10/17/18:30――中原陽炎・大嘘吐き、襲来
味噌を溶かそうとする手がぴくりと反応した。
七と二人で戻った陽炎はいつも通り、昼食後には家の掃除をして趣味部屋に篭り、今は七のメイクを落としてから夕食の準備をしている最中だったのだが――。
火を消し、居間で手持ち無沙汰な七を見やる。
「……んー? どしたの陽炎」
七がいるこのタイミングでこなくてもいいのに、と思ったが逆のような気がしてならない。この状況下だからこそ、このタイミングなのだろう。
「あ、いや、来客だ」
「へ?」
インターホンもノックもなく、気配で気付いた陽炎はエプロンを外して椅子にかけると、そのまま玄関の扉を開く。
そこに、今まさに玄関に手を伸ばそうとしていた女性が自嘲を顔に刻んで立っていた。
「――やあ、原の」
「何しにきたんだ」
「おや、開口一番でそれかね? 理由ならば十二分に理解していると思っていたのはボクの過大評価か」
断りもなく彼女、
「ほほう――ついに、女を連れ込むようになったか。合意は得ているのかね? 犯罪は見逃せんな」
「俺はそこまで強引じゃない」
「ならば、実家に打診しておかなくてはな。原の姉ならば嫉妬しそうなものだ。やあ橘の、七番目か」
「あ、はあ、どうも」
「実家を炎上させられて逃げ込んだ先が原のところとは、恐れ入った。まさかここだとはボクですら予想できなかったのでね」
嘘を吐け、と陽炎が小さく舌打ちする。嘘八百を平然と並び立て、しかもその逆が本音であるとは限らないのが、この女の厄介とするところだ。
「ええと、誰?」
「ボクかね? 原のと懇意にしている異性だ。ここに住むことになった顛末を詳しく語ってもよいがね」
「――七さん、耳を貸さなくてもいいよ。これはマンションのオーナーで、俺とはそんな深い繋がりはないから」
「深い繋がりならあるだろう? 今朝方の忠告を忘れたわけではあるまい」
「妙な言い方をするな嘘吐き女。いいから、とっとと用件を済ませて帰れよ」
「つれない言葉だ」
くつくつと笑いながら、七の対面に腰を下ろす。陽炎は立ったまま少し考えたが、妥協案として七の隣に腰を落ち着かせた。
「まずは原の、滞りなく役目を果たしたようで何よりだ」
「役目?」
「伝言係としての仕事があっただろう? もっとも、役目としては多くの中の一つに過ぎないと感じているだろうがね」
「あ……もしかして、橘の数字のことって」
「そうとも。彼らに伝われば何かしらの対抗手段になると考えてはいたが、しかし言葉に縛られては脱却もできまい。無論、それも狙いの一つではあるがね」
何の対抗手段になるんだ、と陽炎は眉間に皺を寄せた。どう考えても連中に何もできないと教えたようなものでしかないのに。
「感謝の言葉の一つでも贈りたいところだ」
「あんたから貰って嬉しいものはただの一つもないね。顔を見せなくなれば最高だよ」
「その割りに、このマンションから出て行かないのには、何か理由があるのかね?」
「――用件を言えよ」
「やれやれだ。さて、七番目に訊ねてみるが――実家が炎上した件については、どうかね」
「え? 何か知ってるの? ……っていうか、何なのあなた」
「ボクかね? ボクは狩人だ。そして、君の実家を炎上させた狩人とは懇意にしている」
「――やっぱり、あいつなのか? 話だけは聞いていたが、表に出たとは聞いてない」
「言っていないのさ」
「懇意にしているんじゃなく、厳密には同期だろう。いや後輩か」
「そのようなものだ。原のに感謝をしないのはね、ボクもまた伝言を預かっているからだ。これは七番目へ渡すものだが、同じものだろう」
「あたしに? とりあえず同じじゃないと思うけど」
「同じさ。原の身内ならば、責任の所在は原のに向くのが必然だろう。当人の自覚はまだないかね?」
「――余計なことを言うな」
「おやおや、余裕を持たなければ人生は楽しくないとボクは思うがね。まあいいだろう、ボクだとて察する心くらいは持ち合わせているのでね」
それにボクも暇じゃないと続けた道化師は、煙草に火を点けた。
「しかしだ、ボクがこうして足を運ばなくてはならないのは、七番目にも一因があるのだがね」
一度立ち上がった陽炎は食器棚の隅にある灰皿を片手に、室内AIが換気扇を回しているかを確認してから戻る。
「あたしに?」
「状況を見ていた知人が失笑しながら言っていたな。君は、あまりにも橘の名に甘んじていると」
「……? だってあたし、橘だし」
「おや、自ら愚鈍であることを証明するとは恐れ入ったな。さすがは橘の七番目だ、そうは思わんかね原の」
「知らないね。状況を見ていたのは誰だ」
「品行方正のボクとは違って誰かを騙すことを生活にしているやつだ」
「んで、どゆこと?」
「ん? ああ、遠回しに言えば、てめぇの頭でちったあ考えろってことだろうな。いいかね? ボクは優しいから助言してしまうが――零番目が襲撃されている理由については、聴いているかね」
「えっと……暗殺代行者としての仕事を、事実上終わりにするってことでしょ? 今までも廃業してたんだし、何も変わらないと思うんだけど」
「何も? 変わらない?」
クッ、と喉の奥で笑う彼女の気持ちもわからなくはない。今までは橘の名が持っていた影響力が、事実上なくなるという意味に対して、七はあまりにも鈍感だ。だからといって七自身が持つ技術が風化するわけではないけれど――。
七は知らない。
己の技術で、己の身が守りきれないことを。
「やれやれだ。アブの判断もあながち間違ってはいないが、いかんせん流れに支障をきたすな。あれもまだ先が見えていない。もっとも、フォローをしたベルの一手で随分と流れも変わったものだが――さて」
彼女は煙草を消して、立ち上がる。
「橘の邸宅を炎上させるよう指示した依頼主は、鈴ノ宮清音だ。公式ではソプラノと呼ぶべきなのだろうがね」
君には通じないだろう、そう言って自嘲を顔に刻んだ彼女は玄関から去って行った。
「……なあに、あの人」
「このマンションのオーナー。特に厄介な人種だよ」
灰皿を片手にキッチンへ戻った陽炎はエプロンを装着して料理の続きに取り掛かった。
――あの嘘吐きの言葉は鵜呑みにできないけど。
どうして今だったのだろうと思う。いや今さらか――橘の廃業を表向きに示すこと、あるいは橘の邸宅の破壊。鈴ノ宮が絡んでいる以上は既に陽炎の領わからは外れてしまってはいるが、だからといって思考放棄できるほどにこの世は簡単にできてはいない。
物語の流れを読み取る思考方法を陽炎に教えたのは他ならない扇穿那だ。けれどそれは初歩であって、深くは読み取れないし――むしろ、読み取れるが故の行動を誘発するために教えたと、陽炎は考えている。
それは、今回のような状況を予見してのことか。
「……あれ、繋がらないや」
「どうかしたの?」
「や、清音に理由を聞こうと思ったんだけど、繋がらない。詰め所も同じみたいで」
「ふうん」
鈴ノ宮はこの状況で動いていないのか、あるいは動いているから手が離せない?
情報が足りなさすぎる。だが多ければよいわけでもなく、果たして陽炎が判断できる目に見えた何かが、現状で何かあるのだろうか。
鷺ノ宮事件。
それから変異化。
起因となった二つの件とは別に、物語は発生している。
――果たして。
その中で陽炎の役目とは、一体何なのだろうか。
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