05/12/09:00――エミリオン・さよならの日
陽が落ちてまた昇る――窓の外に見える景色は変化がなく、停滞こそがこの場所の特異性。変わらないことを当然としたここは、逆説的に世界の変化を如実に示す。そして同時に、自らの変化を浮き立たせてしまう。
ゆっくりと立ち上がった彼は、決して急くことなく背筋を伸ばし胸を僅かに張り、一歩を噛み締めるように部屋を出た。
一階の左舷から、一部屋ずつ扉を開けることなく立ち止まり、頷いては次へと向かう。
ある友人が言った――公人が持つ創造術式が〝
ただ創る者。使用者ではなく使用を前提にしながらも、しかし利用者を選別する。
いつだっただろうか。かくして創造される刃物が、己から抜けた棘でしかないのに気付いたのは。
エントランスを通って右舷へ向かい、同じ行動をゆっくりと繰り返す。わかっているのだろう、侍女たちは傍にいない。
また友人の一人は言った――故に、だからこそ、己の内側にあるべきものを外側に創造する仕組みをただ実行するだけの公人を、〈
エグゼエミリオン。
自ら刻印として扱いながら、いつだとてそれを意識して来た。
否だ。誰かから渡されたものを、戴いたものを、公人は決して蔑ろにできない。それは自らのものを譲るしか出来なかった彼女への引け目なのだろう。
公人はわかっている。屋敷を見回るのもこれにて最後、命を削って行動できるは終幕の刻でしかない。
悔いはない。託すものは託してきた。自らの痕跡が無意味に引き摺られることもないだろう。
嵯峨公人として。
エグゼエミリオンとして。
残るは自らを自らとして最後を締めるだけだ。
――変わらないな。
屋敷の中身は変わらないと思う。普段から侍女が念入りに掃除もしているためもある。何よりエルムの存在が、それに呼応した者たちが停滞しているからだろう。
羨ましいと思ったことはない。ただ、同情をしたことはある。表には出さないが、いつだとて公人は最後を待っていた。いや、待っていたというよりもその区切りを、区切りがあるからこそ、今まで生きてこれたのだ。
ふいに、視界に飛び込んできた己の姿はガラスに映ったものだったけれど。
なんだかひどく、懐かしく思う。
変わってしまったことにか、それとも変わらないことにか。ふと肩から力が抜けるような微笑みすら浮かびそうだった。
――俺は支えられてここまできた。
それを忘れる彼ではない。忘れたことなどない。そして、これからも。
二階を一周し終えた彼は、やはり頷いて自室へ戻る――と、そこに。
「――」
無言で直立して並ぶ侍女がいる。彼が足を進めるとガーネとシディが扉の左右につき、アクアが一礼をしてから扉を開いた。
「どうぞ旦那様」
「……ああ。三人とも苦労をかけた。これからも自らが考え、行動し、生きろ。いいな?」
「――はい」
返事をしたのはアクアだけで、ガーネとシディは返事の代わりに深く頭を下げた。
室内に戻り、背筋を伸ばしたまま椅子に腰掛けて外を見る。その、変わらない景色を見納めるために。
ずっと、その光景を見てきたと思う。
変わらない景色、風景。それはシディの手入れが丁寧であることを証明し、室内の管理もアクアやガーネが行っていた証だ。
最初は侍女とエルムだけだった。
彼女たちの成長は見ていて嬉しく、やがてエルムの紹介でぽつぽつと住人が増え、いつしか夕食のテーブルが埋まるようになって。
――鷺花が来たのはよく覚えている。
息子としては手のかからなかったエルムもそうだが、幼年期からの成長を見届けるのは老いた者の特権だ。それを喜ばしく思い、楽しく思い、そして。
それも、終わりなのだと自覚させられれば、今度は残される者に何かをしてやりたくもなる。けれど、それも多くはない。
「――」
振り返らず、その姿のままで、やがて。
「ベルか」
「邪魔するぜ」
室内に入った三人の侍女と共に、長身の男性がいた。カーゴパンツにジャケットという格好であり、針金質の髪を七三に分けて七の前髪が左目を完全に覆い隠している――いや、隠していた。
その右手で前髪を掻き上げて義眼を晒す。その真っ赤な、深紅の、極赤色と呼ばれる魔術品の義眼を。
「ちなみに、文字通りの――邪魔だ」
「そのようだ」
僅かに笑いの気配と共に肩が揺れる。張りがある声も、強い気配も、まるで昔に戻ったような感覚があっただろう。
ゆっくりと振り向いたその顔は六十近くのものだけれど、しかし瞳は強く意志を伝えてくる。それを見て、ああ本当に終わりなんだなと――ベルは見返した。
「何をしている?」
「俺ができるのは、せいぜいお前の言葉をそのままに、この状況を電子データに変えることくらいなものだ。だが、この情報を伝達する技術を持っているヤツが、上手い具合に縁を合わせた。一方通行の送信だけ――それでも」
それでも、一人では終わらせないのだと。
「独りで終わらせはしねえと、俺たちが勝手に決めた。だから――繋げ鷺花、知りうる限りの知り合いに、限りなく近いエミリオンの縁に」
「俺の……縁、か」
「そうだ――ん、繋がったか。この距離でよくやる。エミリオンの縁だ。お前が合わせた、お前の知り合いに」
ふいに、まるで笑うように、悪戯をしようとする子供のように、エミリオンの瞳が細くなった。
「――こうして見ると、老けたなベル」
「歳を食わねえ存在はない。それを誤魔化すか、是正するか、それとも遅いのか――違いはたったそれだけだ。俺はただ、歳を食う」
「俺を、俺たちを恨むか?」
「何故?」
「無理をすればツケが必ず到来する。そうだろう」
「……ああ。ああそうだな、その通りだ。相変わらず他の連中は俺を特別視してるが、俺以上の凡人はいねえと結論に至った。――俺は無理をしている」
通信が繋がっているというのに、ようやく。
遅く、ベルは己の口からそれを断言した。
「特別なことがあるとすりゃあ、俺が肉体限界を引き上げていることと、場合によっては限界以上を発現させることにあるだろうな」
「そう……お前は何も特別なことがなかった。雷属性の魔術特性ですら
「だが恨むのは筋違いだぜ。俺は常に俺の手で選択を得てきた。拒否も拒絶もできる状況で、それを認めたのは俺だ。こうなっちまったのも――俺の理由だろう。エミリオンが負い目を感じるものじゃねぇ」
「だが、確実にお前の先は短くなった。未だ三十の齢を重ねたところで」
「――そう、俺の肉体のほとんどは壊死してる。一番の問題は脳内の配線が切れてる部分だろうな。限界を超えた代償、無理をしたツケってやつだ」
こなることはわかっていた。だから納得の上で生きてきた。
そこに、他者へ向かう感情など介在しない。
「……ああ、そう、いつか問いたいと思っていた。ベルは何故、その選択肢を得たのかと」
「誰だって自分がどこまでできるか、知りたくなるだろう? ただその延長だな。ただそれだけのことで、誰の責任でもない」
「そうだな……それは、お前の責だ」
「お前の責がお前にあるように、な」
「……後どのくらいだ」
「一年持つかどうか、怪しいところだ。騙し騙しやってるが、そのツケも回って来る。早いか遅いかだ、来るのに変わりがねぇなら同じことだぜ。そうだろう?」
「――ああ」
やはり、似ている。
エミリオンもそうやって、生き急いだのだから。
「間に合うのか?」
「……わからねえよ」
「すまん」
「――いいぜ、気にするな。間に合わなかったんだろ、お前は」
「ああ。俺は結局、あの時に……二六年八月十一日に、間に合わなかった。それから今までの俺は、ただの惰性で生きていたようなものだ」
「それでも」
「それでも――俺は、俺のできることをしてきた。間に合わなかった忸怩を抱いたまま、ずっと」
「何をしたって、過去が変わるわけじゃねえけどな」
それでも。
ただ、彼は。
――俺は。
「俺は約束を守れたのだろうか」
ぽつりと床に落ちた声を聞いた。アクアは気丈にも決して目を逸らさず、ガーネは俯いて耳を傾けている。シディはぎゅっと強くガーネの裾を握り、奥歯を噛み締めて嗚咽を殺している。
ベルは。
その独白に。
「――どうなんだ?」
問いかける。視線は逸らさない――微弱な電波を術式によって成立させ、自らの視界で捉えたものを魔術変換により情報として流している最中だ、大きく動きたくはなかった。それでもその問いかけがエミリオンへと向かっていないことに気付き、当人ははっと何かに気付いたよう顔を上げた。
ここに、この部屋に、新しく足を踏み入れる少年がいる。ハーフパンツにパーカーといった格好の、明らかに少年の姿をした彼は。
五十年も前から変わらない姿と、皮肉げな笑みを顔に浮かべている。
「馬鹿なことを言ってるじゃないかエグゼ。なんだって? 約束を守れたのかどうかだって? それは笑い話にもならないよ」
暢気に、気楽に、皮肉を織り交ぜた少年はゆっくりとエミリオンの対面に腰を降ろす。
名もなき少女から紅音という名を貰い、その言語を貰い、しかし成長を貰えなかった少年は鼻で一つ笑った。
「はっ、ベルの口癖を奪うわけじゃないけどくだらないよ。いいかいエグゼ、僕たちにとっての約束は――守るものだろう? 守れなかった、守れない、そういう前提がある以上それは約束ではないんだよ。だから、君に守れない約束はなかったし、守れなかった約束もない。そうじゃなけりゃ、僕たちの覚えている約束の悉くが守れなかったものになってしまう。そういうところ、少しは考えて欲しいものだね」
「――紅音、なのか?」
「僕をどう見間違えれば他人に見えるのか、ふうん忘れてしまうほどに刻が経ているとは思えないけれどね。やれやれだ、ベルが一声すら掛けないものだから、仕方ない、〈
「俺は、約束を守ったか」
「守ったさ。そして守り続ける。約束とはそういうものだからね」
「そうか。……そうか」
「僕たちの中で、エグゼだけが凡人だった。――先の話を聞いていてね、なるほどと思ったよ。無理をしたツケも、ベルと同じだってわけか。うん、そうだね、別にとやかく言うつもりはないんだよ。僕はただ看取れば良い――けれどこれだけは聞いておこう。看取った後、どうする?」
「どうする、か……跡形もなく壊して欲しいと、願うのは酷だろうか」
「構いやしないよ」
「べつにいいぜ」
二人は言う。
「その業は僕が背負うさ」
「その罪は俺が担う」
そうしてエミリオンは、世話をかけると苦笑した。
「この状況は、通達されているんだったな」
「そうさ。まあ君のことだ、一人で終わろうとするだろうからって話を以前に僕もしていてね、まさにその通りだったじゃないか。せめて僕にくらいは一言欲しいものだけれど、まあ現状には満足しておこう。それにエグゼは関係が深い、後で聴くよりもこうして見せた方が効果的でもある――そんな打算も働いているんだぜ。だから、正真正銘、僕たちは君の邪魔をしにきたってわけだ」
「いや今さらだ、とやかくは言わん。この場にいなければ俺はそれでいい。それより、誰に繋がっているんだ」
「お前の知り合いの大半に、だ」
「多いな」
「鷺花に感謝しておけ」
「感謝はともかくも、どうなんだいエグゼ。君の後継者はいるのかい? いや、いないだろうね。君のことだ、自分のことで手一杯だろうしね」
「俺の意志は前崎が勝手に負っている。技術は、どうだろうな、たぶん鷺花の方が持っているだろう。――ああ、倉庫にあるガラクタは鷺花と前崎に任せた。好きにしろ」
「全部片付けてるんじゃねえのか」
「エグゼの場合のすべてっていうのは、自分が抱いているもののことさ。それに、どうせ創ったら満足して次を始めるような男だからね、そんなものだ」
「……なるほどな。そりゃ俺と似てるのも頷ける話だ」
「だからって真似するなよ?」
「まさか。俺の望みは惨たらしく殺されることだからな、お前とは違うから安心しろ」
「それもそうか――そうだ、アブはどうだ。顔も見てないが」
「俺から見ての話だが、落ち着いてきてるんじゃないか? 俺ほどじゃないが……ああ、そういえば鷺花に当てられて熱を入れてたな」
「まだ伸び白があるなら、それでいい。心配なのは一番目の耐久度だが――」
「そっちは前崎に任せろ」
「まあ、そうだな。一番目なんだ、あのくらいの手入れはできるようになるだろう。
「最近、息子に貰った工具入れを提げてる。作業効率は上がらんと言ってたが」
「……こうしてみれば、俺が最初――か」
「置き去りにする気分は嫌なものかい?」
「そうでもないな。ただ……この先に行っても、ネイムレスはいない」
「だったら最初じゃないな」
「いいや、エグゼが最初さ。彼女は――いない。どこにも」
「わかっている。いるが……俺は、ずっとそうやって後悔したきたように思う」
「後悔? 後悔だって? 笑い話だぜエグゼ、そんなものは僕たちの誰もが抱いてきた。君だけじゃない、青葉や
「約束しかなかったと、そう言いたいのか」
「僕は少なくともそうだからね」
ふいに視線を動かしたエミリオンは侍女の三人を見て、小さく微笑む。
「俺は、そうは言えなさそうだ」
「賢明な判断さ。そして、僕は言うし狼牙や雪芽も言うだろうね。憶測だけれど。ただ青葉はどうなんだろうか――」
「青葉も聞いているのか」
聞いていると、ベルは短く伝えるとエミリオンは頷く。
「法式を抱くが故の老化防止――だったか。いつも見ているお前は、青葉、変わらないと言いながらもその若さを、当たり前のように受け取っていた。だが今日、いやさっきなんだが、ガラスに映った俺を改めて見たんだが、――老いたよ」
「ははははっ、いつまで若いつもりでいたんだい、君は」
「若いつもりではいなかった――んだがな。俺の回りにいる連中の影響を受けていたらしい。隠していたつもりだが、これではわかるものだな」
「そうでもないさ」
「ああ――屋敷にいる人間でも、せいぜいアクア、エルム、鷺花、後は俺や小夜に紫陽花……そんなものだろう」
「もちろん、いつかは、と思っていただろうけれど、この時期に、今まさに、そんなことはわからなかったはずさ。だから君はねエグゼ、上手く隠していたよ。それが吉と出ているかどうかは知らないけれどね」
「お前は……紅音、その最後に落とす一言はいらんだろう」
「なにを言ってるのかわからないね。僕はこんなものさ」
「変わらないな」
言うが、笑い声は立たなかった。
躰を揺らすことすら困難になっている。
「どうだいエグゼ、送った側から――送られる側になったのは」
「思いのほか、悔いが残らないものだな」
「ふうん? 僕らにとっては、残ってくれた方がいいんだけれどね。まあそんなことを望みやしないよ。こうして見送れるだけでも充分だ」
「ほかのものなら、充分に残している」
「最初から君に、他人の感情の機微に気を遣え、なんて無粋なことを言うつもりはないさ。無駄なのは知っているしね」
「そうか――」
瞼が、落ちる。
昔を思い出すこともなく、ただその暗闇に浸る。彼にとっては過去の回想など、今までにさんざんしてきたのだから、最後の時にするようなものでもない。
「いろんな人に、世話になっちまったな――」
今、この状況を聴いている全員に。
世話をしていたというよりも、ずっと世話になったような気がしていて。
「ありがとうなあ……」
彼は。
「じゃ、先に行くか」
五月十二日、六十二歳。
嵯峨公人ことエグゼ・エミリオンはその命を絶った。
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