02/19/00:40――エルム・その頃の楽園は
仕事という言葉には重みがある。それがどんな仕事であれ、金を得るためのものでなくとも、代償を支払って対価を得る仕組みそのものを仕事と呼ぶのだから、そこに責任の違いさえあれど、いやそもそも責任があるのは当然のことで、その責任にすら本来ならば重さなどなく、比較すべきではないだろう。
シン・チェンは多くの仕事をこなしてきた。槍を持っている時間の方が長かったが、だからといって槍があれば、などと無手の時に泣き言を口にした覚えはない。
誇りがあったのだ。それは己が己でいられる、いわば自己暗示に近い――今でこそそう思えるようになったが、当事はそれを心酔していた。他に頼るものがなく、壊れないためには必要だったのだ。
周囲の人間よりも長い歳月を生きていれば、異物として扱われるのは当然のこと。使い勝手の良い駒のようにも捉えられていた時期もあったが――三十年ほど前に、それは終わった。いや、終わらせたのだろう。
イギリスのこの屋敷に来てからは、随分と暢気に生きてきた。悪いことではないし、シンも前線に立たなくなったわけではない。心に余裕が持てたと表現すればわかりやすいか。
だが、忘れているわけではない。たった一人で――それこそ孤独を感じていたあの時間を、その想いを、願いを、志はまだ胸の内にある。これは仕事ではないが、作戦だ。ならば挑むべきであり、退路はない。
「いざ――」
「……」
バスローブ姿でエントランスで出ようと扉を開けた瞬間、笑顔で怒りマークを額に浮かばせた侍女、アクアが正面を向いていた。目が合うこと三秒。
「ごめんなさい」
真っ先に謝って扉を閉め、泣く泣く着慣れた中国服に袖を通す。バスローブの方がよっぽど動きやすく、一時間もすればまた風呂に入りたくなるのだから良いと思うのだが、アクアは許してはくれない。
「よし」
着替えて扉を開けると、まだアクアがいた。何故か強く手首を握られる。
「え?」
「はいシン様、――いいから来なさい。それから正座です」
「一瞬にして笑顔が消えるのかよ! ちょっと待て、今日は珍しく着替えたじゃねえか!」
「着替える前に何をしようとしていたのか、その弁明はできますか? できませんよね? してもいいですが自白と同じです。さあ行きますよ、まったくこの状況でどうして説教をしなくてはならないのですか。まあ優先順位は高いので問題ありませんね」
「もうちっと低くしてくれよ……」
やれやれ、何をしているんだかとエントランスで肩を落としたエルムレス・エリュシオンは苦笑を浮かべる。
「アクア、説教は二時間コースかな?」
「若様。いえ、一時間です」
「じゃあそれが終わったらこっちに寄越して。シンは槍を忘れずにね」
「おう。……いや待てエルム、どうせなら説教を後回しにだな」
「シン様、こちらですよ。はいはい抵抗しない、すぐ終わりますからね」
「一時間がすぐ!?」
引きずられて行くシンをマントの中で腕を組みながら見送る。ここは学生の旅行先にある宿ではないのだが、まああれも恒例行事のようなものだ。好きにさせておけばいい。
そう思って庭に出ようとすると、自然と扉が開く。どうやらシディが庭の手入れをしていたらしい。エルムは顔と胸元のオブシディアンに一瞥を投げて状態をチェックしつつ、侍女の頭に手を当てて撫でる。
「仕掛けは作動してる?」
「はい若様。えっと……うん、だいじょぶ。ちょっと酔いそうなくらい魔力が集まってるんだけど」
「我ながら馬鹿げたことを、と思っていたけどこうなると、あれだね。壮観というよりも他人事に限りなく近くなるよ。ははは」
「いや笑いごとじゃないと思うんだけど……」
「それもそうだね。何しろ津波のエネルギーそのものを魔力変換してこの周辺に集めているんだから」
「これも術式変換するんだよね?」
「さすがに留めておくわけにはいかないよ。何しろ世界の半分以上はある海全体に施術したものだからね」
今、こうして落ち着いていられるのは今まで走り回って来たからだ。時間にしておおよそ三十年、さすがに多くはなかった。ぎりぎりではなかったものの、時間のかかる仕込みばかりが重なったため、手が足りなかったくらいだ。
その成果は今から出る。
「潮の満ち引きとかどうなってるの?」
「自然現象は起きているよ。起きなくてはならない。現実には発生しているけれど、発生時のエネルギーをここへ集めているからね、いわば
「えー? でもあれって確か、自然界の魔力を効率良く時間をかけて集めるものでしょ?」
「だから応用だよ。詳しく聞きたいかな?」
問うとシディは目を輝かせて頷く。侍女としては三女の位置付けにあり、屋敷の管理分担では庭や屋敷全体の手入れを大掛かりにやっている。掃除に関しては次女のガーネもしているが、全体統括をしているアクアもしないわけではない。そのため暇な時間になると地下書庫に潜り込んでいる。この屋敷でもっとも不安定な場所であるし――何しろ魔術書や魔導書まで置いてある――何よりシディは座学としての魔術を好んでいた。
この屋敷にいるのは魔術師ばかりだ。実戦派であればシンが、研究派ではウェルがいる。自動人形である彼女たちにも術式の行使は可能な上、屋敷の護衛という意味合いもあるため戦力にはなるが、三人の中でもっともシディが行使をせず、けれど好奇心を持っていた。
「複合式陣についての知識はあるかな」
「儀式陣の書き方だったよね。中央に意味文字、周囲にまず主体となる目的を記して、外周で補強、最後の部分に発動因子。円形を主体にしない場合でもだいたいこうで、つまるところ術陣は外周から効力を発揮して中央で完成する。複合式は、そこから更に外側に変換作用のある陣を描くことで、本来の目的だった陣を違うものにしてしまうっていう」
「そうだよ。実際には補助的な意味合いが強くてね、複合式を重ねれば効果の増強、意味の逆転、範囲拡大など応用が利く。問題点は中心が必要だって部分かな。僕としてはそれを逆手に利用したりもするんだけど……まあいいか。さてシディ、広範囲術陣を展開するにはどうすればいいかな」
「うーん、若様やサギ様を見てて前に考えたことあるんだけど、うーん、うーん……角系の陣を組み込んで、延長線上に因子を置けば広がらないかな? こう、拡大図を描くみたいに」
「間違ってはいないよ。さて手段はどうかな?」
問いを投げて思考を誘導してやる――まるで弟子のようだとも思うが、本来の弟子である鷺花にはそんなことをしない。やってみろと目的を与えるだけで、その行為さえわからないように手回しをして窮地に蹴り飛ばす。完全に自発的な思考で至らなければ致命傷にすらなる――それが、エルムの弟子の育て方だ。
だから、こんな優しいのは、やはり長い付き合いからか。本当の娘である
「まずは角部分の先端をリンクさせるような術式を組み込んで……この場合は複合式でいいのかな。んで、えっと接続因子だと魔術品やマーカーが必要で、――あ。拡大させるなら効果範囲が広がるんだし、魔力も余計にいるね」
少しずれているか、と思い簡単な広範囲火炎術陣を空間に投影する。実際には工程が具現可能な術式を使うことで、術式の仕組みを投影しているのだが、同じことだろう。中心には円形で意味文字は入れず、周囲には三重の文字円を作っておいて四角形で囲み、更に斜め配置でひし形を二つ組み込む。これで角は八つだ。
「こんな感じを基本にしてみよう」
「うん。えっと……角が八つ。そうか、角が多ければ手間は増えるけどバランス良く拡大できそ。あ、そういえば昔に
「そうだね。あれは野雨市を歩き回ることである術陣を描き、その縮小したものを別所にて描くことで、リンクをさせたんだね。つまり拡大の逆意図だ。いや正当かな? 先ほど言ったように因子を繋げたんだからね。けれどこれは、言及すれば拡大でも縮小でもないよ」
「……あ、そっか。最初から大きい式陣を、小さい式陣で呼応させただけ」
「あれは式でなはく術陣だったからね。さて式陣との違いはなんだ?」
「術陣は自分の魔力を使ってやるけど、式陣は周囲の環境や他者の魔力を使ってもできる」
「そうだけど、それもちゃんと組み込まないといけないし……あーもうっ、分解可能な式陣を作っといて各地に配置するとかじゃいけないの?」
「それも一つの手段だね」
角形の部分がいくつかに分裂するが、しかし陣としての効力はそのままだ。いくら距離を長くしても、陣それ自体が大きくなるわけではない。ただ陣を隠したい場合などは効果的だ。
「さて、この大規模式陣はイギリスの半分くらいに広がっている。海への影響は別の機構だから別問題にしておこうか」
「イギリスの半分って、かなり大きいし。中心はお屋敷だよね?」
「そうだよ」
「ちょっと規模が大きすぎて、想像もつかないなあ。若様、複合式をどれだけ重ねてるの?」
「主陣式、本来なら三つになる意味文字を抜いた部分がだいたい二百。複合式は五百くらいはあるかな」
「……え? それ、拡大してなくない?」
「していないよ。準備にはかなり時間をかけたし、一つの式陣としては過去にない規模だね。今はともかくも、もしも〝
「で、でも一つの式陣で魔力を集めるだけって作用じゃないんでしょ? 術陣と違って式陣は単一の目的のために描くもので――だよね?」
「その通りだ。だから?」
「だから? ……あ、そっか。魔力を集めるのは過程で結果じゃないんだ」
「その通り。だから目的を達成するために付随するものが多くある。実際に設計図を見ると落胆するよ。ほら、これがメインになる稼動式陣だ」
一度浮かんでいた映像を消して、切り替える。
「……どこに落胆するとこあるんだろ。これだってもう二十くらい重なってるし」
「少し捉え方がおかしいね。これは重なっているのではなく、繋げているんだよ」
「そうなの?」
「そう。複合式は連立させるものだからね。重複式については、まあウェルも思想段階で実行には至っていないから。僕も見せたことはないしね」
「重複って……え? この陣に、重ねて、どうするの? 上書き……じゃないんだよね。でも感覚的には近いのかな。整合性とか取れるものなの?」
「そこが一番の問題だ。連結式にも種類があるからね、言葉の接続詞が多いように。だからこそオリジナリティがある。まあ重複式はある種の壁だからね、破った先がまた広くて大変だけれど、ウェルなら二十年もすれば壁は壊せるよ」
「それでも二十年なんだ……若様もそれくらい?」
「いや僕は物心ついてから三年くらいで壁は取り去ったよ。そこからの方が大変で五年はかかったかな。昔はやんちゃだったの、シディは覚えているだろう?」
「あはは、それはもう。庭の修繕はあたしの仕事だから」
「さて、そろそろ中に入っているといい。魔力に当てられるからね」
「その前に、今回の式陣の全貌を見せてくれないの?」
しょうがない――そう思ってしまうのも、やはり甘いのか。エルムは右手で空気に触れてその全貌、つまり設計図を見せる。それを表現するのならば、おそらく曼荼羅と呼ばれる図が近いか。近いけれど、もっと複雑であり無数の文字が埋め込んであるし規則性を見出すだけで大変だ。いやむしろ規則性そのものが多く組み込まれているようにも見える。
「えっと……なにこれ」
「今回の儀式陣だよ。さっきの言葉に追加をすれば、重複式は五十ってところだ」
「個別の目的のある式陣を重ねて、同じ目的を持たせる……っていうか、大きな目的のために重ねるってことかあ。これって分解すればわかるかな?」
わからないだろう、と思う。一つ一つを分解すれば、それは単に目的のない、あるいは違う目的をもった魔術だ。重複させてこそ効果が発揮できるものがほとんどで、単一で使う用途はまずない――が、それも経験だ。
懐から小石のようなルビーを取り出すと投影した映像ごと内部に組み込み、シディの小さな手においた。
「魔力を通せばさっきの映像が投影されるようにした魔術品だ。好きにしていいよ。何ならウェルに見せてもいい――けど、奪われないようにね。あれは周囲に目が向かなくなるから」
「はあい。じゃあ若様、中に入ってるから、何かあったら呼んでね」
「ゆっくり休むといい。しばらくは暇だからね」
すぐに映像を投影して中に入るシディを笑みで見送り、しばらくしてウェルの声が聞こえると苦笑になる。こんな状況なのにいつも通りで良いことだ。
「順調、か。犠牲を考えればそれはそれで嫌な気持ちにはなるものだね」
己の構想を世界の意志に組み込ませる。それがどれほど困難であろうとも、抵抗しようと決めたのはエルム自身だ。それを受け入れられない人間がいても、ただ除外するだけだ。それを非情と呼ぶ人もいるが、実際には関わらないように配慮するだけで、彼らを犠牲にするわけではない、ないが。
それでも犠牲は出る。それだけの責任をエルムは負っている。
今更、失敗しましたでは話にならない。彼らはエルムたちのように、多くの時間を持っているわけではないのだから。
エルムは、地殻変動における津波の影響を消そうと思った。もしも地震に応じた津波が発生していたのならば日本は沈むし、大陸そのものも極端に削られるのは目に見えている。比例するように人口が減るのは、好ましくない。天敵、魔物との戦闘で殺されるのとは結果としても別物だ。
抗って生きている人間は、どんな状況でも生きて行ける。そうあって欲しいとエルムは思っているし、そこを譲っているからこそ世界に消去されずに今もいられているのだ。制限がなければ、もっと極端なことをやっていたかもしれない。
津波には物凄いエネルギーが発生する。その力を集めて魔力に変換して行おうとしているのは、イギリスの半分ほどの土地を空に浮かせることだ。その辺りの仕組みはかなり複雑化しており、成功したとしても手を入れる必要があるだろうが、いずれにせよ海は死の土地になるのは間違いない。
水に適応する魔物は存在する。能力など使わずとも、存在だけで人には脅威になるだろう。しかし現状、いやこれからも、海で人が魔力を使うことはできない。使った結果こそ残るが、現実にはその魔力ごとエルムの仕掛けが吸い取ってしまう。
――世界を変える、か。
そう意気込んでいた時もあったが、それは不可能に限りなく近い。世界とは器そのものであり、内部の仕組みでもある。世界は変わるものであって、変えるものではない。今のように、せいぜい変える方向性を誤魔化す程度しか、人の身には赦されないのだ。
だから――エルムは、指向性を見せることにした。
人にもできる方法で安定させる流れを見せれば、世界は否定か肯定かの態度を見せる。できるだけ肯定されやすい仕組みを、あくまでも逆らわずに組み立てれば、犠牲を減らせるはずだ――と、その結果が現状である。
今は。
エルムしかできない。
かつて策士として名を馳せた蒼凰蓮華も、嘘吐きの代名詞とすら言われた
ここから先は。
エルムの仕事だ。
「――不安か?」
一階の窓から禿頭を覗かせたシンは、ため息と共に槍を片手に飛び出てくる。またアクアが怒りそうだなとは思ったが言わないでおいた。どうせその機会はすぐに訪れる。
「僕はそんなに自信ありげな行動を取っているかな」
「そりゃあ他所から見ればそうだろう」
「いつだって、論破してくれと願っていたんだけどね。不安はあるよ。あるけど、現在進行形で対策も練ってる。あらゆる状況を想定して――」
あらゆる未来の可能性を予想して保持して。
「……これは、蓮華の領分だったね。あそこまでは無理だけど、僕なりにやっているよ」
「で、俺の役目は何だ?」
「ちょっと捕まえておこうと思ってね」
エルムは上空を指差す。イギリスの空に飛んでいるシルエットは小さく、青色の瞳の輝きがどうにか見える程度だ。
「なんだありゃあ」
「
「……あれを捕まえるのか? 何するんだお前は」
「うん? そりゃ騎乗用だけど。ワイバーンで空を移動できれば今後、何かとやりやすいからね」
「鞍でもつけるのか」
「その通りだけど……なんだい、その顔は。おかしなことを口にしているつもりはないけれど」
「いやな、まさか俺の人生にそんな役回りがあるなんてのは、昨日まで思いつきもしなかったからなあ……」
「今だけだよ。こんな遊び方ができるのはね。ああいや、これからもあるか。まあいいや、屋敷の隠蔽系結界だけ解いて彼を誘導するよ。建物には一切被害がでないよう、防衛系は保持したままだ。内部に取り入れたらすぐに張りなおすから彼は逃げられないけれど、シンに任せるよ」
できればアクアが戻る前に終わらせてくれと言うと、シンは酷く嫌そうな顔をした。
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