08/10/13:30――前崎鬼灯・これから

 午後の授業が始まる頃に目を覚ました旗姫は、体調が悪いわけでもなく平然としていた。おそらくあの蝶を出すためだろうけれど、あるいは彼らの会話を当人に聞かれたくなかったのかもしれないと、そんな可能性に鬼灯が思い至ったのは食堂に他の学生が出入りできるようになっていた頃のことで、既に三人しか残されてはいなかった。

 午後の授業に出ても良かったのだが、雰囲気がそれを否定したため、スケジュールを前倒しして学園を出た三人は旗姫のための携帯端末、それから銀行での口座開設をしてから自宅へ戻った。その間に発せられた質問の多くは携帯端末の利用性、つまり操作方法や使用方法に関することであり、かつてそうであったように今でもマニュアルを読み込むような人間は少なく、実践に重きを置いている。

 ちなみに旗姫が選択した、というよりもあやめが説明して実用性を諳んじた結果、鬼灯と同じタッチパネル形式の端末になった。電話だけを主とした軽量化のものは、逆に用途が限られて他の物品を所持していることが前提となるため、旗姫には合わないだろうとの判断だ。

 では何故、あやめが軽量化形式のものを所持しているのかと云われれば、単に鬼灯がタッチパネル形式を所持しているからである。また当人もネットに触れるなら据置端末やノート型端末を利用した方が効果的だと考えている。持ち運びに際したタッチパネルの誤動作や、使用による磨耗も気に入らないらしい。鬼灯にしてみれば、その辺りは割り切っているのだが。

「操作自体は単純なものが多いですね。必要最低限のものならば、およそ三操作程度で完了します。わたくしにとってはありがたいです」

「高機能なおもちゃだと思えば良いかと。使って慣れろとも言いますから」

「――ただいま」

「戻りました」

「お邪魔します」

 他人行儀だなとは思ったが、あやめに一瞥を投げて何も言わないように指示する。立場に関しては今から改めようと思っていたところだ。

「さて、とりあえず茶でも飲もう」

「わかりました。自室に戻ってからそちらへ行きます」

「そうしてくれ」

 流れ作業で手荷物を移動させ、あやめも気にせずに瞬間移動する。そしてリビングへの扉をESPで開けてから、ようやく旗姫は驚きから現実に戻った。

「あの――」

「気にするな」

「いえ、そうは言われましても……理解が追いつかぬばかりで」

「ESPと呼ばれているものだ。俺もあやめも、そして旗姫も扱えるだろう。その話もしてやるがとりあえずは――」

 リビングへと足を踏み入れた鬼灯はしかし、ぴたりと足を止めた。

 赤チェックのスカートにワイシャツ、ネクタイもまたスカートと同じ柄のもの。ただしきちんと締めていない――そんな背丈の小さな少女が、ソファに座っていて、言う。

「よお」

「刹那、小夜様……?」

「邪魔してるぜ」

「――」

 何故ここに、どうやって、などという疑問が頭を巡るが吐息一つで鬼灯は押し留める。テーブルに並んでいる手軽につまめる料理も、少なくとも昨日に確認した冷蔵庫の中にはなかったもので、どのような手段にせよ家に入った時に気付かなかった鬼灯に落ち度もある。

 少なくとも刹那小夜は、それだけの技術を持っていることになり、文句を言うのは理由を聞いてからでも遅くはない。

「何用だ」

「大したことじゃねーよ。ただ、あの場で話したってしかたのねーことだからな。とりあえずそっちの話を済ませろよ、オレのこた気にするな」

「そう言われてもな……旗姫、こっちに座れ」

「あ、はい」

「オレに警戒は無意味だぜ?」

「そうだとしても、俺がお前の隣に座ったらあやめに何と言われるかわからん」

「――べつに何も言いませんが。いらっしゃいませ、刹那さん」

「おー、だそうだぜ?」

「……ならいいか。ああ、灰皿も出してくれあやめ」

「はい」

「悪いな。――で? 金銭関係の話なんだろ?」

「何故そう考えたのか聞いてもいいか」

「どう考えたったそこにたどり着くじゃねーか。なあ旗姫」

「はあ……そうなのでしょうか」

「――まあいい。口座開設時に気にしていたようだから、改めて現状を話そう。とはいえ推測も絡む問題だ。わかっていることと推測を、ここで取り違えないでくれ」

「はい」

「まず、……そうだな。あやめの話からしよう」

 対面に座ったあやめは視線だけを合わせる。頷きも必要ない、それだけの共同生活を続けて来た。

「この家は俺の両親のものだ。つまり前崎かんなぎとメイファル・イーク・リスコットンが所持しており、俺は次男に当たる。――あやめは六歳の頃から一緒に住んでいる。その時から俺の両親が保護者になっている――もちろん、書類上はだ。血縁関係はない。旗姫はこれと同様の立場になる」

「……? ご両親様に保護された、と?」

「簡略化すればそうなる」

「ふん――と、悪い。べつになんでもねーよ」

「さて生臭い金の話をしよう。金銭感覚についてはどうだ?」

「よほど大きく外れていないとは思いますが、なにぶん扱ったことがありませんので。一般家庭の月収がおおよそ三十万円程度と考えればよろしいでしょうか」

「そうだな、その程度の感覚でいい。俺とあやめは個人的に、昨夜に旗姫を連れて来たような仕事をたまにするが、あくまでもアルバイトの範疇からは逸脱せず、また定期的に行われるわけではないため、貯えをそれほど持っているわけではない。見ての通り学生だ、そして保護者がいる以上、保護されている身分になる。ただし、だからといって自由になる金を持っていないわけではない」

「それは、いわゆる小遣いと呼ばれる、ご両親様からいただいているものでしょうか」

「いや――ん、そうだな。考え方としては間違っていない」

 現実には定期的に振り込まれるわけでもなく、そもそも商人の家系であるため、金が欲しいならば頭と躰を使って働け、というのが父親であるところの巫の言だ。幼い頃から身の丈に合わない仕事を押し付けられて報酬を得るのが当然になっているため、金の流れとしては小遣いになるものの、言葉にされると複雑だった。

「だが、さすがに旗姫の場合は――どうなのだろうな。少なくとも連絡をした限り、俺の両親から旗姫へ、たとえば生活費などといった振込みはない。口座開設も先ほど行ったばかりだから当然だが……」

「けれど、聞いた限りでは口座開設にも、ある程度まとまった金額が必要なのですね?」

「ああ。一時的に俺たちの口座から振り込もうとしたが――ここは不明な部分になる。どうやら既に〝陽ノ宮旗姫〟の名で口座は存在した。本人確認はしただろう?」

「はい。声紋、指紋、網膜認証でしたか」

「あれは口座検索のための本人確認だったらしくてな。失礼かとも思って確認したが、お前の口座にはおよそ七千万円が入っている」

「――ええと、漠然とですが、大金なのですね?」

「少なくとも当面の生活には困らない金額だ。いいか? それらは俺たちのものではなく、お前自身の所持金になる。使う責任はお前が持ち、好きにしてもらって構わない。もっとも、この家を出て一人暮らしをするなどと言われては俺も困るが……」

「はあ……そうですか。あの、本当にそのお金はわたくしのものなのでしょうか」

「どういう意味だ?」

「降って沸いたとでも申しましょうか、素直に受け取ることに抵抗があります。わたくしが何かをしたわけではないのに」

「――してただろーが」

 確かに出所が不明だと言おうとした鬼灯よりも先に、香草巻きに火を点けた小夜が答えてしまう。

「オレに言わせりゃ七千万円じゃ少ねーくらいだ。いいか旗姫、その金はてめーが今まで不自由していた〝時間〟への対価だ」

「わたくしは不自由などしておりませんでした」

「そうか? てめー自身はそうかもしれねーな。だが対価にはなる。何故だ?」

「何故、とおっしゃられましても……」

「考えろ。何故だ?」

「……わたくしが不自由ではなかった時間は、わたくしも認めるところです。生活は違えども、鬼灯様やあやめ様が今まで生活してきた時間と同様のものでしょう? そこに対価などと申しましても、わたくしには金額に見合う何かを支払うことなどできません。支払ってきたつもりもありません」

「返答になってねーよ。あやめ」

「現実として金額がある以上、対価としてつりあう何かを旗姫が支払っている、ないし支払っていた――その前提を崩してはならない、ですか。続きはまだ考え中です」

「おい鬼灯」

「……なるほどな。つまり誰が金を振り込んだのかを問題にすればいい。いいか旗姫、対価とはモノに対して支払う相応の価値そのものだ。物物交換も同様に、今回の場合はただ一方に金が乗せられたに過ぎない。ではその価値を決めるのは誰だ?」

「当事者です。この場合はわたくしと、振り込まれた方です」

「では、金の価値もお前が決めることか?」

「――……いいえ、相手が決めることです」

「そうだな。世に相場と呼ばれるものがあるように、本来ならば当事者同士での話し合いによって解決すべき取引も、一方的な譲渡になれば主観で判断するしかない。つまり同一状況に対し、旗姫は心当たりがないと言うが相手はその状況に対して支払うべき金銭があった、という結果が現実になる。――だが、それでは納得しないな?」

「そう、ですね……必要なのはわかります。けれど多すぎるのでは、と」

「これは予想だが、金を振り込んでいたのは旗姫のご両親だろう」

「そうなのですか?」

「おそらく、お前の身内と呼ばれるものはそこにしかない。俺たちも関係者になったわけだが、それ以前はさしたる交流もなく過ごしていたそうではないか。そうした状況から俺たちが出したわけでもない金がどこから流れてきたのか――流通を洗うことはできないだろうが、心当たりはそこしかない。ただし理由は知らん」

「……」

「それと訂正しておこう。不自由をしていなかったらしいが、決定的に俺たちとお前では違うことがある。それは――お前が一人で居たことだ」

「お世話になっていた家はありました」

「家はあっても、一人だろう、お前ならな。俺たちは家に寄り付かないとはいえ両親がいる。同じ家に住んでいなくても、いつでも逢える状況だ。実際に顔を見せることもあった。だがこの十年、お前はただの一度も両親に逢っていないだろう? そして、ぼんやりと顔は思い出せるが――どこにいるのかも知らない」

「……はい」

「そんな両親が何故、そのような大金を支払った? 想像するしかないが――逢えない事情がそこにあるのならば、確かに刹那の言う通り少なすぎる金額だ。十年、俺個人が使ってきた金額を計上すれば五千万円程度にはなるだろう。学費や生活費を含めてだ。だとするのならば、相応の金額しか振り込まれていないことにもなる」

「刹那様がおっしゃっていた時間への対価というのは……」

「不自由だったろ? こいつらが、大したことのねー生活をしてたって、そんくれーの金額にゃなる。その金を使わずに過ごして来たンなら、自由ってこたねーだろ」

「旗姫。――そこにあるものを否定するな。問題は、それをどうするか……どう使うかだ。口座にある金は自由に使ってくれて構わないと、俺としてはそれを伝えたかった」

「自由に……」

「行動に責任を持って、己の考えで使え。――まあ、金の話はとりあえず終いにしておこう。今後の身の振り方についてだが」

 部屋の時計を一瞥すると十四時にさしかかろうとしている。

「一つだけ言っておく。俺やあやめに迷惑をかける、などと今後一切考えるな」

「……何故ですか? 実際にわたくしは」

「迷惑をかけている、などと思われることが一番迷惑だと言っている」

「しかし」

「お前が迷惑だと思っているものを、俺たちはそう受け取っていない。もしも迷惑だと考えるものがあるとするのならば、それはお前本人ではなくこの状況を請け負った俺たちであり、その依頼を出した人間だ。――いいか、俺たちは好意的にお前を歓迎している。嫌ならこの状況を否定しているし、かつてお前がそうだったように――外に出したりはしない」

「それに、迷惑をかけない人間はいません。私がそうであるように、迷惑をかけなければどこまで踏み込んで良いかも曖昧なままです」

「ま、遠慮はするなってことだろ。話が済んだなら行こうぜ鬼灯」

「――は?」

「転寝熟のとこ。行くんじゃねーのかよ。付き合うぜ」

 最初からそれが目的だったかのように、小夜は立ち上がる。まるで行動を読まれているような感覚だった鬼灯は、眉根に深い皺を寄せながらもため息を落とした。


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