順平候の墓守り
豆狸
第1話 洛神
その晩はとても月が見事だった。少年兵はこっそりと幕舎を抜け出し、河原の手頃な岩の上で川のせせらぎに耳を澄ます。
戦中でなかったら仲間達と夜明けまで飲み明かしたろうが、今夜は何故か昨年死んだ父の事ばかりが頭を過ぎる。
(なんだって今更…くそっ、縁起が悪ぃ)
農夫だった父は喧嘩だけは強かった。そして名将と謳われる趙将軍の部下として戦った事をいつも自慢していた。
そしてもうひとつ、いつも話していたのが…
『オラは河の神様に会っただよ』
少年は目眩を覚え頭を抱えた。
(妄想にしても限度があるっつの!)
彼は何度も父に口外するのをやめるように頼んだ。だが父は頑として譲らず、それを皆に吹聴してまわったのだ。
それは漢水での戦を終え、本国へ帰還する前夜の事。深夜、見張りをしていた父・張某は川のせせらぎに交じった笛の音を聴いた。
戦は終わったとはいえ此処は戦場である。だがその澄んだ旋律は敵襲とはどうしても思えない。
(誰が吹いとるんかのぅ?気になるだよ)
張某は交代の時刻までは我慢していたがやはり好奇心に勝てず、ひとりこっそりと上流へと向かった。
笛の音を頼りに随分と歩いた。一刻程経った頃、彼は開けた岩場へ辿り着いた。張某はそこで見た光景に息を呑む。
「あれはもしや河の神様でねぇか!?」
彼の話によれば、錦で織られた衣を纏った綺麗な顔だちの男が切り立った岩場の一番高い処に座り、笛を吹いていたそうな。
男は張某に気が付くと笛を置き、薄く笑みを浮かべながら言った。
「よくここまで来た、誉めてやろう」
威厳の有る声音に張某は河の神であると直感した…らしい。低頭したままそう述べると神様は一瞬呆けたが、張某に話し掛けてきた。
「……折角こうして拝顔叶ったのだ。何か望みは無いのか?」
張某は神様をじっと見て言った。
「では申し上げますだ」
その内容に神様は再び呆けた。
「…この私に今度産まれる子の名付け親になれと?」
激しく縦に首を振る張某に神様は肩をワナワナと震わせた後、呆れ顔で言う。
「斯様な事は貴様の上官にでも頼めばよかろう?」
しかし張某は慌てて首を横に振り、
「そったら事ぉ恐れ多くて出来ねぇだよ!」
神様は形の良い手を額に当てて呟く。
「普通は神様に頼むほうが恐れ多いのではないか?」
「そうだかな?」
だがこのままでは埒があかない。仕方がないとばかりに神様は言った。
「ならば雲にでもしろ。戻り次第上官に了承を貰ってな…」
張某は驚いた。
「へぇ…さすがは神様だなぁ。何も言ってないのにオラが趙将軍の部下だとわかるたぁ、さすがだよ!」
神様は遂に堪え切れぬとばかりに破顔する。
「そうだ、なんでも知っているぞ。神様なのだからな」
神様は岩に頬杖をついたまま嬉しそうに続けた。
「趙子龍…いや趙将軍だったか…あれは心の広い男と聞く。きっと嫌な顔もせず…寧ろ喜ぶと思うぞ」
張某は嬉しくなった。趙雲こそは彼にとって誰よりも尊敬する人物なのだ。
「じゃ、女だったらどうするがいいだ?」
神様は少し思案してこう言った。
「その時こそ奴に頼むがよい。ああ見えて博学であるらしい。よい名をつけて貰えるのではないか?」
「よくそんな事まで知ってるだな?」
張某は驚きのあまり唸りながら続ける。
「やっぱりにゃあオラ達には想像もつかない力ってもんがある。神様にゃあ御子はおられるんですかい?」
「…いる。先日も娘をもうけたばかりだ」
「こんな神様の御子ならさぞや御美しい姫君でしょうなぁ」
その後も張某は神様と明け方までいろいろな話をしたらしい。後日報告を受けた趙雲の心境はいか程のものであったろうか……
彼は張某の話を聞き終えた後、苦笑いしつつも己の名の使用を認めてくれたという。
ただし一言こう付け加えた上で…
『名は体を表すと言うからな。こうみえても結構親不孝ものだったのだぞ』
成長し、自ら仕官した張雲は軍師・諸葛亮に真実を聞かされ目を剥いた。
「実はお父上が会ったのは神などではなくお忍びで従軍していた魏の文帝なのですよ。夜目で判らなかったでしょうが敵の軍師・司馬懿などもいたでしょうし、恐らく弓兵等が取り囲んでいた筈です。少しでもおかしなマネしてたら殺されていました」
死なずに済んだのは父の底抜けの明るさ故だろうと諸葛亮は笑みを浮かべて言った。だが魏兵には殺されなかった父も流行り病には勝てず昨年果てた。
「つくづく幸せな奴だな親父って…」
思わず薄く笑みを浮かべながら川原の岩に寝転んだ張雲だが、ある音を耳にして飛び起きる。
「嘘だろ…?」
その笛の音は川の上流、国境付近から聞こえてきた。張雲は辺りを見渡しながら注意深く進み、遂にそれを目にした。
その麗人は岩の上に立ち、地に届きそうな艶やかな髪を夜風に揺らしている。
「まさか本物の河の神様なんじゃあ…」
その呟きは風に乗って相手に届いたようだ。僅かな笑みを浮かべると麗人は瑠璃色の衣を翻して夜の闇へと消えた。
「…やっぱり本物?!」
思わず絶叫してオロオロする張雲を遠くから見つめる男がいた。彼は深いため息を吐きながら麗人に向き直る。
「まったく…親子揃って何を考えておいでか。戦の最中に姿を消すなどもってのほかですぞ!」
激高して言う司馬懿に対し曹叡は艶やかな笑みを浮かべ、
「別にいいんじゃない?あちらも二代目みたいだから」
父が話してくれた異国の愉快な男とのやり取りは幼い頃の曹叡にとって興味深いものであった。状況を理解した者達が徐々に肩を震わせ始め、司馬懿も彼の男を思いだし口元を緩める。
「つまり皇位だけではなく洛神の称号も継承なさったわけですな」
月夜の映る川原に両軍の兵達の笑い声が響く。それは戦の最中の束の間の休息であったといえよう。
…真相を知り、青ざめる者を除いて。
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