雨の日にマフィアを拾ったら

福北太郎

第1話

 賀藤幸男がとう・ゆきおは、雨に濡れていた。

 傘を忘れたわけではない。天気予報も、夕方からの急な雨に注意と言っていた。

 取引先のビルの窓からも、猛烈な雨が降り始めているのが見えていた。

 だからこそ、あえて傘をささずに外へ出たのだ。

 入社当時から愛用しているスーツが、みるみるびしょ濡れになって、シャツが肌にへばりつく。最近床屋に行けていなくて、伸び始めた前髪から、ポタポタと雨が滴っていく。

 革靴の中の靴下が、水を含んで、ぐしゅぐしゅと気持ち悪い音を立てている。

「……やってられるか!」

 飛び込みの営業は九割失敗する。そんなことは入社以来、五年営業をしていれば百も承知だった。むしろ今日の営業は前向きに話を聞いてもらえたし、パンフレットも受け取ってもらえた。比較的、成功に近い結果と言えるだろう。

 だが、それがどうした。

 二桁を超える連勤、月百時間近い残業、営業ノルマの話しかしない上司、ライバル意識満々でプライベートの会話なんてゼロの同僚、就業時間ではどうあがいても終わらない報告書や雑務の山、話の通じない後輩、カップラーメンとコンビニ弁当の毎日、家族も恋人もなく、掃除しかすることしかない休日――これが、本当に人間の生活なのか。

「辞めてやる。こんな仕事……あのクソハゲ上司のどたまに辞表叩きつけてやる……!」

 生き甲斐がない。

 充足がない。

 唯一の救いは、自分がこの現状に怒りを抱けていることだ。おそらく多くの日本人が自分と同じような状況にいるだろうが、知ったことか。

 おかしいものを、おかしいと言って何が悪い。オレの人生の価値は、オレが決める。

「決めた。今日こそ、辞表を出す。あー、クソ!」

 苛立ち紛れに足早に歩いていると、カンっと足下で音がした。

 ふと前方へ、空き缶が転がっていくのが見えた。どうやら、自分が蹴飛ばしてしまったらしい。

「ったく。誰だよ、ゴミはゴミ箱に捨てろってんだよ……」

 うっとおしく張り付いた前髪をかき上げて、賀藤は蹴り上げてしまった缶を追って、ビルとビルの合間に潜り込む。

 ――それが賀藤にとって、運命の選択であることも知らずに。

「……あ?」

 最初は、マネキンでも捨ててあるのかと思った。

 ビル影の隙間、不法投棄のゴミに埋もれて、人のようなものがうずくまっていたのだ。

 賀藤は近づいて、目をこらす。

 輝くような金色の髪、陶磁のような色素の薄い肌、仕立ての良さそうな白いスーツ――間違いなく外国人だろう。そして、美しいそれらを汚すように、彼の全身には血と泥にまみれていた。

「死体、か……?」

 脇腹に開いた穴からは、今も血が吹き出しているように見えた。雨ですぐに洗い流されてしまうから、判別はつかないが。

 警察へ通報すべきか。

 死体にしろ、死に損ないにしろ、ここで関わるのは得策ではない。間違いなく、非日常の住人だ。

 だが万が一、マネキンだった場合、警察にいらぬ迷惑をかけてしまう。そう思った賀藤は、カバンのケータイを漁りながら、一歩ずつ男に近づいていく。

「Congelamento!」

 突如、男が目を開いた。

 手負いの獣の形相で、銃口を賀藤へと向ける。

 初めて見る拳銃に、賀藤は動きを止めた。

「ジャポネーゼ?」

 男の声は、見ため以上に若そうだった。おそらく、二十代前半ぐらいだろうか。

 イタリア人かもしれない。ジャポネーゼは、確かイタリア語で、日本人という意味だ。

「……ああ、日本人だ」

「カバンから、手を出せ。ゆっくりと、だ」

 言われるまま、賀藤は静かにカバンから手を引き抜く。男が銃口を小さく揺らして、指示をする。

「両手を挙げて、後ろを向け」

「……わかった」

 手を挙げると、カバンが地面に落ちた。その時、カンっと、妙に聞き覚えのある音がする。

「おい、今」

「後ろを向け」

 嫌な予感はしたが、銃で脅された状態では、まともに下を見ることすらできない。

 賀藤は唇を結ぶと、振り返るべく右足を半歩後ろに引く。

 靴底の下で、何かが潰れた。

「うわっ!」

 上半身のバランスがくずれる。踏ん張りを入れようとしたが、雨でぬかるんだ地面はズルッと滑り、留まることを許してくれない。

 そのまま、賀藤の身体は男の方へ倒れていく。

「は!?」

 さすがの男も驚きを隠せず、銃を持ったまま硬直していた。

 一方、賀藤の方は、空き缶の存在にうすうす気づいていただけあって、コンマ数秒の覚悟があった。倒れる中で、右腕を伸ばして、壁に爪を立てる。

 落ちる勢いが、わずかにそがれた。その隙を逃さず、賀藤が大きく足を前に踏み込む。

「――――ッ!!」

 イタリア男が、いきなり声にならない絶叫をあげた。

 同時に足下が、妙に柔らかい感触に包まれた。

 賀藤が下を向く。自分の足が、男の股間をきつく踏みつけていた。

「わ、悪い!」

 ――殺される……!

 全身から血の気が引いていく。

 慌てて足を引っ込めるが、男は小さく咳き込むと、半目になってうなだれた。

 数秒、頭を抱えて、賀藤は死を待つ。だが、いつまでたっても男は動かない。

「お、おーい……」

 おそるおそる、賀藤は顔を上げた。男はうつむいたままだ。

 死んだ? いや、違う。

 これはきっと、あまりの痛さに悶絶したのだ。

「う……嘘だろ」

 気絶した外国人を目の前に、賀藤は途方に暮れるしかなかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る