第3話

「賀藤さん、二番にN商事からです」

「賀藤くん。先週の議事録、今日中にお願いできるかな」

「賀藤、この見積もりなんだけどさ、単価五十円で大丈夫か?」

 ひっきりなしに鳴る電話、次々と降ってくる仕事、待ってはくれない締切。

 そうとも、これが日常だ。

「はいはいはい! 議事録は今日やります! 電話はすぐ折り返すって言って! 見積もりは――今確認します!」

 雨の日にイタリア人を拾ってから、約一週間が過ぎた。

 手当てした後、気を失うように眠って、起きたときにはもう外国人はいなかった。

 翌朝不安になって、何か盗まれてないか一応確認したけれど、何の変哲もなく。むしろあれは、疲労で朦朧とした脳が見せた夢だったんじゃないかと最近は思い始めている。

「えっとですね、先方にも確認したんですが、今回少量の薬品を取り扱っているらしくて――」

 賀藤がそう、所長に見積もりの説明をしているときだった。

 先月入ったばかりの事務の女の子が、何か言いづらそうに横に立っていた。

 緊急の用件だが、話に割って入るわけにもいかず、困っているのだろう。賀藤は部長に一言断りを入れると、女子社員に向き直る。

「何、どうしたの?」

「あの、賀藤さん宛にお客様がいらしてるんですが……」

「オレ宛? 誰?」

 アポを取っていたのを失念してしまったのか? 

 それとも、何かの営業だろうか。あるいはたまたま近くに来たお客さんが顔でも出してくれたのか?

 賀藤の頭にいくつかの可能性がよぎる。

 けれど、答えはそのどれでもなかった。

「それがお客様というか……外国の方が、先日の礼がしたいと……」

「――っぐげ」

 つい社会人らしからぬ、うめき声を上げてしまった。

 血の気が引く。もしかして、あの外国人のことか。あの外国人のことか。

「え……えーっと、その。もしかして、金髪で若くて、白いスーツ着た――?」

「あ、はい、そうです! どうしましょうか。念のため、来客用のデスクで待ってもらってはいるんですけど」

 賀藤の背中を、冷たい汗が滴り落ちる。

 さっきまで半分夢だと思っていた出来事が、いきなり現実に割り込んできたのだ。

 しかし、あの外国人はどうやって会社まで来たんだ。そもそも名乗ってすらいないはずなのに。

 それに先日の礼だって?

 まずい、まずいだろう。それって要するに『お礼参り』というやつではないのか。

 記憶がよみがえる。

 血まみれで倒れているところを目撃してしまった。思いっきり股間を踏んでしまった。病院にも連れて行かずに、適当な手当で放置した。

 ――しまった。死亡フラグしか立ってない。

「あ、あーっと、あ! そう、そうだ。悪いんだけどさ、今仕事で手が離せないから、あとで連絡するっつってもらっていいかな。連絡先だけ聞いてもらって――」

 そういう場合は、逃げの一手だ。

 会社までバレていては逃げようもないのかもしれないが、少なくとも時間は稼げる。

 その間にうまい対処法が思いつけば良し。ダメなら、警察に相談するなり、なんなりして、とにかく身を守らないと。

 そう賀藤が決意した時だった。

 バアンッ! と、事務所のドアが盛大に開く。

 一瞬で、辺りが静まりかえった。

 開かれた扉から、高級そうな白スーツを来た外国人が肩を切って入ってくれば、誰でも釘付けになるだろう。

 男は、まるでランウェイを歩くかのように、華麗にデスクの隙間を通り抜ける。

 そして、まっすぐ賀藤の前まで来ると、帽子を脱いでウィンクした。

「チャーオ! ガッティーノ!」

 めまいが、した。

「ああ、やっと会えたね、運命の人! 一週間も連絡しないですまない。心配させたかい? だが君の手当のおかげでこの通り、元気いっぱいさ。本当に君のおかげだよ、ガッティーノ」

「が、ガッティーノ?」

「君のことだよ、ガトー。ガトーはイタリア語で猫。つまり、僕の子猫ちゃんってワケさ」

 そう言うと、外国人は賀藤の手を取り、その甲にキスをする。

 突然の柔らかい感触に、思わず賀藤は飛び跳ねた。

「な、なな、何!? 何なんだ、お前!?」

「ああ、そうか。まだちゃんと名乗ってなかったね。僕はヴィットーリオ・ジャンニーニ。ヴィクでいいよ。ガトーはトクベツだから、そう呼ばせてあげる」

 そう言って、外国人――ヴィクは再びウィンクする。

 何故か賀藤の後ろにいた経理の女子社員が悲鳴を上げた。

 ヤバイ、とか、何者、とか小声で聞こえてくる。そんなの、賀藤が聞きたいくらいだった。

「ところでガッティーノ。夕食プランゾは? まだ? よかった。今、外に車を待たせてるんだ。君のために、とっておきの店を予約してあるんだよ」

「え? いや、オレ、まだ仕事が……」

「仕事? ノンノン! もう十九時じゃあないか、明日にしなよ。ここだけの話、かなり予約を取るのが難しいお店なんだ。今日を逃したら、半年先まで予約でいっぱいさ!」

「で、でも……」

「ガッティーノ」

 ヴィクが賀藤の肩を強く掴む。

 強引に抱き寄せると、賀藤の耳元にそっとささやいた。

 距離が近いとか、吐息がくすぐったいと思う暇もなく、賀藤の耳に言葉が流し込まれる。

「君とは、話したいことがいっぱいあるんだ。先週の夜のこととか、色々、ね」

 恥骨から脊髄にかけて、恐怖が電流のように走った。

 まずい、まずい、まずい。

 これ、アカンやつだ。逆らったら、命がないやつだ。

「ヒうぇ……っ!」

 ヴィクの手が、ミシミシと言いそうなくらい強く肩を握りしめた。

 手から『逃げられると思うなよ』と言外に伝えられたのは、生まれて初めての体験である。

 嬉しくない!

「来てくれるよね、ガッティーノ?」

「……イ、イエース」  

 肩の痛みと、有無を言わさぬその笑みに、賀藤は他に返す言葉を持たなかった。

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