらいにしており、その両手に剣はなく、拳が握られていた。戦術パターンはメイが創り上げたものを流用した、訓練相手だ。

「――うわっ!」

 蹴りを避けきれず、両腕でガードしつつ足で大地を蹴って威力を弱めたが、ここは森の中。勢いよく飛んだリンドウは、背中から木にぶつかって止まり、その近くには彼女がいた。接近には気付いていたので、ちょうど良いと思いながら、尻餅をつくよう背中をずりながら、顔を上げる。

「おはよう」

「え、あ……おは、よう」

「うん」

 返答があったことを、素直に嬉しいと思った感情を持て余しつつも、リンドウは表情にそれを出さず、外套の下からいつもの本を取りだして、彼女へ押し付けるように渡した。

「持っていてくれるかな」

「いいけど……」

「ありがとう。もし僕が終わる前に戻るようなら、置いていっても構わないから」

 簡単な防御術式を仕込んであるだけだ。この場にいないのなら、必要ないだろうし。

「う、うん」

 さてと、リンドウは立ち上がる。ここ二十分ほどで躰は充分に温まった。追撃設定を変更しつつも、相手と共に自分のギアを一段階上げる。本格的な訓練の開始だ。

 間合いを詰めたのはリンドウ、それに合わせるよう右のストレートが放たれる。右側に顔をずらして避けつつ、左腕を絡めながら右足を跳ね上げるものの、顔には当たらない。だが、その回避時間を利用して右の膝をそのまま相手の肘に向ければ、組みに対して切る動作と共に、こちらへは蹴りの動きがきた。

 腕を戻す動きに逆らわず、両手を離せば蹴りは避けれる――後頭部から地面に落ちるのを止めるのは地面についた両手、そのまま躰を捻るようにして、伸び上がる二段蹴りは回避される、だがそれでいい。立ち上がるまでの時間稼ぎだ、最初から当たるとは思っていなかった。

 けれど、立ち上がった瞬間に殴られる。こちらの一手遅れだが、額で受け止めて先ほどと同じ動作で左腕を取ろうとすれば、より早く腕を曲げて切られたので、更に踏み込んで――懐に潜り込む。

 かくして、はじき出されたのはリンドウだった。それほど大柄でもなければ、筋肉質でもない。そのため、いくら甲冑を着ていないとはいえ、相手よりは軽く、打撃そのものの強さも負けている。それを技でどうにかするのも手だが、いかんせんリンドウは無手での体術は、仕込まれてはいなかった。

 仕込まれているのは攻撃ではなく、防御のための行動。だからこそ、こうした訓練をしても、さほど怪我を負わずにすむ。

 ――寝技は難しいな。

 やっぱりかと、三十分の格闘の末に、結論を抱く。そもそも力が足りないリンドウは、相手に組み付いて極める、といった行動の方が良いのだけれど、それには速度が足りない。極めたら折る、その流れの途中で終わってしまう場合がほとんどだった。

 そこから更に一時間は、右手に剣を手にした。刃を潰してある市販品であり、強度を重視した訓練用。これは術式で作ったわけではなく、格納倉庫ガレージに入れておいたものだ。

 メイが扱う格納倉庫は〝物品〟という指向性を持たせているため、特に条件付けがなくとも収納が可能な、優れた術式である。それを身近にしたリンドウも、これまでに幾度か試行錯誤をし、それに近づけることができた。最大の問題は容量なのだが、そこを度外視してしまえば、大抵のものが入るようにはなっている。この剣も、その一つだ。

 そして、おおよそ二時間にわたる訓練を終えたリンドウは、相手を消して剣を影の中にしまうと、タオルを取り出して首にかけ、どっかりと地面に腰を下ろす――。

「……終わりか。さてと、仕事に戻るから、お前は水を持っていってやれ」

「え、なんで」

「いいから」

 ほら、と金属のボトルを二つ渡され、文句はそれ以上聞くつもりがないのか、集落の入り口へと彼は戻り、けれど声が届く位置で止まると、両腕を組み、けれどこちらは見ない。その態度に吐息を一つ、意を決して足を前へ出した。

「……水、いる?」

「ああ、もらうよ。ありがとう。それとごめん、随分と待たせちゃったかな」

「べつに」

 そんなことない、と言いながら水を渡し、そっぽを向く。なんだか視線を合わせるのが照れ臭かった。

 沈黙が落ちる。聞こえるのはリンドウが水を飲む音で――それを嫌った彼女が、口を開く。

「いつも、こんなことやってんの?」

「いや、たまにだよ。体力不足を実感したし、やっておいて損はないから」

 ちらり、と見れば額や頬に傷ができている。出血は浅いが、痛みはあるだろう。きっと、見えない位置には打撲などもあるはずだ。

「……旅、してるんだって、聞いたけど」

「うん。あ、でも、荒事は得意じゃないよ。僕は魔術師で、研究する方が主体だからね。ただまあ……親の教育っていうのかな、これも。最終的に〝結果〟を左右するのは体力だって、よく言われたから」

「ふうん」

「……怪我は?」

「まだ運動は無理」

「そう」

 短く言うが、素っ気ないのではなく、肩の力が抜けたのを彼女は見る。それは安心だ。それなのにリンドウは、大丈夫か、心配していた、良かった、などとは口にしない。けれど自身が安堵したのは事実で――。

「原因を、聞いてもいいかな」

「……そう、だね。よくわかってないけど、高速貨物車が街道を通り抜けたあとに、たぶん、金属の破片みたいなものが飛んできて」

「うん」

 そうかと、リンドウは頷く。

「少なくとも僕が……いや」

「え、なに?」

「……誰かが、意図的にあなたを傷つけていたとしたら、僕はきっと、その誰かを同じ目に遭わせたんだろうと、そんなことを思ったんだ」

「ちょっと過剰じゃない?」

「僕は、大切にしている何かを横から傷つけられて、黙っていられるほど大人じゃないんだ」

 自分から、大人ではないと、否定するような言葉が出た。これは彼女が、あまり口には出せないタイプの物言いだ。

「旅人、だって?」

「うん」

「それって、一人で生きてるってことじゃない。子供じゃないでしょ」

「いや、それはたぶん、勘違いをしているよ。旅は誰かに頼らなくては、できないものだ。街に入ればルールを聞いて、宿に入れば店主に場を借りる」

「でもそれは、お金を払ってるから当然じゃないの?」

「違うよ。当然のものなんてない。これは好意の交換だから。対価そのものと、人と人の在り方は、たぶん、別物なんだろうね。誰だって、きっと一人で生きることなんてできない」

 少なくとも僕はそうだね、なんて言われれば、反射的に言おうとしていた子供じみた反論も、でなくなる。それは彼女の話ではなく、リンドウ自身の話でしかないのだから。

「――、……誰かきたみたいだ」

「え?」

 ゆっくりと立ち上がったリンドウが水を飲み干し、彼女を横切るようにして前へ出ると、そこに。

 小柄な少女が、いた。やや短いスカートにシャツ。赤色のネクタイ。雰囲気そのものは自然だが、やや目つきは悪いか。けれどリンドウは、ちらりとこちらに視線を向けた少女の行動だけで、足を止めてしまう。

 いや――止まってしまった、が正しい。

「おー」

 少女はまず、入り口の番をしているシラヌキへ声を放った。

「クーンに逢いにきた。通してくれ」

「お前、名前は? まずは窺いを立ててからだ」

「だったらオレがきたことをまず伝えろよ」

 偉そうな態度、と小さく彼女が呟くのが聞こえ、であればこそ、リンドウは更に二歩ほど前へ出た。

「――通してあげたら、どうかな」

「おい」

「いや、部外者なのはわかっている。けれど彼女はここにくるまでにあった〝パズル〟を解いてきているし、それは余計な騒ぎを起こしたくない証左でもあると、僕は思う。きっと彼女ならば――そんなことをせずとも、飛び越えられたはずだから」

「へえ……」

「そうは言うがな」

「うん、そうだね。でも……人の形をしているけれど、彼女は人間じゃない」

「なに? 猫族……には、見えないが」

「ごめん、そういうことじゃないよ。彼女は正真正銘の〝化け物〟だ」

「なるほど? てめーは部外者だが、話はしやすそうだぜ。名は?」

「僕は――」

 言おうとして、口を噤み、肩越しに彼女を一瞥してから、少女に向き合う。

「――いや、今はまだ言えない」

「へえ?」

 その拘りがよくわからない。だから彼女は。

「……私は、クズハ」

 言えば、リンドウは頭を掻き、振り返って彼女――クズハに向き合った。

「僕はリンドウだ。よろしく」

「あ、うん……」

 握手を一度、それからすぐに少女へと向き合った。

 けれど。

「……ここ、そんなに拘るとこ?」

「――ははっ、わかってねーな。名乗りに限らずだ、クズハ。リンドウはてめーに対しては、どういうわけか不実を働きたくないらしい」

「どういうこと?」

「誠意を伝える方法なんてのは、そう多くはねーんだよ。話術、交渉の類じゃねーぜ。リンドウだって、必要に応じて名乗りはするさ。たとえば、クーンに対してはもう、済ませてんだろ。けど、てめーにはしなかった。何故か? そいつは、お前の名前を知らねーからだ」

「誰かに聞けば……」

「そう、誰かに聞けばいいだろうぜ。その場合は、リンドウはもうとっくに名乗りを上げてる。だが現実として、リンドウはそうしなかった。誰かに聞くんじゃなく、てめー本人から聞きたかった。リンドウ自身が名乗りたくないんじゃなく――ただ、てめーの名を、てめーの口から聞きたかったから、名乗らなかった。こいつは随分と素直な、好意だろ。女の方が気付いてやった方がいい案件だぜ」

「う……」

 そうやって説明されれば、リンドウ自身が認めなくとも、首から頬へと熱が上がってくる。それほど真っ直ぐ、こちらを見ていて、隠れたところでの気遣いなんて、アキハは今まで、向けられたこともない。

「ま、誠意を伝えて筋を通すやり方だ。勘違いすんなよアキハ、こいつは在り方じゃねーぜ。志の問題だ。生き方の範疇だ――が、オレは面倒だから名乗りたくはねーってのが、正直なところだな。オレがここにいること自体、イレギュラーに含まれる」

 はは、と笑いながら少女は煙草に火を点け、一度ポケットにしまってから、同時に取り出した宝石を、ひょいとリンドウに投げ渡した。

「パズルが面白かったのは同意だぜ、リンドウ。てめーが通った痕跡を含めてな。その中にはオレがさっき作り上げたパズルが入ってる。それで楽しめる時間と、探れる技術が対価だ、とっととメイを呼べ」

「強引だな――」

「問題でもあんのかよ」

「ないよ。何しろ、筋を通してる。対価のつり合いまで見抜けるほど、僕は慧眼ではないからね。ちなみに、さっきから危機的状況だと判断してメイを呼んでるんだけど、なんか嫌な感じがするから断るって、伝えてきてる」

「あのクソ猫……」

 言った直後、少女の姿は消えた。

「――はあ?」

「……これは」

 ずっと、少女のことは気にしていた。相手にも感付かれていたが、無遠慮にも術式で探査術式の応用で探りすら入れていたのだ。そして、それを抜けられた。抜けた――というよりも、消えた。煙草の匂いごと、存在ごと。

 術式の痕跡ごと。

「おそらく、空間転移ステップの術式かな。いちいち顔を見せなくても、中に入ってしまえるってことだ。証明されたね」

「わけがわからん」

「化け物だから」

 ふと、吐息が一つ落ちた。クズハはそこで、両手に持っているものに気付き、リンドウに押し付けるようにして本を返した。

「そろそろ、ご飯。もういくから」

「うん」

 頷きが返ったため、そのまま小走りに去ろうとしたクズハはしかし、左の手首を掴まれて動きを止めた。

「え……――!?」

 驚きが、一つ。

 それは――握った当人であるリンドウが、驚愕、といった様子で目を見開き、停止していたからだ。視線は、自分が握ったクズハの手首。

 どうして驚いているんだろうか、それがわからずにクズハは息を呑む。だが、リンドウはゆっくりと、茫然自失といった様子で手を離すと、その右手を二度ほど握って、視線を落とす。

「クズハ、僕は、あなたともっと話がしたい」

「……」

「今日……いや、時間がある時でいい。また逢いたい」

「わ、わかった。うん、気が向いたら、うん。じゃあ」

 そんな返事を聞きながら、どうしてと、リンドウは右手から視線が離れない。

 ――どうして。

 ここにきて、意識外の動作が多すぎる。今のもそうだ、どうして自分は彼女の行動を止めるかのように、動いたのか。

 わからない。

 自分の中にまだ〝不明〟があることに、普段なら喜びすら覚えて、それを明確にしたいと思うのに。

 どうして。

「――こんなに、不安なんだ」

 ぺたり、と尻を落として仰向けになって倒れたリンドウの呟きを聞いたシラヌキは、若いねえ、と思いながら苦笑した。


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