神にさかずき、変わらぬ幻想を描いて。

気を失った綾華が目覚める頃には、時刻は子夜を迎えようかといった時分になっていた。


急に取り乱したかと思えば、いきなり気絶してしまった綾華に何があったのだと尋ねようにも、一貫して赤面する彼女は消え入りそうな声で「いえ………」と言って俯いてしまうので、その真相は分からず仕舞いだった。まあ、年頃の女というものは理解するに易くない生き物だからな。


綾華が目覚めるのを待っていたのもあり、諫奈や葵を待たせてしまっているかもしれない。俺は重い腰を上げ、野太刀・黒椿を取りにいく。


「…家まで送る、お前も早く外に出ろ」


未だ心ここに在らずといった様子の綾華に、表に出るよう催促をするが、綾華はふるふると頭を横に振る。


「いえ、もてなして頂いた上にお送りしていただくなんて、さすがに申し訳ないです」


「もてなすも何も、俺は茶を淹れただけで、後は勝手に気絶してただけじゃないか」


「……蒸し返さないでくださいませ」


綾華が膨れっ面で作務衣の裾を引っ張ってくる。やめんか、この服は安くないんだぞ。


「物のついでだ。……まあ、お前に送ってもらうまでもないと言う事ならば、それはそれで構わんが」


「物のついで……ですか。このような夜更けにご用事があるのでしょうか?………あっ」


綾華が何かに気付いたような声を上げるなり、またしても赤面する。


「……おい。何か勘違いしてないか?夜這いに行くわけじゃないぞ」


別の女の所へ行くついでに女を送り届けるなど、畜生にも程がある。


「ご、ごめんなさい。日が日なので、早合点してしまいました…」


「…まあ、女を待たせていると言う事には相違ないが」


「……え?」


「油を売りすぎた。向こうからわざわざお出迎えに来たみたいだな」


キョトンした表情の綾華をその場に、俺は玄関の戸を開ける。


「もう、遅いですよ詠水くん!!もうちょっとで日付が変わりま………え?」


「詠くんは相変わらず時間にルーズだね。待ちくたびれちゃっ………え?」


戸を開けた先には、全く同じ間抜けヅラを晒す、白い巫女黒い巫女諫奈が佇んでいた。しばらくフリーズしていた二人は、その顔をみるみるうちに赤く染めていくなり、口やかましく騒ぎ始めた。


「はわ…はわわ……諫ちゃん!!詠水くんが女子を家に連れ込んでますよっ!?詠水くん!!説明を求めます!!」


「あわ…あわわ……急展開すぎるよ!!詠くん、これは一体…!?」


「あ、あの……詠水様、なぜ里守の巫女様と姫女様がいらっしゃるでしょうか?」


お前らいっぺんに話しかけるな。聖徳太子じゃないんだぞ俺は。


意外にも一番最初に冷静さを取り戻したのは諫奈だった。諫奈は綾華を見るなりハッとした表情になり、姫女モードに切り替わる。


「こんばんは、折鶴綾華」


態度を一変させた諫奈の挨拶を受けた綾華は、気絶して以来どこかボケっとしていた表情を、堅く改める。


「こんばんは、姫女様。先日はご足労いただきありがとうございました」


ご足労…?つい最近に、こいつらは会っているのか?


「一村民として一任された役割を果たしたに過ぎません。……折鶴綾華、貴女にとって大切な方に、柳包みをお渡しできましたか?」


ああ、そうか…今年からは、諫奈が柳包みを配り回っているから、二人は会っていて当然か。


「…そうですね、お陰様で渡したい方にお渡しできました」


綾華はそう言うと、気付かれないよう、こちらに目配せするなり、天邪鬼のような笑みを浮かべる。村の連中は姫女を前にすると、皆こぞって無駄に萎縮するというのにな…意外にも彼女は豪胆な一面を見せた。この女の人間性というものは、今まで会ってきた輩よりも、遥かに捉えにくいようだ。


ここまで、完全に蚊帳の外で目を白黒させていた葵だったが、諫奈と綾華の堅苦しい社交辞令を遮るようにして口を開く。


「えっと、詠水くん。こちらの女性は一体…?」


俺がどう答えたものかと考えている間に、綾華が葵の問いに答える。


「いつもお勤めお疲れ様です、里守の巫女様。私は詠水様より身に余るご厚意を賜った一村民に過ぎません。詠水様のお勤めをお邪魔してしまった事、お詫び申し上げます」


「あ、いえいえー、そんなつもりで言ったわけじゃないですし、そんなにかしこまらなくてもいいですよ。とても詠水くんと会話が成立するとは思えないほどしっかりした方ですね!!」


「お前はいちいち一言多いんだよ阿呆が」


「痛っ!?乙女の頭を引っ叩くだなんて信じられないです!!今ので死んだ脳細胞の慰謝料を要求します!!」


「お前の脳細胞は元から死んでるぞ」


「私は既にパンチドランカーだった…?」


「……綴火詠水。神繋葵。折鶴綾華が困っていますよ」


諫奈らしくもないマトモな仲裁を受け、綾華の存在を思い出す。滑稽な茶番を見せてしまったようだ。




綾華は困った…というよりも、どこか儚げで、どこか自嘲的な笑みを浮かべていた。




「皆様は……とても美しいですね。とても美しく、とても眩しいです。人の心とは、こんなにも通い合うものなのですね」


「折鶴綾華……?」


「姫女様、詠……綴火様のご都合を察せず皆様のお勤めを阻害してしまった事をお詫びすると同時に、これからも村を正しき姿へと導いてくださる事、厚く御礼を申し上げます。皆様、おやすみなさい。失礼いたします」


どこまでも固い挨拶を残し、綾華は逃げるようにして夜道を歩いていってしまう。




その純白を、闇夜が完全に覆い隠してしまった時、彼女は誰にも聞こえぬ声で独り呟いていた。





「臆病で卑怯な私は、あなたと対面するのが不安で仕方ありません…………姫女様」





そのか弱き声は、ツヅレサセの鳴き声に溶けた。




〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜





「………で、誰なんですか?あの折鶴って方は?」


「……綾華が自分で言っていただろ」


「説明になってないですよこのスケコマシ。詠水くんが系名で呼び合ってる時点でフラグ立ってるようなもんじゃないですか。誰なんですか?あの折鶴って方は?」


「……諫奈に聞け」


「えぇっ!?私が折鶴さんに会ったのは昨日が初めてなんだよ!?私が詠くんに聞きたいくらいだよ!!」



俺は白い巫女と黒い巫女に挟まれ、不毛な問答を繰り返していた。


里狐の山へ向かう道中、綾華の話題になる事は分かりきっていた事だが、それでもやはり面倒臭い物は面倒臭い。知らぬ存ぜぬで通すのが一番平和だ。


「綺麗な女性ひとでしたね。家に連れ込んで何をしてたんですか?」


「茶を淹れた」


「で、その後にナニをしたんですかね?」


「テレビゲーム」


「いやいや、私じゃないんだからそんなわけないでしょう!?折鶴さんゲームとかやりそうな顔じゃなかったですよ!?あれは絶対に花とかを愛でてそうな、大和撫子の顔でしたよ!?」


「人を顔で判断するな低脳貧乳クソ駄目巫女。確かに花は愛でるが、存外ノリノリでゲームに食いついてたぞ」


「葵ちゃん。詠くんは嘘をついてないよ」


「えぇ………尚更意味がわからないですよ。でもどうせ柳包みを渡されたんでしょう?」


「さあな」


「あ、詠くん今ちょっと隠し事しようとしてた」


「……チッ」


勘の鋭さがカンストしてるような相手が、2人ともなると無理があるようだな。


「さすがは歩く生殖器ですね」


「…詠くんはなんだかんだ毎年違う女の子を連れてるよね」


ジト目の葵と諫奈に、横腹を肘で突かれる。針のむしろとはこの事を言うのだろう。


馬鹿どもめ。俺から優位を取ろうなど、あいも変わらず学習能力が低い連中だ。


「………俺は今、猛烈に走りたい気分だ。この夜道はたまに猪が出るらしいぞ。気をつけろ。じゃあな」


そう吐き捨て、俺は帯刀した打刀・朧紫乃月と佩いた野太刀・黒椿をカチャカチャと鳴らしながら、絹羽商店めがけて全力疾走を開始した。


「ああ!?ま、待ってくださいこの畜生!!悪魔!!私の未来の旦那さん!!うら若き巫女を置いていくなんて大幅減点ですよ!!」


「ま、待ってよ詠くん!!葵ちゃん!!姫女の巫女服じゃ走りにく……ひゃあっ!?」


「おい、葵。諫奈の馬鹿が転んだぞ」


「諫ちゃん!!安心してください!!骨は後で私が拾いますよ!!」


「えぇ!?まさかの見殺し!?」




やかましい罵声を互いに浴びせながら、半狂乱に疾駆する俺たちは、祭りという酒に泥酔した村の連中とさして大差ないものだっただろう。



だが、もとよりこいつらとはこういう関係だった。諫奈はいつだって馬鹿だし、葵はいつだって阿呆だ。そして、それに付き合う俺も大概だ。





全てが移ろいゆく中で、決して変わらない者は、お前ら二人だけだ。





だから、これからも変わらない。








涙目になって俺の後を追う黒白の巫女たちに、俺は根拠のない確信を描いていた。




〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜




無意味かつ無計画な疾駆を繰り返しながらも、俺たちは絹羽商店に到着する。


俺の後ろからはアンデッドのような呻き声をひねり出し、肩で息をする二人の巫女が、敗残兵のような足取りで俺の元までやってくる。


「はぁ…はぁ……けほっ……山登りする前に体力削ってどうするんですか……」


息絶え絶えの白巫女が、全く力の入っていない拳でポカリと俺の背中を叩く。


「うえぇ……もうだめ………しんじゃう……」


葵に遅れて、今にも絶命してしまいそうなほど、顔を真っ青にして酸素を取り込む黒巫女諫奈が千鳥足でやってくる。


「情けない奴らめ。少しぐらいは普段から運動をしろ」


「むぅ…隙あらば木刀振り回してるような変態と一緒にしないでくださいよ」


「誰が変態だって?」


「痛い痛い痛い!!頬っぺた引っ張らないでください!!」


解放を求めて、葵は俺の腕をバシバシと叩いてくる。何をしても無駄な抵抗だと、こいつはいつになったら気づくのだろうか…?



「やれやれ……仲睦まじくするのは結構だけど、時と場所を選んで欲しいね。近所迷惑だ、綴火」



喧しく騒ぎ立てる葵をとりあえず解放し、気障ったらしい声を投げかけてきた方へと顔を向ける。


無駄に爽やかな笑みを浮かべた石光涼が『天領』と銘打たれたラベルの貼られた一升瓶を、ちゃぷちゃぷと鳴らしながら揺さぶっていた。……良い酒を寄越せと言ったのに、地酒を用意するとはとんだ無能だな。


「随分と準備がいいな」


「ははは、聞き慣れた叫び声が近づいてきたら流石に察するさ。今頃、柳包みを貰えなかったたくさんの青少年たちが、一人虚しく帰路に就いているというのに、綴火は両手に華ときている。まったく、君には敵わないよ」


「お前が言うな柳包みバキュームめ。村の童貞どもに背後から刺されて死ね。両手に華?片手に馬鹿「慎んでください、詠水」……片手に阿呆「阿呆じゃないですぅ〜癒し系ですぅ〜」……だぞ。お前の目は節穴か」


無駄にニコニコとしている石光から一升瓶をひったくる。


「やれやれ、口の悪さで綴火に勝てる奴はいないだろうな。…水を差すつもりはないけど、酒もほどほどにね?」


「頭部だけ退化したような奴らと一夜を過ごすんだぞ。酒なしにやってられるか」


「詠水くん。一発殴っていいですか?」


「構わんが三発殴り返すぞ」


「あ、やっぱりやめときますね」


そもそも、葵なんぞから放たれる一発など、もらうわけが無い。


「やれやれ、綴火は淑女に手をあげるような事はしないだろう」


「涼くん、この人めちゃくちゃ手が早いですよ?私の頭をバシバシ叩いてるのを幾度となく見てますよね?その両目は節穴ですか?」


「そうだぞ葵。ちゃんと頭を使わないと、石光のようにニコニコしてるだけの無能に成り下がるぞ。そこに気づけるとは大したものだな。葵の分際で立派だぞ」


「えへへ、もっと撫でてください」


「…露骨に攻撃対象を僕にすり替えるのはやめてくれないか?」


なんともまあ頭の悪そうな会話だ。こいつらと会話してるとIQが急速に低下していく錯覚に囚われる。


「ま、なんであれ今日はハメを外し過ぎても丁度いいくらいか。これは僕からの餞別だ。店からくすねてきた物だから、親父には内密に頼むよ」


石光は気色の悪いウィンクをするなり、多種多様なツマミを詰め込んだショッパーを葵に手渡す。こんなに沢山もくすねてきたら流石にバレるんじゃないのか?あのおっさんガサツに見えて、金が絡むとやたらうるさいからな。


「おおー、ありがとうございます!!さすがは涼くん、分かってますね〜。詠水くん、これがモテる男という奴ですよ?少しは見習ったらどうです?」


「そうか、今までお前に散々買い与えてきた甘味は、石光の餞別に比べりゃまるで取るに足らない物だったという事だな。今までつまらん物を押し付けて悪かったな。もう二度と買わんから安心しろ」


「あああああ!!???ごめんなさい調子乗ってました!!詠水くんが一番です!!詠水くん大好き!!涼くんなんて最初から要らんかったんや!!」


「…………」


「くっ…………おい石光。今のお前の顔、写真に撮ってもいいか?………ふっ」


「綴火、三発ほど殴らせてくれないか?」


「構わんが顔の形が変わるまで殴り返すぞ」


「…やめておこう」


「…諫ちゃん、詠水くんをイジれる人って、ハルちゃん以外にいるんですかね?」


「…私に聞かれても困ります」


「一応言っておくが、俺を弄るなとは一度も言ったことはないぞ。その後が保証できないだけだ」


「ただの暴君ですね。本当にありがとうございました」


葵の分際で好き勝手言いやがる。神社に着いたら泣かす。


「…綴火、今日は村の女子たちが想いを伝える特別な日だ。今日という日くらいは、女性に優しくしてやったらどうだい?」


「スカしたことを抜かしやがって。こいつは犬と一緒で、一度自分の方が上だと思わせてしまうと、後の躾が面倒だ。妥協はしない」


「涼くん聞ました?この人、今私の事犬って言いましたよ?畜生の化身です」


「ははは、彼は好きな子ほどいじめたくなるタイプなんだろうね」


「およよ〜?そうなんですか詠水くん?まったく、素直じゃないですねっ!!実は私の柳包みを期待しちゃってたりします…?」


「勘が鋭いな」


俺がそう返すと、葵はその憎たらしいニヤケ顔をピシリと凍りつかせ、頰を始点に耳まで真っ赤に染め上げる。


「…………ふぇ?え……え?い、今のは素で言ってたんですか……?え?……ふぇっ」


「丁度、鼻紙が欲しかった所だ」


「ほんと畜生ですね貴方!!」


さらに顔を赤くさせた葵がグルグルパンチを繰り出してきたので、頭をひっ掴んで無効化させる。戦闘力5以下のゴミめ。


「……葵はまだ柳包みを渡していないのかい?」


「ん?涼くんがそんな事聞いてくるなんて珍しいですね。もしや、涼くんも私の柳包みを狙ってるんですか?いやはや、私は罪作りな巫女ですね〜」


「………葵、冗談に限度ってものがあってだな…」


「酷すぎです!?涼くんまでそんな事言うと思いませんでした!!私の中で涼くんの株価は大暴落です!!」


ここまで俺たちの小競り合いを黙って聞いていた諫奈が、ポンポンと葵の肩を叩く。助け舟でも出すのか?


「……神繋葵、これ以上は石光涼が可哀想です」


「まさかの四面楚歌っ!?う〜……詠水くん……みんながイジメます……」


メンタルがボロボロになった葵が、俺に抱きつくなり目尻に涙を浮かべる。あざとい。


しかし…珍しい事もあるのだな。基本的に諫奈は相手が葵であろうと、誰かを馬鹿にするような冗談は言わない。「姫女」として居る時は尚更のはずだ。


「お前をイジメるとは信じられない程のド畜生どもだな。よしよし、泣くな」


「えへへ、もっと撫でてください」


「…綴火、顔の形が変わるまで殴っていいか?」


「構わんが死ぬまで殴り返すぞ」


「……皆さん、楽しく談笑されている所を申し訳ありませんが、先を急ぎましょう。私たちは里守之稲荷様に双神村の総意をお伝えしに参らねばなりません。石光涼、ご厚意を賜り感謝を申し上げます」


「いえ、礼には及びません。…僕が口を出せる事ではございませんが、夜の山はとても危険です。綴火や葵共々、お気をつけてください」


「心配には及びませんよ!!なんてたって、私たちには大正義詠水くんがいますからね!!」


暗い表情で、俺たちの道中を案じる石光に、葵はいつもの調子で明るく返す。そんな無防備な彼女の額に、俺は手加減したデコピンを撃ち込む。


「痛っ!?いきなり何するんですか!!」


「あまり俺をアテにするな。俺にできる事は、近づく全てを斬り伏せる事だ。……俺に刀を抜かせるな」


ここまで天衣無縫な笑みを浮かべていた葵だったが、初めてその表情を引き締める。


「…分かっていますよ。行きましょう。涼くん、色々とありがとうございました」


「僕は別に大した事はしてないよ。…綴火、姫女様と葵を頼んだよ」


「お前に言われるまでもねぇよ。黙ってろトーシロが」


これ以上ズルズルと会話を引き延ばすつもりはない。俺は石光に背を向け、山の入り口の方角へと歩みを進める。少し遅れて二つの足音が後続する。


それでもなお、未練がましく石光は口を動かす。


「……そうだね。君は昔からそうだ。いつだって綴火は僕にできない事をする。そんな君が……少し羨ましいよ」


「だったらお前にしかできない事を探せば良いだけの話だろ。理屈こねくり回して足踏みなんぞしやがるから、お前はいつまでたっても無能なんだよ。一生そのままさえずってろ」






石光の深いため息こそ聞こえたが、やれやれという声は聞こえてこなかった。






〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜






里狐の山では特に大した問題もなく、無事神社に辿り着く事ができた。


もっとも、ヒヤリハットなら何度かあったがな。


「諫ちゃん、本当に心臓が止まるかと思いましたよ。なんで何も無いところで転ぶんですか?しかも3回も……」


「うぅ……本当にごめんなさい……」


「ごめんでは済まんぞ。諫奈だけ山に捨ててくるか、流石に本気で悩んだぞ」


「真顔で怖い事言わないでよ!?」


「でも諫ちゃん、これからは毎年山に登らなくちゃいけないですから、少しでも改善してくださいね」


「うん、ごめん……もっと足腰鍛えるね」




道中、不用意に音を立てるなと口酸っぱく言っておいたのにも関わらず、諫奈は三度にも渡って転倒を繰り返していた。これには流石の葵も、マジ泣きする寸前まで来ていた。


山を登り終えた直後、俺と葵に物凄い剣幕で叱責された諫奈は、メンタルにくる物があったのか泣き出してしまった。


少しキツく言い過ぎたかもしれないが、もし鎧熊を物音で刺激してしまっていたら、かなり洒落にならない状況になっていたのだ。自分が犯した過失の大きさを自覚してもらう必要がある。


が、まあ今回はとくに危険な状況になることもなく、全員無傷で神社まで来れたのだ。諫奈も十分に反省しているようなので、これ以上グチグチ言う必要もあるまい。


「ま、どこかの女誑しのせいで時間が押してますからね。お説教はこの辺にしといてパーッと飲みましょう!!」


顔を輝かせた葵は、我先にと家の中へと入っていってしまう。野郎、俺に殴られる前に逃げやがったな。


「あれ、本殿に玉串奉奠をするんじゃなかったの?」


葵の背中を見送る諫奈が、首を傾げて至極まっとうな疑問を口にする。


「去年までは普通にやっていたが、おそらく諫姉がいたから猫を被っていただけだろうな。あいつ、面倒臭いという理由でサボるつもりだぞ」


「えぇ!?そんなので良いの!?」


「知らん。母親が現役だった頃もそんな感じだったし、今更になって気にする事もあるまい」


薊の酒癖が悪いのも相まって、むしろあの頃の方がよっぽど酷かった。


「うーん…お母さんに聞かれたら怒られそうだね。またその時に考えよ」


俺の幼馴染みには誤魔化すという選択肢が無いようだ。相変わらず馬鹿正直な奴だ。


葵に遅れて、諫奈とともに平屋に入ると、葵は既にこたつで暖を取っていた。こたつの上には猪口や徳利が用意されており、開封されたツマミが所狭しと並んでいる。


「ささっ、二人とも早く座ってください!!いや〜諫ちゃんも成人して、やっとで三人で飲めますねっ!!」


葵は俺の手から一升瓶をひったくると、全員の猪口に並々と注いでいく。


「うーん、お酒飲んだことないから心配だなぁ…」


「大丈夫ですよ、諫ちゃんには村一番の酒豪である諫寧さんの血が通ってるんですからね!!……むしろ、諫ちゃんがしっかりしてくれないと困ります」


「え、なんで?」


「それはまあ……覚悟しておいてくださいね」


一瞬、葵はチラリとこちらへと目配せする。


「……何が言いたい」


「いえ、詠水くんは心おきなく飲みまくってください」


「だったらさっさと音頭を取れ」


「そうですね。その前に、里狐様に御神酒を献じてきます」


葵は一升瓶を手に神棚へと向かい、瓶子へいしの蓋を開けて酒を注ぐ。


「里狐様、遠慮せずグイッといっちゃってくださいね」


「とても神職が添えるような言葉とは思えんな」


「うん、もし犬神様にあんなこと言ったらお母さんに叱られるよ…」


二拝二拍手一拝を済ませた葵は、細かい事は良いんですよ!!と、俺らの難癖を一刀のもとに切り伏せる。


まあ、俺としてもミツキごときにくれてやる言葉などどうでも良いので、酒がなみなみと注がれた猪口を持ち上げる。縁ギリギリまで注がれている為、少し酒が溢れてしまうが、掃除をするのは葵なので特に気にしない。


「え〜、では、双神村に住まう全ての無病息災と子孫繁栄をお祈りしまして、献杯っ!!」


「献杯!!」


巫女二人の溌剌とした声を合図に、俺は猪口を一息に呷る。


日本酒の香りが喉と鼻腔を温め、飛騨の地酒の甘みが舌に愉悦を与える。


「いや〜相変わらず天領は飲みやすいですね!!飲酒デビューの諫ちゃん、どうですか?」


「うーん、味がどうとうかはまだわからないけど、なんだか顔がポカポカしてくるね!!」


「いいですねー、もっとポカポカしちゃってください!!ほら、飲んで飲んで!!詠水くんも!!」


葵は俺たちの猪口が空になるのを待たずして、矢継ぎ早に酒を注いでいく。だが……


「おい、葵。なんで俺ばかりに注ぎまくるんだ。もう少しゆっくり飲ませろ」


「遠慮しなくても良いんですよ?去年、一昨年と、諫寧さんを気にして酔わないようにしてたの知ってるんですからね!!今年は私と諫ちゃんしかいませんから、一緒に行くところまで行っちゃいましょう!!」


そうまくし立てた葵は、俺の猪口に注ぎ、諫奈の猪口に注ぎ、自分の猪口に注ぎと、天真爛漫すぎる振る舞いを繰り返している。


「ペースが早すぎる。酒の残りがもう半分も無いじゃないか」


「大丈夫です、酒ならまだまだありますよ!!」


それはそれは素敵な笑顔でそう答えた葵は、どこから取り出したのか「蓬莱」と銘打たれた一升瓶を取り出す。アル中巫女め。


「そんな事より詠水くん!!あの折鶴って方は誰なんですか!!」


顔をほんのりと赤くした葵が俺にしな垂れかかってくるなり、俺の頰をツンツンと突きながら口を尖らせてくる。


「ええい、鬱陶しい。水でも飲んで酔いを冷ましてこい阿呆」


「嫌ですぅ〜スケコマシ詠水くんが答えるまでここから動きませ〜ん」


「……葵ちゃん、まだそんなに酔って「諫ちゃん、それ以上いけない」……はい」


「なんだ?一瞬、葵のものとはお思えぬほど冷え切った声が聞こえたが……」


「だぁめです!!誤魔化しちゃ嫌ですよ詠水くん!!早く口を割ってくださいな!!」


面倒臭え。こいつこんな絡み酒だったか?


「詠水くんには私という本妻がいるのに、なんであんな綺麗な方を家に引きずり込んでるんですか!!私、浮気には寛容な方ですが、時には厳しく接しますからね!!」


「本妻だの浮気だの訳の分からん単語を持ち出すな。そんなものはお前の下世話な勘繰りに過ぎん。…あいつは俺に用事があったから俺の家に来ていた。だが、俺は遥と御前通りで祭りを興じていた。長らく待たせていたのは流石に申し訳なくてな、立ち話もなんだと思って家にあげただけだ」


「むぅ…怪しいです。絶対にお二人は密接な関係にあるような気がします!!」


「私も気になるなぁ。折鶴さんって、あまり外に出ないみたいだし、わざわざ詠くんに会いに行くなんて、絶対に何かあるよ」


相変わらずやかましい葵に倣って、諫奈まで加勢してくる。


「だったら綾華にきけ。俺にあいつの動機を訊いたって仕方ないだろ。…それよりも諫奈。お前、綾華に何かしたのか?」


「えっ、なんで?」


「あいつ、どうもお前の事を避けてるように見えるが」


「そうなの?うーん…折鶴さんとは一昨日に会ったのが初めてだし、その時も軽く挨拶を交わしただけだから、嫌われるような事はしてないと思うけど…」


諫奈は本当に思い当たりがないと言った様子で首を傾げる。まあ諫奈に限って他人の反感を買うような真似はしないか。


「私からしても、折鶴さんには他の人とは違う何かを感じるよ」


「……親娘そろって同じような事を言うんだな」


「あれ、お母さんも同じ事言ってたの?……詠くんも知っている通り、私たち姫女は『心の二面性』を見る事ができる。私だったら『真と偽』。お母さんだったら『善と悪』。おばあちゃんだったら『愛と憎』って感じで」


……普通だったら非科学的で、なんら現実味を帯びていない発言と捉えられてもおかしくないが、諫奈に嘘が通用した試しは一度もない。


「……でもね、折鶴さんの『真と偽』は見えないんだ。こんなの初めてだよ。今までに私が見えなかったのは、お母さんとおばあちゃんだけだもん。お母さんも同じような事を言ってたなら、お母さんも折鶴さんの『善と悪』が見えなかったんじゃないのかな?」


なるほど、諫奈の言っている事が事実であれば、昼に諫寧が綾華についてやたらしつこく聞いてきたのも腑に落ちる。


「ちょっと、詠水くん!!私と諫ちゃんが居るってのに、他の女の子の話をしないでくださいよ!!」


「やかましいな。耳元でキャンキャン吠えるな。……おい、お前マジでさっきから俺の猪口にしか酒を注いでないぞ。一本以上俺一人で飲んでるぞ」


「気のせいですよ!!諫ちゃんもどんどん注いであげてください!!」


「えぇ……詠くん凄い量飲んでるけど大丈夫?確かに、全然酔っぱらってる感じじゃないけど」


諫奈が心配をしながらも俺の猪口に酒を注いでいく。


珠繋ぎに酒を呷っているせいか、喉がカッカする。少し酔いが回ってきたのか、ここへきて初めて酩酊感を覚える。


「詠くんはお酒強いですからね。そして何より、可愛い二人の巫女さんにお酒を注がれて、飲めないなんて言う男はいませんよ」


「お前らは世界一可愛いからな」


「むぅ…顰めっ面で言うセリフじゃないですよ。って、詠水くんはいつも顰めっ面でしたね……」




「………………え?」




「ん?諫ちゃん、どうしたんですか?お花摘みですか?」


「は…はわわ……葵ちゃん……た、大変だよ!!」


「本当にどうしたんですか?顔が真っ赤ですよ?」




「あ、葵ちゃん……詠くんがデレちゃった……」




「………諫ちゃん、もう少し詳しくお願いします」




「さっき、詠くんが私たちの事……その……『世界一可愛い』って………」




「言ってましたね」





「ほ……だったの………ぁぅ……」





「諫ちゃん、やりましたね」


「ふぇ?」






「確 定 B I G 入 り ま し た」





「………………ふぇ?」

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