第35話 おいしそう

 その晩、俺はなんだか疲れ果てて、部屋に戻るなり寝てしまった。アイさんの方は気持ちが盛り上がったままで「まだ眠れない」だの「八雲君、先に寝ないでよー」だの言いながら、俺の布団にまで潜り込んで耳元でずっと喋っていたが、俺が完全に眠ってしまったので諦めたようだ。

 アイさんがノリノリだったことを考えると少し惜しい気もするが、ここで一時の快楽のために悪魔に魂を売り渡して後で酷い目に遭うことを考えたら、氷川さんの出現によって俺の貞操が守られたことは、ある意味幸運だったのかもしれない。

 まあ……勿論アイさんの柔らかい感触に、かなりヤバい気分になったのは全く認めないという事もないが、眠気が勝利したのは不幸中の幸いと言えるだろう。


 さて、朝っぱらから露天風呂で極楽気分に浸り、朝食とは思えないようなゴージャスな朝ごはんを胃袋に収めた俺たちは、もう少しこのセレブな気分を堪能していたいという気持ちをぐっとこらえて、ちゃんと決められた時刻までにチェックアウトした。


 伊勢に向かう前、昨日の浜焼きのお店の方までブラブラと散歩していると、例の大将が俺たちを見つけて駆け寄ってきた。


「おーい、アイちゃん! 来てくれてよかったよ。昨日ツイッターでアイちゃんたちの話をしたら、二人の小説が本になるように俺たちで全面バックアップしようって話になったんだ」

「えー、ほんと? 凄いにゃ~!」

「そりゃあ、ここの海産物の話がほんのちょっとでも出てりゃあ、俺たちにもとってもいい宣伝になるからな。昨夜のブログ、評判良かったぜ。みんな喜んでたよ、船長もなっ」


 大将は丸太のような太い腕を組みつつ、虫も殺せないような笑顔を見せる。……うぅ、癒される。何故俺はこんなに癒しを必要としてるんだ? 何か病んでるのか?

 俺がぼんやりそんなことを考えている間に、アイさんは大将と宣伝活動にあたってのお願い事やら、プロデュースの方向性なんかをテキパキと相談して、「あとよろしくねっ、大将!」なんてやってる。

 一通り相談が済み(どんな相談が成されたのかは定かではないが)大将にお礼を言って別れた俺たちは、伊勢へと向かった。



 実は俺は伊勢神宮は初めてだったりする。というか紀伊半島そのものが初めてだ。おかげ横丁なども名前は聞いたことがあったが、何があるのかまでは知らない。

 それにしても外国人が多い。あちらこちらから英語やイタリア語、フランス語、アジアっぽい言葉も聞こえて来る。だが、俺はどれも判らない。そんな中、いきなり英語で声をかけられてあからさまに狼狽えている俺に代わってアイさんが流暢な英語で話すのを見て、「この人、赤ペン添削講師だったんだ」などと今更思い出して感心してみたりするのだ。そして我が身を振り返り、特技と言えるほどの特技もない自分に地味に凹む。


 何故アイさんは俺なんかに白羽の矢を立てたんだ? 他に文章力のある人なんかゴマンといるのに、何故俺みたいな素人をコラボ相手に選んだんだ

 伊勢神宮へと続く、いつまでも辿り着かない長い道を歩きながら、ふと俺はアイさんに訊いてみた。答えは簡単だった。


「順番が逆だよ。八雲君をコラボの相手に選んだんじゃなくて、八雲君に出会ったからコラボを思いついたの。そう言ったじゃん」


 言われてみれば確かにそうだ。だが、俺と出会ってコラボを思いついても、他の人とやっても良いわけだ。しかし、そこもアイさんは笑って即答した。


「八雲君でなきゃ、恋できないでしょ?」


 ……わからん。勿論好かれて悪い気はしないし、俺もアイさんの事が好きだ。それなのに、俺は何故こんなにアイさんに対して慎重になっているんだ? 何故こんなにアイさんに安易に近づいちゃいけないような気がしてるんだ?

 釈然としない気持ちのままではあるが、俺たちはなんとか参拝し、外宮の勾玉形のお守りも授けて貰って、やっとおかげ横丁の方へと向かった。


 おかげ横丁は細い小路が張り巡らされ、小さなお店がたくさん並ぶ仲見世通りのような感じだった。迷路のようにあちこちに曲がる細い道に、たくさんの観光客がひしめき合っている。

 こんなところを歩いていると、自分がどこに来たのか一瞬判らなくなってくる。そんな中でもアイさんは生き生きとシャッターを切り続けていて、その表情は俺の気持ちをざわつかせる。


 ふいにアイさんが俺の腕に絡んできた。いつもの上目遣いが「いいでしょ?」と言っている。俺は何も言わず、そのまま彼女を腕にぶら下げたまま進む。


「ねえ見て、八雲君。大っきい招き猫ー」

「ねぇ八雲君、飴細工だって、きれーい! すいません、写真撮らせてください」

「帰りに赤福餅買って帰ろうねっ」

「ねーねー、醤油ソフトだって。食べたくない? 美味しそうだよ」


 楽しそうにずっと一人で話し続ける彼女。笑って見ている俺。これって、恋人同士みたいに見えるんだろうか。見えるよな、腕組んでるし。


「お腹減ったよー。伊勢うどん食べよっ。でも、その前にどうしても醤油ソフトが食べたいにゃー」

「そうですね」

「ね、そこのベンチ座ってて。あたしが買ってくるから、場所取っててね」


 俺が意見を言う間もなく走って行ってしまう。リスのように目まぐるしくちょこまかと動く彼女を見ていると、本当に小動物のように見えて来る。

 ぼんやりとベンチに座ってアイさんを眺めていると、急に彼女がとても愛おしく感じてしまう。なんだかなぁ……俺、本当にもう自分の気持ちを誤魔化せないくらい好きになってしまっている。多分。

 お店のおじさんと楽しそうにお喋りするアイさん、カメラを構えるアイさん、お財布を探すアイさん、ソフトクリームを両手に持って嬉しそうにこっちに歩いて来るアイさん。もう、俺には彼女しか見えない。


「はい、お醤油が入ってるっておじさん言ってたよ」


 彼女に一つ手渡されて、ふと、俺は思ったことが口を突いて出てしまった。


「そっちの方が美味しそう」

「え? 同じだよ?」

「同じじゃない。そっちの方が絶対美味しい」


 俺は彼女の手首を摑んで引き寄せると、ソフトクリームより美味しそうなアイさんの唇にキスをした。 

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