白刃と魔法Ⅱ

「ミニア!」


「すわっ! ぬしがどうしてここにおるんじゃ?」


 アーロンドに声をかけたのは、確かにダマスカスでバーリンと戦っていたミニアだった。もちろんバーリンの襲撃はとうの昔に追い払ってしまっているだろうが、それにしてもアーロンドたちよりも早く着くとは。


「最近ね、自家用車を買ったのよ。私を置いていかなかったら乗せてあげてもよかったんだけど?」


「それは、たいへん失礼をしましたね」


 自慢げに話すミニアにアーロンドは苦笑いを浮かべる。バーンが研究所にいることを教えたのは他の誰でもないこのミニアなのだ。騒動に紛れて逃げ出したところで行先がわかっているのなら追い付くことは難しくない。


「今日は出張でこっちに来てるのよ」


 ミニアは自分の胸についている名札を指差した。ついさきほどアーロンドが受け取った外部用の紙製のものではなく、官職用の装飾がついた豪華なものだ。


「……いい? 今日は出張で来てるの。れっきとした仕事なんだから」


「それは職権濫用でしょう」


「いいのよ、別に。有給休暇の申請は全然通らないのに、出張名義ならろくに内容も確認せずに承諾するんだから」


「濫用なのは認めるんですね」


 今にも頭痛の起きそうな頭を押さえてアーロンドは首を振った。巻き込みたくはないと思っていたからこうして黙って逃げてきたというのに、こうも簡単に追い付かれてはまったく意味がない。


「私から逃げようなんてそう簡単にはいかないんだから。ちゃんとアポ入れて入りやすくしておいたんだから感謝してよね」


「全くその通りですよ」


 怒ったふりをして腕組みをしたミニアに、アーロンドはわざとらしく頭を下げた。これで手打ちにしてもらえることだろう。しかし、アーロンドはやはりミニアにはついてきてもらいたくはなかった。もちろんバーンにもだ。


 バーリンの少女を連れているということは、この後どんなことに巻き込まれるかわかったものではない。そんなことに自分の勝手で付き合わせるわけにはいかない。まして彼女はサイネアの正体すら知らないのだから。


「さ、行きましょ。三人で会うのなんていつ振りかしら?」


「わしもおるぞ!」


「わかってるわよ。おやつを用意してるから楽しみにしててね」


 サイネアに笑いかけながら、ミニアは階段に向かって歩き始める。そこまで気が回っているとは恐れ入る。その圧倒的な行動力にアーロンドは抗えそうもない。


 階段を上がって最上階。角部屋の扉をノックする。


「やぁ、アーロンド。久しぶりだね」


「えぇ、バーンも変わりなく、はないようですね」


 ノックに答えて扉を開けたバーンは数年前に見た時よりも明らかに丸々として今にもボタンが弾け飛びそうな白衣に身を縛りつけられている。学生時代も肉付きは悪くなかったが、それは細身のアーロンドと比べた場合であってこんなにふくよかではなかったはずだ。


「いいのよ、アーロンド。言葉を選んでないで太ったって言っても。私だってビックリしたんだから」


「普通は数年ぶりに会った旧友に一言目からデブ、なんて言わないんだよ」


 むっとした顔で睨んだバーンに対しても、ミニアは容赦ない。


「それが嫌なら食べる量を減らせばいいでしょ。もう若くないんだから」


「余計なお世話だよ。ちょっと研究がたてこんでて小食なくらいさ」


 小食でそれですか、と頭に浮かんだ声を飲み下す。アーロンドはミニアと違ってそれなりに分別ふんべつがついているつもりなのだ。


 バーンの研究室に案内されると、いきなり山積みの紙の束が迎えてくれる。個人の研究室にしてはかなり広い。大学の教授のものより二回りは広く見えた。研究ノートを書きつける事務机にも様々な書類が山のように積まれている。かろうじて実験用の机はきれいに片づけられているが、前回の研究の残りなのかバーリンの結晶が転がっている。


 ガラス戸の棚には淡い光を放つ液体や、真っ黒なバーリンの結晶が無造作に並べられていて、アーロンドは見ているだけで懐かしさを覚えた。


「こうしていると学生時代を思い出しますね」


「アーロンドが一番勉強できたからな。君は楽しかったろうよ」


 バーンは実験机に残っていた結晶を棚の中にしまい込む。引き戸の向こう側に見えた紙袋の中身が気になったが、食べ物のような気がしてならない。


「バーンも楽しくやっているみたいですよ。良い部屋ですし」


「まぁね。でも君が来たいって言うならいつでも研究員になってくれていいんだよ」


「ダメよ。その前に私が防衛省に引き抜くんだから」


「いえ、私は今の生活も気に入っていますから」


 杖職人ならどこでもできる。それが今の仕事を選んだ一番の理由だった。生活必需品となっている杖の職人ならどこにでもいるし、廃業してしまってそのままになっている工房を買い取ることもできる。人との深い関わりを恐れて各地を転々とすることになっても問題が少ないと考えたからだった。


 父が杖職人だったことが、どれほど影響しているかはアーロンド自身もよくわかっていない。志半ばで倒れたと言ってやるには、父はあまりにも不出来だったように思えた。


「適当に座ってくれていいよ」


「この辺り使っても大丈夫よね?」


 遠慮の一つもなくミニアが買ってきていたらしいおやつや飲み物を並べていく。なんだか学生に戻ったような気分でアーロンドは自分のハーブティーを手元に寄せた。


「わしも座ってよいのかのう?」


「えぇ、好きなところにどうぞ」


 ひょこりとアーロンドの背中から顔を出したサイネアにミニアが微笑みかける。少しくらいはミニアにも心を開いてくれているようでアーロンドは安心して椅子に腰かけると、その隣にサイネアがちょこりと座った。


 もうずいぶんと慣れてしまった光景で、アーロンドはもちろん、ミニアもそれに何かを言うこともない。ただずっとアーロンドの背中に隠れていた小さな子供に全く気付いていなかったバーンだけは違う反応を示した。


「もしかして、君の子供?」


 バーンが質問を投げかけるのと、その頬が乾いた音を立てて張り飛ばされるのはほとんど同時だった。

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