10/25/06:00――朝霧芽衣・懐かしい部下

 早朝のランニングは日課になっている。もちろん、朝から何かしらの仕事があれば、否応なく仕事を中心に動くことになるため、私としてはやや久しぶりといったところだ。

 アサギリファイルに関連した仕事は、やや極論的な終わりを見せた。芹沢と嵯峨は、現状ではほぼ同じものとして扱われてしまっている。合法と非合法、それは紙一重であり、買う側が合法ならば、非合法も通ってしまうのが今までであった。これを解決するための手段はいくつかあるが、現実的なものとしては、地道な調査で非合法に手を伸ばし、それを売っている人物を特定、摘発の流れなのだろうけれど、時間がかかる上にいたちごっこだ。摘発した人間のポストに、ほかの人間がすっぽりと収まれば、似たようなことを、より巧妙にやる、なんてのは、よくあることだ。

 実際に鷺城鷺花や、ほかの馬鹿どもが、どんな手管を使ったのかは、あまり関わりたくない気持ちもあったので、詳しくは調べていないが――結果として、芹沢企業はその販売経路、それ自体を完全に放棄した。つまり、事実上、これから芹沢製品は、流通に乗らないことを宣言したのだ。

 経営者としては馬鹿としか思えない。英断? いや、事実上の廃業宣言だ。

 私はその時点で、アサギリファイルを譲渡し、公開した。一般公開ではなく、あくまでも狩人専用サイトなどへの限定的なものだが、あぶり出しの効果はまずまずだ。ここ数日は、日常の片手間に、芹沢を間借りしていた嵯峨と呼ばれる厄介な人種の摘発をしていたのである。全てが終わったと言うには、楽観的だが、しかし、七割は片付いたといったところか。

 あー大変そうねー、なんて呑気に言っていた鷺城が気に食わなかったが、あれはもう少し手を貸してくれても良いだろう。そうすれば私の仕事が減ったのに。

 ちなみに、私がベースにしている現在のセーフハウスは、鷺城が住んでいるのと同じマンションだ。一応はサーバルームとして稼働させているのだが、生活ができないほど狭いわけでもなく、私自身、生活に関しては最低限で済ますので、特に文句もない。近くに住んでいるからといって、そうそう顔を合わすこともない――と思っていたのだが、そうでもなく。

 食事を作りすぎたから食べに来い、と呼ばれたのを発端として、良い酒が手に入れば鷺城を呼んだり、服が多くなったので処分を押し付けたりと、なんというか、こういう付き合いをなんと呼ぶのかは定かではないにせよ、顔を合わせることもそれなりにあった。

 ともかくだ。

 そういう事情で、海に垂らした釣り糸の七割ほどを回収し終えた私は、朝にランニングができるくらいには余裕が持てた。正しく言えば、ちゃんと夜に帰宅することができるようになった、と言うべきだ。私も一応、学生という立場があるので、仕事は夜にするしかないし、まあ、夜にやるべき仕事なのだろう。

 しかし、ランニングをしていれば、それなりにほかの人も目に入る。庭の掃除をしている人物や、同じように走っている人。一般公道であっても、この時間帯ならば他人の目をそう気にすることなく走れるのは、ありがたい話なので、似たような考えを持つ者もいるのだろう――と。

 そこで、私は一人の男を発見して足を止めた。

 思い返してみれば、かつての部下で東洋人といえば、こいつにだけは未だに挨拶をしていなかった。それどころではなかったし、逢おうと思わなければ逢えない人種だから、仕方がないのかもしれない。まあ厳密には私ではなく兎仔とこの部下だったので、縁も薄いから仕方ないか。

 一目でわかる。

 そいつは――安堂暮葉あんどうくれはは、己を追いこんでいた。

 二十メートルの全力ダッシュ。走り切れば停止し、ゆっくり歩くように戻りながらも呼吸を整え、開始位置に足がついた瞬間、瞬発を使って初速を出し、二十メートルを駆ける、いわゆるインターバル訓練だ。やや離れた位置で見ていれば、私が来てから二十本を済ませ、歩道に座りこんで水を頭からかけた。ひとまずは終わり、ということらしい。

 車を確認して、私は車道を渡って安堂の方へ、背後から近づくが、足音に気付いたのか、顔を上げる。

「おはよう」

「――、おはよう、ございます、朝霧中尉殿。自分は」

「座っていろ、立たなくていい。覚えているとも、安堂暮葉一等兵。一年間限定の従軍だったが、私も一度面倒を見た。東洋人でもあったからな、忘れるはずがない。随分と追い込むんだな?」

「いえ――」

 ほう、呼吸が戻るのも早いな。このトレーニングも、それこそ日常的にやっているのか。

「自分は、まだまだ足りないと、痛感しております」

 つまり。

「なるほど、そういう〝経験〟をしたか。しかし――そうそう、いないとは思うがな。全てを発揮してなお、足りないと痛感した挙句、基本である体力をつけるために労力を割く、などという結果を見せる相手はな」

「は、それは……」

「いや、聞き出そうとしたわけではない。それと安堂、もはや組織は解体されたのだ。いつまでも堅苦しい言葉を使わずとも構わん。呼びやすいよう、言いやすいよう、好きにしていいぞ。北上には敬語すら面倒だと言ってある」

「申し訳ありません、中尉……いえ、朝霧殿。自分は末席、その上で一年の体験入隊であります。そう気軽にはできません」

「ふむ」

 それは逆だと思うのだが、あえて突っ込みを入れずとも良いか。

 しかし――そうしてみれば、私がまだ大尉ではなく、中尉だった頃の知り合いになるのか。一年で退いたのは惜しいと思ったので一声かけた覚えはあるが……。

「学園に所属しているのか?」

「いえ、自分は卒業しております、マァム」

「ほう……そういえば、そうなるのか。北上が大学校舎に通っているから、その印象が強いかったな。ちなみに私は野雨西の三学年だ。――どうした、笑っていいぞ」

「自分にとっては初耳ですよ」

「ふむ。忠犬は若い連中が多かったがな。素質があるならうちに配属させれば間違いない、とアキラも言っていた。迷惑な話だが。ところで安堂は確か、実家が蘭園を経営していたな。卒業したとなれば、そちらに手を出しているのか?」

「よく御存じですね」

「考課表にも目は通しているし、ざっとプロフィールくらいは頭に入れている。その程度ならば頭もパンクしないからな」

「はい。少しごたごたしたものですから、規模自体は縮小して、自分一人が食っていけるよう調整はしています。時間の空きも随分と作ることができました」

「なるほどな。ああ、いや、すまない。挨拶が遅れたのは私の落ち度でもある」

「恐縮です。しかし、こうして出逢えたのならば、それで良いものかと」

「そう言ってくれるのならば、私も助かるが――しかし、軍を抜け、学園を去り、それでもなお、かつてのように、あるいはそれ以上に、鍛えているのだな?」

「自分の無様は、兎仔殿の無様であります、マァム。気は抜けません」

 なるほど? どうやら一度は、その無様を晒したことがありそうだな。

「ふむ。ところで安堂、こちらにきた私は、ガキを育てていてな」

「育てる、でありますか? 軍式でしょうか」

「ああ。とはいっても、まだ三ヶ月――ふむ? 実戦にはまだ早かったが、まあ程度の問題だろうな。中でも二人は、筋が良い。元より狙撃を好んでいたり、狩人志望だったりするからだろうが、これがまた面白くてな。どうだ?」

「正直に言えば、彼らが羨ましいです。朝霧さん直直に指導を受けて三ヶ月ならば、尚更でしょう」

「ははは、私への過大評価だと思って受け取っておこう。鈴ノ宮を知っているか?」

「ええ、自分は行ったことがありませんが、北上から聞いております」

「そちらで仕事もそれとなくさせてはいる。しかしだ――連中は、軍人を知らんのだ。いや、もちろん私と模擬戦闘をやったこともあるが、あんなものは私にとって遊びだし、連中にとっては刃物を振り回しているだけに過ぎん。そこでだ、安堂。北上にも声をかける、二人で少し手伝わないか?」

「手伝う――で、ありますか?」

「そうだ。なに、やや懸念していることもあってな」

「……、それはつまり、自分や北上が丁度良い相手、というところですか?」

「有り体に言えばそうなる。連中に徹底した敗北を与えたいとして、どうするか? 私がやっては駄目だ、何しろそれは連中にとっても〝当然〟だからだ。しかし、お前と北上ならば違う」

「技術的な話ではなく、精神的な話でしょうか」

「それも含み、だな。一年間の軍属、そして今も欠かさずに訓練をしている」

「であれば、北上一人でも充分なのでは?」

「あいつが一人では、誰があいつを止めるのだ」

「それが自分の役目ですか……」

 ボトルの水を飲み、ゆっくりと立ち上がった安堂は、躰のあちこちを動かして体調を確かめつつ、タオルを首にかけた。

「必要なものはありますか」

「ほう、前向きか?」

「ええ――欲を言えば、朝霧殿に見てもらいたいと、そう思う気持ちもあります。軍人であることが重要なのではない。あるとすれば自分が軍人ではなくなった時が問題だ――と、そんな言葉を最近はよく思い出します」

「ははは、それもまた真理かもしれないな。ところで、武装は所持しているのか?」

「かつて所持品だった229とナイフはあります」

「では、それを持って来い。45ACPはこちらで用意しよう、弾頭はゴムにしておくがな。いつになるかは定かではないにせよ、今日中に一度連絡を入れる。おっと、安心しろ、安堂の連絡先などすぐに調べれば出てくるからな」

「そもそも隠してませんよ、自分は……」

「だったら尚更だ。訓練の邪魔をしてすまなかったな」

「いえ――」

「おっと、そうだ安堂、忘れていた。――お前がこうして生きていることを、私は喜ばしく思う。胸を張れ安堂、貴様の軍属経験は、兎仔の教えは、何一つとして無駄にはなっていない」

「――、ありがとうございます!」

 良い返事を聞き、改めて私はランニングを始めた。いやいや、本当に部下というのは可愛いから困る。特に、自分の手を離れた教え子ならば、尚更だ。おっと、安堂は私が教えたわけではないが。

 ともかく私は、手のかかる教え子のことを考えなくてはいけないわけで。

 正直に言って、佐原と戌井に関しては、あまり強く出れない。以上がない、とここで断言するわけにはいかないが、いかんせん、硬すぎる物質はあっさりと壊れる。狙撃を好む浅間のように、狩人志望であった田宮のように、あまり強いことをやれば、心が折れる可能性があるのだ。おそらくそれは、二人も自覚しつつあることだろう。

 だから重点的に見るのは、田宮と浅間の二人だ。バランスはやや悪いが、役割分担はできる。上手くやれば、それなりに脅威だ。

 上手くやれば。

 ――何が違うのか、と問われたら、私は真っ先に精神的な話をするだろう。おそらく技術面においても、経験においても、田宮であったところで安堂には敵わない。たかが一年の軍属をしただけの海兵隊であっても、ESPをフルに使ったところで相手にはならないはずだ。

 技術ではなく、どうその技術を使うのか、という点において圧倒的に負けているからだ。

 浅間も田宮も、戦場を知っているが、それだけだ。その本質を知らない。

 流れ弾一発で、仲間が死ぬ状況を、知らない。増援を待つ十五分を持たせるしんがりの辛さも知らない。何も知らないところで、形見分けだけを渡された時の悔しさも、知らないのだ。

 自分が生き残るため? そんなのは、最初だけだ。目の前で仲間を失った時の無力感を知っていたのならば、それは本当の意味で、仲間を守る戦いになる。それを知っている者と、知らない者の差は、非常に大きい。

 それときちんと教えてやれれば良いのだが、いやはや、難しいものだ。

 連中にとっては、失ったら終わりだ。そこで足を止めてしまう。それでもやれと命令する上官もいなければ、そんな命令に従う義理もなし――である。

 さて、私がやるべきは場所の手配だ。北上への連絡も忘れてはならない。スケジュールの調整は、私に突発的な仕事が舞い込まなければ、問題はないだろう。

 ふむ。

 こういう時は、あれか――携帯端末を取り出し、私はインカムを耳にかけて、ややペースを落とした。

「……、……おはよう」

『……おはよう。なにこんな朝から。え、なんなの馬鹿なの?』

「ははは、なんだ不機嫌だなラル。どうした?」

『うるっさいなあ。たまにこっちへ戻って、娘の面倒を見てたら、何なのあんたは。監視カメラでもつけてるわけ?』

「ああ、まどかの話か。ふむ、私もあとで調べておくとしよう」

『やめて』

「なんだ、であるのならばお前が情報を開示するとでも?」

『……、……しない。あーもうだから何よ!』

「ヒステリーを起こすな。ここ五日ほどの間、私への仕事は貴様に回すよう手配しておくから、その確認をしておこうと思ってな」

『はあ!? なにそれ、そっち終わったんじゃないの?』

「七割がたは潰したとも。しかしだな、私には面倒を見るべきガキがいる。そのためには完全休養日というのが必要なのだ。わかるな?」

『わかりたくはありません』

「そう言うな、報酬はやるとも」

『報酬?』

「私の奢りで酒を飲みにだな」

『い、や、だ! なんであんたと酒なんか飲まなきゃいけないのよ!』

「我儘な女だ」

『どっちがだ!』

「朝から元気が出てきたようだな。――いや、安心しろ。半分は冗談だ。おそらく仕事は入らないだろうが、こっちもこっちで面倒を見なくてはならない以上、任せる可能性もあるという話だ。わかるな?」

『だったら最初からそう言いなさいよ……つみれも、多少は面倒をかけるかもしれないし、そのくらいならやるわよ』

「ふむ」

『……なに』

「いや、本当にお前は都合の良い女だな、と思ってな」

『うるさいばーか!』

 まったく、朝っぱらから冗談も通じないヤツだ。面白いからそれはそれで構わないが。


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