風立つ。

「マラソンマンさんは遅刻しそう?朝練いける?」


嫌だと言われているのに尚その名前で呼び続けた。


マラソンマンの顔が呆れを含んだ不穏なものへと変わる。


「だから、その呼び名で呼ぶのは───」


「だって知らんもん、名前」


君とかあんたとかあなたなど、この人のみの固定された呼び名以外で人を呼ぶことに抵抗のある一には名前は大切なものだ。


さっきから呼ばれる“君”にも不本意感を抱いていた。


なのに名乗らないのは、相手がそこまで名前を知りたがっていないから名乗れないのである。


刹那的な時間だとしても、このまま顔を合わすことがないわけではなく、毎朝お互いの存在を認識する程度には距離が近いのだから、マラソンマンの言う“終わり”ではないと思いたい。


一度言葉を交わして、もう知り合いなのだ。


しつこく名前で呼ぶスタンスの一に根負けしたマラソンマンが、嫌みな溜め息を吐いて背もたれに深く背を預ける。


そしてぽつりと、


「.......及川、一」


名前を吐いた。


が、それはこの場に居る一人だけの名前ではなくて。


「.............え、はい?何?」


いきなり名前を呼ばれた一としては自己紹介と取れず、訝しげな顔で警戒気味に返事をした。


するとマラソンマンの顔も怪訝に歪む。


妙なズレと噛み合わなさが二人の回りを包んで、どちらとも言葉が出てこない。


「................は?」


たっぷり時間を取った後、温度の足りない顔をしたマラソンマンが逆に聞き返した。


「今自分名前呼んだやん。え、何で私の名前知ってんの??」


エスパーっ?ほとんど死語となった反応。


名前を呼ばれて考えずに咄嗟に返事をしたが、よくよく考えてみたら自己紹介もまだな段階でマラソンマンが名前を知っているはずがない。


びっくりした一は思わず体を前のめりにさせて、マラソンマンの顔を覗きこんだ。


興味津々にキラキラした目がマラソンマンを捕らえる。


予告無く詰められた距離と近さにマラソンマンが一瞬たじろぎ、時間を取らず直ぐに素に戻った。


「...君、及川一っていうの?」


「そう、やけど....?」


頷いたところで漸く、気がついた。


「あれ、嘘やん。まさか...名前. . . 」


「まさかです。及川一です、どうぞ宜しく」


事務的な自己紹介だが、同姓同名となるとそんなことどうでもよくなってくるから不思議だ。


一のテンションはさっそく上がり調子。


「えーーー、うっわぁ、凄いっ、同姓同名やんっ!わーっ、びっくりやんっ!凄い凄いっ」


生まれて初めての同姓同名にはしゃぎ、うっかり靴をおっことしてしまった。


急いで拾い、痛い痛いと連発するマラソンマンを無視してばしばし二の腕の辺りを叩き続けている。


気が済むまで、大阪のおばちゃんのノリで叩いた後頭を深々と下げた。


頭を上げ、照れくさそうにはにかんだ。


くるくる変わる表情に不本意ながら意識を持っていかれかけていたマラソンマンが、叩かれた腕を擦って気を散らす。


「どうも及川一です。及川一くんどうぞよろしく......うん、なんやろ、自分を呼んでるみたいで変な感じやわ。及川くん....も、なんかなぁ、んー、ねぇやっぱりマラソンマンで───」


「却下」


まだ言い終える前に素早く全拒否された。


辛い。


「自分かって呼んでみてん?絶対変な感じするで。及川さんでも及川でもええから一回呼んでん?」


「.....及川、さん、一、さん.......あー、そうだね、なんかひっかかるね」


口許に手を当てて、自分で自分の事を呼びつけている気分に眉を潜めた。


今まで芸能人や親戚以外では同姓同名どころか同姓にすら会ったことがないため、自分の口から同じ名前の誰かを呼ぶのは違和感ばりばりだ。


「やろ??だから────」


「それだけは絶対に嫌だから。君だってマラソンガールとか呼ばれたらいい気しないでしょ?」


呼ばれるのも去ることながら、呼ぶこともはばかられる呼び名に恥ずかしさと口にしなければよかった後悔が押し寄せる。


なのに一は普通で、マラソンガールなんて全く意に介していない。


「いや?別に。なんて思わんけど?」


「あぁ、そう。君とは感性が違うんだろうねきっと」


「え、どういう意味?悪口っぽくない?」


「受け取り方次第じゃない?」


なんだろう、さらっと涼しげに小馬鹿にされた気がする一が難しい顔で首を傾げた。


それでも、君だったりあんただったりよりずっと気分がいい。


と言うより、何の抵抗もない。


「じゃあ私のことマラソンガールて呼べばいいやん」


ご飯粒取りの作業に戻り、込め粒まみれの指で邪魔に垂れ下がる短い髪を耳にかけた。


それでも収まりきらない髪を再度引っ掻けようと手を伸ばすと、横から伸びたマラソンマンの指とぶつかった。


心臓が1つ、激しい高鳴りを見せる。


「髪に着くよ?ご飯粒」


顔を上げた一に「遅刻するよ?」くらいのあっさりさで声をかけたマラソンマンが、さらさら落ちる髪を耳の後ろへ流した。


意外と温もりのある指先にびくんと肩が跳ね上がり、心臓もドキドキ加速していく。


男子となこんな距離、男子が髪に触れることなんて数えるほどしかない一にとっては心を乱される出来事。


しかも、自然に、いつもの事で普段通りですみたいなさりげなさのマラソンマンからは当然心の乱れは匂わない。


慣れている、こいつ。


平常でいるマラソンマンとは雲泥の差で一の鼓動が暴走していた。


「誰かをそんな呼び名で呼ぶとか、誰かに見られたら恥ずかしいから嫌だよね。じゃあ逆に、君はいつもどう呼ばれてるの?」


急にふられ、ただでさえ平常心ではない一はそれを隠すためにさらにご飯粒除去に勤しんだ。


あっさり、耳元から離れていく指。


「私?私かぁ...んー、みんなからは名字とか名前で呼ばれること多いかなぁ、他にはなんにも........あ、私昨日からバレー部のマネージャーやってる」


取っ掛かりと言えばそれだけ。


「じゃあそこからもらう?マネ...とか」


何だかんだで結局は呼び名選びにちゃんと取り組んでいるマラソンマン。


なんでもいいし終わりなんだからとか言いつつも、心境としては放り投げるのは途中放棄で気が進まないのだ。


マネージャーだからマネだなんて安直感は満載だが一応ひとつの案として提案してみる。


「え、マネ?」


即座に食いついた一が瞬きもそこそこに復唱する。


「やなの?」


「全然。むしろええ感じ。 可愛いやん、マネ」


満更でもなく、口の緩みを抑えきれない一はしっかり笑っていた。


自分だったら絶対嫌なのに、それに食いついてきた一がちょっと可笑しい。


「あそ。気に入ったみたいで何よりだね」


「じゃあ私は....そやなぁ...自分部活はなんなん?」


自分も部活からとってもらったので、ならばマラソンマンも同じ調子で命名しようと思ったのだ。


地面に着かない足をばたつかせて、好奇心に打ち勝てない子供と同じ仕草でご飯粒をレジ袋へ収容していく。


「奇しくもバレー部ですよ」


一の眉が動いた。


身長から薄々、体格を活かした部活だろうと思ってはいたけれど。


名前だけでなく部活も一緒とは、なんだか...なんだか────


「ポジションは?」


「ミドルブロッカー」


それも予測上位のポジション。

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