03/24/02:30――朝霧才華・月を見上げて

 その日、まだ夜中の時間だというのに、ふいに目が覚めたのは、布団の中にいた才華がほんの少しだけ空気の揺らぎを感じたのか、それとも僅かに下がった室温に触発されたのかは、わからない。ただぼんやりと、寝起きの頭で悪夢などは見ていなかった事実と、ほぼ無意識に上半身を起こしてしまった現実だけを、ゆっくりと認識する。

 シシリに振り回されること五日ほど。身の回りのものを購入したり、学校の下見に行ったりと、それなりに慌ただしい五日だったが、それでも退屈さはなく、嫌だとは思わなかった。シシリの性格がそうさせるのだろう、才華も遠慮がなくなり、それなりに良い関係を築いていけそうだと、そんなことを思っていた。

 携帯端末のバックライトをつければ、深夜の二時半――もう一度眠る前に、お手洗いでも行っておこうかと立ち上がり、静かに廊下に出ると、居間から見えたシシリの部屋、その廊下側に。

 窓を開き、両足だけを庭に出し、空を見上げているシシリがいた。夜間外出が禁止されている中での行為としては、グレーだ。見咎められることはないにせよ、あまり好ましくはない行動。たまに才華もやったことがあるので強くは言えないが――。

「……悪い、起こしちまったか?」

 声量を落とした言葉、一瞥を投げるような態度。その視線に、いつも見えていた覇気のようなものがなくて。

「今日は良い月が見える」

 そんな言葉に、誘われるようにして才華は居間を横切り、居間に面した廊下側から移動すれば、座れよと言われ、隣に腰を下ろす。寝間着はこの前にデパートで購入した赤色のチェックが入ったものだ。

「珈琲、飲むか? さっき淹れたとこだから、まだ温かいぞ」

「うん、ありがとう」

 見れば、廊下にはいろんなものが転がっており、隅にはシシリの荷物であるリュックが一つあった。ここにきてから、ただの一度も開けなかったもので、その理由までは聞いていなかったが、才華も多少の疑問は抱いていたものだ。おそらく、散らばっているこれらは、その中身なのだろうけれど。

 空を見上げれば、小さな真月と、やや大きめの紅月がある。空の色は紅色になっており、どこか威圧感のある風景に気後れしそうになるが、それでも、隣にシシリがいる現実を見れば、大して気にもならない。雲一つない空に浮かぶ二つの月――それを見上げて、シシリは一体、何をしていたというのか。

「どうかしたの? なんだか、落ち込んでいるようにも見えるけど」

「落ち込む、か。こっちに来て落ち着いたのかな、あたしも。さっきまで、こいつらの夢を見てたみたいで、起きちまった」

「こいつら……?」

 おう、と言って細めた視線を床に落としながら、指先で触れたのはヘッドホンだった。

「ドゥフィ。ガタイのいい黒人で、腕っぷしが強くてな。あたしのことはジンジャーとしか呼ばなかったが、休息日にゃこのヘッドホンを使って、音楽をよく聞いてた。バカでかい音量で聞くもんだから、呼びかけても返事をしやがらねえ。休息日には蹴って教えろ、なんて笑いあった」

 その思い出を懐かしむように、苦笑のように、小さく、シシリは笑う。

「エラーザはいつも、珈琲当番だった。年齢は上だったけど、同じ女ってことでよく話したよ。珈琲屋、なんて揶揄されて怒ってたが、実家の珈琲屋を飛び出して海兵になっちまったあいつは、結局のところ、珈琲を淹れることで、せめてもの繋がりを見出してたんだろう」

 いろいろなものがある。使っているカップもそう、短く切れた紐や、半分になった眼鏡のフレーム。壊れた万年筆に、爪切り。

 それは。

「全部、仲間の形見なんだよ、これは」

 そう言われて、ようやく――いや、改めて、才華は痛感した。

 シシリは、自分とは違うと。

 過酷な戦場、なんて言葉で放たれても、結局のところ理解はできない。そういうものだ、と納得するしかないけれど、その現実をシシリは経験して、ここにいるのだ。

「慣れる、ってことはねえんだよ」

 才華の複雑な表情を見てか、こちらの背中を軽く叩きながら、少し明るい声でシシリは言う。

「いなくなっちまった現実を受け入れるのが、早くなるだけだ。あたしだって、こうやってたまに思い出しては、形見を広げて物思いに耽る。仲間の家族に、事実を伝える時の不甲斐なさに比べりゃ、随分とマシだ。あたしはこいつらに生かされた。まだやることがあると、託された。そうやって鼓舞して、生き残ったもんだよ」

「今、こうして生活していることを、悔やんでる?」

「はは、そりゃねえよ。確かにこっちに来て、会社から離れて、楽をしてる実感はある。けどな、こうやって思い出せば、口の悪い連中だって結局のところ、あたしみてえな幼いガキが来るところじゃねえ。もっと違う生き方をしろって、そういうことを言ってたよ。海兵隊の道を選んだ連中にとって、それしかなかったあたしは、羨ましくもあって、同時にもったいねえと、そう思っていたらしいからな」

「……どうして、軍人になろうと、思うんだろう」

「そりゃ、サイカの両親のことか?」

「うん」

「わかんねえよ。でもな、世の中にはそういう生き方しかできねえ、不器用なヤツもいる。あたしもそうだ。愛国心なんてのは後付けで、いつだって自分が、仲間が、生き残ることくらいしか考えられねえ」

 それでも。

「だからって――こいつらも、死にたくはなかったはずだ」

「――……そうだね」

「アンクルサムが金を出して、あたしらを育てたのは、兵士にするためだ。んで、兵士ってのは戦場に行く。生き死にってのを間近で感じて、次第に麻痺して、一ヶ月もすりゃ死んだ仲間のツラを思い出すのが難しくなる。でも今日みてえに、思い出した時は、こうやって珈琲を飲みながら、くだらねえ話を一人でするんだよ」

「夢に出てきたって、言ってたね」

「おう。……どっちかって言えば、悪夢の類だな、ありゃ」

「そう、なの?」

「いつも泣きながら飛び起きる」

 珈琲を置いたシシリは、右手を月へと伸ばした。夜の静けさも相まってか、今にも消えてしまいそうな儚さがある。

 ――いや。

 人間ならば、当然か。いつも見ている顔しか持っていない、なんてことは、ありえないのだから。

「夢に出てくるあいつらの声は、いつも、聞こえない。何か楽しそうに話してたり、戦場だったり、訓練中だったり、状況はいろいろなのに、何も聞こえないんだ。あたしの声も届かない。あいつらは――あたしが見えてないんだ。いくら叫んでも、近寄っても、あいつらはあたしを除外する」

 そして、そっちに行きたいと思う瞬間に、飛び起きるのだと、シシリは言って、月を握りつぶすよう拳にした。

「だから、そういう時はこうやって、形見分けを見ながら、背負ったものを確認するのさ。あたしはまだ生かされていて、そっちには行けねえってな」

 指先で触れたのは、ひしゃげた弾頭だ。

「悪い、暗い話になっちまったな」

「いいんだ、構わない。少しだけ――軍人って、そういうことだと、実感が得られた」

 いや、違うか。

「等身大のシシリが、見えたっていうのかな」

「――そっか」

「まだぜんぜん、わからないけどね」

「他人なんて、そんなもんだろ。わからねえことだらけで、疑心暗鬼になっちまうよりも、あたしは自分を通しちまうけどな」

「はは、それはらしいね」

「サイカは、昔の夢とか見ねえのか?」

「両親が死んだ時の? いや、それはないよ。俺はまだ幼くて……思い出といえば、せいぜい、赤色くらいなものだ。血なのかなあれは、わからないけれど、とにかく赤いんだ。両親の顔も思い出せない」

「そうなのか?」

「だって俺が四歳のころの話だよ」

「ってことは、十二年前? ――驚きだな、そりゃ」

 実際にそれを驚いたのは、上官……というか、部隊長であるところの彼女が、未だに十七歳かそこらだ、という事実にだ。

「両親を知らないってのは、訓練校じゃ羨ましがられたけどな……」

「反抗期じゃなくて?」

「ま、それも当たりだと、あたしなんかは思ったよ。本人は認めてなかったけどな。過酷さの中にこそ、仲間意識は強く芽生える。――なんて言うが、それも半分正解だ。こいつらだって、あたしと仲が良かった連中ばかりじゃねえ。それでも同じ部隊、同じ戦場にいりゃ仲間だ」

「俺にはよくわからないよ」

「それでいい。わかって欲しいとも、理解して欲しいとも思わねえよ。だって、サイカは軍人じゃねえだろ」

「うん」

 それでも――だ。

「だけど俺は、シシリのことを知りたいと思うよ」

「……ああ、そう」

「うん」

 照れたように視線を逸らし、がりがりと頭を掻くシシリは、なんだか少しだけ歳相応の少女に――見えなくもなかった。


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