--/--/--:--――円つみれ・現身の存在

 ミルエナ・キサラギがまだ、ただのミルエナだった頃、一番最初に行ったのは、自己を捨てることと、廃棄することと、そして何よりも自己を確立することだった。

 一見すれば矛盾を感じるようなそれも、当人としてみれば――いや、もちろん当時は困惑したし、それがどういうことかで苦悩し夜も眠れない日が続いたけれど、結果だけ見れば簡単なことで、捨てることこそ自己そのものである、などといった解釈から、一連の流れそのものを受け入れ、すべてが自身であると定義することになる。

 あとになって知ったことだが――。

 そもそも、〝現身〟と呼ばれる魔術式は、憑依の逆の理で構成され、分析を主点としながらも、自身の構造そのものを改変することで、他者の情報そのものを構築する術式だ。術者の技量にもよるが、肉体的接触により相手の肉体構造そのものを読み取り、それを自身の肉体――いや、存在において再現することができる。熟練すれば、相手の魔術回路そのものだとて再現可能なのだから、恐れ入る。

 そのため、術者が、ミルエナが最初に行ったことは、今持っている自分という肉体を捨てることだ。

 最初はストックすることなど、できなかった。相手に変わったら、そのままだ。二度と戻れないし、次に変わるしかない。けれど、ほぼ無意識にそれを使っていたミルエナは、既に自分が誰かの姿であることを自覚していたため、大した絶望感もなく、そこについては受け入れていた。

 けれど、使えるのと使いこなすのとでは大きく違う――それを、師に叩き込まれた。

 ――誰かに変わってるんじゃないんだよ、あんた。

 ――アンタが、ただ変わっただけだ。

 何を当たり前のことを、と最初は思ったが、つまるところミルエナはミルエナであり、いくら皮を変えようとも、ミルエナであることに違いはないのだと強く意識させ、だからこそ持続する経験そのものを身につけることで、より効果的な、またはより生きやすい手段を教えてくれたのだ。

 心ノ宮しんのみやの流儀で言えば、存在律レゾンの保持だ。世界樹の枝葉が人ならば、それらに一つも同一性はなく、故に人間の根幹には、他者と自身とを区別する記号的な何かがある――それを存在律と呼称し、心ノ宮は研究している。つまるところ、いくら変わろうとも、ミルエナは、ミルエナとして存在してしまっているのだ。

 そんな師が亡くなってから軍部に引き取られるまではいろいろとあったが――まあ、思い返しても大したことではない。それからは任務をこなしつつ、〝かっこう〟と呼ばれるようになってからは、自分と似たような素材を育てもした。師のことを思いだしつつ、時には彼女の言っていた言葉をなぞりながらも教育したため、連中にとっても、逢ったことのない師が、いるように感じられたことだろう。

 軍の仕事の中で覚えているものは多い。そのたびに姿を変えていたのだから、時期を言われれば、どんな姿だったのかを思いだし、連想するように内容も浮かんでくるというものだ。

 その中に、たとえばこんなものがあった。

 子供を売り飛ばそうとした両親の事故死に見せかけた殺害。

 ある海賊団の解体を目的とした内部侵入からの壊滅。

 上からの命令といったらそれまでだが、ミルエナにとっても、それこそ生活のように任務を行っていた、その中の一つでしかない。所属と呼ばれるものがなくなった現在であっても、罪悪感や疑念は一切生まれてはいない――が。

 興味はあったのだ。

 今、どうしているか。

 何をするべきかもわからなかったミルエナが、何かをしようと漠然とした想いを抱いて動こうとした時、知った顔でなくとも、知った名前がそこにあったのならば、どれ近くで観察してやろうと思うのは実に自然なことで――。

「その結果が、今だろう」

 そんな感情の機微を読み取り、だいたいの流れを言い当てた朝霧あさぎり芽衣めいは、生態調査部の部室で、ミルエナの対面に腰を下ろしたまま、足を組み変えた。

「きっかけなど、往往にして些細なものだ。けれど気付けば、想定した以上に事態が動いてこんな状況になる。その善し悪しは、貴様の感情だがな」

「ははは、来て早早に話し出したかと思えば、それを問うか。もっとも現状についての不満はないとも。もちろん、これからどうなるかは定かではなし――」

「――これから、連中が変わるともなれば、起点を用意したようで気に食わん、とでも言いたげだな」

「……やれやれ、先手を取られたな、これは」

「日本にきてから、会話誘導の手口にはそれなりに慣れた。まあ、誘導されたところで、気に食わんとも思わんような連中が相手だったから、構わんが。確かに機先を制したのは私だが、呼んだのはお前だろう三〇一……いや、少尉か」

「もうミルエナで構わない」

「なるほど、今度は自身の名が明かされた場合における状況変化に着目したか。円(まどか)がああなった以上、隠し通せるとも思えんがな」

「つみれに関しても、知っていたようだな?」

「日本における魔術師の家名くらい、随分と前から頭に入っている。特に危険性が高いものは、師匠の教えでな。完成している、という条件では円もその一つだ。先に言っておくが、若い連中が成長するのを私は歓迎している。円やサミュエルも、一定の期待はしていると考えていい。その上で私に訓練を頼むのならば、場を整えるくらいのことか、私の部下の訓練に混ぜてやるくらいは可能だ」

「うむ……〝忠犬〟の頃の面影がないな、朝霧は」

「あれは一種の隠れ蓑だ。お前のように、生活にしていたわけではない。それに私だとて、成長しないほど老いたわけではないからな」

「私の年齢ならば放っておけ」

「そんなつもりはなかったが、意識させるとは愚かな……」

「それは確かに失策だ。まあ実際に、つみれにしてもミュウにしても、戦闘で確認したいこともあるようだからな。先手を打って私が手配しておこうと――」

「――そして、どの程度の事情を私が把握しているのかを探るために、わざわざこうして呼びつけたわけか」

「わかっていて、きたのだろう」

「そうでなければ、何用だと最初から言っている」

「参る話だ」

「ところで、お前の術式は私になることも可能か?」

「いや、まず不可能だろう。精神系の術式に対する防護式を常時展開(リアルタイムセル)する形か、他人に触れるなどの条件付きで準備しているのだろう? その中にはおそらく、私の現身に対する防御も含まれているはずだ」

「ふむ。確かに、精神汚染系の術式や洗脳に対する手は打ってあるが」

「そういう人間が相手では難しい。何しろ、私を知らなくとも、私のような人種が存在するだろうことを想定して生きている」

「付け入る隙がないとでも?」

 そんなところだと苦笑したミルエナは、芽衣の前に珈琲を置いた。

「私の不味い珈琲だがな」

「ふむ……なんだ、思ったより不味くはないな。赤痢や熱病の可能性がないだけで、私には充分だが」

「できれば美味い方が良いがな。この際だ、聞いておこう」

「なんだ?」

「経緯はともかく、朝霧は連中をどう育てるつもりだ?」

「勘違いしてもらっては困るが、べつに手塩にかけて育てているわけではない。私がやっていることは、せいぜい場を整えて、やり方を教えてやっているだけだ。それをどう使うか、どういう経験にするか、どこを向いて行くのか、それを決めるのは連中だろう。少なくとも、私と同じ道を歩くことはあるまい。仮に、連中が軍に入ったところで、後期実習で現場に放り込まれれば、一部隊として満足に働くことはおろか、生還できるかどうかも怪しいところだ」

「軍では命令が第一だ。加えて私が見るに、指揮官がいない。田宮が引っ張っているが、それでもただ前を歩いているだけだろう。振り返って支えられるほど、全体が見えているとも思えんな」

「その通りだ。状況入りして、それしかない――たとえば、生き残ることだけを考える、などといった状況下になり、突破や退避ではなく、救援を待つまで耐えることならば、あるいは可能性は高いが、状況から突破口を見出して打開するには、まだまだ経験が足りん」

 けれど。

「円の存在は、それゆえに貴重だろうな」

「なにができるかは、前提条件だ。問題となるのは、なにをするかだろう? 私ができるのも、せいぜいがなにをするかの前に、選択肢を増やしてやることくらいなものだ」

「ふむ。考えるのは似たようなものか。確かに生存率だけ考えれば、お前は単体で充分だからな」

「隠れることに関しては、それなりの定評がある。本気でそうしようと考えたのならばな。隠密性、機動性はグランマ――師から教わっている」

「その上で、貴様はコゲラなどと名乗ることにしたのか」

「標的にするにせよ、警戒するにせよ、明確な名前があった方が都合はいいだろう? ただし、私たちがどう対応するかは、見せる必要はると思っているが……いかんせん、その辺りの手配は私には難しくてな」

「ふむ」

「表向きは私が音頭を取るにせよ、実質的なブレインはつみれだ。どこまで隠し通せるかはわからんが、つみれの一言で動くようになる」

「それらの手配に関しては私も不得手としているところだが、手配などせずとも、新興組織の出発点に事件はつきものだ。どうであれ、なにかしらが起こるだろうな」

「ではその前に、一度頼む」

「いいだろう。二日もあれば準備はできるが、こちらの都合に合わせられるのか?」

「貴重な訓練ともなれば、説得するのは容易い。私もそろそろ、感覚を取り戻しておかなければ、つみれにまた役立たずと怒鳴られるはめになる」

「いくつかの〝目〟が予想されるが?」

「構わん――というより、今の私では観察者をどうこうするだけの立場も、技術も持ち合わせてはいないからな。場を整えるそちらに任せよう」

「――狸が」

 よくもまあ、そんな冗談を、あたかも事実のように言えるものだ。

「九ミリを揃えておく必要はあるか?」

「武装か……消耗品として扱うのならば、一式は揃えておいて欲しいものだ。私はともかく、つみれやミュウがどうするか、わからん」

「やれやれ、貴様にサミュエル、その上に指揮が可能な円まで含まれるのだから、連中には随分と重荷だな。せいぜい勝っているのは数の利くらいなものだ。まあ、対人戦闘の経験としては悪くないか」

「前向きに検討する理由ができたか?」

「なに、貴様のためではなく、つみれのためだと思えば、こんなことは苦でもない。なんなら、動きやすい服の用意もしてやっても良いくらいだ。尻のラインがよく見える服だ、これがなかなか良い」

「うむ、それは確かにな」

 さてと言いながら、芽衣は席を立った。

「手配と、こちらの人員に用件を伝えなくてはな。しかし、ミルエナ。貴様は今、楽しんでいるか?」

「――もちろんだとも」

 ミルエナは、強く頷きをもってその言葉に応える。

「終わりも見えず、先も読めない。こんな生活を誰もがしていたのかと思うと、私はどうして、焦がれる気持ちを持て余さなかったのかと、過去を振り返って笑いたい気分だ。残念なのは、気付くのが遅かったことだな」

「ふむ。それでも、足元を疎かにしないのは、貴様の性質なのだろうな。エイジェイとどんな取引をしたかは知らんが、――アレを甘く見るなよ」

「わかっている。昨日と同じ顔で、大切な宝物を翌日にドブへ投げ捨てるような連中だ。注意するに越したことはない。ただ、それも最終的には、つみれに任せたいものだ」

「全てを任せた貴様は、また駒に逆戻りか?」

「否――つみれがそれを赦さんだろうよ」

「羨ましい限りだ、クソッタレ。宝石の輝きではなく、路傍の原石に目を奪われたか」

「そんなところだ」

 それでも。

 まだ、早いのは理解している。

 全てを任せられるほど、つみれの背中は大きくない。

 今はまだ。

 支えるべき人間が必要で、支えて欲しいのだと自覚しなくては。

「大きなお世話と言われそうだがな」

 私はもう言われていると、鼻で笑った元同業者は、そのまま背中を向けて部室を去った。


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