05/19/18:40――鏡華花・鏡の向こう側

 鏡の向こう側を幻視した。

 十歳の誕生日を迎えるまで、自宅には一切の鏡が存在しない生活をしていた。家の仕来りなのか、ともかく姿を映すものは水面や瓶などに限定され、鏡という物体の存在は知りながらも、しかし実物を見ない生活を徹底されていたのだと思う。幼少の頃の自分はともかくも、両親や祖母などは随分と苦労したのではないだろうか。

 しかし、それもまた自宅のみに限られていた。

 学校では鏡を見ることもあったし、路傍には曲がり角に必ずといっていい程に鏡が設置されている。だからあくまでも、鏡と呼ばれるものが手鏡や水鏡などの部類であると思っていたためか、姿見やカーブミラーなどは鏡として認識していなかったように思う。

 今にして考えれば、一人で鏡を見ることはなかった気がする。あるいは独りで鏡を見るなど以ての外だ。

 治安の悪化が辿り二十三時から翌日四時までの外出を禁じ、狩人と呼ばれる武装所持者が巡回するようになって久しい今日である。その時間に外出をしたのならば、たとえ殺されても出歩く側が悪いという強引な法律が制定されるような状況だ、小学校の送り迎えは親の義務にすらなり、専用の駐車場や事情のある者を対象にした送迎バスも完備され、一人で徒歩で帰宅する時などただの一度も存在しなかったはずだ。

 だから、一人で鏡を見る時はあの時以外になかった。

 ふと引き寄せられるように入店した骨董品の店にあった、古そうでいて美しさを兼ね備えた、しかし少し曇ったような銅鏡を――初めて、それを鏡だと認識して覗き込んだ銅鏡を、彼女は幾たびも足を運んで見ていた。

 それを見て何を思っていたのか、今は思い出せない。ただひどく興味本位で、ひどく恣意的で、正の感情によって突き動かされて鏡を覗き込んでいたはずだ。

 ――今でもふと、考えることがある。

 鏡を前にして立つ自分と、鏡の向こう側からこちらを見る自分を、そんな光景を俯瞰するもう一人の自分を幻想して、微妙かつ絶妙な三角関係の一図を抱きながら、そっと手を伸ばして鏡と自分との接点を一つ取って。

 鏡は世界を映し出す。しかし映りだされた世界は己のいる世界ではない。

 向こう側と、こちら側。

 彼岸と此岸。

 分断された鏡界線に手を触れて、何故と思う。

 眼球によって取り込まれる世界はあまりにも欠損している。正しくは瞳から得られた情報が脳内に蓄積される段階に於いて、常識と呼ばれる一定の規則に取り込まれ是正されるため、其の常識と呼ばれるものが曖昧模糊とされる物だから――これは後に書物によって調べ理解したことだが。

 だが直感的に、鏡に映る世界が本物なのだと――思った。

 だから。

「――だから、嬉しいって? 冗談じゃない!」

 嬉しさ半分、怖さ半分だ。

「本音はどうでもいい! いつから野雨は鏡の向こう側になっちゃったのよ!」

 一人暮らしの高校生としては、学校帰りにスーパーマーケットに寄って買い物をするのは必然的とすらされるほど頷ける行動であり、そこに疑問の介在の余地はない。決して料理ができるのか、最近の野菜の単価はどうなのかなど問うてはならないし、買い物袋を覗くのもご法度だ。そこにもし惣菜関係が入っていたとしても、見てみぬ振りをするのが優しさだろう。

「いや! ちゃんと料理してるって! ウェルカム野菜の単価!」

 少し錯乱しているのと、声を荒げているのは今まさに現在進行形で全力疾走しているからだ。

 まるで通り物に遭ったかのように――まるで、気付いたらそこにいたように。

 彼女は〝鏡界線〟を越えていた。

 誰もいない世界。ただ無機質なものが並んでいる温もりのない場所。勢いを可能な限り殺さぬよう曲がった角のカーブミラーを覗き込めば、彼女が認識できない人間たちの姿が映っている。

「なんだって鏡の――ああもう! 今は現実が鏡の向こう側じゃん!」

 背後を振り返らない、決して振り返ろうとしない。きっと振り返ってしまえば足が竦み、恐怖の波が躰の動きを停止してしまうだろうから。

 背筋に運動とは違った部分で発生した汗が伝う。冷たく、凍えるような水滴は肌にべったりと衣服を張り付け行動を制限する。

 冷や汗とは、こんなにも危ういのかと初めて実感したのがこの時だが、そんな余裕はなかった。

「どうすりゃいいっての――よ!」

 破壊の音が近づいてくる。

 本能が警告する絶対的な破壊――死が、今まさに爪を突き立てようと迫っている。

 わかる。

 わかった。

 わかっている。

 追いつかれたら、死ぬ。

「直感は、外れたことないからね――ヤだなあ」

 冷静に、あくまでも冷静に己の運動持続量を計算する。この逃走劇が始まってほんの五分、そろそろ呼吸は上がってきたし足にも疲れが見えている――が、しかし一介の女子高校生にしては褒めるべきだろう、何しろ全力疾走を五分以上も続けているのだから。

 直感が秀でている――結構だ。しかし直感に従う肉体がなければ、その意味は喪失する。

 そう言ったのは誰だったか、ともかく彼女は言葉に従うかのように体力だけはつけていた。まさかこんな役の立ち方をするとは思っていなかったけれど。

「そんな呑気に状況を説明しても、――っ」

 死の予感が背筋を過ぎった。迷わない、躊躇しない、その直感に従ったまま大地を強く蹴って三車線道路の中央から左の路肩へと思い切り移動する。

 急激な行動に視界が揺らぎ、肉体が軋むような錯覚。呼吸が止まる、酷使した筋肉が張る――それから。

 それから、まるで飛び降りるのを躊躇っている背中を押すような、乱暴ぎみな衝撃が背中に当たる。横への移動に対して前方へとかかった力に逆らうこともできず、空中に放り出され――最善の行動を直感に委ねた。

 前方宙返りの要領でいい。一度回転したのならば、力の方向を――その軸を強引にずらすよう、横回転を加えて衝撃の加えられた方向、つまり背を向けていた方に顔を動かし両手両足を使って勢いを殺しつつ着地する。下手に勢いを殺さず前方を向いたまま着地するよりもこちらの方が――。

 できた。

 できた――けれど。

「う、あ――……」

 振り返ってしまった。

 足が竦んだ。腰が硬い路面に落ちる。

 直感に狂いはなかった。まさに今、振り向いてしまった彼女は恐怖によって呼吸すら満足に行えない状況に陥っている。

 何かがいた。そう、形容しがたい何かだ。

 時折見えていた鏡に映し出される、決して見るべきではない見えないもの――それが実体化したような、曖昧な――奇妙なものがそこにいた。

 獣なのだろうか。四足で大地を破壊しながらも存在するその姿は確かに獣なのだろう。彼女の背丈の三倍もある巨大さを度外視して、姿すら揺らぎ固定化されぬ曖昧さを除外したのならばきっと、それは獣なのだ。

 今までこれに追われていたのか。鏡の世界とは、こんなものなのか。

「なるほど」

 ――その声は、突風と共に耳に届いた。

 冷たい風だ。季節に順じた気温とは違う、槍のように鋭く冷気をまとった風だ――けれど、でも。

 でも、わかった。

 背中を押したのは彼だ。

 あれは飛び降りる背中を後押ししたのではなく、落ちようとする躰を引っ張り上げるための衝撃だったのだと、彼女は知った。

 だってその鋭い風は、決して彼女に突き刺さろうとしなかったのだから。

「逃げ足だけは一丁前だと思っていたが撤回しよう。弱い獲物を狙う速度だけは評価できる。俺の落ち度だ」

 風と共に袴の裾が揺れ、小さな背中が彼女と獣との間を遮る――白い、澄んだ白色の袴装束の腰には二本の小太刀。まるで裾に描かれた奇妙な紋様のように、二振り。

 引き抜かれた刀身の輝きの、なんと美しいことか。

 その声色の、なんと鋭いことか。

 存在の、なんて軽いことか。

 舞うような動きに閃く銀光の眩しさに目を細めるほどに、その光景は幻想的でかつ現実味を強く主張してここに在る。

 それは。

 獣が死そのものだとしたら――彼は、生の体現者だった。

「あ……」

 ぱちんと響く鍔鳴りが一つ。二つの小太刀が同時に納められ彼が振り向くのとほぼ同時に、獣は音も立てずに霧散した。

 あれだけ凶悪な死に対して行った行動の少なさと、その効果的なまでの態度が習慣と直結し、ああ彼は獣の敵だったのだと認識できる。

 細い体躯に秘められた強さ、視線を合わせて来る誠実さ――その瞳から溢れる強烈な意志。

「経緯はさておき巻き込んだ事実をここで謝罪しよう。すまない、気付くのが遅れてしまったようだ。――俺も未熟か」

「いや……その、助けてくれて、ありがと」

「……ふむ。では戻るといい」

 一瞬、彼が何を言っているのかわからなかった。

「戻る?」

「日常への回帰――日常とはそも昨日から続いた今日であることに違いはない。ここは日常の外れ、お前の居場所ではあるまい」

 足元が崩れるような錯覚に陥った。無骨なまでにしかし繊細な彼の指先が額に当たるのと同時に、何かが割れるように躰から力が抜けていく。

 脱力、それは安寧によってもたらされる危機と平穏の温度差が大きければ大きいほどに強く訪れるものだ。

 戻る――のだろう。戻ってしまう。

 彼は危機とされるこの場所に、自分は平穏とされる現実に。

「続ければいい。恐怖を忘却の淵に沈め日常を続けろ」

 素直に嫌だと口にするのは簡単だった。断ると、忘れたくはないのだと、心情を何よりも素直に吐露するのは呼吸のように行える。

 けれどそれは我侭で、現実を蔑ろにした利己的な発言に他ならないことを、誰よりも彼女は知っていた。

 怖いと。

 死ぬのだと。

 そう直感したのは、彼女自身だから。

「――っ」

 鏡の向こう側から切り離される。ただそれだけのことが、ひどく悲しい気持ちにさせられた。

 だがそれは死と直結した恐怖との離別でもある。

 だからこその安堵が、故の安心が、彼女にとってはどうしようもなく悔しい気持ちを掻き立てられる。

 鏡の向こう側と、こちら側。

 自分が立っているのは、どっちだろうか――そんなことを思った。


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