02/19/00:10――雨天暁・舞台を降りた二人
夜の空気は年中を通して、その移り変わりも含めて実に面白いものだ。
朝の空気が新鮮に感じるのは夜間に人の動きが極端に少なくなり、目に見えない埃などが大地に溶け落ちた結果、朝にそれを踏み鳴らして掻き分けることとなり、それはまるで夜に積もった雪を最初に荒らすような楽しさに似ている。
夜は逆だ。昼、あるいは夕方まで人の行き来によって混雑して淀んだ空気が、澱みが、活動が低下したためにゆっくりと大地に吸引する様子が楽しめる。騒がしくも落ち着く熱気がゆっくりと冷め、それが冷え切ると途端に寒さを感じるほどの静寂がそこにあり、流れを追っていたのにも関わらず結果だけを感じられて、いつだとて
流れこそ同一であるものの、四季のある日本では時期によって違いがある。たとえば秋はつるべ落としと呼ばれるほどに陽が早く落ちるため、人の熱気もまた慌しく落ちていく。今のような冬は外気の冷たさに無理やり熱を押し込められ、夏は逆に浮かれているようにまだだまだだと漂っている。また春は祭りのように熱気が立ち込めるものなのだが、しかし明日もあるのだからと休んでしまう。
――冷えるなあ。
袴装束の裾に一文字の紋様を入れており、好みの得物である刀を暁は持っていない。そもそも実家であるし、何より夜の空気を楽しむのには無粋だろうと考えた結果だ。暑さにも寒さにも耐性があるのは鍛えた結果というよりは、青年の頃に国外を飛び回っていたからだろう。滞在期間も短かったが、それだけ早く馴染むことを己へ強要していたため、その時に得た癖が今も抜けていない。特に気候に対する順応性は、失われてはいなかった。
思いのほか、人は環境に馴染めるのだと知ったのもあの頃のことだ。それがどれほど過酷であれ、生きることを忘れなければ人は順応できる。そもそも、どれほど甘い生活をしていたところで、過酷な環境に順応できなければ命を落とし終わるだけだ。それでも生きてやると、やはり人は前を向くものだ――いや向いて欲しい、と考えている。
――虚しいじゃねェか。
そう考えているのが、思っているのが、願っているのが自分だけだなんて。
もちろんそれは個人の考察、思考でしかないのは理解している。押し付けようとは思わないし、そもそも口にすることはしない。それでも、信念を持って欲しい。それが生きるということだから。
ただ状況に流されるのを悪いとは言わない。だが流されるのならば、流れる方向をきちんと向いて足を進めて欲しい。己の考えを明確にして、流されていたのだと過去を振り返って思うのではなく、ここで流されて良いのだと認めるよう現実を見て生きる。
その願いは、今まで暁が過ごして来た歳月そのものである。間違いはなかった――はずだ。どうだろうか、その判断を自分で下せるほどに暁は俯瞰することができないが、友人ならばきっと、人の生き様に間違いなんてものはねェと、そう言ってくれることだろう。失敗をしてもいい、誤ってもいい。ただそれを自覚し、背負い、責任を見過ごさずに繰り返さなければ、それはきっと価値のあるものだと。
――価値か。そりゃ俺が決めるモンか?
極論になってしまうかもしれないが、それは自身の価値でもある。己の価値を己で決めるのは傲慢だろう。けれど、それを定めることが誇りに繋がる。矜持があれば良いわけではないだろうが、人が生きるためにはそれもまた必要かもしれない。もっとも、それに固執して柔軟な思考を忘れてしまっては、やはり押し付けや誤解、衝突を生んでしまうけれど。
――衝突もまた、理解にゃ必要だな。
殴り合えとは言わないが、それでも朝の空気が心地よいことを考えたのならば、自ずと夜の空気も感じたくなるように、きっかけは何にせよ必要になる。
だとして、雨天暁の矜持は? かつてと同様に、今も抱いているそれは――雨天の名を継ぎ、師である
――そうじゃねェ。
最初はそうだった。十五歳、元服を迎える前までは。
暁には罪がある。それは、己の母親を手にかけたことだ。
病魔に冒されて苦痛に喘ぐ母親を見るのは、子供の頃の暁にとって日常だった。それがどのような病気だったのかは知らないし、もう知っても手遅れだが、ずっと母親は苦しんでいた。発作のように、それこそ硬直するよう、身じろぎすることが苦痛に直結するらしく、うめき声一つすら痛みが表情に浮かんでいたのを覚えている。苦しさではなく痛みの表情は、笑顔よりも回数が多かったように思う。
もちろん笑顔も覚えている。発作がない時は話もしたし、幼かったとはいえ、忘れられるわけがなかった。
――殺して。
最初は父親に言った。暁の父、彬(あきら)はかなりの技術を持っている。二十歳の頃には雨天静を圧倒し、雨天を名乗ることを赦されていた。それはつまり、ただ雨天家の者として振舞うのではなく、正式に弟子を取って継承させるだけの腕前だと静が認めたことに他ならない。まあ現実として、そんなことはしていないのだけれど。
けれど、彬は拒絶した。できないと――苦しんでいるのを理解し、殺されたい気持ちを配慮し、納得した上でできないと言った。
殺せない。
ただの憐憫や業ではない。確かに雨天の技術は妖魔に向けられるものであって、人を殺すものではない。断じてだ、そうでなくては雨天を名乗れない――が、それを度外視して雨天彬という個人が、感情であり理性であり本能から、母親を殺せないのだと言った。
幾度、苦しみを抱いた彼女を殺そうと思ったのか、彬の口から直接告白されたのを覚えている。幼い暁ですら、その言葉は身に染みた。
だが殺せなかったのだと。殺せないのだと。
だから――頼むと、彬に言われた。初めて父に、頭を下げられて、願われた。
お前が殺してくれと。
そして現実に暁は母親を殺した。その時からずっと、それを罪として背負い、あるいは負い目として、雨天の武術に没頭してきた――それが変わったのは、友人と呼べる人間と出逢ってからだ。
駒としての己に自負を持てたのは。
「暁、お茶」
「おう」
懐かしさに身を浸していると、障子を開けて妻である
「何か考えごと?」
「ああ……まァそんなもんだ。寒いだろ、もっと寄れ」
隣に腰を下ろした翔花が身を寄せやすいよう腰の位置を動かす。こうして二人、縁側でゆっくりとするのも、最近では日課のようになっている。特に何かを話すわけではないけれど、暁にとっては落ち着く時間でもあった。
いや、それは翔花にしても同じことか。愛しい人の傍にいられる時間は、それがどれほど長く続こうとも、嬉しいものだから。
「お前がいて、今じゃ
「……それはきっと、私だって同じよ」
小波翔花にも罪がある。それが彼女たちの望みだったとはいえ、大勢の命が失われて翔花の命が救われたのだから。それを忘れたことはない。始まりであり、前へ踏み出す契機となったあの時間を、そして今に続く因子を、放逐しようにも頭からは外れない。
だから。
きっと、ここまでなのだ。
「これからどうなるか、わかる?」
「わからねェ」
言って、暁は小さく笑う。それを情けないと思ったのは昔の話で、今はそれが当然だと受け止められる。暁は駒としての自負があり、己の領分を逸脱したいとは思わない。何もわからずに振り回されることすら、――ああ。
あいつが指揮を執るならそれでいいと、思えてしまっていた。
「空に紅月はなし、でけェ地震は鳴りを潜めちゃいるが、まだ続く。そのくれェはさすがにわかるけど――なァ」
「……よゥ」
敷地に踏み込んですぐ、
それに、彼は元から感情を偽らない。隠さない。理性と感情は別物だと区切りをつけながらも、行動に伴う感情は素直に吐露する――それも、やはり、昔から変わっていない。
「悪ィ、手土産に酒でも持ってくりゃァ良かったのよな」
暗い雰囲気を振り払うよう、殊更明るく振舞って言葉を放ち近づいて来る。これが別れになろうとも、お互いに俯いたまま終わらせられるような間柄ではない。
彼らは友人だ。そこには対価も代償も必要なく、ただ繋がりを――絆を持つ、友人なのである。
だから。
「馬鹿、ンな間柄じゃねェだろ」
「何言ってンだよ。手ぶらじゃ締まらねェッてことなのよな、これが。つーか暁も翔花も、並んで月見かよ。似合わねェよなァ」
「うるせェ。でもま、昔はクソ爺が大した鍛錬もせずこうしてぼうッとしてたもんだけど、よく鈍らねェと思ってた俺が今じゃこれだぜ? 紫花が昔の俺みてェなことを言うたびに苦笑しちまう」
「そうね。それが嬉しくもあるでしょ?」
「ははッ、見透かされてやがる」
「お前だって似たようなモンだろ。どうせ
「それこそうるせェよ。女の尻に敷かれるのが夫婦円満のコツだぜ? お前ェまでそうしなくても、良かったンだけどよ」
「それでも女は、旦那について行くものよ?」
翔花の一言に男連中は顔を見合わせて笑う。どう足掻こうとも、やはり妻には勝てそうにない。
「雲ってンのか」
地表に激突しそうなほど巨大な紅月の姿がなく、昔からある黄色の真月の姿も見えない。月明かりもない本当の夜間で、いくら夜目が利くとはいえ全貌を把握することができず、空を見上げた暁はぽつりと呟いた。
そもそも夜目と呼ばれるものは、暗い場所で物を見る能力であることに間違いはないが、あくまでも僅かな光ですら見逃さずに視界に収める技術である。五感によって気配を探るのとは別物だ。目に見えているのである。
そもそも人は、意識してそれを切り替えることができる。猫のように、けれど逆に言えば意識しなければ難しく、使わなければ覚えられない。論理的には、日中の目は基本的に見えているのではなく、目に飛び込んで来ている。意識せずとも見えてしまっている状況で、夜となれば前向きに見ようとしなければ見えない。じっくりと目を凝らすように、その延長上に夜目がある。
だが、月明かりもなくまた街灯も一切ない、ましてや室内にすら明りが見当たらないこの状況では、夜目を利かせることができないような状況だ。もちろん、傍に来ればわかるし――三人は、僅かな光を探るようにして見ることもできている。ただし距離が開くと極端に視界が悪くなるのだが。
「真月の魔力は感じるよ。だからまァ見ての通り、雲ってるのよな。雨は?」
「ん……あるにゃあるが、遠いぜ」
遠いだろうよと、訊ねていながらも蓮華は肯定する。
「合図があったッて、全てが連続して崩れ落ちるわけじゃねェのよな」
「猶予があるのか」
「余裕だよ。実際にゃ猶予なんてありゃァしねェ。ただ俺を含めた数人ッてのは、これからどうなるのかを知ってッから、余裕を持ってンだよ」
「つっても、知ってたッてなァ」
「そりゃお前ェの考えよな。どうであれ、俺らはこのためにあちこち動いて来たンだぜ? まァ気に入らねェ尻拭いもあるけどよ」
「ごめんね蓮華」
「翔花が謝ってどうすンだよ。まァ――おゥ、そうだ。預かってた日本刀、銘はなんだったか」
「
「山ほど文句言われたよ。お前ェに言えッての。ありゃ照れ隠しの一種かよ」
「どうだろうなァ。鷺花にはつい数日前に逢ったが、べつに何も言ってなかったぜ。だから受け取ったかも聞いてねェ。アイツもイギリスに居た時期が――俺らと一緒にいなかった時間が長ェから、どう対応していいのか困ってンだろ。翔花も構うし」
「だって、可愛いじゃない」
「俺だって鷺花に甘ェのは自覚してッけどな」
「しょうがねェよ。俺も瀬菜に、なんだかんだで
「そりゃもちろん厳しく――」
厳しく、何なのと翔花が相槌を入れる。
「……してるつもりなんだけどなァ」
「違う意味で甘いけどね。武術家の雨天としては、ちゃんとしてると思うよ」
「だそうだぜ」
「ははッ、翔花はよく見てるよな。つーかこの状況、ある程度は察してンだろうがよ。心配はねェのか?」
何を言ってやがるんだと笑いを滲ませながら、手にしていた湯飲みを横に置く。
「心配くれェしてるぜ。飲み込みは早ェが、紫花はまだ武術しか持ってねェ。かつての俺と同じで回りがあんまし見えてねェンだ。初陣は誰だって苦労するモンだろ? まァ初陣じゃねェけど」
「それでも武術があるだけいいじゃねェかよ」
「あるからこそ、だろ。まァ手出しはしねェ、前向きに生き残ってくれとは思うけどな」
「ンなのは誰だって同じだよ。――死ぬな、生きろ。そうやって他人を気遣いながら、てめェを鼓舞するもんよな。どうしようもねェッてのが実情よ」
「いいのか蓮華」
「悪いよ。悪いが――どうしようもねェ。打てる手は打ってきたが、後は野となれ山となれ。ヒトが作れる物語なんてのは、まがい物だとよ」
「ンで、不承不承で諦めるのか?」
「――冗談じゃねェ」
熱意の浮かんだ瞳を見て、暁は頷きながらも嬉しさを感じていた。諦め、受け入れるなど蒼凰蓮華には似つかわしくない――あってはならないものだ、とすら感じている。こんな友人を持ったからか、暁もまた諦観を抱かない。それがまた原因になることもあるんだけどと、翔花は思う。
「俺ァ抗うよ。どこまでも、いつまでも」
「――おい蓮華、そりゃァいいがお前、我が身ッてやつを少しは考えろ。無茶すんな、なんてのは口が裂けても言えねェけどな、五体満足でいろ」
「おいおい、どうした暁。お前ェに忠告されるたァ俺も焼きが回ったかよ」
「さっきは余裕なんて言ってたけどな、――ねェよ今のお前にゃ。張り詰めた糸だぜ。それが俺や翔花を気遣ってなら余計な世話だ。なァ」
「そうね。その通り」
何かを言い返そうとした蓮華だが、そのまま口を噤んで頭に手を当てる。視線は足元へ、それから空へ。
「――ッたく、しょうがねェよなァ俺も」
「揺らいだか?」
「俺ァいつだって揺らいでるよ。そういうとこはあんまし、見せてねェだけでよ」
「そうでもねェだろ。――おゥ、
「そこなんだよなァ……忍はともかくも咲真がな、無茶しなきゃ良いンだけど。ほら、あそこ娘が槍みてェに一直線なのよな」
「朧月にとっちゃァ褒め言葉だろ。ちょいと向こう見ずが過ぎるたァ俺も思ったけど、朧月の店主が面倒見てるし問題はねェな。槍に関しちゃ――だが」
「でも咲真は、ちゃんと槍を持てるんでしょ?」
「いやあいつの旦那もあるのよな。生き残ってくれとは思ってるけど――ああもう、わからねェよ。こっから先は本当に、何の拍子でどう転ぶかもわからねェ。だから」
だから揺らいでるんだと蓮華は言い、未来がわからないことなんか当たり前だけどよと続けた。
「やれやれ、始まってすぐに愚痴たァ――俺も守るモンが増えたッてことかよ」
「いいじゃねェか」
「いいのかよ」
「ああ」
暁は頷く。
「
「人聞きが悪ィよな。使うたァなんだよ、頼んだと言ってくれ」
「え? 蓮華、頼んだの?」
「いや、まァ……いいじゃねェかよンなこたァ」
ついと逸らされた視線は、どうやら頼んでいないらしい。いつものように強引な手法で了承を得たのだろう。
「行くンだろ?」
「……あァ。だから、謝らねェよ」
「べつにいいさ。俺も――翔花も、それでいい。どうせ問題があるンだろ? ゆっくりと隠居暮らしをさせてもらう。だから気が向いたら、子供連中を見てやってくれ」
「親の手からは、もうとっくに離れてやがるよ。――暁」
おう、とその言葉に応えると、敷地全体に魔術陣にも似た何かが展開された。それを蓮華自身が行っているのか、それとも誰かが仕組みをそこに残していたのかはわからない。翔花も、見抜けはしなかった。
ただ――隔離されてしまう、それだけはわかる。
翔花は人として、隔離されるけれど、天魔と密接に繋がっている暁にはこの溢れかえる水気の影響がある。だから翔花の懸念は己が亡くなった後、そこから長い時間を暁が独りで過ごさなくてはならない、そのことだけだ。
けれど、そこも含めて承知した。
「一つだけ、俺ができる――まァ贈り物よな。受け取れよ」
「何だそりゃァ」
「枷外し。そいつは、お前ェの代償を取り除く手段だよ。俺がしてやれるのは、そのくれェなもんよな」
「そうか。つーかこれは俺の性格ッてのもあるんだけどな」
「知ってるよ口下手野郎。昔と比べりゃ随分とマシになったけどな。――おゥ」
「あァ、蓮華」
「ちィと行ってくるよ。往くぜ」
「往け。ンで忘れるなよ――俺も、そうするからな」
「翔花、暁を頼む……ッてのも、変な話だよな」
「いいよ、わかってる。蓮華も瀬菜を手放しちゃ駄目だからね」
「ありがとよ」
最後に視線を合わせ、お互いに笑う。
――最後、それはこれで終わりということ。次に逢える保障がないのではなく、もう二度と逢えない決別の刻。
それでも、彼らはいつも通りに別れた。そういや忘れてたんだがと、翌日に顔を見せそうな雰囲気のまま。
雨天暁と小波翔花は、物語の舞台から降りた。
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