赤の瞳に映るものは美しかった
木根間鉄男
第1話壊された少年と青の瞳
―プロローグ「多数派による押し付けられた正義」―
正義とは何だろうか?
そんな問いに答える声はいくらでもある。だがその大半が言う、正しいものが正義だ、と。これが一般の回答であるならば正しいものとは何だろうか?
それはもちろん明確に定められているわけではないが人は無意識のうちに正しいものを求めている。正しいと言われたことを真に受けてしまっている。
俗にいう正しいもの、それは多数決の原理だ。誰かがこれは正しいと言いそれに多くの民衆が賛同する、そうすればもう立派な正義が出来上がる。悪といわれた方の意見も取り上げられずまるでプロパガンダのように。
それは本当に正しいといえるのだろうか、正義といえるのだろうか?それはある種の暴力的な正義、少数の意見を握りつぶして得た疑似的な平和。生きる人間すべての平和とはいかない、偽りの正義だ。
だから俺は叫ぶ、己の信じた正義を、大衆の信じた正義へとぶつけるべく。正義と正義のぶつかり合い、どちらが勝とうが結局、強さのみが正義なのだ。
世界の正義は、今日も強者に傾いている―
―第1章「壊された少年と青の瞳」―
暗闇に染まる部屋、明かりは窓から漏れる青白い月の光のみ。青が照らすのは燃えるような赤い色。黒のカンバスに広がったなまめかしい赤い色をじっくりと照らしていた。
「やめろ…こんなことをして何になるというんだ…!」
「うるさい、黙れ」
闇に浮かぶ二つの人影。一つは地に伏せ無様に後ずさりをする男のもの、もう一つは手に赤く染まった銀色の何かを持つ小さな影だ。地に倒れている方は左足がずたずたに切り裂かれてもうろくに立ち上がることすらできない状態だ。この部屋に飛び散る赤の正体も、この足から漏れた命の液体だ。
男は後ずさりを繰り返しながら叫ぶ、自身の死を拒むように。けれど小さな影はそれを聞く耳を持っていなかった。もはやその影に男の声は音としても届いていなかった。
「復讐か!?俺に復讐しにやってきたのか!?なら謝る!全部俺が悪かった!だから許してくれ!俺はまだ死にたくないんだ!」
あぁ、無様だ。小さな影は思う、目の前の醜悪な人間の匂いを放つ肉の塊に、ただ蔑みを込めて。あぁ、無様だ。
―なんという無様な姿なのだろう、自分が生き残るために必死に懇願して、あまつさえ過去の罪さえ消してくれと頼み込んでいる!これが醜悪な人間の姿!これが彼の勇者のと呼ばれた人間の末路!―
暗闇に染まる部屋にもう一つの月が浮かぶ、小さな影がたたえる怪しい三日月だ。狂おしいほどの狂気を孕むその三日月に照らされて小さな凶器が闇に煌めいた、赤の鮮血を浴びながら。
「ぐあぁぁぁぁぁぁ!足が!俺の…足がぁぁぁぁぁぁ!」
小さな影は男のずたずたに引き裂いた足の付け根に凶器をねじ込んだ。ぐにゅり、気持ちの悪い肉の感触が小さな手に伝わる。ぐにゅぐにゅ、ぶしゅり、ぐちゃぐちゃ、ばきり、べちゃべちゃ、ぐにょぐにょ、わけのわからない肉と骨と血とその他エトセトラの音と男の絶叫だけが暗闇に満ちた部屋に響き渡る。男が奏でる血肉と絶叫のハーモニーは小さな影の耳に甘美でいじらしくこの世のものとは思えない調和を帯びた響きとしてしみこんでいく。鼓膜を震わせる醜悪の極みの完璧なハーモニーに影は酔いしれる。その音をもっと聞こうと影は思い切り手に力を込めた。その瞬間だった。
男が、叫んだ。
血が、噴き出した。
刃が、地面に突き刺さった。
狂乱を帯びた肉のハーモニーが、途切れた。
地面に無残に転がるのは、彼の左足。
勇者と称えられた彼の、左足。
ゴロン、と丸々と太った芋虫が寝転がっているのかと勘違いしてしまいそうな左足が地面を転がる。コロコロ、ころり―
「うがぁぁぁぁあぁぁぁぁぁ!」
この世のものとは思えないほどの絶叫。先ほどの美しいハーモニーとは違いどこまでも汚い雑音が影の鼓膜を震わせる、不快になるほどに。だから影は、その不快を断ち切った、一瞬で。
あとに響くのは小さな影が転がった左足をサッカーボールを転がすようにぽんぽんと蹴っている音だけ。闇の中に浮かぶ赤は男の魂の終焉をこの世の何物でも表せないほどの綺麗な赤で称えていた。
「おい、聞いたか?あの伝説の疾風のジョンが死んだんだってよ」
「あぁ、聞いたぞ。なんでも左足がちぎられてたんだとさ。うぅ、こえぇな」
「左足のことも怖いけど、これで3人目だぞ」
「あぁ、そうだな…雷光のヒース、炎帝のメロ、次いで疾風のジョンだろ?魔王を倒した勇者三人が殺されてる…残りの二人も殺されるんじゃないか?」
「もしかすると魔王の呪いだったり…」
「バカ言え!呪いなんてあるもんか!」
「いや、でもこれを呪いといわないで何というんだよ」
「…復讐だ」
人類は一度絶滅の危機に瀕した、自らの発明した機械文明によって。行き過ぎた機械の進歩は人間の破滅を呼ぶだけだった。機械工学のために汚染される自然、機械に依存しきったダメ人間の増加、さらには戦争の機械化、これによって人類は死滅寸前まで追い込まれた。すべてのものが機械に支配された世界だがそこに反乱者が現れた。反乱者は世界のプログラムをハッキングし世界を書き換えた。当時はスイッチ一つでミサイルが敵国の何の罪もない命を簡単に殺すことができる時代だ。まさにインスタント戦争が可能な時代、そんな時代にハッキングを受けた世界は暴走したプログラムによって死滅した。戦争のために進歩させたプログラムによっての自滅だ。ミサイルがあらゆる場所から打ち上げられあらゆるものを壊した、建物も、機械も、命さえも。これにより人類は絶滅するかと思われた。
だが人類は絶滅しなかった。驚異的な進化を遂げて。機械がすべてダメになってしまった人類が次に頼ったのは、魔法だった。そう、ファンタジー世界でもおなじみのあの魔法だ。絶滅に瀕すると進化するのは人間も同じだったようで人類の脳は魔法を扱えるように進化した。大気中に存在する目に見えないマナという物質を消費し魔法を扱う、それにより人間の生活は何とか立ち直ることができた。ただ壊された文明は元に戻ることはなく、それに機械の恐ろしさも痛感された人類は文明レベルを仕方なく落とすことになったが。だがそれでも人間が普通に過ごすには十分すぎるほど魔法は世界に浸透していき今では魔法がエネルギーの主となっている。
「よっと」
俺はパチン、と指を鳴らす。するとぼぉっと枯れ枝の山に火が灯りぱちぱちと耳に心地よい音を響かせた。これが魔法、初歩の初歩、火をおこす魔法だ。マッチを擦るように簡単に火をおこすことができたがやはり維持するにはそれなりの燃料、要するに枯れ枝なんかが必要だ。ここら辺は進歩していないがいずれも克服してしまうのだろうか、なんて俺は思い背を震わせる。
夜の闇の中、燃え滾る炎をただじっと見つめる。
「おなか、すいたな…」
なんて呟きながら。
「仕方ないよ、お兄ちゃん…今日は何にも獲れなかったんだから…」
隣でそう言ったのは妹のシャイナ、14歳のまだまだ幼さが残る顔立ちがたき火によってくっきりと照らされている。綺麗な赤い右眼も炎のせいかよりきらりと宝石のように見えた。左眼がないが残念だ、もっときれいに見えるだろうに、と俺は彼女の燃える赤を見ていつものようにそう思った。
彼女の左眼は今はもうない。俺ことリゼの右眼と同じように、もうこの世に存在しないのだ。そのため俺たちは二人で一組の両眼として互いが互いを補い合っている。それはもちろん眼だけではなく生活もだ。俺ができないことをシャイナはやってくれて、その逆もまたしかり。俺たち兄妹は二人で一つの存在、といっても過言ではないのだ。
「街に、買いに行くか…」
「え!?街に…行くの?」
心配そうに俺の顔を覗き込んでくるシャイナ。綺麗な赤の右眼に俺の少しくたびれた顔が映っている。
「あぁ…これで3日目、さすがに空腹だ…それに素材の換金にも行かないといけないしさ」
俺たちは王都を目指し流浪の生活をしている。少し寄り道もしているがしっかりと王都には近づいているのだが、いかんせん金がない。まだ17と14の子供が王都を目指すには資金も労力も半端ではない。ここ3年俺たちはさまよいながらその日暮らしの生活を送っていた。
「あ、確かにそうだね…ウルフの死骸を何日も持ってたら腐っちゃうし…てかもうすでに腐りかけてるんだけど…」
シャイナが脇のサンドバックくらいの大きさのカバンに入れてある亡骸をさしてそう言った。確かに彼女の言う通りカバンからはなんとも言えない死の匂いが漂っていた。
この世界の進化、それは人類が魔法を使えるようになっただけではない。モンスター、魔物とも呼べる存在の登場だ。魔法にモンスター、まさにファンタジー、だがモンスターの登場の仕方はファンタジーとはあまりにも言えないものだが。モンスター、そのすべての基を辿るとそれは動物だ。犬や猫、ゾウやライオンとかの動物だ。それを人間が改良した、遺伝子の配列を変更したりほかの種の遺伝子を組み合わせたり、まさに悪魔のような実験の末おとぎ話に登場するようなモンスターが出来上がった。もちろんというべきか彼らは戦争に駆り出された。初めは人間に管理されていたモンスターだが逃亡、そこからさまざまな種と自然交配を繰り返し栄えていった。そして今では動物と呼べるものはすべて全滅し代わりに野にはモンスターがあふれかえっている、というわけだ。
もちろんモンスターの肉も食べることができる。牛や豚、鳥などを基として進化したモンスターの肉はそれはもう格別にうまい。だが犬やら猫のような普通人が食べないような動物から進化したそれはもちろんまずいわけである。まずい、といっても加工すれば食べられるレベルだ。だが加工なんてことを俺たち子供が簡単にできるわけもない。だからこうして街で相応の業者に引き取ってもらい金をもらうのだ。もちろんモンスターの毛皮や牙にも価値があり一匹で三日は余裕で生活できるくらいの金はもらえる。
だがそれも命がけだ、モンスターといってもRPGゲームのような攻撃コマンド一つで潰れるような弱いやつらではないからだ。毎回が命をかけた死闘、それを繰り返して俺たちは今ここに生かされている。
「だろ?だから街に行く。この近くに小さな街があったよな?」
「でも、お兄ちゃん…」
「あぁ、大丈夫だ。目立たないようにするから…」
「そう?なら、わかった…私も行く」
「ダメだ、お前は絶対ここに残れ」
ぶすっとした表情を浮かべる妹を置いて俺は街へと繰り出した。数日分の俺たちの命を繋ぎとめてくれる亡骸を背負って。
世界はどこまでも残酷だ。それを知ったのはいつだっただろうか。もしかすると生まれてすぐに俺はそう思ったのかもしれない。
不吉を呼ぶとされる黒い髪、生まれつきの目つきの悪さ、傷だらけの左腕、そして機械の右腕、明らかに他人と違う俺の容姿は格好の的だった。人は自分たちとは明らかに違うものを排斥したがる、個性を見せたがるくせに。俺は街へ一歩足を踏み入れるたびにいわれもない暴力の波にもまれた。
「魔王と同じ黒髪だ!不幸が訪れるぞ!」
「早く出て行け!」
「なんだよその目つき…気に入らねぇんだよ!」
「気持ち悪い腕しやがって!」
さらに悪いことに俺の左足は過去の傷によって引きずるようにしか歩くことはできない。傷は完治しているのだがどうしてもその歩き方が抜けないのだ。そのことがさらに彼らの怒りや嘲笑を生み暴力を加速させる。
今日も受けた不当な暴力、拳が、蹴りが、言葉が、俺の体に突き刺さった。生きているだけで振るわれる不当な痛みに俺はひたすら耐える。俺は父さんとは違うから、他人を傷つけるわけにはいかないのだ、何の罪のない他人を。確かにこいつらのこの暴力を罪と認めることはできる。だがこいつらの暴力は怖れからだ。自分たちの平和という輪の中に見も知らない明らかに他人とは違うなりをした俺というよくわからない存在が入ってきたことによる怖さからだ。だから彼らの暴力はある種の防衛であり罪とはいいがたい。本当の罪を俺は知っている、俺はこの旅でその罪を狂ってしまいそうなほど見てきたから。
俺は今日も耐える。ただこいつらが飽きてどこかに消え失せるまでじっと、ただ心を冷たくして耐える。
「何をしてるの!」
けれど、この日は違った。勝手に解散する人間たちの輪に、一人の少女が割り込んできたのだ。まだ小さな体に似合わない大声を出して周りの暴力を引きはがす少女を俺はただ黙ってみているしかなかった。
「大丈夫?」
それだけならまだしも彼女は俺にそう声をかけてきたのだ。このまま帰ってくれればいいものを、俺は小さくため息交じりにそう思った。
少女の心からの心配そうな青い瞳がこちらを覗いている。大きな丸い瞳にはぼろぼろの俺の姿が映っており正直惨めな気持ちになった。
「あぁ、大丈夫だ」
だから俺はこの場からすぐに離れることを決めた、彼女に見つめられているとどうにも自分の惨めさが大きくなるから。けれど彼女はそんな俺の思いなど知る由もなく、痛みで少しつまずいた俺の肩を心配そうに抱えた。俺よりも小さな体に華奢な体型だというのに俺のことを支えてくれた彼女は少し重たそうに顔をしかめたがそれも一瞬、次にはやはりといっていいほどの心配顔を浮かべてこちらを見ていた。
「大丈夫じゃないでしょ。ほら、こっちに来て」
少女の乱入により暴力を止めた彼らの輪を裂いて彼女は俺の手を取る、どこかに連れていくように。俺はただそれに黙ってついていくしかなかった。いや、ついて行ってしまった。正直に言えばこの手の平なんて俺が少し力を出せば振りほどけたはずだ、だけど俺はそうしなかった。理由はよくわからない、初めての優しさに困惑したのか、それとも助けてくれた彼女に好意を覚えたのか、とにかく冷め切った自身では解析不能な何かに俺は動かされていた、彼女の手の平とともに。俺はただついて行く、少女の美しい銀色の長髪を追いかけながら。
「ふぅ。ここまで来れば一安心かな?あいつらも追いかけてこないみたいだし」
街のはずれ、人がほとんど来ない夜の公園に俺は連れてこられた。ついでに言うとむりやりベンチに座らされている状況だ。
「本当に大丈夫、キミ?ケガとかない?」
少女の青い瞳が俺の身体を隅々まで舐めるように見つめる。傷を探しているその瞳だが俺にはなぜか体の内側まで覗かれているようで少しくすぐったく感じた。それにまた少女の瞳に映る俺が惨めに映りどうしようもないやりきれなさを覚えた。女の子に助けられるなんて本当に惨めすぎる。
「ちょっと血が出てるね…顔にもあざができてる…相当な力で殴られたんだね…」
少女の白くて柔らかそうな手の平が俺の傷ついた頬を触ろうと伸びた。
「触るな」
だが俺は反射的にそれを跳ねのけてしまった。理由は簡単、また目を壊されるかもしれないと恐れたから。少女に限ってそんなことはないと頭では理解しているが本能が顔に触れられるのを拒んでいた、あの日のあの痛みがよみがえってくるようで本能が恐怖を叫んでいたから。
「ご、ごめん…でも、ケガしてるし…」
「いいから、触るなよ」
「うん…ごめん…」
俺の言い方が少し強かったみたいだ、少女がうなだれてしまった。可愛らしい幼さの残る顔に曇りがさした。
「いや、その…心配してくれてありがとう…」
俺はそうフォローする。彼女の曇った顔を見たくなかったから、いや、俺が彼女を傷つけたと思いたくなかったから。俺は自分の思っている以上に他人を傷つけるのが怖いのだ。それはどうしようもない俺の傷跡であり俺を形作る要素のひと欠片だった。
「ふふ、どういたしまして。それにしてもキミ、どうして抵抗しなかったの?少しはさ、やめてとか言うじゃない、普通はさ」
「…」
俺はただ黙る。なぜこの少女にそんなことを話さないといけないのか、初対面の少女に殴られ慣れてるから平気だ、なんていうほど俺は無神経でも馬鹿でもない。それに世界の理不尽に耐えている、なんてことを言えば中二病といわれ引かれてしまうのも確かだ。むしろそう言って引かれてしまおうかとも思う。そうすればこの娘とも簡単にお別れできるのだから。
「ふ~ん。ま、いいや」
予想外にさっぱりとした声に俺は呆気にとられる。普通ならここで少しはくらいついてくるはずだ。そうすれば俺も渾身の中二病セリフを吐くこともできたはずなのに。
「キミにはキミの考えがあるし、私がとやかく言うこともないよね」
「あ、あぁ…そう、だな…」
俺は消化不良を起こしたような曖昧な返事しかできなかった。ただ少女の無邪気そうな、それでいてどこか寂し気な笑みを見るしかできなかった。
「あ、そうだ。ごめんね、キミ…勝手にこんなとこまで連れてきちゃって…キミにも何か用事があったはずなのに…」
「いや、それはいいよ。別にたいして気にしてない」
「ほんと?でもこんな夜中に街を歩いてるってことはやっぱり何か大事な用事があったんじゃない?」
「えっと…まぁ、その…こいつを、売ろうと思ってな」
俺はどうしてか少女に話した、自身の用事を。
「なるほど…モンスターを売ってお金にして、晩ご飯を買おうっていうわけね。なるほどなるほど…じゃあキミも冒険者かな」
「まぁ、冒険者といえばそうだな」
キミも、というセリフにはあえて突っ込まない。この娘とは今日この一時の繋がりなのだ、深入りはしない。少女もそんな俺の態度を察してか深くアピールはしてこなかった。
「そっか…ごめんね、ほんとに。ここからじゃお店まで遠くなっちゃったね。あ、そうだ!私が代わりに売ってきてあげる!」
「いや、遠慮するよ…さすがにそれは…」
「大丈夫大丈夫!別に逃げたりもお金をちょろまかしたりもしないから」
そんな心配はしていないのだが、俺は内心でそう思う。俺が心配しているのはこれ以上少女とのつながりを持つことだ。ただでさえ優しくされ慣れていなければ人とのつながりを妹以外ほとんど遮断してきた俺だ、人の温もりやらに飢えているのは自身でも自覚している。だからこれ以上この少女と関われば俺の本能が求めてしまう、人の温もりを、優しさを。ただ冷たく研ぎ澄ました俺の傷だらけの刃に、違う種類の傷がついてしまうのだ。
「そんなに心配かなぁ?わかった、いいよ。これ、渡しておくから!私の一番大事なもの!」
黙っている俺を渋っていると勘違いした少女は首に提げていた何かを取り出して俺に渡してきた。それはキラキラと夜の中でも確かに輝きを放っている宝石のペンダントであり、素人目にみても明らかに高級なものだというのはわかった。
「いや、こんなの受け取れないよ!」
「私の信頼の証!とにかく持ってて!」
少女は有無を言わさず俺の獲物が入ったバックを抱えてまた街の中央へと駆けていった。俺はただぽつりと夜の公園に残されるしかなかった。
「はぁ…これ、どうしよ…」
俺はただ悩む、手の中で輝くペンダントを眺めながら。正直に言えばこのペンダントを売り払ってしまえばあのモンスターを売った時とは比べ物にならない額の金が手に入る。きっと俺たち兄妹が1か月、いや2か月は余裕で、しかも豪遊して過ごせる額だ。けれど俺は頭を振ってそんな最低な考えを頭から追い払った。彼女は俺を信じてこれを渡してくれたのだ、そんな彼女の純粋な信頼を裏切るわけにはいかない。
だが同時にその信頼の重さが俺の心に明らかな重圧としてのしかかっていた。先も述べた通り俺はことごとく人との関わりを絶ってきた。それゆえあの少女が気になっていると同時に苦と感じているのも確かであり、もう一度あの眩い笑顔を、澄みきった瞳に映るくたびれた自分を見るのかと思うと憂鬱が奥底から湧き上がってくる。
「はぁ…ほんと、どうしよ…」
俺はまたため息一つ、自分の中に生まれつつあるよくわからない感情に飲み込まれる前に何か行動に移すことに。やはりあの少女とはもう関わるべきではない、俺はそう決めた。俺はあの笑顔を受けるべき人間ではないのだ。あの子がコインの表側だとすれば俺は裏側、絶対に同時に存在できない存在なのだ。
「これはここにおいておけばいいか…まぁたぶん人も来ないし、大丈夫だろう…」
俺はポケットからハンカチを取り出してそれにペンダントを包んだ。たとえこの公園の周辺に人の気配がないとはいえさすがに裸のまま置いておくわけにもいかない。俺はそれをベンチに置いてその場を離れた。あの獲物を換金できなかったのは少し残念に思うが、この後の少女との交流を思えば安い犠牲だ。俺はそそくさとその場を離れてシャイナが待つキャンプへと駆けた。
「あ、お帰りお兄ちゃん!」
「あぁ、ただいま」
「ちょっとお兄ちゃん!また殴られてる!大丈夫って言ったよね!?」
「ごめん、ちょっとヘマした…」
「またその言い訳…お兄ちゃん、毎回同じこと言ってると思うけど、自分を大切にして。お兄ちゃんはただでさえ義手だし足もあんまりよくないの…これ以上体に傷を付けないでよ…」
悲しそうにそう言うシャイナに俺は大丈夫だという代わりにポン、と彼女の頭の上に手を置き撫でてやった。初めは少し困惑していたシャイナだが次第に猫のように目を細めて気持ちよさそうな表情を浮かべる。シャイナは昔から俺の撫で撫でにはめっぽう弱くこうしてやればどんなに機嫌が悪いのも一発で吹き飛ぶ。少しずるい手だとは思うが彼女も嬉しそうだしウィンウィンだ。
俺はシャイナを撫でながら思う、彼女に傷がつかなくてよかったと。俺は自身の体などいくら傷ついても構わないと思っている、シャイナが傷つかないならば。たった一人の家族である彼女には絶対に傷ついてほしくない、俺はそう心に決めていたのだ。あの日、彼女の瞳が失われた時から。
「そうだお兄ちゃん、お金、もらえた?」
「…」
純粋な瞳で聞いてくるシャイナから俺は無言で顔を逸らした。そんな俺の様子から察したのだろう、シャイナの憤った声が響く。
「もしかして取られちゃったの!?殴った奴に奪われちゃったんでしょ!許せない!私が取り返しに行ってくる!」
ただ察したと言ってもどうやら勘違いのようだ。俺が獲物を取られたと勘違いして今にも爆発寸前で彼女はもうぷんぷんだ。
「いや、違うんだ、シャイナ」
「お兄ちゃん!お兄ちゃんを殴る奴らのことを庇うことはないよ!正直に言ってよ、盗まれたって!」
「いや、だから違うんだって。落ち着いて聞いてくれよ」
俺は何とかシャイナをなだめて今までの経緯を話して聞かせた。
「なるほど…要するにお兄ちゃんは助けてくれたその女の子から逃げ出した、と…」
「…」
ドストライクなことを言われ俺は黙るしかなかった。結局俺は逃げたのだ、人との繋がりが怖かったから。目の前の優しさから俺は尻尾を巻いて逃げるしかなかったのだ。
「その…ごめん…」
「なんで謝ってるの?私は別に怒ってないよ?私はお兄ちゃんが逃げた事も、お金をもらわなかったことも怒ってない。むしろなんで怒らなくちゃいけないの?私はお兄ちゃんのことなら全部わかるの…だからお兄ちゃんが何で逃げちゃったのかもよくわかる…だから私はお兄ちゃんのことを怒らないよ」
「シャイナ…」
「ただ!今もお兄ちゃんがその女の子のことを気にしてるなら、一言だけでもいいから謝るなりなんなりしてきなさい!黙って目の前からいなくなったらさ、誰だって辛いもん…」
含みのある憂い顔を見せたシャイナがそう小さくつぶやいた。彼女自身その辛さがよくわかっているから、それゆえのセリフだろう。だから俺は応える、こくり、と顔を縦に振って。
「わかった。俺、行ってくるよ…」
あまりにも単純な行動思考、妹の寂しそうな顔だけで行動に移せる俺のシスコン精神に若干呆れながらも俺は歩を進めた。もう一度だけ、もう一度だけあの少女と出会うために。
「あれ?まだ帰ってきてないのかな?」
俺はあの公園に戻って辺りを見渡すが俺が出ていった前と何の変りもない。例のペンダントもそのままの位置で置いてあった。あの少女はどこまで売りに行っているのだろうか、俺は心配するも公園でぼぉっと時間を過ごす。
が、30分たってもあの娘は現れる気配がない。街の中心まではそう時間がかかるわけもない、査定で手間取っているという可能性もほとんどないだろう。なら考えられる可能性は一つだ。
「くそ…やっぱりあいつらに…」
俺を助けたことであいつらの反感を買ったのだろう。そう、彼女の優しさも踏みにじられてしまうのだ。俺に向けられた無償の優しさも、世界の悪意とともに消える。俺は急いで駆けだす、少女を救うために。あの優しさのお返しを、今果たさんとするべく。
リゼが公園から去ったことも知らずに少女はただ街をうろつく、背中に背負った亡骸を換金してくれるお店を探して。だがもう夜の9時前だ、そんな時間までやっているお店というのは少なく少女は途方に暮れようとしているところだった。だが一つの明かりを見つけて彼女は顔を鮮やかに輝かせた。
「すいませーん!これ買い取ってほしいんですけどー!」
少女が勢いよく店に入ると店主であろう年老いた男が顔をしかめて彼女の方を向いた。どうやらもう閉店間際だったようで老人は少し機嫌が悪い。
(あらら…タイミング悪かったかも…これじゃピンハネされちゃうかな…)
少し買い取り額が減らされるのを覚悟で彼女は店主にバックを差し出した。あまりにも少なかったら自分が少しだけ彼にお金を渡そう、そう思っていた。
「こ、これは…!」
だが彼女のそんなおせっかいな親切心は行き場を失ったようだ。先ほどまでの不機嫌そうな店主の顔が亡骸を見るや一転、驚愕と歓喜に満ちた、例えるならクリスマスプレゼントをもらった時の子供のような表情だ。
「こいつはウルフの中でも一際でかい…それに、希少種だ!体毛がふわふわとして柔らかいのに固く芯が通っている…!しかも傷も少ない…まさかお嬢さんが一人で…?」
「い、いえ…あの…知り合いの代わりに持ってきただけで…」
「ほう…っと、待っていろ、換金だったな…少し状態を見せてくれ…このサイズだと時間がかかりそうだ。10分後また来てくれ」
「はい、わかりました。ありがとうございます!」
彼女は大きな声であいさつをし店を出ていった。
「ふ~ん…あの人、あんなに強いのを倒してたんだ…すごいなぁ…」
ウルフといえば凶暴な性格と硬い皮膚、鋭い牙、そして素早い動きが特徴の上級モンスターだ。並の魔物狩りが5人集まっても倒すのは困難を極めるほどだ。ベテランでも苦労するほどの魔物を彼は一人で倒したのだろう。
「少し話しただけだからあんまりよくわからないけど、きっとあの人の性格なら他人と一緒に行動するのって無理そうだし…やっぱり一人で倒したのかな?それだとすごいなぁ…私と都市も近いのに強いなんて…」
それも希少種だ。希少種というのは読んで字のごとくとても珍しい種類であり突然変異種とも呼ばれている。通常の個体より大きく体の特徴も違ってくる、さらには凶暴性も増している。もしも希少種が見つかったなら街のハンターたちが集結して一大狩猟イベントだというのに、彼はそれを一人でやってのけたのだろうか。
「でもあの人、足を引きずるようにして歩いてたし…それに右腕も義手だった…そんな人に本当に倒せるのかな?」
少女は彼の容姿を思い出す。年齢はきっと自分と同じ17だろう、それなりの身長に綺麗な黒い髪の毛、赤く光る左の瞳、ぼろぼろの体。
「あ、そういえば、名前、聞いてなかったなぁ…」
少女は一人ぶつぶつとつぶやきながら10分間の時間を街をぶらぶらして過ごす。けれど彼女に迫る魔の手に気付いてはいなかった。
「お嬢ちゃん、ちょっと来てくれないかな?」
「!?」
ふと背後からかけられた言葉に驚いた少女。だが時すでに遅し、少女は後ろからはおい責めされてどこかへ連れていかれてしまった。
「どこだ…あの子は…」
俺は必死で少女を探す。まだ名も知らぬ少女が今危険な目に遭っているとすれば自分のせいだ。自身が何とかしなければいけない。
けれど手がかりもなく広い街の中から名も知らぬ少女を探すのはほとんど不可能に近い。ましてや夜だ、人なんてほとんど外に出ていない。俺としては動きやすいがやはり手がかりを握る誰かに出会わなければ、もし危険な目に遭っているのなら間に合わなくなる。
「くそ…どこかに何かないのか…!」
俺はひたすらに探す、何かの手がかりを、まるで祈るように。
そんな俺の祈りが通じたのか道の先に一人の老人がいた。俺はその老人に話しかける。
「あの、すいません…女の子を見ませんでしたか?青い瞳で銀色の髪、身長は俺より少し小さいくらいの…知り合いの女の子なんです…何か、知りませんか?」
「あぁ、その女の子なら知っておる。わしも探していたところだ」
「本当ですか!?」
その老人曰く自分の店に魔物の査定をしに来たという。10分くらい待ってくれといったが約束の時間を過ぎてもいっこうに現れなかったためこうして外に探しに来ていたというところだった。
「ありがとうございます…でも、手掛かりにはならないか…何かほかの情報はないんですか!」
「ほか、といわれても…そうじゃ、あの女の子の後に一人店に来た客がいた。今も店で待っていてくれているはずじゃ。もしかすると何か知っているかもしれん」
「わかりました」
老人は店の方を指差してまた女の子を探しに行ってしまった。俺は老人の店へと急ぐ。もしかすると手がかりを持っているかもしれない誰かにあうために。
「ここか…」
俺は老人の店に入りその人物と出会う。そこにいたのは金髪の少しちゃらちゃらとした男で俺の方を確認するなりこの見た目に嫌悪を示したのか舌打ちを一つこぼした。
(舌打ちしたいのは俺の方だよ…)
こいつは街で俺を殴っていた奴らのうちの一人だ、ちらりとしか見ていないがよく覚えている。こいつは獲物だった俺と同じ空間にいることでどこか気まずそうに、それでいていらだたしげに貧乏ゆすりを始める。表情からも早く出て行ってくれという思いがひしひしと伝わってくる。
「おい、お前…」
けれど俺はこいつの思いなど知ったことではない。彼の目の前に行き尋ねる、女の子を見たかどうか。
「は?なんでお前にそんなこと言わねぇといけねぇんだよ。気持ち悪いから見るんじゃねぇよクズ」
だが男はニタニタとした笑みを浮かべながらそんなことをのたまった。俺はこの下卑た笑いを知っている。この笑みは嘘をついている証拠、過去に何度も経験した嘘を孕んだくだらない笑顔。嘘を吐く相手には容赦はしない、俺は強硬手段に出ることにした。
「おい…知ってるんだろ?教えろよ…でないと…殺すぞ?」
普段よりも声を低く、さらに感情を欠落させた音を口からこぼす。生まれつきの目つきの悪さが際立つようにさらに目を細め相手を睨みあげた。言葉にするとただそれだけの単純なこと、けれど相手にとっては十分すぎる効果を発揮したようで、きっとこいつの瞳には俺が悪魔のように映っていることだろう。その証拠に顔は引きつり先ほどまでのニタニタとした笑みはもう完全に消え失せていた。
「ほら…早く言えよ…どうせお前らが何かかんでるんだろう?」
これも俺の経験則だがこういうクズ野郎は基本群れで行動する、それも同じようなタイプのクズを引き連れて。だからきっとこいつも何かの手がかりを握る一団とつながっているはずだ、俺のカンがそう叫んでいる。
「そ、倉庫だ!港の第3倉庫!そこに女を連れていくって!」
「倉庫、か」
やはり俺の勘通りこいつは情報を握っていた。俺の勘は結構当たるのだ、それがいい方向か悪い方向かは問わないでほしいが。
もう用はない、俺はそう言う代わりに黙って彼に背を向ける。情報は聞けた、それだけで十分だ。こんなクズ野郎をどうにかする暇があるなら俺は名も知らぬ少女を助けるために急ぐしかなかった。
(待ってろよ…俺が今、行くからな…)
「くそ!死にさらせやぁ!」
背後から激昂交じりの声が聞こえる。きっと俺の態度に舐められていると怒りを覚えたのだろう、だが俺は意にも介さない。もはやあのクズは俺の眼中にはなかった。
「はぁ…くだらない」
だから俺はため息交じりにそうつぶやく。俺に向かって振り下ろされた棒状の何かを背後も見ずに掴みながら。ただ俺は義手を動かして男の怒りを受け止める。特別性の義手にぐっと力を込めると簡単にその棒状の何かはへし折れ背後からクズの驚いたような声が聞こえる。けれど俺は振り返らない、瞳はじっと前を、いや、この先にいるだろう少女の方を向いて。
背後の男はこれ以上追撃をしなかった。結局こいつも、自身の愚かさに気付かずに粋がっていた連中の一人にすぎないのだ。
「放してよ!もう!」
「ほう、このお嬢ちゃんは威勢がいいな。ピーピー泣かれるよりよっぽど楽しみがいがありそうだ」
小さな電灯だけで光を確保している潮の匂いを感じる倉庫でイスに縛り付けられた少女はキッと周りの下卑た連中を睨みつける。あきらかに敵意を持った瞳が連中に注がれるが彼らはそんなこと意にも介さないという風にやはり下卑た笑いを浮かべるだけだった。
「こいつどうします?クスリでもきめちゃいますか?」
「ふふ、クスリはまた後でな…まずはこいつがどれだけ辱めに耐えるかやってみようじゃないか…」
「こんな強気になってる女の子が堕ちる瞬間もまたたまらないっすよね!」
ぎゃはぎゃはと悪役のセオリー的笑みを浮かべる彼らに少女はまた舌打ちをする。不意打ちだったとはいえこんな連中につかまったことがたまらなく自身の内なる怒りと屈辱を湧き上がらせた。
「あなたたちやめなさい!これは最終通告よ!やめないとどうなるか…」
「ははは!まだ強気でいられるとはな!いいねぇ気に入った!もう逆らうのがバカらしくなるくらい気持ちよくしてやるよ…」
男が一歩一歩少女に向かって近づいてくる。その顔には得体のしれない何かに憑りつかれたような狂気が見て取れた。
けれど少女は怖がることをしなかった。なぜなら彼女には力があったから。
「おいお前ら!」
俺は勢いよく例の倉庫の扉を開けて叫ぶ。扉の中にいるであろう少女をさらった敵に宣戦布告をするように。だが俺はその中を覗き驚きに口がふさがらなかった。
薄暗い倉庫の中、わずかな電灯の下倒れている男たち、死んではいないようだが皆ピクリとも動かない。そしてイスに縛り付けられた少女の姿もそこにあった。
「あれ?どうしたの?」
しかも少女は何食わぬ顔であっけらかんと俺にそう言ったのだ。俺の苦労というか不安というか、そんないろいろな感情も知らないで少女はただ無邪気な顔をこちらに向けているだけだった。
「おい、これは…」
どういうことだ、そう尋ねようとしたが少女の声が割り込んできた。
「ごめん、このロープ結構固くて自分じゃほどけないんだよね…こっちに来てほどいてくれない?」
「え?あ、あぁ…」
そういわれて俺はゆっくりと彼女へと近づいていく。が、その瞬間だった。彼女の背後に迫りくる影があった。危ない、そう思い歩を早めようとしたが奴の方が早かった。背後に迫った男は少女の首を後ろから締めつけて勝ち誇ったような笑みを浮かべた。だがその笑みにはどこか焦りのようなものも見て取れた。
「へへ…てめぇはこれで終わりだ…死ぬなら道連れだ…!」
男は懐から輝く何かを取り出した。それは注射器であり中にはたっぷりと液体がつまっていた。その注射器を少女の首元にあてがいこちらに狂気的な笑みを向ける男。それでも少女は顔を崩さない。恐ろしいまでに無邪気な表情だ。
「またあれを使ってみろ…こいつがてめぇの体に入るぜ…こいつの中毒性には誰にも抗うことができない…一回使えば廃人確定だぞ」
「まさか、あれは…」
確認するまでもない、あれは麻薬だ。頭の中にエデンを築き上げる禁忌の薬。そんな魔の薬を今首元に差し込まれるかもしれないというのに恐ろしいほどに少女は笑顔だった。
「ほんとに使えるの?」
挑発的な笑みをニヤリと浮かべて少女は言う。その言葉は男の逆鱗に触れたようだ。狂気的な笑みはぷつりと切れ怒りに顔を歪める。まるでこの世の人間とは思えない怒りにくしゃりと歪めた顔からはどこか滑稽さも見て取れた。それはきっと怒りが空回りしているせいだろう。あの怒りは、何かに焦っているのだ。
その焦りの正体は考える間もなくすぐに理解することができた。
「てめぇも崩れ落ちろ!」
「残念だけど丁重にお断りするよ」
少女が楽しそうにそう言ったのと同時、男は一瞬ピン、と全身をひきつらせ、そしてバタリと地に伏せてしまった。何が起こったのか理解できない。今目の前の光景にただ自分の目を疑うしかなかった。
(あれは…魔法、なのか…?)
魔法にしては見たことがない種類だ。俺はどこかそれに違和を感じた。それに魔法だとすればどうして詠唱をしなかったのかがわからない。魔法には詠唱がつきものだ。なんでも魔法のイメージを固めるだとかそう言った理由だが魔法学を詳しく習ったことがない俺にはあまり説明はできないが、ただわかるのはほとんどの魔法には詠唱がつきものなのだ。詠唱無しでも使える魔法もあるが、それはたき火をおこすほどの小さな炎を出したりとほんの小さな力しか出せない。人一人を地に伏せるほどの魔法を詠唱無しで使えるはずはないのだ。
「ふぅ…」
少女は小さく息を吐きまたこちらに笑顔を向けた。俺はその笑みにどうしてか怖い、と感じてしまった。
「ねぇねぇ、早くこれ取ってよ。さすがにずっとこの体勢だと背中かゆくて死にそう」
「あ、あぁ…」
俺は少女に感じた得体の知れぬなにかを抑え込み彼女の拘束をほどいた。懐からナイフを取り出してロープを切り裂き彼女はやっと解放されたという風にぐいっと伸びをした。ぽきぽきと彼女の凝り固まった背骨が小気味のいい音を鳴らす。
「てめぇら…絶対に許さねぇ!」
「!?」
俺たちは完全に油断していた。もう完全に全員が潰れていると思い込んでいたが、やはりこういうアウトローな奴らは粘着質というかしぶといというか、耐久力が違っていたようだ。見たところリーダー格のような男がのっそりと起き上がって荒げた声をあげていた。その声があがる瞬間と男が俺の体に飛びついてくるのは完全に同時だった。
「ぐっ…!」
男の拳がアッパーをかけるように鳩尾に飛び込んでくる。寸での所でガードしたが男はすぐに拳を引き連続のパンチを繰り出してきた。ボクサーのような重いパンチがスポーツマンにあるまじきむちゃくちゃなスタイルで繰り出される。やはり裏で過ごしているような連中であり相当ケンカ慣れしていると分かる。俺もモンスターと対峙できるほどの体をしているとはいえ少しきついと感じる。相手に思考する能力があるのでなおさらだ。魔物はたいていは動物と同じ、本能で生きているので思考することはなくただ自身の命を守らんと必死になる。だが相手が人間となるとそうもいかない。思考し、相手の行動を先読みし、裏をかき、時には正攻法で力任せに、様々な要因が行動を読めなくする。俺はただそんな相手に肉薄することしかできなかった。
「こんなに近づいてちゃ力も使えない…!ねぇ!そいつから離れてよ!」
「無理だ!距離を取ろうとしてもくらいついてきやがる!くっ…!」
「てめぇの力もこれで使えない…くひゃひゃ!」
男がいかれた笑い声を放つ。その奇声とも取れる声に俺の背筋にざわりと冷たいものが走った。それを助長するようにこの男の首元には注射の痕が、しかもうっすらと血が浮かびまさにさっき打ったような痕があった。
「まさかお前…クスリを…!」
「へへ…」
男の下卑た笑いが薄暗い闇の中浮かぶ。にたりと歪な三日月を浮かべた口元からだらりとよだれが垂れている。今彼の頭の中にはエデンと自我の両方がとても危うく黄金的なバランスで確立しているのだろう。薬物中毒者のような狂気的な笑いの奥にも人間らしい知性の欠片がまだ見てとれた。
「オラオラ!これでどうだ!あぁ!?」
男の拳が体にめり込む。自身の体のリミッターを外したような人間離れしたその力に体の内側が爆ぜ飛んでしまいそうな激しい痛みが走る。男はさらに殴る、俺という目の前の敵を屠るように。
「くそ…俺もやられっぱなしってわけにはいかないんだよ!」
だから俺も力を振るうべく義手の拳を突き出した。相手が明確な理由でこちらを攻撃してくればもう日和見主義でいる必要もない。いつもの耐え忍ぶ俺ではなく若干の狂気を孕んだ歪んだ愉悦的人格が心の奥から牙をのぞかせているのが自身でもわかった。俺はその獣の牙を隠すこともなく拳にのせて男の体を殴った。
メキリ、異様な音を響かせ男の脇腹にめり込んだ拳、その一瞬遅れで男がパンチの威力で吹き飛んだ。
「ごめん、この腕は特別製なんだ」
今は衰退した機械(アンティーク)の代物でできた特別製の義手だ。固いうえに様々な力を秘めており今のもその一つ、俺の意思一つで力を増幅するというまさにケンカ向きの力なのである。どういう構造かは俺も知らないが、それでも重宝するのは確かだ。どうにもこの義手を作ってくれた人間は秘密主義らしく自分の技術が漏洩するのを恐れたらしい。なんでも機械文明の生き残りだとかいう噂だが今は関係のない話だ。
「ありがと、これで攻撃できる!」
少女の愛らしい声とともに男の身体が先ほどの彼のようにピン、と突っ張る。けれど、今回はそれだけで終わりではなかった。彼は少女の何かよくわからない攻撃を受けてさえ立ち上がったのだ。
「嘘…!あれで立ち上がれるはずがないのに…!」
驚きを孕む少女の声に俺も事態の異常さに気付く。あの攻撃は少女にとって一撃必殺ともいえる代物だ、それを受けてさえ動けるこいつの身体はやはりどこかおかしい。
「おい、あれ、見ろよ…」
「あれは…注射器!?い、いつの間に…」
「もしかしたら俺が吹っ飛ばした方向がいけなかったのかも…」
男の近くには先ほどノックアウトさせた奴がいた。もちろんそいつの手にはまだ注射器が握られたままで禁忌の中身はまだたっぷりとつまっていた。
「多量接種(オーバードーズ)ね…痛覚神経をマヒさせたみたい…そうなると厄介ね…痛みを恐れない相手には加減もできない…さすがに殺しちゃうのはまずいでしょ?」
「あぁ…こんなクズでも殺すのはやっぱりためらわれるからな…さて、どうするか…」
俺たちは思考する、痛覚さえエデンの花園へと追放した男にどうやれば勝てるのかを。だが男は俺たちに思考する暇すら与えない。バッと勢いよく飛び込んでめちゃくちゃに体を殴りつけてきた。俺はそれをただやはりガードするしかない。重たい連撃が体中のあちこちを襲う。全身にびりびりとした痛みが走るが、こんな痛みは痛みの内に入らない。俺は本当の痛みを知っている。
足を砕かれる痛みを、腕を引き裂かれる痛みを、瞳をえぐられる痛みを―
だから俺にはこんなもの痛みでも何でもない。それ故俺は、ガードを捨てて攻撃に移った。決死の一撃パンチを、男の顔面にお見舞いした。
だが男は少しよろめいて後ろに下がっただけ。だがそれだけでよかった、いや、俺はそれが狙いだった。
「ふふ…頼むぜ、シャイナ!」
「まかせて、お兄ちゃん!」
倉庫の入り口にはいつの間にか訪れたシャイナがいた。だけど俺は彼女の存在を確認するまでもなく確実に妹がそこにいると分かった。それは俺の本能がそう告げていたから、血を分けた魂の片割れが、俺のもう片方の瞳となる少女がすぐ近くにいると魂レベルで共鳴していたから。だから俺はわかった、彼女が何をしたいのかも。
たまに双子にはこういう科学でも解明できないシンパシーというものが存在するらしい。例えばカードの選択だ。ある部屋に双子を一人ずつ入れてその中で数種類のカードの中から一つを選んでもらう。すると結果は高確率で互いの選んだカードが同じなのだ、もちろんその双子は何も示し合わせもしていないのだ。その類で他にも無意識に同じ行動をしていたり同じ人間を好きになってしまったり、そういう科学で証明できない何かも俺たち兄妹は持ち合わせていた。もちろん俺たちは双子ではない、前述したとおり歳は3つ離れている。だが俺たちは魂レベルでのつながりが、遺伝子で強く引きあっている。やはり過去から互いが互いに寄り添いあい補い合って生きてきた結果なのだろうか。
と、いくら憶測したところで答えの出ない考えは思考の隅に追いやり俺は背に感じる少女の温もりにすべてを任せることにした。俺が世界で唯一信頼できる妹の存在に。
「よくもお兄ちゃんを散々殴ってくれたね…お兄ちゃんがどれだけ痛い思いをしたか…あなたにも味わってもらうよ!」
男がよろけた先、そこには巨大な魔法陣が地面に浮き上がっていた。星形の紋章を中心に円形に広がったその魔法陣がきらりと暗闇を明るく照らした。
「地獄の炎よ…煉獄の化身となりて彼の者の罪を焼き払え!インフェルノ!」
「ぐあぁぁぁぁぁぁ!」
魔法陣に炎の柱が浮かび上がる。轟々と燃え盛る炎の中、男の絶叫だけが虚しく響いた。炎は絶えず轟々と燃え盛る、まるでシャイナの怒りのように。
「えっと…あれ、大丈夫なの?死んでない?」
「えへへ、大丈夫!ミディアムで止めておくから!」
心配そうな少女に笑みをたたえるシャイナ。ようやく続いた炎が止み男がばたりと倒れたがシャイナの言う通り大丈夫なようだ。少し焦げ臭いがどうやら命に別状はないらしい。
「サンキューシャイナ。ベストタイミング!」
「お兄ちゃんのピンチに駆けつけるのは妹の役目!それにヒーローはピンチの時にやってくる、ってね!」
どうやらシャイナの魔法は男の周囲の酸素を一瞬にして奪い尽くし彼を酸欠に陥れて気絶させたようだ。案外化学的な対処法を取ったシャイナを褒めつつ俺たちはこの悪党どもを縛り上げる。
「お兄ちゃん、こいつらどうするの?私的には今この場で死刑にしてやりたいんだけど…やっぱりお兄ちゃんに傷をつけたのは許せないからね!」
「いや、さすがにそれはダメだろ…」
「そうだよ。ここは警察に突き出してお礼金をがっぽりっていうルートじゃないと!」
「なかなかにがめついな…」
こいつらの場合誘拐に麻薬所持の二重の罪が課せられるだろう。ほかにも洗えば様々な罪が出てきそうな気もするがそこは俺たちの管轄外だ。仕事熱心な警察さんに働いてもらうしかないだろう。
「ふぅ…これで一件落着…って、なんか忘れてるような…あぁ!私査定が終わるまでの時間待ちだった!ちょっと行ってくるね!」
「え!?ちょ、ちょっと待てって!」
俺の呼びかけなど聞かずに少女は走り去ってしまった。またあの子に会う理由ができてしまった、俺はため息をつくと同時に心の中でどこかほっとした気持ちが浮かび上がったのを感じた。どうやら俺は自身が思っている以上に彼女のことが気になっているらしい。
「お兄ちゃん今ほっとしたでしょ?またあの子に会えるってね」
どうやら俺の妹様には図星だったようだ。やはりシャイナには隠し事はできないな、なんて思いながら俺はポケットの中に手を突っ込む。ポケットの中に入った固いもの、彼女の大切なペンダントがそこにあった。
「はい、これ!10万マネー!」
「え…?嘘…?ほんとに、10万?」
俺は彼女の言葉が嘘だと思い聞き返すが彼女はただにやぁと笑い手に札束を持っていた。ちなみにマネーとは新しい通貨単位であり全国共通の貨幣単位となった。もう一つちなみにだが1マネーは旧単価の1円ぐらいの価値だと考えてくれればいい。
「うん。なんでも希少種だったみたいで高く買い取ってくれたんだ」
「希少種?あれが?」
「お兄ちゃん…ああいう奴昔いっぱい倒したよね…?」
「あ、あぁ…そう、だな…」
過去に俺はあのウルフと同一の種類を倒し売りに出したが結果は500マネーくらい。まさかと思ってほかの魔物の買い取り額を店主に聞いてみるとどれも俺が買い取ってもらった額よりも10倍も20倍も高いことが発覚した。つまり俺はピンハネされていたらしい。やはりこの外見で差別されたということになる、俺は心をばっさりと切り付けられた気がした。
「俺たちは毎日生きるか死ぬかの瀬戸際の生活だったってのに…あいつらは俺が売った魔物をさらに高く売りつけて儲けてたってことかよ…」
言葉にすると怒りよりも虚しさが沸き起こった。なんだか世界の全てが信じられなくなったような気がした。
「ねぇ…よかったらさ、今度から私が売りに出してあげようか?キミがその外見で差別されてるっていうならさ、私が代わりに行った方がいいかなって…」
「いや、良いも何も、俺たちは今王都を目指して旅をしてるんだ。この街で滞在してるわけじゃない」
これはいい申し出だがやはり断る。俺たちの私的な旅に少女を巻き込むわけにはいかないし、それにやはり俺の人格上それはどうしても断るしかできなかった。先にも述べた通り俺は他人との繋がりを絶ってきたのだから。けれど少女は俺の答えを聞いても笑顔だ。どうしてそんなニコニコ顔を浮かべていられるのか俺には理解しかねる。
「へぇ…キミたち旅してるんだ。奇遇だね、私も旅をしてるの」
「そうなんだ」
話の雲行きを察して俺は適当に流すことに。だが少女は俺の受け答えなど期待していなかったかのように話を進める。
「私も一緒に行く!」
「だめだ」
「即答!?もうちょっと迷うなりなんなりしてよぉ!」
「まず年ごろの女の子が知らない男と一緒に旅したいなんて言うなよ」
「どうして?」
「いや、ほら…もし間違いが起こったりしたらさ…」
「ふ~ん…キミは私と一緒にいると間違いを起こしちゃいそう、と…つまり私がそれだけ魅力的ってことだね。うふふ、嬉しいこと言ってくれるねぇ」
「な!?そ、そんなんじゃねぇよ!」
「ごめんごめん、冗談だよ。そんなにむきにならなくったっていいじゃん…まぁ間違いは多分起こらないと思うよ。なにせキミの妹ちゃんがいるんだから。まるで番犬だね、その子。お兄ちゃんに近づく人はみんな敵だって思ってるみたい」
「ふしゃー!」
俺に抱き着いたまま少女のことを睨んでいたシャイナが威嚇の声をあげる。見ての通りシャイナは俺にべったりの超ブラコン妹である。だが二人でいるときはここまでべったりではない、それは俺を一人で街へ迎えだしてくれたことからもわかる。けれど俺と誰かほかの女の人が話したりすると途端に俺にくっついてまるでお兄ちゃんは自分のものだから手を出すなといわんばかりの猛アピールをするのだ。
「大丈夫、あなたのお兄さんはとらないよ」
少ししゃがんでシャイナと目線を合わせて優しく言う女の子。その言葉にどういうわけかシャイナは珍しく敵意の視線をやめた。
「ねぇいいでしょ。一緒に行こうよ!私もそろそろ一人だと寂しくなってきたしさ…それにキミたちみたいな強い人と一緒だと心強いし」
「でも、俺たちには目的があるんだ…それにキミを巻き込むわけにはいかないよ…」
そう、俺たちには目的がある。その目的は恐ろしく個人的で少女を巻き込むわけにはいかないものだ。もしかしたらその目的のせいで少女に迷惑がかかるかもしれない、いや、かかってしまう。だから俺は彼女を連れていくことができなかった。
「邪魔しないから!いいでしょ?お願い…!」
「でも…」
「ねぇお兄ちゃん。ちょっとだけならさ、いいんじゃない?」
珍しくシャイナが意見をこぼした。俺もシャイナも同じ目的のために旅をしているというのに、俺が抱く懸念を彼女が感じていないはずはなかった。けれどシャイナは顔をこちらに向けて意思のこもった瞳を向けた。
「王都まで一緒に行くのはあれだけどさ、途中の街くらいまでならいいんじゃない?ほら、もとはといえばこの子が連れ去られたのはさお兄ちゃんを助けてくれたからなんだよ?その感謝と迷惑をかけた意味も込めてさ、どうかな?」
「むっ…確かにそうだな…」
シャイナの言う通り基を辿れば俺が原因で今この奇妙な関係が成り立っているわけだ。ここで彼女を邪険に扱ってしまうのも人としてどうかと思う。俺はあくまでも感謝と謝罪のために彼女を連れていくという建前の下喜んで彼女と一緒に旅をすることを決めた。なんだかんだでやっぱり俺は彼女に惹かれているらしかった。その証拠にいっしょに行けることをこの上なく喜んでいるのだから。他人を突き放して手に入れた俺の冷たいナイフももうぽっきりと少女の無邪気に笑う青い瞳にへし折られてしまった。
「わかった。だけど途中までだぞ。いいな?」
「ありがとう!…あ、そういえば名前言ってなかったね。私はトイ、よろしくね!」
「トイ…不思議な名前だな。俺はリゼ、こっちは妹のシャイナ、よろしくな」
「リゼ君に、シャイナちゃんね。わかった…ってリゼ君も不思議な名前だよ?なんか女の子みたい」
「うるせぇ…」
こうして俺たちの旅にトイという不思議な青い瞳の少女が加わった。俺たちは親睦を深めるためさっそく手に入れたお金で遅めの晩ご飯を食べた。
そういえばトイにお礼の言葉を言い忘れていたな、なんて思ったのは食事を終えてのことだった。言いそびれてしまった言葉はこの場で言うには恥ずかしく結局俺の心の中にわだかまりを生んだ。その言葉を言う日はいったいいつになるのか、その時の俺には全く分からなかった。
イスに縛られた少女に伸びる魔の手、刻一刻と近づく汚らしい手にも少女は怯えなかった。少女はただにやり、顔を歪める。
その瞬間だった。少女の身体が発光したかと思うとばちり、少女の身体がプラズマを放った。まるで映画に出てくる暴走した機械のようにバチバチと稲妻をこぼす彼女に周りの男たちはただ怯えるしかできなかった。
「な、なんだよこれはぁ!」
リーダー格の男が叫んだ。と、同時に少女に帯電していたプラズマが一斉に放出された。まるで散弾銃を撃ったように拡散するプラズマ光、それは蛇がのたうち回るように無造作に倉庫内をかけまわり跳弾のようにあたりで遊びまわる。ばちり、ばちり、あたりを焦がしながら遊びまわるプラズマはやがて男どもの体に吸い込まれて消えた。プラズマを浴びた連中は皆あっという間にバタリと地に伏せる。それはリーダー格の男も同じだったようでなぜだ、といわんばかりの表情を一瞬浮かべて地に倒れ落ちた。
少女は男どもの中身を壊したのだ。痛みに耐えうる機能がない分厚い脂肪という盾に守られた人間の絶対的な弱点、内臓へと。彼女のプラズマは男どもの身体を貫き内側から身体機能をショートさせることに成功したのだ。それはさながら電気の供給量を超えて回路がショートしたロボットのようであり、実際ロボットと何ら変わりなかった。彼らは彼女の操るプラズマというスイッチ一つで気絶させることが可能であり、そしてもう一度彼女がショックを与えれば今度は起き上がることだろう。ちなみに言えば命に別状はないので大丈夫だがやはり連続でこれを喰らえば死に至る可能性もありうるわけだ。
これが少女の力だった。魔法とは違う呪われた力。恐るべき力を秘めた可能性の力。そして、何も変えることができなかった虚しい力。そしてこの力はその恐るべき力のほんの片鱗しかないという事実は倒れている彼らには知るる由もなかった。
幼い少女にどうしようもない運命を背負い込ませた忌まわしき力、少女の笑みが一瞬強張ったのを電灯の小さな明かりだけが捉えていた。
さて、久しぶりの他人との夕食に箸が進み思わず食べ過ぎてまるで妊婦さんのようにぼてっと膨らんでしまった腹をさすりながら俺はどっかりと折り畳み式のイスに座る。キャンプの必需品として大量にストックしてあったのでもちろんトイの分もあり彼女もそこに座った。今度はシャイナがたき火に火を灯して明かりを作ってくれた。
結局俺たちはテントで野営することに。もちろんお金はある、もう腐るほどに。だから俺たちがこうして野営しているのは決してお金をケチったということではないことを知っておいてほしい。ならどうして野営しているのか、その理由は簡単だ。もう真夜中だからだ。今はちょうど夜11時ごろ、もうどこも宿は閉まっておりどれだけ金を持っていようとも新たな来客を拒むばかりだった。そういうわけでこうして野営しているのだが俺たち兄妹にとって野営は日常茶飯事であり温かなベッドで眠れる方が珍しいくらいだ。
「さて、と…それじゃシャイナ、いつもの頼むわ」
「はいはい、任せてお兄ちゃん!」
「ちょ、ちょっとリゼ君!?どうして急に服を脱ぎだしてるの!?もしかしてキミたちってそういう関係だったの!?いや、確かに仲いいなぁとは思ってたけど…まさかそこまで発展してたなんて…!」
どういうわけかトイは顔を真っ赤にして何かいろいろと妄想を早口に口走っている。俺はただ上着を脱いだだけだというのにどうしてだろうか。
「うふふ…お兄ちゃん…今からトイに私たちのあんなこともこんなことも見せつけてあげようよ…私のテクニックも、お兄ちゃんの人には見せられない恥ずかしいところも、さ…」
トイに視線を向けてにやりと小悪魔的な笑みを浮かべたシャイナ。まさにいたずらっ子そのものの顔だ。その言動にトイはさらに顔を真っ赤に染めて顔を手で覆ってしまった。が、俺たちが何をするのか気になるのか指の隙間からしっかりと青の瞳がのぞいていた。
「だ、大丈夫!私は見てないから!うん!なにも見てないから!だからお二人は好き勝手にやって!」
「いや、ちゃんと指の隙間から見てるじゃねぇか…しかもお前、何か勘違いしてないか?」
「勘違い…?」
はぁ、と俺はため息一つ、ややこしい言い回しをしたシャイナに軽くチョップを食らわせながら話し始める。
「義手の点検だよ。こいつは案外繊細でな、定期的にメンテナンスしてやらないとすぐにガタが来るんだ。今日はこいつで殴ったりしたから少し見ておこうと思ってな。お前何と勘違いしてたんだよ?」
優秀な機械ほど繊細で緻密な設計が施されている。例えばネジがどこか緩んでいただけでそこからすべてのパーツが崩れ落ちる、なんてのもあり得ない話ではない。俺の義手もそんな危険性を孕んでおり定期的にメンテナンスをしてやらないと使い物にならなくなってしまう。特に激しい動きをした時にはすぐに診ておかなければならないのだ。面倒だがこれも俺の命を繋ぐためだ、この義手には頼りっぱなしになっているからな。
「え?あ、そっか。そうだよね、メンテナンスメンテナンス!アハハハハ!」
虚しく響くトイの笑い声にシャイナがポツリ呟いた。
「トイってば…もしかして私がお兄ちゃんと近親相姦するって思ってたのかなぁ?うふふ…トイってば見かけによらず案外エッチだねぇ…」
「え、エッチじゃないもん!」
「こら、シャイナ。からかうのもほどほどにしておけよ」
「は~い」
ニヤニヤ笑いを浮かべながらもシャイナはちゃんと言いつけは守るらしく時折にやついた視線をトイに向けてはいたが言葉にすることはなかった。
「えっと…今から義手を取るんだけど…あんまり見ない方がいいぞ。気持ち悪いと思うから…」
「え?別に私気持ち悪いなんて思わないよ?グロイの平気だし。それよりもさ、私その義手がどうなってるのか知りたいな!」
「あ、あぁ…」
予想外の喰いつきに俺が少し引いてしまった。最近の女の子はグロ系がいけるのだろうか…
なんて思いながらも俺は思い切って義手を外した。がしゃり、聞き慣れた機械音とともに右手の感覚がなくなっていくのが分かる。
「へぇ…腕の付け根ってこんな風になってるんだ…この機械、どうなってるの?」
トイが俺の生々しい肉と無機質な機械がまじりあう腕の付け根を覗き込んで尋ねる。自身でもグロテスクだと思うこの腕をこうまじまじと見られてしまうと恥ずかしさのようなよくわからない何かを感じてしまう。
「この機械が神経の代わりなんだ。俺の命令でちゃんと義手が動くのもこいつのおかげ。この機械のところが俺の神経とつながってて脳の命令を電気信号に変換して義手の接続部に送り込み関節を動かす。ちなみに義手からの感覚も伝わるようになってるんだ」
「義手からも伝わるってことは熱いとか冷たいっていうのもわかるの?」
「あぁ、もちろんだ。けど生身よりは少し感覚が鈍いんだ。だから左手で感じるよりも熱くなかったり冷たくなかったりする…」
そのせいで痛い目を見たことは数え上げればきりがない。例えば右手でお湯の入ったカップを持っていて熱くないかなと思い左手に持ち帰ると予想外の熱さにカップを落としてしまったり…。あまり思い出したくない出来事ばかりなのでここは省略させてもらう。
「へぇ…すごいね」
感心するトイをよそに俺たちはメンテナンスを始める。利き手の右手が使えない俺は関節部分の動作確認を行いシャイナは力のいるネジ締めをやる。これもいつものこと。これが俺たち兄妹の共同作業でありやはり生きていくためには重要な作業なのだ。
慣れた手つきでメンテナンスを行っていく俺たちの横でトイはほぉ、とかはへぇ、とかバカっぽい感心の声を漏らす。普段ならこういうのはうるさいと怒るタイプなのだがどういうわけかトイのそれは不思議と嫌じゃなかった。
「えいっ!」
と、突然可愛らしい声と同時にトイが背中に抱き着いてきた。ふしゃー、とシャイナがまるで猫のように威嚇をするがそれにもかかわらずトイは背中に貼りついてくる。
「ど、どうしたんだよ…」
「いや、男の子の背中っておっきいんだなって思ってさ…それに触ってみると分かるけど、カチカチだね。女の子とは全然違うや」
「ちょっと!お兄ちゃんから離れてよ!お兄ちゃんは私のもの!触らないでよ!」
「いや、シャイナのものでもないんだけど…けど俺も離れてほしいかも…作業がしづらい…」
「そう…?」
トイは俺の背中に浮かび上がる古傷を撫でるような手つきで触ると満足したのか背中からはがれてしまった。トイが離れると分かったのだが彼女から感じていた熱は相当なもので今誰もいなくなった俺の背中は少し寒いと感じてしまった。
「よし、これでいいかな」
そんな寒さを紛らわすように作業に集中させていつもより早い速度でメンテナンスを終えた俺はまた義手を装着する。2,3度手を動かして動作を確認、違和を微塵も感じない完璧な出来栄えだ。
「ねぇ…リゼ君…その…聞きにくいことなんだけどさ、その腕といい脚といい…それに眼も…キミには何があったの?」
「…」
申し訳なさそうにそう尋ねるトイに俺は黙るしかなかった。それは答えたくないという意思表示でもありお前には話したくないという完全な拒絶でもあった。
「ごめん…やっぱり、言いたくないよね…」
俺はこくりとうなずく。トイはシャイナの方を向いたが妹もただ首を振るだけ。真実を告げる口はやはりシャイナも持ち合わせていない。
「うん、そうだよね。見ず知らずの私に言う義理もないし、それに私もやっぱり無神経だったかも。ついさっき会ったばかりの人にこんなこと尋ねられても嫌だよね。ほんと、ごめんね…」
トイは謝ると同時にその手を俺たちの隠された瞳に持ってきて、そっと撫でた。まるで母親が子供の頬を撫でるように慈しみのこもった手の平が眼帯にくるまれた空っぽの瞳をなぞる。なぜか俺はそれを拒むことができなかった。いつもなら本能に刷り込まれた恐怖がこの手を払いのけてしまうはずなのに、どういうわけか彼女の瞳には何も反応しなかった。本能が受け入れたその手の平はとても暖かく、優しいものだった。
「目が見えないのって、怖いよね…私もその怖さを知ってるの…私も昔目が見えなかったから…だけどね、お母さんがこうして目を撫でてくれると不思議と怖くなくなったの…とっても暖かい気持ちになった…これね、よくお母さんが私を慰めるときにしてくれたの。ほら、あったかくてポカポカしてさ、気持ちいいでしょ?」
俺もシャイナもそれにこくりとうなずいた。これが彼女なりの謝罪の仕方、母から受け継がれた優しい手の平。もしかすると俺の本能がこの手を受け入れたのは母親の手と勘違いしたからなのだろうか?母親の優しさに飢えた俺の心が、無意識に優しさを、愛情を、慈しみを求めていたのだろうか?
結局その答えもわからぬまま俺たちは彼女にされるがままに目を何度も何度も撫でられた。ぽかぽかとした温かい気持ちが胸いっぱいになるまでその行為は続いた。
朝、それは生きとし生きるもの全てが迎えることのできる不変の概念でありどんな人間にも必ず朝はやってくる。歪な体の俺にも、従順な妹シャイナにも、暖かな手の平のトイにも、そして今頃牢獄の中にでもいるのであろう俺を殴った連中にも、ひとしく朝は訪れた。朝を迎えることこそ生きている人間の権利であるわけだ。
そういうわけで朝だ、昨夜は結局何事もなく過ぎていった。そう、何度でも言うが何事もなく過ぎていったのだ。俺が抱いていた懸念も全くの片鱗も見せずに夜が明けたのだ。隣で眠っていたトイに女の魅力がなかったから欲情しなかった、というわけではないのは覚えておいてほしい。ただ俺はどういうわけか彼女の不思議な魅力にあてられてしまっていたのだ。神聖で初々しい彼女の魅力を俺ごときの人間が穢せるわけもなく、結局よくわからない気持ちのまま俺は眠りについてしまったわけだ。
「んっ…ふわぁ…」
俺はあくびを一つこぼし寝袋から身を起こした。朝のすがすがしい陽気が木々の隙間を縫ってちょうどいい明るさとなって俺の瞳に入り込んでくる。俺はそれに少し目を細めつつも伸びをして胸いっぱいに空気を吸い込む。森の中の独特のすがすがしくて瑞々しい空気が肺に広がり脳の隅々まで行き渡る。木々の匂い、土が朝露で湿った匂い、降り注ぐ太陽の優しいにおい、天然のいい匂いにつられて俺の思考はしゃっきりと目を覚ます。この天然の空気の味わいこそ野営の醍醐味であり温かな布団の中では決して感じることができない極上の贅沢なのだ。
朝から極上の空気を味わいつつ俺は瞳を擦りまだほんのりとぼやけた視界を起こす。覚醒した視界が真っ先にとらえたのは気持ちよさそうに眠る二人の女の子だった。一人は妹のシャイナ、いつも見ている気持ちよさそうに緩んだ寝顔が可愛らしい。もう一人はトイ、昨日出会った女の子だ。しっかりとした顔つきだがどこか子供っぽい寝顔を浮かべている。しかも口の端からよだれまで垂らしてしまっている。よっぽど幸せな夢でも見ているのか少し顔がニヤけているし。俺はそんなバカっぽいトイの顔に思わず吹き出してしまい、そこで気が付いた。俺自身笑ったのはいつ以来だろう、と。
すべてを失ったあの日から俺はほとんど笑っていなかった。笑うという機能を失ってしまったとも思っていた。だけど俺は、まだ笑えたのだ。俺はまだ、人だった。
「さて…飯でも作るか…」
朝から少し幸せな気分を味わった俺はいい気分のまま食事を作る。トイと出会えたこと、それは俺を人間だと思い出させてくれた。トイのおかげで俺はまだ人だと気が付けた。俺の心はどういうわけか料理の最中もトイのことをずっと思い続けていた。
「あ、これ美味しい!すごいねリゼ君!料理もできるなんて」
「ま、まぁほとんど野営生活だったからな、料理ぐらい何のそのさ」
「料理できる男の子ってやっぱりかっこいいよねぇ」
「お兄ちゃんは私のものだからね!」
「ははは、わかってるよ」
皆も起きて来て朝食タイム、今日の献立はパンとスクランブルエッグに加工肉と野菜を炒めた簡単なもの、けれどいつもの食事よりは数倍豪華だ。それにトイもいる。何度でも言うがやはり誰かと食べるご飯は格別なおいしさで箸が進んだ。
「そういえばさ、トイの力ってどんなものなんだ?」
「ん?私の力?」
パンを頬張ったままのアホ面でトイがこちらを向いた。少し噴き出しそうになったが堪えて俺は質問を続ける。
「あぁ、昨日のあれだよ。一瞬で男をノックアウトしたあれだ」
「あぁ、あのことね」
トイは一瞬思考したが話してもいいかという風に表情を緩めて口を開いた。
「あれが私の魔法なの。電気を操る魔法で相手の内側を攻撃したの」
そう言ってトイは自身の指からパチリ、と小さなプラズマを放って見せた。
「昨日のあれは魔法だったのか…」
要するに電気ショックのようなものかと俺は頭の中で納得する。けれどやはり電気の魔法のように高等なものを詠唱無しに使えるものだろうか。魔法の難易度はその属性によって大きく変わってくる。炎や風といった現象を操るものは比較的難易度も低く詠唱無しでも唱えられる簡単なものも多い。だが電気や水のような物質を操る魔法はベテランの魔術師でも使役するのは難しくましてや詠唱無しで唱えるものなどないはずなのだ。だから俺は納得できなかった、方法としては納得だがやはり手段には納得できない。やはり彼女の力にはまだ秘密があるようだ、俺はさらに踏み込んだ質問をかける。
「でもなんで詠唱もなく使用できたんだ?電気系統の魔法は難しいはずだぞ?」
「それは…」
そこで彼女は言い淀んでしまった。どうやら話しにくいことだったらしい。
「お兄ちゃん。それ以上はだめだよ。私たちだってあんまり踏み込んだことをトイに話してないんだからさ」
「ま、そうだな。ごめん、ちょっと無神経すぎたかも」
確かにシャイナの言うことは正しい。こちらのことをほとんど話さずに相手の秘密を知ろうというのはいささか不平等すぎる。それに俺とトイはほんの少しの関係だ、すぐに分かれてしまう相手のことを知ったところでたいした意味はない。
「いいよ、別に、謝らなくても。リゼ君は気になったから質問しただけだし、何も悪いことじゃないよ?」
「そう言ってくれると助かる…」
けれど少し悪くなってしまった空気はどうすることもできず、結局食事が終わるまで皆一様に黙るしかなかった。
「それじゃ次の街行くか」
食事を終えキャンプ用品を片付けてからはすっかりと険悪な空気は消え去り基の俺たちのように自然な会話を楽しむことができた。楽しい会話をしながら森を歩く、歩く。いつもなら同じような木々の連続で飽きてしまいそうな森の風景もトイといれば苦にならなかった。どうにもやはりトイといればいつもの俺が壊れていくようだ。まるで俺という概念が根本から彼女の無邪気な笑顔に壊されていっているような、そんな錯覚を覚えた。
「あれ?こっちの道だと王都には遠回りだけどいいの?」
「あぁ、いいんだ。この道だとすぐに森を抜けられるし街にも近い。近道だとしても途中で休憩できるポイントがなければ意味がないだろ?」
「あぁ、なるほど…」
トイはこくりとうなずく。だが彼女には言っていないがもう一つの理由がその街にはあった。それはもちろん俺たち兄妹のやらなくてはいけないことのうちの一つだ。
「でもさ、街が近いと私たちすぐに離れ離れになっちゃうけど、リゼ君はそれでもいいの?」
心を見透かすようなトイの視線に俺は顔を逸らしてただ黙る。その瞳に俺の心の奥の奥が映ってしまっているようで俺はなんとも言えない気持ちになる。
「べ、別に、いいんだよ…」
口から漏れる言葉はしどろもどろ。目は口ほどに物を言うというが、俺の口は片方しかない目よりもどうしようもなく正直らしく俺のそんな様子にトイがかすかに笑みを浮かべているのが分かった。だから俺はこれ以上は黙ることにした、まだ定まっていない揺れ動く心の底を読み取られないように、得意な感情を殺すことを決めた。
「お兄ちゃん、静かに…」
先を行っていたシャイナが素早くこちらを振り返り口元に指をたてた。俺はその動作に緊張して体をこわばらせるが何も知らないトイはただ押し黙るだけだ。
「魔物の反応がある…結構大きい…どうする?」
「相手はこっちに気付いているか?」
「う~ん…微妙なところ…動き方からしてこっちの反応をうかがってるみたい…」
シャイナは意識を集中させて目の前に迫りくる脅威を探る。これもシャイナの魔法、索敵だ。自身の身体から魔力の波を放出してソナーのように周囲を探っているのだ。魔力を飛ばすのは初歩中の初歩ということでもちろん詠唱はいらない。旅を続ける俺たちにとってはこの魔法が自身の身を守る絶対の魔法となっていた。
「逃げれそうか?」
「わかんない…ウルフ系統の魔物だと思うから足は速いと思う…完全に逃げ切るのは難しいかも…」
「わかった。トイ、戦闘だ。構えろ…」
「うん」
トイも俺たちの雰囲気から状況を察知したのだろう。指にぱちぱちとプラズマを溜め込みはじめている。俺も自身の腰に提げている大型のナイフを取り出して構える。シャイナとトイは魔法で後方支援となると前衛は俺だけか。相手を攪乱するように動き魔法詠唱の隙を作るのが俺の役割というわけだ。
「よし、行くぞ…」
戦闘開始の合図として俺が一歩踏み込もうとしたその瞬間、俺に耳元を高速の何かが飛んで行った。それは一直線の軌跡を描きながら茂みの奥に隠れた魔物にヒットする。その証拠に魔物の大きなうめき声が聞こえた。
「先手必勝、ってね」
後方を振り向くと手をピストルの形に構えたトイの姿が、その指先にはまだぱちぱちとプラズマが走っていた。まさか本当に手をピストルと化してしまったというのか。これなら俺たち兄妹の出番はないな、そうため息交じりに思った瞬間だった。
「お兄ちゃん!まだ油断しちゃダメ!あいつまだ動いてるよ!」
「何!?」
俺が振り向くのと同時茂みの中から真っ黒な巨体がまるで砲弾が飛んできたのかと勘違いしてしまうほどの速さで飛び出してきたのだ。その真っ黒なものは俺たちを認めるなり二本足で立ち上がり咆哮をあげた。
「おいおい…何がウルフ系統だよ…完全にベアーじゃないか…」
ベアー、それは文字通りクマから派生した魔物だ。人間よりもはるかに巨大な体躯、異常なほどに発達した筋組織、そしてオリジナルのクマにはなかった異常なまでの獰猛性を兼ね備えた厄介な魔物だ。
真っ黒な筋肉の塊から覗く金色の瞳が敵意を込めて俺たちを睨みつけた。相手としては不意打ちの攻撃だ、俺たちを敵と認識するには十分すぎる。そしてこちらもこんな相手から逃げることはほぼ不可能であり仕方なく敵と認識せざるを得なかった。
「トイ、もっと高火力を出せるか?」
「うん、もちろんできるよ」
トイの指先から放たれるプラズマ光線がさらに大きいものへと変わる。だがそれも奴の固い筋肉にダメージを負わせるにはまだ火力が足りず表面の真っ黒な体毛を少し焦がす程度だった。
「ダメ…これも効かないなんて…」
「シャイナ、俺が囮になるからいつもの頼む!」
「オッケイお兄ちゃん!」
俺はナイフをぎゅっと握り魔物へと突進する。渾身の力を込めてナイフを突き刺したがやはりというべきか固い皮膚には有効なダメージを与えることはできない。ただ少し肌に傷をつけた程度で魔物がにやり嘲るように俺を見下していた。
「リゼ君、避けて!」
「わかってる!」
俺は足に力を込めて横に飛ぶ。俺の頭上すれすれを大きな丸太と勘違いしてしまいそうな太い腕が横薙いでいた。鋭い爪は俺の髪の毛を数本切り裂くだけに終わったが、もしも避けきれていなければと思うと背筋に冷たいものが走った。
「援護射撃、行くよ!」
魔物の体に何発ものプラズマ球がぶち込まれた。光の弾丸はダメージにはならないが相手を怯ませるくらいには役立っているようで魔物は鬱陶しそうにそれを振り払おうと腕をぶんぶんと振り回している。トイが作ってくれたチャンスに俺は体勢を立て直す。
「ふぅ…サンキュートイ」
「感謝はあいつを倒してから!」
「ま、そうだよな」
俺はもう一度ナイフを握り敵へ突っ込む。だがやはり攻撃は効くはずがない。けれどそれでいい、相手が俺たちに気を取られている隙にシャイナのあれが完成してくれれば。
「シャイナ、まだか!?」
「うん…もうちょっと!」
シャイナの方を向くと彼女はしっかりと例のあれを準備してくれていた。シャイナを取り囲むように浮遊したカードの群れ、それこそが彼女のとっておきの秘儀だ。この世の誰もまねできないシャイナオリジナルの魔法、カードマジック。
「すべてを焼き切る炎の刃よ、凍てつく氷の砲弾よ、雷神の怒りのごとき雷よ、我の声に応えその力を体現させよ、カードの剣として」
シャイナの詠唱が俺の耳に響く。俺にとっては聞き慣れたその言葉の群れもトイにはやはり初めてのもので驚きの表情のまま耳だけをシャイナに向けていた。
浮遊したカードの群れがシャイナの呼びかけに応えるように様々な色に染まっていく。炎の赤、氷の青、稲妻の黄色、闇の黒、光の白、そのほか様々な色を帯びたそれがぐるぐるとシャイナの周りを踊るように回っている。そしてすべての詠唱が終わるころ、そのカードはただの紙ではなくこの世のすべての要素を内包した万能の武器と化した。
「さぁ…我の敵を撃つべく、解き放たれよ!」
詠唱が終わった瞬間カードの群れは魔物へ一直線に向かっていった。浮遊したカードはまるで一つの意思を持ったかのように順番に、時には同時に敵の身体へと吸い込まれそのエフェクトを発動させる。
普通魔法を発動するときは一つの要素しか扱うことができない。例えば火の魔法を使っている最中に同時に水の魔法を出すことができない、というように。だがシャイナのそれはカードに魔力を閉じ込めることで同時の魔法攻撃が可能となったのだ。ただこの技術は前にも述べた通りシャイナオリジナルでありきっと誰も成功しなかったものだろう。なにせ大量のカードに魔力を閉じ込めるのだから相当な魔力貯蔵量がなければ無理なわけだ。さらにそれを暴発しないように抑え込む慎重な魔力コントロール技術が必要になるわけだ。そのすべてを備えるシャイナは生まれながらに魔力の才能に恵まれた天才といえよう。そう、俺の妹様は魔法にとってはどうしようもなく天才なのだ。ただ詠唱無しで魔法を唱えることはできないが、トイが少し例外すぎるだけだ。
「うわぁ…すごいね、これ。私こんな魔法見たの初めて」
トイの視線の先では様々な魔法が同時に発現している。炎が、水が、雷が、闇が、光が、その他さまざまな魔法が魔物の身体を同時に貫いている。そのごちゃごちゃの全ては獰猛な魔物に喰らいつきその体をぼろぼろにしていく。俺の刃もトイのプラズマも効かなかったその体が、今目の前で崩れ落ちていっているのだ。
「へへ、すごいだろ。俺の自慢の妹、さ」
正直な話この旅で俺が倒した魔物の数なんてたかが知れている。シャイナの方が倒した数は多い。兄として情けないと思うが妹のサポートに全力を費やすのも兄の務めであり、今この関係こそが俺たち兄妹の本来の形なのだ。
「ふぅ…これで一丁あがりかな、お兄ちゃん」
「お疲れ、シャイナ。今回も助かったよ」
「えへへ~お兄ちゃんに褒めてもらったぁ」
ちょっとした労いの言葉、それでもシャイナは嬉しそうにふにゃりと顔を歪めた。さっきまでの魔法を使うときの真剣な表情はどこへやら、今は一人の女の子としてのシャイナがそこにいた。
魔物はシャイナの魔法によりズタボロに傷つきぐったりだ。俺もトイもそれを見てほっと一息ついた。俺たちはまた、油断してしまったのだ。そう、性懲りもなく学習もせずに、油断してしまったのだ。俺たちがちょっと背を向けた、その隙に奴は俺たちに襲い掛かってきたのだ。これが獣の本能というべきか、死に際の最大の攻撃が俺たちに降りかかろうとしていた。
「くそ…!」
俺はその一瞬、全身の筋肉を爆発的に高め少女二人の前に躍り出た。彼女たちの驚いた顔に見守られ、俺はやけにスローに感じる振り下ろされる腕を、受け止めた。
「リゼ君!」
「お兄ちゃん!」
二人の悲鳴にも似た絶叫が俺の耳に届く、がその声もどこか遠くだ。俺の体にぼんやりと、だが確実に広がっていく痛みを俺は受け入れた。その痛みは俺を意識の玉座から追放するには十分なもので、気がつけば俺の視界は黒に染まっていた。ただ最後に頬に感じた温かな何かは、いったい誰のものだったのだろうか。
「くくく…こいつ、どうする?」
「どうするも何も決まってるだろ?ぶち壊すんだよ」
「そうだな。死んだほうがましってくらいにぶち壊さないと俺たちの気がすまねぇしな」
「あぁ…俺たち人間の気が、治まらないんだ…」
「やめて…!」
周りにあるのは大きな大人の瞳。すべてがぎらぎらと復讐の炎で輝いて俺を取り囲んでいた。俺はただ一人、大人たちの暴力的な視線の中でか細い声でやめてというしかできなかった。助けなどいない、誰も俺を助けてくれない。
「何がやめてだと?このガキが!」
大人のうちの一人、誰よりも屈強そうでがっちりとした体形の男の、まるでクマのように太い腕が俺の顔面に思いきりめり込んだ。その拳はマンガの擬音のようにめりめりと音をたてて俺の頬に食い込み小さな俺を後方まで吹き飛ばした。が、それで終わりではなかった。
「ガキが…てめぇが生きてるだけでどれだけの人間が困ると思ってるんだよ!」
吹き飛ばされた先、そこにいた長身のメガネの男に俺は思い切り背中を蹴られた、しかも空中でだ。まるで自分がサッカーボールになったような気分になりながら背中にめきめきと痛みが走るのを知った。体が逆のくの字に曲がり肺の中の空気が一気に口から漏れかはっと吐き出された。
「やめて…!」
空中から重力により地面に叩きつけられる。石畳は俺を優しくとらえるつもりなどなく鈍い痛みとともに俺を地上の重力に縛り付けた。そう、今の俺にはもはや重力という自然現象ですら敵なのだ。
「ボクはなにもしてない…!なにもしてないのに…!」
「あぁ、そうさ。お前はなにもしていない」
「けどな、お前が生きていると惨劇が繰り返されるんだよ!」
「そう、俺たちはいつか起こる惨劇の種をここで摘み取っているってわけだ」
「だから、おとなしく壊れろ」
先ほどの2人のほかに俺を囲んでいた2人の大人、まとめて4つの暴力が降り注ぐ。それは圧倒的な力の差でありもはや暴力というよりも殺人行為に近かった。だが彼らの賢かったところは俺を死ぬ寸前、ギリギリの引き際でその暴力を止めたことだ。俺は殴られて、傷を癒すために休む時間を与えられ、その安全な時間が過ぎるとまた殴られた。
「ごめんなさい…ごめんなさい…」
何度も繰り返される暴力の時間、振りかざされる腕、とびかかってくる足、大人たちの罵倒、俺に降り注ぐ憎悪、そんな中でもただ一人、ごめんなさいとつぶやいている少女がいた。少女は殴られる俺を見ながらただごめんなさいとしか呟かない。大人たちの中に一人だけの少女、それにこの子なら俺に危害は加えないということでその少女が特別に思えた。そのごめんなさいは俺に言っていたのか、それとも無力な自分に言っていたのか、それはわからない。だが俺はその少女を不思議に思いながらも特別な存在として見ていた。
だがそれもすぐに踏みにじられることとなった。
「もう飽きたな…最後に盛大にぶっ壊すとするか」
屈強そうな男がそう言うと皆もうなずきそして最後の暴力が俺に降り注いだ。
「まずは俺たちだな」
男二人が俺の身体をズタボロに切り裂いた。ナイフでずたずたに体が切り裂かれて血がたくさん出た。けれども俺は生きている、痛みによってむりやり意識を覚醒させられたまま。
「次は俺。左足だ」
「ぐあぁぁぁぁぁ!」
その後は俺の記憶にも残っていない。ただ残っているのは、ハンマーで足をめちゃくちゃに潰された痛みと、右腕が吹き飛んだ痛みだけ。ぶしゅり、腕が吹き飛んだ瞬間赤が散った。ただただ真っ赤な液体が俺の腕から流れ出て辺りを濡らした。自身の声とは思えないほどの絶叫が口から漏れる。それを見て笑う大人たち。大人たちは何も知らない、俺の痛みを。まるでゲーム感覚で俺を痛めつけた大人たちには。
「さぁ…最後はお前だ」
名指しされた少女はびくりと肩を震わせる。大人たちに連れられて俺の前へ来る少女。俺と同い年くらいの少女の手にはギラリと鋭く光るナイフがあった。
「お前は目的のためにこいつを傷つける…お前の瞳のために、こいつの眼を抉れ」
大人のその言葉に少女は瞳に涙を浮かべる。肩を震わせて今にも崩れ落ちてしまいそうだ。けれど少女はそんな壊れそうな姿で俺の方へ近寄ってきた。その手に握られたナイフをきゅっともう一度強く握りしめて。
「さぁ…抉れ!」
「ごめんなさい…」
少女の口からごめんなさい、といつもの言葉が漏れた。そのごめんなさいは間違いなく俺に言っているんだ、初めて知った彼女の言葉の行く先、そして知った、世界の絶望を。
「やめて…!」
俺もまた同じ言葉を漏らすがそれは大人によってかき消された。大人がむりやり俺を押さえつけて動けなくする。必死の抵抗も虚しく、子供が大人に勝てるはずもなく、俺はただ押さえつけられて右眼を思いっきり見開かされた。開かれたその瞳に移るのは銀色に輝くナイフだけ。
「ごめんなさい…」
その言葉とともに俺の右眼は永遠に色を失った。
「うわぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
「お、お兄ちゃん!?」
「リゼ君!?」
右眼が、痛い。無いはずの右眼が、痛い。痛くて痛くて、どうしようもないほど痛くて、俺はたまらずに右眼を擦った。
「痛い…痛い…痛い…痛い痛い痛い痛い!」
ごしごしと右眼を擦るが痛みはとれない。押し寄せる痛みは俺の脳を揺さぶりないはずの右手すら痛みが走りだした。俺の虚空の右手はギリギリと痛み叫んでしまう。その叫びはあの日の俺と同じで無力な自身に飽和して消える。
「あぁぁぁぁぁぁぁ!」
「お兄ちゃん!お薬!ちょっと待って!」
「リゼ君!」
「トイはお兄ちゃんを抑えてて!」
「う、うん…!」
何か声が聞こえるがそれは音としか俺の耳には響かない。よくわからない音は俺の脳を嫌に揺さぶった。
「あぁぁぁぁぁ!」
痛い、痛い、すべてが痛い。体が、痛い。痛くて、たまらなくて、この痛みを、返してやりたい、復讐してやりたい、俺を狂わせた、すべてに。俺を狂わせた、平和の使者に。
「あぁぁぁぁぁぁぁ!」
「リゼ君!落ち着いて…!」
ぎゅっ、と俺の体に何かが抱き着いてきた。それは痛みではなく、冷たくなってきた俺の体にはとても熱く感じた。その熱い何かはさらにぎゅっと俺の体を抱いた。
「リゼ君…私だよ…分かる…?」
「トイ!今のお兄ちゃんはなにするかわからない!危ないからちゃんと抑えてて!」
「大丈夫…リゼ君は何もしないよ…」
「トイは何も知らないのよ!今のお兄ちゃんはお兄ちゃんであってお兄ちゃんじゃない!全くの別人よ!」
「ううん…リゼ君はリゼ君だよ…私にはわかるもん…今のリゼ君は、とっても怖がってる…何に怯えてるのかはわからないけど、でも私にはわかるの…リゼ君が今一番欲しがってるものが…」
温かい…
とても、温かい…
温かな何かが俺を包み込んだ。その時から俺の中で悲鳴をあげていた痛みが、治まっていく。脳の中で渦巻いていた痛みが、消えていく。
優しい。この優しさは、なんだ?俺は、この優しさを、知っている?
「ト…イ…」
「うん…そうだよ、リゼ君…私はトイ…私は怖くなんかないよ…私はリゼ君の味方。わかる?」
俺の耳を震わせた言葉は脳の中に染み渡っていく。俺は無意識にこくりとうなずき、そして無自覚に涙を流していた。
痛みが引き俺の全ての感覚が元に戻っていく。何事もなかったかのように元に戻る意識、ただ少しわき腹がずきずきと痛んだがそれもたいしたことはない。
「トイ…ありがと…」
「うん、いいよ。リゼ君」
「驚いた…まさかお薬なしでお兄ちゃんが元に戻るなんて…不思議なこともあるもんだね」
「シャイナ…ごめん…手間、かけたな…」
「ううん…いいよ、私は何もできなかったし…それよりもお兄ちゃんだよ!大丈夫?また、怖い夢見た?」
心配そうなシャイナの顔、何度となく見たシャイナのその顔に俺は胸を痛めつつもこくり頷いた。俺を蝕むすべてを奪われたあの日の記憶は今もこうして夢に見ることがあり、シャイナもそれを知っていた。
「ごめんシャイナ。薬、もらえるか?まだ完全には落ち着いてないから…」
俺はシャイナから錠剤をもらう。それを二粒水で流し込むと不思議と気分が落ち着いた気がした。普段なら注射もプラスされるが理性を取り戻した俺にはそれは必要ない代物だ。
「ふぅ…トイも、ごめんな…変なもの、見せちゃったよな?」
「変なものっていうか…ちょっと、怖かった、かも…」
「そう、だよな…怖かった、よな…」
怖かった、俺はその一言で心をずしゃりと切られてしまう。普段なら怖いと言われても何も気にしないのだがどういうわけかトイのその言葉に俺はダメージを負ってしまったようだ。
「ほんとごめん…怖い思いしてまで、俺を助けてくれて…なぁ…なんでお前はさ、そんなに優しいんだ?初めて会った時も見ず知らずの俺を助けてくれたしさ、そのあともいろいろ助けてくれた。それはどうしてなんだ?」
俺は出会ったころから不思議に思っていたことを聞いてみた。彼女の優しさの根底を、どうしてか俺は知りたくなっていた。他人のことなどどうでもいいと思っていた俺が知りたくなってしまったのだ。
「う~ん…私ね、昔人を傷つけちゃったの。どんな理由であれ人を傷つけて、たぶん不幸にした。そのときね、私すっごく心が痛くなったの…それでなんであんなことしちゃったんだろうって思ってさ…とっても後悔した。だからね、思ったの。私は二度と人を不幸にしないって。誰かを幸せにしようって。そのためにはまず自分が優しい人になろうって、そう思ったの」
少女は話し終えて自嘲的な笑みを浮かべた。
「けどそれもきっとただの自己満足だよね…私がどれだけ優しくしたってその人の傷はもう治らないんだから…」
その話を聞いて、俺は胸が痛んだ。それは彼女の話に同情したとか切なくなったとかそういうものではない。俺は彼女の話から生まれた自身の感情によって心を痛めたのだ。
それは、嫉妬だ。彼女の優しさが、俺一人に向けられていなかったから。俺じゃない不特定多数の人間にも向けられていると知ったから。きっと彼女は俺じゃなくても困っていたら助けるのだろう、それがどれだけ危険なことでも。
俺はきっと調子に乗っていたのかもしれない。自分の身が危うくなるにもかかわらずに助けてくれた少女が、俺のことを怖いと思いながらも必死に助けてくれた少女が、俺のことを特別な存在として助けてくれたと思ってしまっていたから。
「そう、か…」
だから俺はそれだけを口からこぼして黙るしかなかった。ただ自身の胸に広がるどうしようもない虚しさを抱えながら。
(俺はどうしちゃったんだろうな…なんでこんなに、トイのことを…)
トイと出会ってからやはり俺はどこかおかしい。俺はどうしてしまったのだろうか。俺の異変は、病院に行けば治るのだろうか?薬を飲めば治るのだろうか?俺のこの異変は、どうすればいいのだろう。
「お兄ちゃん。傷に障るから寝てた方がいいよ?」
「あ、あぁ…」
無言だった俺を心配してか声をかけてくれたシャイナに従い寝転がる。瞳を閉じて考える、この思いの正体を。けれど何もわからない。気がつけば俺の意識はまた闇の中だった。
結局魔物にくらった俺の傷はたいしたこともなくもう一度目覚めるときには痛みもほとんど治まっていた。ただ、胸の奥で感じた痛みは癒えることはなく、ずきずきとした痛みを俺に送り続けていた。その痛みは俺を苛み続け、そして訪れる別れをどうしようもなく苦痛にさせた。
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