第1章 無垢なる者たち

Ⅰ 花水木(ハナミズキ)

 月並みな慣用句では風光る、というのだろうか。


 ハナミズキの街路樹が続く、どこまでもまっすぐで平坦なアスファルトの通学路。

 郊外にありがちな顔のない街に一陣の風が吹き渡ると、春光に照り映える世界でかすかに若緑を含んだ薄紅色の花弁が揺れた。


 暑い。

 北国出身の星川樹にとっては、春の日差しというよりもはや初夏を感じさせる陽気だった。

 うららかな朝の陽光は刻々と強まり、通学途中の少年の足取りを一段と重くさせた。風が光ろうが、薫ろうが関係なかった。


 樹が羽織っているのは、伝統ある郁青いくせい学園高等部の学生と一目でわかる上質なブレザー。

 目が覚めるばかりの紺青色の制服は学生の群れに交じってしまえばなんてことのない保護色でも、通学途中ではかなり目立つ代物だ。ボタンはすべてはずしていたが、それでもじっとりと汗ばんできた。

 もともとゆるめに結んであるネクタイをさらにゆるめて、シャツのボタンをまたひとつ開けた。


 ハナミズキの木陰で、首から提げていたウォークマンの米粒ほどの時刻表示をのぞき込む。


 8時25分を少し過ぎたところだった。


 周りにはもう制服姿の生徒の姿は見かけなかった。朝の学活が終わるまでには間に合わないだろう。まったくもって幸いなことに。


 4月16日。

 「あの日」からちょうど一年。どこまでも果てしなく続く真っ青な北の空にはまだ桜吹雪が舞っていた。


 教室では「あの日」の悲劇がお仕着せの追悼の言葉とともに語られているだろう。


 唾棄すべき偽善者たちめ。


 樹はスモッグで霞んだ都会の空へ向かって見えない銃の引き金を引いた。


 郁青学園は小学校から大学までそろった一貫校で、田園都市、都西市の一角を占める。 


 「若者は、おしなべて郁々青々たる草原のごとき駘蕩たる存在であるが故に、たとえ教育の名においてもそのあるがままの才能を刈り取ってはならぬ」


 郁青学園という校名は初代理事長である陶隆継博士の言葉に由来している。


 学園の校是は、「不立文字ふりゅうもんじ」。


 学問は座学、机上の空論のみにあらず、体験によってこそ得られるべし―――という設立理念を体現するためか、武蔵野の面影を残す緑豊かな広大な敷地には煉瓦造りの瀟洒な建物が並び、多様な付属施設が併設されていた。


 たとえば、スタジアム規模の総合体育館からアーチェリー場、馬場までがそろった最高水準のスポーツ施設。


 それ以外にも、プラネタリウム、美術館、農園、牧場、実験棟・・・・・・と、もはやテーマパーク並の充実ぶりで、学園自体がひとつの街といってよかった。その学園都市のなかにそれぞれの学舎が点在していた。


 要は、校門を通ってから校舎にたどり着くまでが非常に長いのである。


 校内のよく手入れされた小径を急ぎ足で歩いた。ちょうどHRが終わった時間だった。一限目にはなんとか間に合いそうだ。

 まじめぶるつもりはなかったが、悪目立ちする気もまったくなかったので、まあ妥当な時間だった。


 それなのに……。

 運悪く職員室のある別棟に戻る途中の原田裕太に遭遇してしまった。

 二年三組の担任である原田教諭はまだ採用二年目の若い数学教師で、チェックのダンガリーシャツにセルロイドの眼鏡をあわせた平凡を絵に描いたような人物だった。


 性格も人畜無害、よく言えば人の良いタイプなのだが、樹にとっては転校後数多く遭遇したうっとうしい偽善家の代表格だった。


 「ああ、良かった。星川、三者面談の件で君に話があるんだ。希望日時のアンケートがまだ未提出だったろう」

 遅刻にはふれず、原田教諭はいきなり切り出した。なにもこんな日にそんな話題を出さなくても、と思った。


 「面談は必要ありません。僕にはもう両親はいませんから」

 深刻そうな顔つきでそう答えてみた。二の句が継げまいとおもったのに、原田裕太は思ったよりも繊細ではなかった。


 「君の保護者は中等部の星川先生だろう。たとえば昼休みとか星川先生の都合のいい時間にどうかな」


 「姉さんは僕の保護者じゃありません。どちらかといえば僕が姉さんの保護者です」


 日頃から彼の机に黙々と買ってきた参考書や問題集を積み上げる姉の顔を思い出してうんざりした。そのくせ広くもないアパートがどれほど汚部屋だろうと頓着しないくせに。こっちは家事全般協力してやってるのに。


 「ははは、君はおもしろいな。それはともかく君の進路希望、就職とあったね。星川先生に伺ったところによると、君は中学時代にロボコンで優勝していて、南陸奥県でも有数の進学校の理系クラスに在校していたそうじゃないか」


 「ほんの半月です。クラスメートの名前も覚えられませんでした」

 できうる限りの暗い声で答えた。迫真の演技だったが、これも空振り。

 「学費なら心配することはない。サクラ重化学から君のことは大学まで面倒をみたいと内々に申し出があったそうだ」


 「彼らの賠償金に頼る気はありません。それに僕は自動車の整備工になるのが夢なんです。ほっといてください」

 この一年ずっと感情を押し殺していきたが、とうとう内心のいらだちを表に出した。腹立たしいことに、原田教諭はほっとしたような満足げな表情をみせてずれた眼鏡を押し上げた。


 「就職するにしても面談は必要だ。僕から星川先生に直接アポを取るよ」

 当然返ってくるだろう拒絶の言葉を待たずに、原田裕太は颯爽たる足取りで走り去っていった。


 就業前の教室の喧騒は、目が覚めるような紺青色の制服と誰もがタッチペンとNタブレットをもてあそんでいることをのぞけば、いずことも変わらぬ学校の風景だった。


 この制服と同じく紺青色のNタブレットは生徒全員への支給品。フィルタリング一切なしで、使用法は生徒の良識にまかされている。


 郁青学園は医療・教育・通信事業関連の総合商社であるニダバ社直属の実験校であり、Nタブレットはニダバ社からの提供品だ。


 この国の学生でニダバの名を知らないものはいない。

 古代の学問の女神ニダバにちなんだ、学力のみならず、知能、体力、心理、個人の潜在能力すべてを棚卸しして総合的に診断する包括的インベントリープログラム、ニダバ統一検査によって、子どもたちは幾度となく選別され将来の進路が決定されるのだ。


 そして、大きな黒い瞳が愛くるしいニダバ社のイメージガール「アリス」が世間を席巻している。


 いわゆる仮想アイドル、プログラムにして実在がほのめかされた存在。


 樹もNタブレットのブラウザをもてあそび始めた。

 起動画面で微笑むツインテールの女神様、アリスには目もくれず。


 検索ワードは、多関節ロボット、仮想軸、直立歩行、作動制御―――。


 誰と言葉を交わすことなく退屈な授業をやり過ごした樹は、昼休みのチャイムとともにおきまりのコースをたどった。


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