第8話 モヤッ……

 その後、俺はアイさんとひたすらコーヒーを飲みながら作品の詳細設定を練った。この店は隠れ家的な存在で満員御礼にならないので、特に周りに気を遣う事も追い出される事も無く、のんびり打ち合わせができたわけだが……だからと言って同じ店で五時間も粘ったのは初めてだった。お店の人もいい加減呆れているんじゃないかと思うが、二度と来る事も無いだろう。旅の恥は掻き捨て、だ。


 舞と伊織の出会いは新宿駅、ぶつかって転んだ拍子にカバンが入れ替わった。俺たちの出会いと全く同じだ。だがこの二人は小説を書いていない人たちという設定で、そこは俺たちとは違う。

 伊織はサラリーマン二年目、これは俺と同じ。舞は赤ペン指導講師をやっている、これもアイさんと同じ。アイさんは夕方から塾の個別指導をしている雇われ講師で、今は二人しか生徒を持っていないから、空いた時間で赤ペン指導の先生もやっているそうだ。

 つまりキャラ設定の殆どが、等身大の俺とアイさんという事になる。自分を投影するだけだからそんなに面倒でもなさそうだ。舞が伊織に一目惚れして、ガンガンアプローチしてくるという設定で、俺は伊織に自分を投影して、その場その場で感じたことを打ち返せばいいらしい。

 果たしてこんなことが上手く行くんだろうかと考えながらも、やるだけやってみるだけの価値はありそうだとなんとなく思う。


「八雲君ちってどこ?」

「は?」


 もはや何回目の「は?」かわからない。そんな個人情報をまるで好きなスイーツを聞くかのようなノリで聞いて来るから、ついうっかり口を滑らしそうになる。


「なんでそんなことを?」

「どうして渋谷にしなかったのかな、と思って」


 りんごジュースの氷をストローでカランコロンと言わせながら、アイさんが尋ねる。


「アイさんが『渋谷だと迷子になるかもしれない』って言ったから」

「あ、そっか。くふっ。実はね……新宿で初めて八雲君に会った日も、迷子になってたの」

「はぁ?」

「あ、こっちじゃない、って間違ってることに気づいて、くるっと後ろ向いたら八雲君がいて」

「もしかして方向音痴ですか?」

「うん」


 って満面の笑みで返事するんだよな、この人。なんか可愛いな。本当に三十二歳なんだろうか?


「あの……アイさん、結婚してるんですか?」

「してないよ」


 即答。個人情報だろ……ちょっと躊躇ったりしようよ。


「彼氏とかは?」

「今はいない」


 まあ、そうだよな。そうでなきゃ、どこの馬の骨かもわからんような男とこんな風に出歩いたりしないよな。


「気になる?」

「いや、別に」

「気にしてよ」

「あ、すいません」

「気にならないならなんで聞いたの?」


 それもそうだな。一理ある。


「ストーリーを考えるのに、アイさんが今までどんな恋愛をしてきたのかなって、ふと思っただけです」

「前の彼氏はね……」


 え? いきなり話すの?


「少し付き合って、あたしがベッタリなのが鬱陶しいって言って捨てられちゃった。あたし、人を好きになるとずっとずっと一緒に居たくなるから」


 なんか、微妙にわかる気がする。今そんなキャラだもんな。


「その前は不倫だったんだ」

「は?」


 またカウントアップだ。


「そんなに驚くこと? たまたま好きになった男が妻子持ちだっただけだよ」

「いや……でも……」

「いつも向こうの都合に合わせるばっかりでさ、すっごいストレス溜まったの。でも好きだったから」


 って、サラッと言うような事じゃないと思うんだが。


「なんで別れたんですか」

「あんまりほっとかれたから、頭にきて目立つところにキスマーク付けてやった」

「は?」


 ……としか言いようがない。だけど、なんだろう、ちょっとモヤッとしたというか、イラッとしたというか、何にモヤッとしたのかは自分でもよくわからないんだが。

 でも彼女はそんなことはお構いなしにあっけらかんとして続けた。


「あの人、奥さんに咎められて夫婦喧嘩して、あたし呼び出されて三者面談。彼の前で奥さんに問い詰められたけど、あたし言ってやったの。『こんなクソつまらない男、あんたが相手してやらないからあたしが代わりに相手してやったんでしょ、感謝しなさい。もう二度とこの男に近寄られたくないから、首に縄付けてベッドの脚にでも括り付けときなさいよ』って」

「で、どうしたんですか」

「当然別れたよ、その場で。今考えたらほんとクソつまんない男! 好きな女一人守れないなんてサイテー。その後あの夫婦がどうなったかなんて興味ない」

「そうですか……」


 アイさんはりんごジュースを一口飲むと、まっすぐ俺の方を向いてニコッと笑った。そして恐ろしいくらいはっきりとこう言った。


「今は八雲君以外の男なんて目に入らないからねっ」


 ここまできっちり役作りできるなんて、作家やるより女優やった方がいいんじゃないだろうか、っていう俺の正直な感想はここでは述べないことにした。

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