泡沫を呑む

トガワ ユーコ

...

人魚姫は恋に散ったから泡沫へと散ったんだっけ。海へと溶けていくとき、何を思ったんだろう。彼女の心はいつまで残っていたんだろう。たとえば、泡へと変化していくその身体を、見つめることは出来たのだろうか。もしくは何も思い返せる瞬間もなく変わっていったのだろうか。

ウォッカの入ったコップへ炭酸水を注ぐ。氷に反応して、しゅわしゅわという音がよく聞こえた。半分に切ったレモンを、グラスの上で思い切り握りつぶす。


「…ッ?」


左手の中指の先にしみるような痛みが走る。そういえば、皮膚がささくれだっていたのだった。握りつぶしたレモンをそのままグラスの中へ伏せるように落とし、掌の真ん中あたりから中指の先へ向かって舐め上げる。レモンの酸っぱさが、俺の舌を刺激する。

炭酸水の泡がはじける姿を見ながら、記憶の中の人魚姫を少しずつなぞっていく。彼女はどうして泡になってしまったのだっけ?ああ、そうだ、王子様を殺すことが出来なかったからか。どうして殺さなければならなかったんだっけ?………。理由が思い出せなくなったところで、グラスを手にとり一口だけ飲み込む。後味のレモンが妙に舌にまとわりついてくるような気がした。

確か。人魚姫は漂流している王子様に一目ぼれをして、助け出した後に海の魔女へ相談しに行ったのだっけ。昔聞いた童話の記憶があまりにもおぼろげなことで、自分ひとりで軽く笑う。そう、海の魔女へ相談をしに行って、魚の下半身を人間の脚とした引き換えに、声を失ったのだっけ。

携帯が震えたのに気づいて、通知画面を確認する。バイト上がりの彼女からの報告メッセージだった。グラスを持つ左手をそのままに、右手の指先でメッセージを返す。特に意味のない会話が重要らしいというのは、彼女のヒステリーのおかげで知った。人との付き合い方というのも、彼女から教わって初めて知ることばかりだった。当然のようにある「好き」という感情も、言葉として言って聞かせないと相手に不安を与えるらしい。休日は必ず合わせて、一緒に過ごすことを最優先とするべきだという事。「してほしいな」という言い方は、「してくれなきゃ嫌だ」という意味を持っているというのは、目からウロコが落ちる思いだった。そして、この当たり障りのない会話を繰り返す事こそが、付き合いを続けていく上で必要かつ最重要なんだという。


カラン、と、氷のかたちが変わる音がした。グラスを軽く回してカラカラと氷で音を鳴らして、ウォッカのソーダ割りをもう一口呑む。今度は安い酒の味がした。


ふと、彼女と人魚姫がオーバーラップする。余計なおしゃべりを好む彼女と、大切な言葉も伝えられなかったマーメイドは、何か違う所があるのだろうか。俺たちはお互いの持つ心の隙間を埋めようと必死に会話を繰り返して、何か肝心なものを見ないふりしてやり過ごしている。

付き合いだしてすぐの頃によく見た、彼女が時折苦笑いをして「そう言うならそれでいい。」と言ってそっぽを向いた姿が忘れられない。俺が何を言ったのかは全く覚えていられてなくて、彼女のその不満そうな姿だけが記憶に残っている。この景色を思い出す度に、俺の心は黒くもやがかかったような暗澹とした色に沈む。ほら、今もまた。自己嫌悪で更に嫌な気分になる。悪循環の流れを変えるために、残りのドリンクを全て飲み干す。沈みきっていたレモンの皮が上唇に触れた。泡と成った人魚姫を飲み干したように空想して、このまま俺の声も消えてしまえばいいという願いがよぎる。言葉を話せなくなった人魚は、脚を得た痛みと引き換えに、何を得られたのだろう。王子と再会するまでは、きっと夢に溺れていたんだろう。王子と手と手を取り合って、海辺の散歩を楽しむとか。二人で過ごす時間が、言葉はなくても幸せに違いないと信じて。

「…俺みたいだな。」

自嘲的に口元を笑わせていた。いま、見える景色の中に鏡がなくて本当によかった。コトリ、と、机の上にグラスを置いて、体育座りだった体勢からずるずると床へ横になる。


彼女も俺も人魚姫も、本質的には全く同じような気がする。

相手を思うあまりに。それよりも、自分の自尊心を思うあまりに。心から叫んででも伝えたい言葉を飲み込む惰性に甘えて、今の姿をありのままに話す勇気を棄てたような。


身体は横たえたまま、左腕を伸ばしてグラスに再度ウォッカと炭酸水を注ぐ。微かに残っている氷によって、ややぬるくなった炭酸水はしゅわしゅわという音をよくたてた。


言葉などなくても、「恋人である」という前提があれば心配はいらないものだと思っていた。問題の本質を話すのが怖いなら、その周辺のおしゃべりをして、沈黙に包まれた時にその行間の中を探れば良い。しかし彼女は息継ぎを忘れたように楽しそうな話を繰り返して、俺は彼女との関係を逃がしたくなくてそのおしゃべりに黙って付き合っていた。

腕を下ろして、全身を空想へ浸らせる。舞台は海の中で、俺は美しい人魚姫のように泳いでいる。彼女によく似た王子が海の中を漂う姿を見上げたところで、砂嵐がかかったような映像が入った。そもそもの俺たちの出会いを思い出す。人魚姫のように、自分の世界という海の中を何も考えずに楽しく泳いでいた中で、彼女は突然の出会いだった。行きつけのバーに行き、いつものソルティドッグを注文して、友人とマスターとでバカみたいな話をしていた時に、ひとりで入って来た女だった。あの時の憂いた目は実にきれいだったなと思い出して、懐かしさに浸る。浸りきったところで現実を思い出した俺は、身体を起こして机上の酒を呑んだ。

酒好きの割に酔っ払いやすいものだから、ぼんやりと中空を見つめて想像に耽る。海の中へ再度潜り、さっきまでとは視点を変える。今度は俺が王子になって、彼女を人魚姫にした。海の中だっていうのに、人魚姫の彼女は一人でよく喋った。俺の知らないこと、知っていた話、知識の違いで疑問になるものもあったが、俺は海の中では喋れないと思い込んでじっと黙っていた。そんな俺の様子をよそに、彼女はお構い無しによく喋る。ふと、自分はとっくに溺れて死んでしまっているんじゃないかと思う。息もできないはずなのに、ほんの少し息苦しいだけで他の感覚は地上にいる時と同様に何もなかった。俺がもう死んでいるなら、この目に映る彼女の姿は天使のひとつの姿なのだろうか。しかし今はまだ、周囲の景色も彼女の口の動きも視認できる。まばたきを試してみると、瞼がきちんと動いて出来た。きょときょとと、目を左右へ動かしてみる事もできた。少し力を入れて、俺の頭も動かしてみる。重りがついているかのように非常に重たく感じられたので、より一層力をこめてみれば、なんとか動かせるようだった。無意識的にしている呼吸へ注意を向ける。まるで重たい空気を吸い込んでいるような息苦しさはそのままだが、やはり俺はこの水中で呼吸をしている。口を開いてぱくぱくとさせてみる。俺の様子を見ているのか、マーメイドの彼女はここで初めて、俺のしぐさに表情で応えた。相変わらずその口は余計なおしゃべりを続けているが。

空想の邪魔にならないように、グラスの中の酒を一口含んだ。グラスの中のレモンは残骸に過ぎないから、およそ清涼感も何もない、ただの安いウォッカの炭酸割になっていた。不味いなと思った。


海の中で「あー」と声を出してみる。人魚姫の顔が反応したように見えて、音がきちんと響いている気がした。少なくとも、俺の頭の中には響かせることができた。何故か俺も海の中で喋れるようになっているようだ。

「人魚さん、人魚さん。」

「ようやくおしゃべりできるんですね!どうかしましたか?」

可愛らしいマーメイドはにこやかに僕に応えた。 はじめに見た憂いを帯びた目の色はすっかり変化して、享楽的な艶やかさで満ちていた。

「お喋りも楽しいんですけどね、僕はどうしたら地上へ無事に戻れるんですか?」

まるで浮かんできたどざえもんのような、腕と脚をだらんとのばしたような姿をした俺は、話の長い彼女にしぶしぶ聞いた。 マーメイドは楽しそうにけらけらっと笑って、応えた。

「そんなの、後で考えればいいじゃない。今はここで二人で過ごせるのが楽しくて嬉しくて。」

「でも僕はこのままでは死んでしまう。」

呼吸して喋れているのに、海の中に居続けるのは不安で仕方がなかった。いつ溺れてしまうのか気が気でならない。

「まあ、そうね。ところでね…。」

続くのかよ。俺の話はなんでもいいのか。


そんな寸劇を楽しんでいたところで、再度携帯が震えた。俺はばたりと倒れ込んで、ぼんやりと彼女からのメッセージに目を通す。俺の一人酒が気に食わなかったようで、怒ったような顔をしたキャラクターの画像が添えられていた。バー通いが嫌だと言われて辞めたのだから、一人酒ぐらいは許してくれてほしいもんだが。怒った彼女の顔を想像して、さっきまでの人魚姫ごっこを思い出した。滑稽な空想をしたもんだなと思い、息を漏らして笑った。

また、彼女と人魚姫の姿を重ねる。何も喋らない俺を見て、君もいつかナイフを持って殺しに来るのだろうか。―――いや、そうだ、思い出した。王子には他の婚約者がいて、人魚姫の恋は成就しないんだった。叶わない恋に嫉妬して殺しに行ったんだろうか。彼女が俺に対して嫉妬に狂うなんてのはありえないだろう。俺にはそれだけの魅力がないし、他の女の影もない。彼女が消えてしまうのだとしたら、ふがいない俺を見限った時になるだろう。俺の知る姿を泡へと帰して、また違う姿を身にまといどこかへと行ってしまうのかもしれない。酒が脳に熱をもたらして、涙の通り道を拡張する。そうなる前に、俺は君へ何か言っておかなければならない気がする。伝えたいと想っている言葉が、熱に浮かされていくつもいくつも降ってくる。溢れる言葉の中で、ノイズの様に微弱な不安がちらつく。俺の素直な言葉が君へと届いたとき、君は俺を見損なわずにいてくれるのだろうか。最初の頃は、どんな話を君にしていたのだっけ。頭に渦巻く熱が目頭にも伝播する。


「…苦しい。」


意識せずに湧いて来た言葉を口にした瞬間、前頭葉への血流が解放されたかのような感覚が脳をめぐった。喘ぐように口は開いたまま、心臓がぎゅっと苦しくなる。すがるように携帯を握りしめ、君からのメッセージを繰り返し読んで、その存在がまだ俺と『恋人どうし』であるのを確認する。無性に寂しくなって、今すぐに触れたいと感じた。相槌ばかりの俺のメッセージのログに、いつもと違うことばを載せようと決めて、心の向くままに一言を打ち込む。


今から会いたい。


送信して、この女々しさに嫌な気分になった。彼女のメッセージが返ってこないという妄想を振り切る為に、残りの炭酸水を一気に飲み干す。すっかりぬるくなったその泡は、俺の口のなかでよくはじけていった。

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