02/20/03:20――朝霧芽衣・境界越えの結果

 随分とゆっくりなペースだ。よろよろと、お互いに支えるようにして歩く五木夫妻が教師棟に到着したのには、時間を要した。こんな広い敷地にしたのが悔やまれるな、なんて軽口を芽衣が叩けば、まったくだと返答がある。会話ができる程度には、恢復しているようだ。

「――もう、学園内に妖魔はいない」

 教師棟に入ってすぐ、後ろを歩いていた芽衣は断言する。

「鷺城が、最後に手を貸したからな。安心しておけ」

「そうでしたか……――朝霧さん?」

 振り返る気配、けれどそれを確認するよりも前に、芽衣はよろけるように肩から壁にぶつかった。

 ぐちゃりと、嫌な音がする。外見からは察しもつかないほどの血液が、黒く壁を染め、そのままずるずると、背中をこするようにして座り込んでしまう――けれど、小さく首を振った。

「必要ない。行ってこい、五木いつき。しばらく休めば戻る……なあに、連中がそうであるように、私も連中の前では強がらなくてはならん理由があってな。これだけの軽口も叩ける、気にするな」

「……忍さん」

「ええ、わかりました。朝霧さんもご自愛ください」

「そうさせてもらおう」

 視界が霞むどころか、真っ暗になって何も見えない状態で、芽衣は笑う。内部が壊死しているわけでも、障害があるわけでもない――ただ、朝霧芽衣という存在が、不安定になっていて、在り方が変わってしまっただけだ。馴染めば、すぐにとはいわずとも、元に戻る確証がある。

 だからしばらくはこの闇を楽しもうと、そう思って呼吸を意識するが、十五分も経過したと芽衣は気付かず、体感的には〝すぐ〟にその気配と声は届いた。

「芽衣」

「やはり鷺城か」

 目を開く、という動作を意識せず、いつものようにしてやれば、景色が視界に飛び込んでくる。ただし、いやに詳細に映る光景を、意図してぼかしてやる必要があった。見えていても、見えない振りをする――人間ならば、常時脳が管理して、行っていることだ。

「やっぱりって、言うわよ?」

「ああ……境界を二つほど超えた」

 今までは、越えるなと言われていたし、そうするつもりだった。けれどこの状況下では、否応なく越えてしまう。

 二つの境界線を超えた。今の立つ位置はもう、鷺城鷺花が立っている場所の近くだ。

「アイギスも、消えた」

「そう」

 芽衣の躰は今もまだ、分解と〝組み立てアセンブリ〟を繰り返している。本来は人として魔術回路を持ち、術式を行使していた芽衣ではあるが、組み立ての術式そのものである三番目の刃物を所持していたこともあり、行使が過ぎた結果として、存在そのものが魔術回路になってしまった。それが、境界を超えた結果だ。

 簡単な話――今の芽衣は、頭を撃ち抜かれても、心臓を潰されても、死なない。半ば自動的にそれらは組み立てられ、あるいは壊される前に分解され、意味をなさないのだ。

 もちろん安定してしまえば、違う形も見えてくるだろうが、そう成ってしまった事実は変わらない。

 つまるところ、これからの朝霧芽衣は、行動に制限がかかり、過度な干渉ができなくなるわけだ。――鷺城鷺花のように。

「三番目は?」

「――やっぱり、そうなるわよねえ」

「はは、わかりきっていた結果か。まあしかしだ、誰かに譲渡できるよう、その時に私が死なないようにするには、どうすべきか、そんな悩みを抱ける楽しみもできたので、良しとしておくしかあるまい」

「どう?」

「……案外、むなしいものだな」

 境界線を超えるたびに、世界は広がった。位階が上がったと表現してもいい――けれど同時に、人の数が極端に減った。同じ目線でいられる存在がいないのだ、そのために人を感じられなくなる。もちろん、認識はでいるけれど、傍にはいない感覚だ。

「しばらくすれば馴染むだろう」

 言いながら右手を上げれば、服ごとぱらぱらと紙吹雪が舞い、意識すればそれが手のカタチを作る。

「――まだ時間が必要ね」

「ふむ。さすがにそう簡単にはいかんか」

「それはそうよ、境界を二つも一足飛び。――馬鹿かあんたは」

 反論を探そうと頭をめぐらしたタイミングで、鐘楼が鳴った。一度、二度――それは一定のリズムで七つだ。ついでに反論が思い浮かばない。

「なるほど? 野雨のどこにいても聞こえる鐘楼の音色、か。まったく大したものだ。術式構造の設計に署名がないようだが?」

「名前がないもの」

「ならば仕方あるまい。というか、こんなにも簡単に見抜けるとはな……」

「もちろん、芽衣が積み重ねてきた経験も踏まえてだし、そもそも超えるためには、そういうものが必要なんだけれど、間違いなく視界を閉ざしていたのは現実よ。私の苦労が少しは理解できた?」

「ははは、――まったくできんな。苦労は鷺城が勝手に背負いこんでいるだけだろう」

「……どうしてあんたは、そういう反論できないことを、言うんだろうね」

「そう呆れるな。たった一年だが、お互いに重要な時期を一緒に過ごしたと、そういうことなんだろう」

 血が足りんなと言いながら、壁に染みついた自分の血痕を分解しつつ、組み立てて補充するが、その場しのぎだ。状況が落ち着いたら、補給しなくては。

「芽衣、現状で昨日に戻ったとしましょう。どうする?」

「運動場の中央に座っていれば、すべて終わりだ」

 領域で囲ってしまえば、入ってきた妖魔などすべて分解される。ついでに適当に組み立てれば、空中分解するので、なにかを蓄えこむこともない。

「だが、少し残念だ」

「なに?」

「こうなってしまっては――遊びならばともかくも、本気で鷺城と殺し合うことは、もう、できないのだな」

「……そうね」

 領域を超えてしまった先にあるのは、ある種の完成だ。そもそも錯誤して何かを試す前に、なにをどうすれば、どうなるのかが理解できてしまう。つまり、試す必要がもうない――あとは、今在る自分ができることをやるだけの、言ってしまえば単調ないたちごっこが続くだけだ。

 やるとするのならば、あとは鷺花がそうであったように、己に制限をかけるしかない。けれど、制限した以上、それを本気とはもう言えない。

「もっとも、こうなった私に言わせれば、そんな面倒なことは御免だがな。ははは、鷺城の言っていたことがよくわかる」

 本当に面倒だ。複雑な戦闘を構築した先に、得るものがないとわかれば、余計にそう思う。ただし、何かしらの充実感はあるかもしれないが。

「田宮たちは、どうだ」

「後遺症はないわよ。吹雪の腕を信用なさい。復帰までの時間はわからないけれど」

「そうか。――連中が選んだ道とはいえ、酷な役目を押し付けた。心配にもなる」

「だからつみれも、あの子たちを優先して吹雪に任せたんでしょ」

「この体たらくでは手伝いもできんが……すまんな鷺城」

「人避けの結界のことなら、べつにいいわよ。こう言ってはなんだけれど、芽衣がそうなったから、私も対価なく干渉できるんだから」

「対価なく、は言い過ぎだろう。……手を出せないもどかしさは、共有する相手がいれば楽になるとでも、思っているのではないだろうな」

「まさか。こればかりはどうしようもないもの。そもそも、芽衣とは在り方が違うし」

「そうだな。私は刃物として在るが――お前は、魔術師として在る」

「そうね、そんなところかしら。でも――ん、ご苦労様。これで最低限の死守はできそうね。夜明けまでには安定させなさいよ」

「人目のつくところでは繕うとも。鷺城はここににるのか?」

「ええ、それこそ――終わりまで、ここにいるわよ。それが役目だもの」

 まったく、この女は。

 そこまでして役目を強調せずとも――ここに居たいと、素直に言えないのか。


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