彼へ。
こヲ。
タロット
「好きな人の...運命が知りたいです」
喫茶店の一角に配置されたテーブルに座った、ごくごく普通の中年の女性はアイスコーヒーを一口くちに含みカードを広げ始めた。
「好きな人が...全然振り向かないんです...恐らく...誰にも」
「だから...生涯、彼が好きになる人なんていないんじゃないか...なんて」
尋ねられてもいないのに、舌を滑り落ちてゆく言い訳のような言葉が零れた。
こんな見ず知らずの他人に自分の事情をさらけ出す事が前提の空間は不思議な力を持っている。
余計なことを話す不思議な力。
「5年後...にどうなってるか...ですがねぇ、あのねー...彼、あーつまりあんたの好きな人ね、恋愛してるよ」
女性はアイスコーヒーを再度ぐっと飲み込んで、汚く口を動かして言葉を発した。
ホットレモンティーの入ったカップを支える指が震える。
「5年後...に...ですか...」
5年後なんてはったりだった。適当な未来だ。
私は占い師から「彼は今の所誰とも結ばれませんねぇ、そうねぇ、一生結ばれないんじゃないですか」そういった類の言葉を待っていた。
5年。5年なんてあっという間だ。
5年後に彼は、人を愛することを知るのだ。
目の前の小瓶に詰められた角砂糖を瓶ごと粉々に砕きたいと思う程、私の心は揺れていた。
「あ、んでもねぇ、彼、あーあんたの好きな人ね、振られちゃうよ。彼はその人の事が大好きなんだけどねぇ、その人には別に恋人がいんのさ、そんでその人の心も見えちゃったんだけど忘れられない過去があるみたいだねぇ。」
「あんたは情が深そうだから忠告しておくけど、誰にだって抱えてるものがあんのさ。人を恨まないで自分の幸せを掴むことだね」
女性は私の瞳を見てしょうがないとでも言うような笑みを浮かべ背を丸めた。
女性の組まれた手に視線を落とした瞳からは涙が零れた。
止まらなかった。
「彼...幸せにならないんですね...」
ざまあみろ、という気持ち。
それ以上に心を包んでいた薄いベールがボロボロと崩れていく。
彼を愛していたのだ。
愛した男の幸せが自分の幸せでない女などいるものか。(冷静になれば、あくまでも持論である)
こうして、私は一足先に彼の悲劇的な未来に軽く触れたのだった。
それから5年の時間をかけて
名のある大学を卒業し、大学院に進んだものの将来がぱっとせず何となく受けたクラブのホステスになった。
ホステスとしては少し若く経験もないが、将来をかわれて採用された。
指名は上場、休憩の時には煙草が離せない。
源氏名は礼子。
今日は仕事は休み、別のお店の子と食事をしてからの帰宅途中だ。煙草を吸いながら明け方の閑散とした住宅街をふらふらと歩く。
空が綺麗ねぇ、煙草の煙も雲になるのよねぇ、下らない事を考えながらマンションの暗証キーを押す。
いたずらで呼び出しもかけた。
『...おかえり』
まだ寝ぼけた男の声がした。
「ただいま」
エレベーターに乗って家の番号まで歩く。
下ろしたてのパンプスだと意外にも長い距離だ。
「すずー、ただいまー」
灰色の子猫を抱きしめる。
石鹸の香りがした。
相変わらず、潔癖な恋人と聞き分けのいい猫を持ったものだと思った。
「おーかーえーりー」
子猫を抱きしめた私を抱きよせる形で、
彼に部屋に入れられた。
「陽太今日仕事だよね、また入れ違いになるかな?」
準備のいいことに一人分の朝食が用意されている。
「んー...僕の仕事が遅くなって、君が早く出勤したらそうなるねぇ」
珈琲を挽く音が流れる。
「まぁあたし今日同伴だから、多分おかえり言えないなーまず君ねーいつも帰ってくるの早いよねー仕事ちゃんとやってんのかねー、ねーすずー、パパしゃんはちゃんとお仕事してるのかなー?」
子猫がゴロゴロと喉を鳴らす。
「あのね、ちゃんと仕事してるの。君に言われなくてもしてるの。」
こうして安らかな朝は過ぎていく。
居心地がいい。
夜働きの私とは違って恋人の陽太はちゃんとした所に勤めている。
将来は銀座に店を出してママになる、とは冗談紛いに言っているが、その内引きのいいところで陽太がちゃんと籍に私を納めたいと思ってくれていることも知っている。
お互い全部は話していないが、陽太も私もそんなに恵まれた家庭を知らない。
きっと不安だらけだと思う。陽太の潔癖症はそこからきているのかもしれない。
安心できる生活。
安心できる暖かさ。
洗いたてのシーツが全てに優しい。
若いスーツの男性が二人と、中年の男性が二人。
私は若いスーツの男性に主に付いていた。
内緒話をするように耳元で話をする男性に合わせてくすくすと笑う。
と、向こうから強い視線を感じた。
微笑みながらそちらを向く。
眼鏡をかけたもう一人の青年だった。
青年はまじまじと礼子の顔を見つめ、それから視線を上から下に落とし、顔に戻りにっこりと不器用に微笑んだ。
きっと礼子に興味を持ったのだろう。
くれぐれもここで「礼子」として失態を犯してはならない。
目論見通り、男は一人でも礼子に会いに来るようになった。
ここはトップレベルとは言わずとも一応はクラブだ。
まだ会社に入って間もないそこらの会社員が通える場所でもないのだが...。
実家が裕福なんだろう、何にせよ礼子目当てに通ってくれることに越したことは無い。
男性はこの日、鞄からおもむろに1冊の本を取り出した。
間髪入れずに礼子が「...その本」と反応をした。
「そう、この本」
男の眼鏡の奥にある瞳が豊かに瞬いた。
礼子が反応したのは仕事上のものではなく、自然な反応であった。
栗本薫のキャバレー。
私が学生時代とても気に入っていた本だ。
「君、この本、好きだったね」
「俺、君に勧められた時は読まなかったんだ」
「でも、また出会った最初の日に思い出して取り寄せて読んだ。とても良かったよ」
礼子は辛うじて瞬きを繰り返しながらも男の喋りに頷いていた。
「それからさぁ、君のことばかり考えた」
「時間と共になんていうのかな、感じることも変わるのかな。それとも君が変わったのかな」
男性は好奇心旺盛な少年のように喋り、
礼子がようやく「礼子」として振る舞えるようになるまでには男性は話したいことを話し終えたようだった。
「何はともあれ、覚えて頂けていたなんて...私達若かったですよね、まだ学生でしたし」
礼子は伏し目がちに背すじをぴんと伸ばしていた。
「そう、俺さぁ...あの頃に戻れるならどんなにいいかって」
「今なら思う」
そう言って礼子の手を握った。
これが二年前だったら。
礼子は握られた手をじっと見ていた。
「お帰りいただけますか?」
礼子は穏やかな微笑と共に静かに言った。
「...そうだね、俺はずっと気づいてたけど気づいてなかったみたいだし突然の事で驚かせたよね」
男性はへらへらと笑いながら礼子から離れた。
「私もうすぐこのお店辞めるんです」
「だから、会えなくなります」
礼子は笑顔でそう言った。
ここには鉄の仮面を被る女がただ一人いるだけだ。
しかし、かつての想い人の前で笑顔が輝かない女はいない。
それに一抹の哀しみが混ぜられていたのならば尚更。
「えっ...」
男は何かを言いかけて
「ごめん...」
と俯いた。
礼子はその日の帰り、煙草を吸いながら歩かなかった。ただ黙々と透き通る日の差した空を見上げて歩いていた。
「彼...幸せにならないんですね...」
昔昔の自分の声が空から聞こえるようだった。
彼を愛していたのだ。
愛した男の幸せが自分の幸せでない女などいるものか。
「ただいま...」
誰もいない部屋から子猫が走ってくる。
陽太は仕事に行っている。
窓からも陽が指している。
「すず、陽太はね、反対から読むと太陽なの」
窓から入る陽だまりの中に私は子猫と一緒に身を縮めた。
このまま眠ったら、風邪をひくかな。
でも今は暖かい。
暖かい陽だまり。
撫でた子猫の頭からはやっぱり洗いたての石鹸の香りがした。
頭の隅にずっと残されていたあのタロットカードの模様が消えていくような気がした。
彼へ。 こヲ。 @k0u
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