2049年
11/07/10:00――鷺城鷺花・武術の領域
九歳の誕生日を迎えた鷺花は一度、帰国することになった。
とはいえ四年も過ごしていたのだから、どちらかといえば帰るというよりも行く、なんて認識がしっくりくるのだが、きっとそれを両親に直截したのならば落ち込むだろうと思える程度には気遣いもできるようになった。喜ばしい成長だろう。
実家の敷地に一人、足を踏み入れた瞬間に感じる水気に口元が緩む。気配は――道場に一人、母屋にいくつかある。それよりも前に、だ。
「っと、ただいま
少し声を上げて、庭池にあるやや大きめの岩で片あぐらをして酒瓶を片手にしている女性の天魔に対し、挨拶をする。彼女の存在は前提として曖昧だが、誰だコイツみたいな表情をした後におおと、頷いてから片手を振った。
「
妖魔の言葉で放たれたそれを意訳すれば、確か小僧の娘だったかの、といった感じになるだろうことは理解できたが、頷いて応えようと思った矢先に彼女は、ん、と短い吐息を落として言葉を変えた。
「なんじゃ儂の言葉が聞こえるようじゃの。ならばこちらの話し方で良かろう」
「完璧に忘れてたわよね私のこと……」
「クック、そう睨むでない。小僧の倅でもまだ短いのじゃから当然だの。どこへ行っておった」
「イギリス。用事があって来たから顔を見せておこうと思ったのよ。ちなみに私は、前から百眼様のことは見えてたわよ? どう対応していいかわかんなかっただけで」
「なんだ、小僧の倅よりも相性が良い――割に、お主はまた違う道に走ったの」
「やっぱわかる? ……なんかね、まあ、私みたいなのも必要になるっぽいのよ。こっから先はね」
「面倒なら止めてしまえばよかろう」
「それが思いのほか楽しくって、どうしようねえ……」
「ククッ、先見の明がある故に現状への猜疑心を抱きながらも、個人的な感情は別か。お主は典型的な策士よの」
「やめてよ、そんなんじゃないって。どっちかっていうと部外者に近いよ」
「まだ若いじゃろう、立場など得るもので早早に決めるものではあるまい。ほれ、飲むか?」
「ありがと」
一升瓶を受け取って一口、すぐに返す。
「さすが、上等な日本酒飲んでるじゃん」
「若いのにお主、いける口じゃの」
「そりゃカクテルやらバーボンやらビールやら、あっちは結構あったのよ。それに百眼様からのお誘いが断れるわけないでしょ?」
「クカカカッ、そう言いながらもお主ならば断わるじゃろう。クックック……」
「笑い過ぎよ……ったく。あれ、爺さんいないんだ?」
「あやつは最近、遊び回っておるの。小僧が正式に継いでからはあまり戻らん」
「暇してない?」
「妾がか? そうでもないの。
言いながら片手に持った酒瓶を見せる。それが手土産らしい。
「今は小僧の倅の育成具合が面白くての」
「ん、紫花の?」
「小僧も辿った道じゃが、個人差もあっての。その差異がまた面白い。なあに、それでも退屈なら
「よかろって……九尾は
「ま、気楽とはいかんが無理はあるまいよ」
「私が心配することじゃないね」
「――ん? おゥ鷺花、戻ったのか」
振り向くと道場から槍を片手に、雨天暁が姿を見せた。記憶とそう変わらない姿だが、間違いなく四年分の歳月は経過しているわけだ。
「ただいま父さん。紫花は一緒じゃなかったのね」
「おう、あいつは自室で座学してるんだろ。つーか一人で何やってんだ」
「え?」
横にいる百眼を見ると、くつくつと笑いながら僅かに存在が揺らいだ。そうしてようやく、暁も気付く。
「なんだ百眼様がいたのか」
「クック……いやな小娘、こやつを責めるでない。ほうれ、
「ああ――そゆこと。逆に涙眼の方は父さんの許可なしに話ができるわけでもなし、ね。ありがと百眼様、今度は私も酒持ってくるよ。外のでもいい?」
「日本酒以外も儂は構わんの。楽しみにしておるぞ」
「諒解っと。母さんもいる?」
「……ん、おう、母屋にいるから顔出しとけ。おかえり鷺花」
「父さんも元気そうで何より。後でちょっと聞きたいことあるから、空けといてよね」
「わかった、わかった……ほれ行ってこい」
送り出されて母屋の玄関をくぐると、すぐに母の小波翔花が発見。思い切り抱き着かれ撫で回される。
「おおう、おかえり鷺花」
「……いや、ただいま戻りましたけれども母上、愛情表現が激しすぎていかんせん躰の芯が妙に冷えているのですが」
「え? ふつうでしょこんくらい」
「普通じゃないわよ……ほら離れる。まったく、まだ子離れできてないわけ? 外に出れば落ち着いて見えるのに、どうしてこう身内にはそれを隠さないんだか……ちゃんと自覚してる? 嫌じゃないけど嫌いって言葉通じる? 現役の自称探偵さん?」
「……鷺花がグレた」
「グレてない」
「っていうか言い回しがレインに似てる嫌味節」
「はいはい、とりあえず落ち着こうね。私としては一人分手が減っただろうし、楽しんでると思ったけど、そうでもない?」
「どうであれ、鷺花は私の娘よ?」
「わかってる。あーいや、わかってない、かな、厳密には。母さんの事情もそこそこ知ってるから、これ以上はやめとくよ。それに、たぶん明日には立つから――あんまし影響残したくないし」
「どういう育て方してんのエルムは……」
「師匠は、基本的に放任主義。とやかく言われたことは一切ないよ。それに、育成に必要なのは人じゃなくて環境そのもの――って、母さんには今さらか」
「本当、可愛くなくなっちゃったねえ……いや可愛いけど」
「何言ってんの。紫花は自室? っていうか、私の部屋どこ?」
「あーはいはい、こっちね。今はもう紫花が一人部屋だから、あんたのも別にちゃんと作ってあるよ」
「ふうん……っと、そうだ母さん、四国にある大規模集積陣の様子どう?」
「どうってあんたね、さも知ってて当然でしょ、みたいに言わないでよ。私は野雨から出ることなんて、ほとんどないの」
「実際に見たことなくても、知らないかなって」
「そりゃまあ、壊れたって話は聞かないけど――ああここね」
ふすまを開くと八畳間があった。がらんとしていたが、とりあえず布団があるかどうかだけ確認しておく。寝られればそれでいい。
「隣が紫花の部屋ね。――夕食は何がいい?」
「昼食べたばっかだからなあ……私が作ろうか? どの程度の材料があるかにもよるけど、一通りできるし」
「はいはい、特に気張らずいつも通りでいいってことね? まったく、変な気遣いも覚えて……今日はずっといるんでしょ?」
「そのつもり。父さんにちょっと用事あったから外にいると思う」
「そう。縁側にお茶くらい出しておくよ。私も今日は外出予定ないし」
「そっちの仕事についても詳しく聞きたいけどね……ま、後で」
「ゆっくりなさい」
一応は実家なのだ、鷺花も余計な気遣いなく過ごしたい。ただしやりたいことがあるので、ただごろごろする――というわけにはいかないが。
隣の部屋の障子を開くと、テーブルに向かっていた雨天紫花、弟がいた。年齢は同じ双子であるし、昔はどうだったと問われると詳しく説明はできないが、やや落ち着いた物腰があって。
「――あれ? 鷺花、戻ってたんだ」
客人かと思ったよと言う紫花は、小さく笑って見せた。
「おかえり」
「ただいま。あんた何やってんの?」
「見ての通り勉強だよ。いくら武術家だからって、学業を疎かにできないから。両立するのも大変だけどさ」
「ふうん? え、なに、ジュニアじゃない」
「鷺花……それは僕が小学生に見えないってことかな」
「いやそうじゃなく、なんだって今さら――あ、そうか、今さらでもないか。紫花は学校に通ってるんだもんね」
「そりゃもちろ……もしかして鷺花は通ってない?」
「通ってないわよ。近くに学校なんてないし、ジュニアの卒業レベルなら三年前に済ませた。今はハイスクールの、高校三年レベルを修得中ってところ。あくまでも現行の一般レベルで、専門になるとちょい曖昧だけどね。毎年、高校入試の問題はやらされてる」
「へえ、僕も一応、授業より先をできるだけ学んでるつもりだけど」
「要領の問題だし、いいんじゃないの。それよか武術の方はどう?」
「ようやく技の修得が軌道に乗り出したところ、かな。鷺花こそ、今日は急に戻ってきてどうしたんだ」
「近くに寄る用事があったから、ついでにね。明日にはまた出るけど。――ん、紫花も前へ進めてるなら良かった良かった。私は父さんにちょっと聞くことあるから、また後でね」
「こっちはもうすぐ終わるから、顔を出すよ」
それはそれで問題があるかもしれないけれど、と思いながらもきた道を戻る。そもそも鷺花は荷物など手には持っていなかったので、気楽なものだ。
再び庭に出ると、百眼と会話をしていた暁が片手を上げる。
「なんだ、早かったな」
「とりあえず挨拶だけね。あ、この場合は取り急ぎってつけるべきか。いや父さんにちょっと――呪術について聞きたくて。それと」
軽くしゃがみ、自分の影の中に手を突っ込む。すると手首が入った部分にだけ小さな術陣が出現した。これは決して離れることのない影という性質に対し、荷物の役割を付加させた常時展開型の術式だ。簡単に言えば、荷物袋である。
引き抜いたのは金属――いや。
「小太刀、か?」
「そう。創ってみたんだけど、柄の部分がなくってさ。あ、鞘もないか。父さんなら当てがあるかなと思って。自分で創るのも良かったけど、やっぱり既存のものを見てからじゃないと安定しないだろうし」
「なるほどな。……おゥ、母屋に行けばあるぜ」
「じゃ、後でいいや。そっちは急ぎじゃないし」
「で――呪術が何だッて?」
「んー……基本的な知識はあるんだけど、残念ながら使い手が傍にいなくってさ。だから良い機会だし、ちょっと見せてもらおうかと思って」
「見せてッてなァ……簡単に言ってくれるが、はいそうですかッて見せれるもんじゃねェぞ? 別に隠してるわけじゃねェが」
目的がなきゃ使いようもねェだろうと言われ、それもそうかと顎に手を当ててから右耳のイヤリングを軽く撫でる。
「んー……あ、じゃあ私と一戦交えよう」
「おいおい、せっかく戻ってきたのにそれか」
「え? 明日に残るようなやり方しないって。それに、――父さんには勝てないから」
「へェ、勝てないか?」
「勝ち負けで考えるならね、今の私には無理よ。それに目的は勝つことじゃなくて、呪術を知ること。さすがに体術は一人じゃどうしようもないから、せっかく父さんがいるんだし――って、雨天をやりたいわけじゃないからね?」
「そりゃァそうだろうが……手合わせなァ」
「乗り気じゃない?」
「……魔術師って連中は面倒なんだよ」
「それがわかってんなら、いいじゃん。ほらあれよ、娘と父親のコミュニケーション」
「息子と、じゃねェか。あー……ま、いいか。軽くだぞ? 道場――だと狭いか」
「庭が壊れないように軽く結界は張っておくし、百眼様もほら、文句なさそうだし」
酒の肴になるなら良い、そういう表情だ。
「しょうがねェな――」
「あ、それ、槍、貸して? 多少使えるから」
「ん……じゃあ俺は小太刀でも持つか。ちょっと待ってろ」
ずしりと重い槍は今の鷺花でも扱いは難しいけれど、シンの体術を教えてもらっていた三年前から、子供用の軽い槍など用意はしてくれなかったため、慣れたものだ。
「で、ほんとにいいの?」
「儂は構わんの。そもそも雨天の天魔とはいえ、雨天そのものに干渉するつもりはないの。好きにすれば良かろう。儂はこの環境を好んでおるだけだ」
「じゃ、壊さないようにしなきゃね」
「良いのか?」
「派手なことをしなければ大丈夫。派手なことをしないとわからない三流に気付かれるのが面倒で、私がここにいる時点で既に知ってる連中なら、問題なし」
「なるほどの。どれ場所を変え……む、酒が枯れたか」
「あらら。安酒でもいいならあるけど?」
「ふむ、それも一興じゃの」
ボトル一本で五千円程度のウイスキーを影から取り出して渡すと、銘柄を見てから良い代金だと言い、百眼はひょいと飛ぶように母屋の屋根に移った。
雨天の敷地はそれ自体が既に結界だ。もちろん侵入者を阻む役割もあるし、領域を区切る意味合いもある。そこに干渉するのはルール違反になるため、上乗せ――結界をそのままに内部をオブラートで包む形で足元に術陣を
「へェ、やるもんだな」
「あー父さん、間違って斬らないでよね」
「気をつけてはやるが、専門外だからわからねェよ」
「それもそっか」
小太刀が二本、腰の裏に佩いてある。右側の柄は見えるけれど、左側は柄尻しか見えない――つまり、右は抜きやすく、左は抜きにくい代わりに邪魔にはならない。そこから読み取れる情報としては、左を空けておくことで暗器などの使用を前提にしている――だ。
袖口の飛針、ないし
「鷺花は戦闘経験あるのか?」
「実戦はまだ。どの程度かは知らないわよ――というか本当は、しばらく父さんに見てもらいたかったんだけど、次の予定があるらしくってさ」
「なるほどねェ。ンじゃま、だらだらしててもしょうがねェ、軽くやるか」
「はいよ」
大前提――暁には呪術を使ってもらわなくては困る。だが暁はその状況になければ使わないだろう。それでも体術の指南にはなるだろうから鷺花としては落としどころとして問題はないが、本題を解決したとは言えなくなる。
鷺花の歩幅でおよそ十歩の距離。暁にしてみればないも当然――と、これは暁でなくともシンやレインも同じだった。
まずは躰を暖めよう。これはあくまでも訓練、暁に言わせれば鍛錬の一環であり、実戦ではない。ある程度の余裕を持って動くものであって、刹那の一手を比べあうものではないはずだ。
右手で掴み左手を下から添えるようにして槍を支え、左足を前に出した半身。切っ先を暁に向けても、対した男は自然体どころか腕を組んでいる状態だ。
――こんにゃろ。構えるくらいしろってのよ。
実際に鷺花もあちらの屋敷で訓練を行う時、相手がこういう態度を取った時が一番嫌だ。甘く見られているから、などという理由ではなく、構えがないものだからいつ攻撃をして良いのか、そのタイミングを見つけるのが難しいのだ。相手としてはいつでも来い、の気分なのだろうけれど。
いつでもいい、そうやって期限が区切られない状況は好ましいのだけれど、緊張感には欠けるのだ。
ちなみにシンに対しては死ぬほど術式を溜め込んでから、相手に準備をさせる間もなく開始してやった。結果としてシンは次からきちんと構えてくれるようになったのだが、さすがにそれを暁にやるわけにもいかない。
――ま、いっか。
相手の動きを見るのも勉強だ、そう思って鷺花がとった行動の初手は、引きの動きと共に槍を肩の上にまで持ち上げて、――投擲することだった。
「お――」
その一瞬で組んでいた腕が解かれ、右手が腰の小太刀を引き抜こうと動くのが見えた。素早い――はずなのだが、妙にゆっくりと、けれど無駄のない動きだ。これほどまでに滑らかになると、美しいとすら思えてしまう。シンやレインにはなかった流麗さだ。
その一瞬に見とれながらも、手から離れた直後に足裏に展開した術陣が鷺花の加速を後押しする。顔に向けて飛来したそれを最小限の動きで回避した暁は小太刀を引き抜いた。
回避の直後に追いついた鷺花が槍を掴む、暁の袴が翻る、軌跡はばつの字を描くように袈裟と逆袈裟をほぼ同時に、けれどワンテンポ遅れて当たらず、そこから二段突きに移行しても追いつかなかった。
むしろ、投擲の瞬間にここまでの流れを読んでいたように思う。
「おゥ、速い速い。――ッと」
頭上で回転させて勢いをつけての振りおろしも届かず、たった一歩の距離だけ後退した暁はまだ小太刀を抜いてはいなかった。
「なるほどなァ。槍の持ち替えは頭上に限り、か。……紫花にゃまだ槍を持たせてねェンだけどな。――誰に習った?」
「学習じゃなく模倣の方よ。シン・チェンに」
「ああ、妙に基本ができてると思えば〝
「そ?」
本当に通じないかどうかは、やってみないとわからない。それに、今の一手で得た情報もあるし、暁もまた鷺花の手の内を読んだだろう。
母屋から出てきた紫花がぴたりと足を止め、お茶を用意した縁側にいる翔花と合流するのを視界の隅に捉えながら、意識して肩から力を抜いた鷺花は小さく笑った。
「父さんは魔術師と戦闘したことあるわよね?」
「おゥ。面倒なのは何人か知ってるぜ」
「そっか。じゃ――遠慮はいらないか」
「加減はしろよ?」
「おっけ。どのみち、父さんが呪術を使うくらいには、追いつめるつもりだから」
「ははッ、いいぜやってみろ」
「ん……一応、父さんの立場に合わせるつもりではいるから。途中までは、ね」
さてと、どこまで通じるのかを試してやろう。
(黒薔薇:起動)
(青薔薇:状況情報を鷺と同調、完了。水属性系列二十二を暫定起動)
起動したイヤリングの輪郭が赤色に染まる。
雨天は水気を持つ存在だ。おそらく水系統で有効打はありえない――その上で鷺花はまず足元に大きな術陣を展開し、そこにもう一つを重ねて周囲にある水気を一層高める。槍の切っ先にも小型術陣が三枚、その時点でようやく暁は腰の小太刀を一本引き抜いた。
くるりと頭上で槍を回転させて切っ先の焦点を改め、振りおろしから正位置にて停止した直後、ゆらりと躰を揺らすような動きで暁は一歩前へ、しかし正面ではなく斜めに。
衝撃波に水が伴って暁の隣を勢いよく通り過ぎると、背後にて鷺花の張った結界に当たってばしゃんと水が弾けた。
小太刀を掴んでいない手で、暁は頭を掻く。その動きで投擲された飛針が鷺花の眼前で水――いや、氷に絡め取られて停止、地面に落ちた。
いつ投げたのかすらわからない。半自動処理をしていなければ、かなり危うかっただろう。こんな小さな、それこそ牽制にも似た一手なのに、鷺花は己の力量不足をも痛感する。
(青薔薇:第二級危険警告)
(黒薔薇:防御系術式を高速選別)
「うわっと」
回避して術式展開してから、避けなくても当たらない位置だったと気付く。土壁、氷壁、空圧、魔力壁の四枚が壊れ、最後の二枚は残るがそれは消しておいた。青薔薇と黒薔薇の連携も問題ない――危険状況における選別を一時的に黒が行うのも、仕込んでおいたものだ。けれど鷺花の実行が現在は間に合ったにせよ、間に合わないときには勝手に実行するし、二枚余ったことが示す通り、いささか見極めに甘いのだが。
それにしても、小太刀の納刀だけで衝撃を発生させるなんて、とんでもない男だ。さすがは武術家の頂点に位置する人間である。
「ふうん……なるほどなァ」
「ちょっと紫花、槍預かっててくんない?」
「え? それは、いいけど……」
「おゥ、受け取れ。しばらく何もしやしねェ――ッと紫花、凍傷に気をつけろ」
何のことだと思って近づいてきた紫花は遅く、鷺花と暁を中心にして集まっている水が次第に冷えて霜、あるいは氷、雪などに変化していることに気付いた。
「はい。離れてなよ」
「邪魔するつもりはないから」
「巻き込まれないようにって意味よ。――よし、じゃあやろうか父さん。躰も暖まったし」
「俺はまだ暖まってねェよ」
「いや待ってたら陽が暮れそうだから待たないわよ」
「よし、やってみろ」
とんとんとその場で軽く跳ねてから、左の袖口からナイフを引き抜いて逆手で持った鷺花は、周囲の空気が一層冷えるのを実感しながら前へ、躰を倒して地面を蹴った。
――さてと、まずは。
そのままに、暁と――氷が、先ほど鷺花のいた場所の氷とが入れ替わり、鷺花のナイフは氷に突き刺さって砕く、その勢いのまま投擲した。
背中を向けたまま出現した暁は不安定な姿勢を整えるよう、ゆっくりと流れる動きで小太刀を引き抜きつつこちらを振り返り、そして。
最初のステップで布陣しておいた術式が発動する。
動体が確認された時点で発動した術式は周囲の水気を凝縮して氷を発生させ相手の身動きを奪うもの。更に二重展開された術陣の内部で巨大な炎が立ち昇るのと同時に、鷺花が投擲したナイフに術陣、着地した足元に術陣。
「――〝
声を引き金にして手元の術陣が発動する。言術を入り混ぜた応用で、投げたナイフを目印に五本の槍が別方向から中心に向かって穿たれた。
魔術陣を利用した術式の利点は、いや鷺花の術式は汎用性に重点を置いている。一刻一秒を争うような戦闘において、キャンセルから次の術式へ繋ぐロスを度外視し、展開した魔術陣そのものを途中で変更することで術式の内容そのものを変更することが可能だ。それに、目に見える欠点を逆手に取ることもできる。更には発動のタイミングを鷺花が一挙に担うことで、無数の術陣だけを展開して、いわば準備だけしておき、実行しないこともできるようにした。
〝魔術〟という大きな魔術特性を持つ鷺花が、己なりに改良した結果だ。それが通じることは屋敷での訓練で確認していた――が、それも相手によりけりだろう。
――よし。
氷結の束縛と炎、次いで槍の攻撃から完全に回避できた暁が無傷のまま、低い姿勢で出て来たのを見て満足する。どうやら、ようやく暁が攻撃に回る状況が作り出せたようだ。
でも。
――このまま近接戦闘になってもいいけど、近すぎるのはなあ。
小太刀の間合いに入られたら、たぶん押される。鍛錬の結果として落としどころにはなるが、あくまでも鷺花が見たいのは呪術だ。
展開した魔術陣の内容は天属性系列、武器の創造――手首から先を入れて引き抜く形で己の身の丈ほどの違う剣を二本引き抜いた途端、暁は踏み込みから停止に移行、初手の振り抜き二度を回避した。
否、回避というよりは、鷺花の攻撃が届かなかっただけだ。
それでも暁は身を捻ってから僅かに姿勢を低くして、完全に停止する前に後ろへステップを踏むように距離を取る。
正解、だ――周囲の霜や氷などをよく見れば、刃の届かなかった位置にも裂傷がある。間合いを見誤らせる手は、戦闘において常套手段だ。
「面倒だなァ」
どこか嬉しそうに言う暁だが、それは鷺花の台詞だ。何しろたった一度ですら、暁はまだ防御に回っていない。ただ回避しているだけで、攻撃にも出ていないのだ。
「なァ鷺花、条件が悪ィぜ。どうせなら、――どこぞの廃墟辺りでやりてェなァ」
そうして、暁の足元に術式紋様が展開した。
「ん……」
強化を主体とした呪術――初動紋様と呼ばれる、効力のない事前準備。それは本来、対妖魔戦闘に最大効力を発揮するものだ。
ならば。
術陣を展開して両手を剣から離して一歩退く――けれど剣は地面に落ちずに浮いたまま、二歩目の後退でようやく、手が。
腕が具現した。
そこからは早い。手甲、いや――全身を白の甲冑に身を包んだ、鷺花と変わらぬ背丈の何かがそこに顕現する。
「悪いね父さん、とりあえず――やってみたいこともあるから」
きしり、そんな甲冑の音を立てて影複が一歩を踏み出すと同時に、鷺花は大きく距離を取るため背後に飛ぶ。
(青薔薇:操作権利の譲渡を確認)
(黒薔薇:一時的に青の思考補助へ移行)
背を見せることなく結界の外に出た鷺花は腕を組み、側面に移動しつつことの成り行きを見守る。とりあえず魔術武装に自動処理を付加してみたのだが、さて、どこまで動けるものか。
「……ん」
戦闘が開始する。影複のダメージはある程度が術者にフィードバックするのが基本だけれど、その辺りは改良してあるため、ダメージというより錯覚に近い。特に今は自動にしているため、鷺花自身に操っている自覚もないのだ。
「呪術、か」
「鷺花、ほらお茶」
「ありがと母さん」
「暁はどう?」
「さすが――かな。うげ、何発喰らってんのよ」
攻撃に転じた暁は手数よりも一撃を当ててくる。甲冑などあってなきが如しだったが、それでも影複それ自体が消えることはまだない。
「陰陽五行……やっぱり初動紋様で世界の理そのものとの繋がりを深めてる。結果だけ見れば確かに強化の派生に過ぎない、と断言する人の気持ちがわからなくもないけれど、実際にはそれ以上の結果が出てるわけか」
要素としては言術に近いものの、それはあくまでも表面上の発現だけだ。あれは単に魔術を簡易化して言葉を引き金に発動する術陣をパターンにしただけのものである。
「根本から性質が違う……でも、似てる」
湯呑を翔花に返した鷺花は手元に術陣を五枚ほど展開して重ね合せる。それ自体が展開式であるため実行はされないが、それは呪術の初動紋様と似た基盤の術式だ。それでも厳密に調べれば細部は違うけれど――。
何よりも。
初動紋様を含め、違う効果のある術式紋様が全て同一のもの、という事実が難解であり最大のヒントだ。
「ってことは……」
魔術ではない、と否定する理由はない。だが、呪術であると肯定できる要素はある。ならばその仕組みそれ自体を生み出すことは可能か?
魔術特性における属性は鷺花自身に該当しないが、暁は水気の属性を持っている。けれど、それを所持していないと否定する理由にはならず、むしろどれも所持していると考えて――論理的な側面からアプローチしてみればどうだ?
とりあえずは水気が集うこの場所だ、水属性でいい。それを使って、いやそもそも初動紋様を展開する前提とは何だ。その上で実行される呪術の特性、その本質は。
「――ああ」
すとんと、理解が落ちた。
「あー……っと、ん」
その場で跳躍して空気を凝縮し足場にしてとんとんと屋根まで上った鷺花は、隣であぐらをかいて酒を飲む百眼に対し、ちらりと一瞥を投げる。
「楽しんでるわよね?」
「イマイチじゃの。安酒に関しては、たまには良いと思ったところじゃが」
「なら酒の代価として、ちょっといいかしら?」
「詰まらんことかの」
「あるいは」
「……ふん、興は削がれるやもしれんが、酒代なら構わんぞ」
それが聞けたら充分だ――大跳躍をして着地時に空気を流動させて勢いを削ぎ、影複を消して魔術武装を標準に戻す。そして、まだ柄も鞘もない小太刀を影から取り出した。
「どうした、もう次の手か?」
「ん……父さん、今から九十秒」
たぶん、その辺りが限度だろう。
「いい? 九十秒だけ付き合ってもらうわよ。それ以上は、好きにして」
「……? おゥ、いいぜ」
「そう」
くすりと、鷺花は小さく笑う。悪い癖だと師匠から言われたこともあるけれど、やめられない。何より鷺花は楽しいのだ。
新しいことに挑戦することが。
「じゃ、酒代として九十秒――来なさい〝百眼〟」
シンと、空気が冷えた。
物理的な、それは先ほどのように集まった水が凍ってしまったような冷たさではない。鼓動を感じ、生きているのを実感し、躰が熱を持っていることを自覚した時、ふいに風の冷たさを心地よく感じるかのように――それは。
対比として存在する冷たさであり、誰かはそれを足元からくる殺意だと、表現したか。
「ッ、――涙眼!」
鷺花の足元には呪術の初動紋様が一つ、暁と同一の水を意味するものが発生し、暁が言霊を発した直後、地震が発生したかのよう屋敷、いや敷地全体が波紋を立てるようにして揺れた。
呪術とは、つまり。
妖魔や天魔の理を身に宿すことだ。だからこそ、実体を持たない妖魔を討伐することができるようになる。
その考えに、間違いはなかった。
――こりゃしんどいわよね。
全体の水気が己へと集まるのがわかる。涙眼はそもそも百眼の一つであるため、こうして対峙してみれば暁が孤立無援の状況になっており、宿した天魔の力だけでみれば圧倒的に不利だ。
けれど扱いは暁の方が上だ。そこに間違いは一切ない。
むしろ、そうでなくては困る。鷺花はただ自分が使える呪術を試して研究したいだけで、暁に勝ちたいわけではないのだから。
――うわ。
小太刀を握って構えただけで、あまりにも多すぎるエネルギーが鷺花という器からはみ出て暴れる。武術家ならばこれを抑え込んで己のものにしなくてはならないのだろうけれど、鷺花には無理で、暴れるに任せるしかない。
暁が二本の小太刀を放り投げ、虚空から――否、隣に控えた涙眼から刀を一振り受け取り、それを腰には佩かず手にしたまま直立した。右手で鞘を持ち、鍔を押し上げず左手を添える。
――さてと。
攻撃性のあるものをいくつか考察して呪術紋様を展開して踏み込むと同時に、何かが走ってそれを無力化した。
わかったのは全てが終わった後。防御の術式すら含めて、あらゆる行動に対して封じてきたのは暁の居合いだ。
直立したまま、刀を自由に動かして上下左右前後あらゆる方向へ放たれる居合い。
それを。
雨天流抜刀術終ノ章〝五月雨〟と云う。
攻撃というよりはむしろ防御に近い、と当たりをつけた鷺花の行動は間違いなく九十秒きっかり、それによって完封され、そして。
足元の初動紋様が消えると同時に、全ての空気が当たり前のように流れ始めた。
「――ふう」
どさり、と鷺花は外聞も気にせずしりもちをつくようにして地面に落ち、右の人差し指を唇に軽く当てた。
「一つの世界を作るのは大げさにしても、最大効率を求めるなら呪術はかなり参考になる。一部を術陣に組み込めるかな? いや、でも術陣それ自体はあくまでも魔術として成立させておきたいし、状況に応じて使い分けるならそもそも呪術に拘泥する必要はないわけで……」
声に出して確認することで閃きを探る手法は、もうずいぶん前に確立したものだ。その独白は誰にでもない、鷺花自身へ言い聞かせている。
「おっと」
発生した術陣が頭上から足元に落ち、しばらく回転してから消える。
「――おい鷺花、問題ねェか?」
「え? ああ、うん、
「ッたく、無茶しやがって……加減しろッて言ったじゃねェか」
「んー……実際に使ってみないことには閃きも探れないし、うん」
「聞いてねェな」
「聞こえてるわよ。冷めるかなーと思ってたけど百眼様も思ったより楽しそうで良かった良かった。あ、この小太刀渡しておく。後で適当に柄は見繕っといて」
「へェ、あれだけの状況で欠けも歪みもねェか」
「あ、そう? 詳しく見といて……後で私も見るけど。……ふんふん、やっぱり術陣に応用が利きそうね。――よし、で、何だって?」
「適当に返事してんじゃねェッての」
「そ? ありがとね父さん、付き合ってくれて。評価は?」
「そうだな……同レベルの相手ッて条件ならいい戦略だろ。体術はそこそこ、初見の相手ッて限定だなァ。本手は魔術戦闘だろ?」
「一応、そういう区切りは持たないようにしようと、思ってるのよね……かといって、躰を作りたいわけでもなし」
「勝ちたいわけじゃねェ、か?」
「対応できて生き残れればいいってところかな。――今はまだ、ね。だからってわけじゃないけど、技術に関しては興味あるわよ?」
特に最後のは、と付け加えたら翔花から茶を受け取った暁は僅かに目を細めた。
「どう見た」
「ん、完成された防御系よね。不用意に近づけば終わり、でなくても近づかれたら終わる。攻略法は、んー……簡単なのは逃げることよね、意味ないけど。しかも最大の問題は、刀以外でも常時アレってのがねえ」
「おいおい、そこまでわかるのかよ、てめェ」
「いやアノネ、父さんが教えてくれたんでしょ? まずは〝見〟だって」
「……? ああ、そういや昔、教えた覚えもあるな」
「重要性に関しては納得してたし、そっちは常時鍛えてたから。槍は?」
「技術面はともかくも基礎はいいし狙いも及第点だ。今の紫花じゃ初手の投擲から一連の流れ――雨天で言えば槍術第二幕追ノ章〝
「ふうん?」
「ナイフの使い方も上上だ。袖口に仕込んであるのは、お前の作品じゃねェだろ。この小太刀とはちょいと違う」
「さすが、よく見てる。父さんは対魔術師戦闘も慣れてるわよね」
「そりゃァお前、俺だって伊達に長生きしてるわけじゃねェからな」
「ま、そうよね」
「――鷺花」
立ち上がって服の埃を落とすと、名を呼ばれて顔を上げればどこか真剣な表情があった。
「どうして本気でこなかった?」
そこまで見抜いていたのは正直に負けた気分だったけれど、ああと頷いた鷺花は小さく苦笑した。暁が本気ではなかったから――とは、さすがに言えない。
だから。
「だってほら、加減しろって言われたからね」
理由としてはその辺りで、充分だろう。
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