第18話 忍び寄る気配

 本格的な夏が近づいてきて、少し汗をかいて目覚めるようになった朝。

 フィオーネは強烈な生臭さを感じて目が覚めた。

 最初は、自分の汗だろうかと考えた。でも、どれだけ大量の汗をかいたところで、体からドブのようなにおいはしないと気がついた。

「……鍋?」

 目を開けて起き上がり、薬鍋のそばまで行ってみた。昨夜、考え事をしながら混ぜたせいで焦げてしまったけれど、ドブのような臭いはしなかった。……フルーティなドブが焦げた臭いがしている。

 臭いの出所を探ろうと、フィオーネはひとまず着替えた。寝間着のまま何かしているところを誰かに見られると恥ずかしいから。朝目覚めた瞬間から、いつ誰が訪ねてくるかわからないというのは、医務室勤めのきついところだ。寝ているのを起こされたことは、今のところないのが救いだ。

「あ! カイザァ……何よ、それ」

 悪臭を発する虫がいるのだろうかとか、捨て忘れたゴミに気づかず、それが気温の上昇にともなって臭いを発するようになったのだろうかとか、いろいろなことを考えていたのに。臭いの正体はあっけなく発覚した。

 窓のすぐそばに、毒々しい色をした巨大な魚が落ちていた。その隣には、得意げな顔のカイザァ。どうやらこのくさい魚は、カイザァが捕ってきたものらしい。

「ウニャーオ」

 鼻をつまみ、何も言えずにいるフィオーネに、カイザァはひと鳴きした。「どうだ、すごいだろう」と言いたげな声に反応して、魚がビチビチと跳ねた。その動きによって悪臭の元である液体が飛び散り、それを見たフィオーネのこめかみにピキッと青筋が浮かぶ。

「もー! どうしてそんなもの捕ってきたの? ごはんならちゃんとあげてるでしょ⁉」

 怒りに任せて、つい大きな声を出してしまった。怒鳴られたカイザァは驚いて背筋を伸ばした直後、弾かれたように窓から逃げだしてしまった。

 残されたフィオーネは、がっくりと膝から崩れ落ちる。

「……もー、出ていくんなら、この魚も持っていってよ……」

「一体何事だ?」

 鼻をつまみ、半泣きになりながら雑巾で床を掃除していると、腕で口元をガードしたベルギウスがやってきた。床に這いつくばるフィオーネに気づき、目を見開く。

「廊下に異臭がただよっていたから来てみれば……臭いの発生源はその魚か?」

 涙目のフィオーネを見て、ベルギウスはすぐに駆け寄ってきてくれた。

「朝起きたら、カイザァが持ち帰っていたんです」

「臭いが、危険はないようだ」

 ポケットからハンカチを取り出し、それを尾のあたりに巻きつけてベルギウスは魚を持ち上げた。そしてしばらく観察すると、呪文を唱えて魚を凍らせる。

「これで大丈夫だ。あとで私が持ち帰ろう」

「ありがとうございます。……どうしよう。変なものを持ち帰ったからって、カイザァのことをひどく叱ってしまったんです」

 悪臭の脅威から解放されて冷静になったフィオーネは、自分のしでかしたことに気がついて愕然とした。腹が立っても、無邪気な猫のすることを叱るなんて、してはいけないことだ。

「叱るより、褒めたほうがよかったかもしれないな。褒められたくて、次はもっと大物を持ち帰るかもしれないな。まあ、ヘソを曲げていても、じきに帰ってくるだろう」

 落ち込むフィオーネを、そう言ってベルギウスはなぐさめた。これまでも何度も喧嘩をしたことはあったけれど、そのたびにきちんと仲直りできたから大丈夫だろうと、なぐさめられたフィオーネは思い直した。

「こんな大きな魚、どこから捕ってきたんでしょう?」

「見たことがない、禍々しい姿だ。おそらく、裏山からじゃないか。……あそこの環境は悪化の一途だ。私の学生時代は、普通の山だったのだが」

「裏山……」

 動植物が凶暴化し、毒沼ができ、気分の悪くなる瘴気に満ちた場所のことを思い出し、フィオーネはげっそりした。

 ベルギウスが在学していた頃にはそんなことはなかったというのだから、今いる生徒たちが環境を破壊しているとしか思えない。

「いっそのこと、生徒の出入りを禁止したらどうですか? 生徒が失敗した魔術道具や薬を捨てるから、山は荒れてるわけでしょう? ……薬学の授業もないのに、薬が捨てられるなんて……」

 いっそ休み時間の魔術の使用も禁止してくれたら。悪ガキの負傷も減るのではないかとフィオーネは考えた。

「それで事態が改善してくれればいいのだが、“禁止”という言葉には魅力があるらしく、禁止にすれば今より悪化する可能性があるんだ」

「ああ、なるほど」

 ベルギウスが遠い目をしているのを見て、彼ら教師が何も策を講じていないわけではないとわかった。そして、すごく気の毒になった。

「そうだ。今日はいつもより早くここに来たのは、リッツェルさんの耳に入れておこうと思ったことがあったからだった」

 少しの間、放心していたベルギウスだったけれど、フィオーネが手を洗って戻ってきたときには正気に戻っていた。

「君がハンスという卒業生のことを気にしていたから、私も気になって調べてみたんだが、彼の現在の居場所がわからないんだ」

 そう言って、ベルギウスは小脇に挟んでいた冊子を開く。それは生徒の成績などの記録のようで、卒業後の就職先や進学先も記してある。

「あの、ここに中央図書館管理部って書かれてますけど」

「そうだ。そこが彼の就職先だったようだが、連絡してみたら退職したとのことだ。というより、突然来なくなったんだと」

「そんな……」

 ベルギウスの話を聞いて、またしてもフィオーネは気味の悪さを感じた。魔術学院を卒業していながら図書館に就職したのも気になるし、そこをすぐに辞めているというのも不可解だ。魔術と無縁の進路を選ぶ者も当然いるだろうけれど、多くの者が魔術を必要とされる場所へ行くのだ。

「それともうひとつ、気になることがあったんだ。ハンスの卒業論文なのだが、そのテーマがな……“魔獣の作り方”なんだ」

 深刻な顔で、ベルギウスは冊子をめくった。成績表の後ろに分厚い紙束が綴じられている。

「あの、魔獣って西部地方と北部地方の境界に出るっていうものですよね? あれって、何なんですか?」

 生まれてこの方、この東部地方から出たことがないフィオーネにとって、魔獣という言葉は聞いたことがあってもなじみはなかった。だから、ベルギウスの深刻な様子がいまいち理解できない。

「そうか。普通に生きていれば、あまり知られていないことだったな」

 不思議そうにしているフィオーネを見て、ベルギウスは少し表情をやわらげた。それから、かいつまんで魔獣について語った。

 魔獣とは、瘴気によって生み出されるものだということ。瘴気は、人の発する悪い気だとも。それに魔力が反応したものだとも言われており、生物に悪影響を与える。自然の影響を大きく受けるフィオーネのような魔女も、瘴気にあてられると身体に支障をきたすのだ。そして、魔獣とはその瘴気にあてられ動物が凶暴化したものとも、瘴気が集まり意思を持ったものが動物に取り憑いたものとも言われているのだという。

「魔獣はこの世の嫌悪と恐怖を寄り集めたかのような姿をしていて、見ただけで精神に異常をきたすらしい。だが、年に一度、ある魔術師の一族が大規模討伐を行っているから、禁域の森から出てくることはないのだがな」

 フィオーネが聞きながら不安な顔をしていたからだろう。安心させるように、べルギウスは付け足した。でも、フィオーネが不安を覚えたのは、そのことに対してではない。

「あの、この論文って、これで全部ですか?」

 パラパラとめくりながら目を通し、フィオーネは首をかしげた。

「ああ、どうもな、未完成な状態で提出されたものらしい。とはいっても、自分の学院生活の集大成を報告するためのものだから、未完であっても成績や卒業に関わりはない。……どうしたんだ?」

 腑に落ちない様子のフィオーネに、べルギウスが気遣うような視線を向けた。その視線を受け、フィオーネは考えながら言葉をつむいだ。

「論文は、未完成なんですよね? ということは、ハンスはその“魔獣の作り方”を見つけられていないということでしょうか? でも、女子寮に現れた動き回る影と、ハンスが考えていたことが無関係だとは思えなくて……」

 言っていて、そのあまりの恐ろしさに最後のほうは声が小さくなっていた。無関係だとは思えなくても、具体的にその関わりについて考えると不安になってくる。ただの学生であるはずのハンスが、何を考え、計画し、それをどこまで実行したのかということを、どうしても考えてしまうから。

「確かにあの影には、人為的なものを感じていたが……その線も考えられるな」

 深く考え込んでいたけれど、べルギウスはフィオーネの意見を否定しなかった。そこに彼の誠実さを感じつつも、フィオーネの不安は増大した。

 こうしてハンスという人物のことを探れば探るほど不安要素が出てくるのに、全貌はいっこうに見えてこない。つかもうとすればするだけ、肩透かしを食ってる気分になる。

「ハンスって、どうしようもなく性根が悪い上に、物騒な考えの持ち主なんですね」

 モヤモヤした気持ちを共有しようと、フィオーネはかなり言葉を選んでハンスについて述べた。気をつけなければ、うっかりとんでもない悪口が飛び出そうだった。

「……そうだな。我々は気づかないうちにとんでもない化け物を腹に飼い、奴が育つのを手助けしてしまっていたんだな」

 苦笑を浮かべているものの、べルギウスの口調は深刻だった。ただこの事態を不安視しているだけのフィオーネと、学院からとんでもない存在を生み出してしまったことを憂うべルギウスとでは、そこに大きな隔たりがあるのは当然だろう。

「すまない。不安にさせたかったわけではないのだ。何があっても、我々がきちんと動くからな」

 べルギウスにとってフィオーネは、共に働く同僚というよりも、生徒に近い存在にちがいない。フィオーネの眉間から皺が消えないのを見て、安心させるように笑った。頭をくしゃくしゃに撫でて、さらにニッと笑ってみせるけれど、作り笑いがあまりにも下手すぎる。

「カイザァが戻ってきたら、すごく汚れているだらうから、すぐに風呂に入れてやってくれ。それから、念のために数日は室内にいさせるようにしたほうがいいだろう。裏山への関心が薄れるまでな」

「わかりました」

 やや強引に話題を切り替え、べルギウスは医務室を出ていった。

 フィオーネが知りたがっていあというのもあっただろうけれど、きっといち職員としての意見を求めてハンスの情報を持ってきてくれたのだろうに、結局心配をかけてしまっただけだった。

 そのことが情けなくて、せめてべルギウスの心配を少しでも減らすために、フィオーネはカイザァが戻ってくると即座に捕まえ、お風呂に入れた。石鹸でしっかり泡立てて洗ってやりながら、カイザァには裏山の危険を滔々と説いた。

 いきなりのお風呂とお説教ですこぶる機嫌が悪くなってしまったから、仲直りの意味も込めて、その夜は久しぶりに抱いて眠った。子猫時代の話をして、優しく毛並みを撫でて、どれだけ大切に思っているかを説いた。

 もう二度と、愛猫に危ないことをして欲しくないから。



 それなのに、よく朝目覚めると、カイザァはいなくなっていた。

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