08/15/00:30――雨天暁・青色の策

 合図と云えば、それはきっと一つの合図だったのだろうと思う。

「涙眼!」

 嬉しさに口が歪むのを抑え切れずに叫びを上げたかのような暁の声は上空に向けて、そこにいるだろう自身の天魔に向けて放たれた。空から降り注ぐ雨に乗るように、雨脚を強めながらもうっすらと見えるのは暁の背中に被さるよう出現し、やがて薄れ消えていく和服の女性は、周囲にたっぷりと水分を振りまいて。

「ほう、ほうほう」

 その水気が、藻女が放っていた威圧感の悉くを弾き返した。

「そやつ〈百眼〉の系列に在る天魔よのう――久方ぶりに逢おうても、妾の姿を覚えてはおるまい。――む」

 そうして、藻女は蓮華がいつの間にかいなくなっていることに気付く――だが背後にいた者は、水にぬかるんだ大地を蹴る足跡だけを視線で追えている。それは高速移動なのか、あるいは何かの術式なのか、見当はつかなかったけれど。

「どこ見てンだァ?」

 側面からの声に振り向き――いない、背後へと振り払った扇子が暁の居合いを受け止めて弾く。その流れで扇子を縦に軽く振ると、そこに生じた〝切断〟という事象が呪力によって強化され――それを暁は真横に飛び跳ねることで回避した。

 その背後、石を切り裂き木を切断し――草去すらをも切断するかと思われた力はしかし、道程半ばにて停止する。少し加減をし過ぎたか、それとも強くし過ぎたか、どちらに迷ったのかはともかくも藻女は小首を傾げてみせる。

「遅いのう」

「そうかよ」

 低い体勢で滑り込んできた蓮華が振るう小太刀を、上半身を僅かに逸らしつつ、その小さな指が軽く抓んで勢いを完全に殺し――気付いた時には遅く、左手で小太刀を振り上げながらも更に踏み込みを見せた蓮華は二手目で確実に藻女の胴体を蹴り飛ばしていた。

 蹴り飛ばした方向は真上、迎え撃つは上空での居合い――抜刀、〝崩落〟だ。

「――ッ!」

 最大効果範囲で命中した居合い。鞘を握っていた右手が鍔を弾くのと同時に空を泳ぎ、命中後に藻女の手から離れた小太刀を回収――背後、暁の襟首を引っ張るようにして空中で移動の助けをする蓮華と間合いを取ってから着地。

 背後に放り投げられた小太刀の落下地点まで暁の肩を足場にバックステップを踏み、頭上でそれを受け取った蓮華は――笑った顔のまま、往けと声をかけるのでもなく、藻女が落ちて埋もれた瓦礫へと向けてその切っ先を示した。

 足元に一円、更には未だ鞘中にある刀の鍔と柄にそれぞれ二円――合計の三円の青色、水の術式紋様を展開した暁もまた、口元に苦笑とは違う笑みを浮かべながら藻女が出てくるだろう地点に向けて居合いを放つ――雨が、水が、その斬戟の巨大さと強さを彩って軌跡を描く。まるで大きな湖の表面だけを切り取って展開したような錯覚が。

 しかし。

 刃物に水を当てたように――ぱしゃんと、水は一点で弾け飛んだ。

 ――冗談じゃねェな。

 それは藻女に対してではなく、横に並んだ蓮華に対しての感想だった。

 対峙した時から、それは悪魔の誘惑のように暁の胸の内に浮かんでは消えていたのだ。それ自体を否定はしない。

 この青色と、対するのではなく共闘したのならば――とても面白いのではないかと。

 確かに観客に徹している武術家の涼、忍、咲真の三名には連携が取れていると思っているだろうが、実際に横に並んだ暁の見解は違う。

 これは連携を取っているのではない。

 取ってもらっているだけだ。

 蓮華の一手は暁の一手を誘導するものであり、続く行動を決定させるためのもの。短い攻防であったものの、まるで暁の思考を全て読み取っているような感覚があった。だが現実には、ただ、動かされているだけだ。

 暁が駒なら蓮華が指し手で。

 ――その境界線は決して越えられないほど深く、共に闘うことなどできるはずがない。

 暁の領域まで蓮華は階段を下りてきているに過ぎないのだ。

 だがそれでも。

「侮り過ぎたか――」

 暁は。

 ぞくりと背筋に悪寒が走るのを感じた暁は、嫌悪よりもむしろ楽しさに滾りを覚えた。

 そう――これだ。圧倒的な危機、絶対的な恐怖、こういう感覚をたまには味わいたかったのだ。そして何故、使われるのがこうまでして喜ばしいのか。

「――子孫とはいえ葬謳に雨天だったのう」

「おゥよ」蓮華は肩を竦める。「その場から動かず、しかも藻女の状態でやろうッてンだ。少しは尻に火がついたかよ」

 瓦礫を押しのけて現れたのは幼女ではなく、成人女性。先ほどよりも声色が落ち着きかつ、着物も白色に朱といった模様で瞳が鋭く絞られている。

「はッ、お色直したァ余裕じゃねェかよ」

「風狭を二分した御大のお出ましだ――いいね、こりゃいいぜ。八尾、玉藻か。一つ間違えりゃ幻想種にも匹敵する妖魔だ。元服前の花火としちゃァ最高級だ、なァ!」

 二人は、決して無傷ではなかった。

 蓮華の右足は藻女を蹴った時に負傷したのか、膝から下の衣服は裂け崩れており、また靴もなく素足。左の靴もどこかに脱ぎ捨てたようだ。暁にしたところで平然とはしているが左の手首付近が赤く腫れ、柄を持つ手は僅かに痺れて振動している。

 妖魔とはつまり、呪力の塊のようなものだ。彼女の属性は金気――文字通り木に限らず、あらゆるものを切断する金属に当たる。いくら術式で強化しようとも、それで無事に行ける相手ではない。

「暁、時間が迫ってンのよ」

「おゥ、説明はできねェけどわかるぜ」

 そろそろ、草去中の妖魔があふれ出してもおかしくはない頃合だ。

「それによ、長引かせると瘴気を土地が喰う。元よりここは五つ目の森よ、瘴気との相性は良いのよな」

「よし。――おい玉藻、とっとと終わらせようッて話が纏まったンだが良いか?」

「暢気よのう。妾としてはしばし楽しみたいものだが――ほう、そうじゃの、こういう時はこう放つべきか」

 扇子で隠していた口元を顕にし、その紅を楽しみに歪めて彼女は言う。

「――では終わらせて見せよ」

 並んだ暁が一歩前へ出たのか、蓮華が後ろに下がったのかはわからなかった。きっとそのどちらでも正解だろう――ただし、蓮華の右手が暁の袖を僅かに引くような動作をしたので、あるいは止めようと思ったのかもしれない。

 今までで最も速く――踏み込みによって速度を軽減させない竹割りの一刀はしかし、居抜かれることもなく扇子によってあっさりと切っ先を動かされ、地面に当たる寸前、玉藻が手首を返し扇子の先端をぽんと暁の胸に当てた。

「――」

 躰が自然に動くような感覚はもう何度目だろうか――躰が覚えていることに意識は追随するものであるが、この戦闘に限って云うのならば意識が反応するよりも躰が、躰が反応するよりも早く行動に移っている。しかも違和感なく、そうすべきが当然で――否、そういう行動に至ることが既に決定されているように。

 攻撃はただの攻撃でしかない――上半身を動かし完全に玉藻の腕が伸びきるまで支点をずらしてやり、その勢いを殺さず右足を振り上げた。

 ――俺ァ駒として誇りでも持ってンのかね。

 単一の攻撃は、ただの攻撃だ。捉えられない速度、破壊を確約した力、その二つが揃っていたところで中らなければ意味がない。故に攻撃と防御、あるいは回避や偽装を混ぜ合わせて戦術を組み立てる。最終的にしろなんにしろ、有効的な一撃を与えるために。

 ――ンでも蓮華の采配がこうなら、俺ァ乗るまでだ。

 右足が狙うのは腹部でも顎でもなく更に上の瞳――ゆえにそれを目隠しと云う。

 そして戦略とは、その戦術を組み立てたものであると暁は知った。多くの手段は戦術となり、多くの戦術を戦略とする。

 だとすれば暁は戦術しか考えられない。だから戦略と呼ばれる流れに身を委ねる。

 右足が玉藻の視界を奪ったのはおよそ二秒――直後、暁は扇子の一点に集中した呪力による砲撃を腹部に受け、およそ二百メートルほどを一気に吹き飛ばされた。

「暁!」

 途中でバウンドしなかったのは幸運だが――しかし。

 ――はッ、わざとらしいぜ大根役者。

 喉の奥で笑うよりも早く、暁は背中に強い衝撃を受けて瞬間的に視界が真っ白になった。

 舌打ちを一つ、抜き身の小太刀を右手にまるで今から武演を見せるかの如き体勢を取った蓮華は未だ玉藻の間合いの外に位置していた。

 切っ先を地面に落とすよう逆手で、しかし右腕は真っ直ぐ伸ばす。左足を前へと踏み込み腰を落とし、左手は刀身を撫でるかのような位置に添える。視線は玉藻へ。

「……」

 しばし暁の飛んでいった方向へ意識を飛ばしていたが、身動きがないことを確認したのか玉藻がこちらを注視してしばし思考の間を置いた。記憶にあるかどうかはさておき――両足で地面をべた踏みの構えは、先の先を取る狙いがない。おそらく防御に回るためのもので。

 時間稼ぎ、という結論に至るまでに時間を要しなかったが、しかし。

 ――本当か? と疑問が浮かんだ。

 短期決戦と謳いながらも愚直なまでの最速の居合い。搦め手でもない、まるで通じないとわかった上での攻撃にしか思えなかった。敢えて一撃を受ける意味を玉藻は見出せない。手ごたえは十分だ、死んでいなくても無事では済むまい。

「ふむ」

 とはいえ疑惑に囚われるのはいけない。どのみち打倒し尽くせば結果は変わらないのだから、そこに迷いを生じる必要性は皆無――だから。

 だから、此度は玉藻から接近戦闘を挑んだ。

 遠くで、瀬菜が驚きの声を上げる。

「あれは一ノ瀬流、桜花の舞――」

 左右にそれぞれ扇子を広げ接敵した玉藻と蓮華は攻撃と防御の応酬をする。お互いに舞うよう、足元で円を描くようにしての接近戦闘は、容赦もなく金属同士によって火花を散らす――本来や刃を合わせることを避ける武術家らしからぬ攻防だが、蓮華はそもそも武術家ではないし、直接的にぶつかるのではなく受け流す際に力がかかっているため、刃毀れをするわけではない。

 冬場の風鈴を夢想させられた。

 時折吹く風に思い出したよう涼しげな音色を奏でる夏場とは違い、冬場の強い風に揺すられて忙しなく音を発する風鈴のように、火花に合わせるようにして澄んだ音色が響き渡る。

 ただその音が美しくて、眩しくて、一撃毎に発生する衝撃波が大地を抉り、倒木を壊し、未だ境界線でなんとか保たれている結界を激しく揺らすことに意識が向かない。

 いつまで続くのか――魅入っていた彼らの中でそんな台詞を漏らしたのは瀬菜だと思う。彼女自身も自覚なく、独り言のようにぽつりと漏れてしまっただけで、その声が耳に届いてからはてと首を傾げるほどだった。

 五分。

 厳密にはわからないけれど、それくらいだと思う。高速とはいえ桜花の舞は演舞として身につけるものであって実際戦闘で舞そのものを使うのは珍しい。それでもとうに三度目の繰り返しに入っているし、体感時間でもそれくらいだった。

 それくらいで、蓮華は思い切り弾き飛ばされた。

「――ッ」

 防御を強引に破る攻撃は捌く暇を与えられず、手から離れて行った小太刀の行く先を見定めることもできない。右腕を跳ね上げられた無防備な体勢へ扇子が真横に動いてくるのがわかる――右から左へ、こちらの首と胴を切断する動き。

 ――おいおい、さすがにそりゃァまずいのよな。

 だから自由に動く左手を右方向へ向けつつ躰の位置を変え、

「ぐッ……!」

 力が左腕と激突し吹き飛ばされる。切断の力を逸らしたために腕が千切れることはなかったが――飛距離の予想、まずい、遠い、くそッ!

 左腕の激痛を無視して右手の袖から、先に暁の袖から引き抜いていた五本の飛針を取り出し、まとめて掴む。それを大地に突き立てて柱に見立て勢いを殺す――殺す――勢いを殺しきった辺りで握力の限界が来て手放す――距離は。

 玉藻と蓮華の距離は、およそ十五メートル。なんとか――。

「なったか」

 右腕の肘辺りを使って躰を起し、蓮華は笑う。――いつしか髪飾りのなくなった髪を揺らしながら。

「往けよ」

 言う。

 震える躰を起しながら、倒れそうになる躰を留めながら。

「往け!」


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