10/17/10:35――エミリオン・見えていない
「――何をしている」
その言葉が耳に入ってから、理解して気付くのには十数秒を要した。
「え……?」
息が荒く、スカートから取り出したハンカチで額を拭きながら
「授業中とはいえ校舎の中を走り回るものではないだろう。急いてはことを仕損じる。急がば回れ。これは何事においても真理だ」
スーツ姿の男は休憩室の扉を開くと、しかし中に入らずに振り向く。
視線の高さがあるため、風華は男に見下ろされている格好になる。その冷たい、まるで金属のような瞳から反射的に目を背けてしまったのは、どうしてだろうか。
「あ……あたし、急いでるから」
「……俺の言葉が聞こえなかったのか? 盲目ならば他の感覚が冴えるが、開いているのに見えないのでは使い物にもならん」
「なんでそんなこと、言われないと……」
「何をしている」
同じ言葉を繰り返され、おずおずと視線を上げた風華は男を見た。部外者――いや、この学園へは部外者の立ち入りも認められているため、珍しいことではない。ただ、ひどく異質な雰囲気を持っていると風華は思う。
風の刃では切れない、硬さがそこにあった。
「……人を捜しているの」
「どんな人物だ」
「えと、久我山桔梗って言う……学生なんだけど」
「無駄な労力を積み重ねるのが捜索か?」
男は、笑いもせずに吐き捨てた。
「お前とその男がどのような関係かは知らんが、この状況下で出逢えないのであれば縁が切れたか、あるいはお前の盲目が縁を見据えていないだけだ」
「――え?」
「お前は、その男を正面から見たことがあるか?」
「いつも見てたよ……」
「本当に? きちんと向き合ったことがあるのか」
「だって! ……だって見てなきゃご飯もろくに食べようとしないし、学校にはこないし、自堕落な生活を望んでるふしもあって……」
「だから」男は呆れたように続ける。「だから、どうした。その男がそれを望んだのか? お前の手が必要だと欲したのか? 必要ないと言われるのが怖いだけで――お前が」
男は、突き放す。
「お前が、自己満足のためにその男を利用していただけだろう?」
「――違う!」
「何が違う? 走り回って見つけるのはその男を案じるお前が安堵するためだろう? その男が望んだわけでもない。望んでいたのならば、そもそも、どうしてお前の目の届かぬ場所へと行った?」
「――」
「お前はただ一つでも、その男の望みを聞いたことがあるのか?」
「なんで……なんでそんなこと、あんたに言われなくちゃいけないのよ!」
「見知らぬ俺だからわかることもある。しかし――残念ながら、理由は他にあるようだが。いずれにせよ、お前は考えるべきだ。己のこともわからなければ、他人の身を案じることなどできん」
かつて、男がそうだったように。
何もできずにただ見送ることになる。
「お前の探している男は、まだこの学園にいる」
「――知ってるの!?」
「出遭った」
「どこで!」
「それを聞く前に、少しは考えたらどうだ? 関係のあったお前が見つけられなかったその男は、見知らぬ俺と出遭った。どうしてだ? 偶然などという言葉は犬に食わせろ」
「どうだっていい。どこで遭ったの!」
「よくはない。何故ならば――わからないのか?」
わからないのだろう。今もまだ風華は盲目なままだから。
「これは、どれほどその男とお前との縁が薄く表面上のものでしかなかったのか、証明している」
「――なんで……どうして、あたしは……」
「誰かを助けるのは難しい」
俯いてしまった風華には見えなかっただろう。苦痛に歪む男の表情は。
「――誰かの望みを叶える方がよほど簡単だ」
死に際から生を望む人間に手を差し伸べるのは簡単だ。けれど人は、死に直面すればそれを受け入れてしまう。
特にこちら側の人間の多くは、そうでなくては住人になれない。
回避できないのだと。
誰もが、その状況を見極めてしまうから。
いや見限ってしまうのか。
「今のお前にできるのは、嫌だと泣き喚くことだけだろう?」
「――っ!」
反論もなく走り出して去って行く風華の背中を見送った彼――エグゼ・エミリオンは深い吐息を落として額に手を当てる。
「まったく……役割とはいえ、俺には荷が重過ぎる」
けれど、これで彼と彼女は出会えるだろう。どちらとも顔を合わせたエミリオンが鎹の役割となり、切れた縁は再び繋がりをみせる。
ただしその時には。
「……蓮華は、どうやって場を収めようとしている?」
損害が広がる一方に見えるこの状況下で、しかしエミリオンには収束の筋がまるで見通せなかった。
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