刹那と永遠のオプタティオ
びたみん
第1話 会社、やめます。
いい天気だなー。
朝の通勤ラッシュ。人はごった返し、道行く人の顔を見れば皆一様に何処か焦ったような色を宿している。それもそうだ、出社時刻、登校時間、いずれも時間の制約に縛られて行動しているのだから、焦りも何処かにじもうと言うものだ。
そんな中、自分だけは他人事のように街も人も、景色の一部として見回す。パノラマの映画を観ているように、自分とは違う世界の出来事を鑑賞しているような気分の女が1人。通勤に忙しない景色を見ながら公園のベンチに座っている。通勤ラッシュに加わらない、公園のベンチでのんびりと座り込んでいる彼女の服装は、ビシッと決まったスーツである。
「皆んな忙しそうだなー」
ぼんやりと1人ごちる彼女だが、髪型もメイクも服も、頭の先からつま先までこれから出社する人と変わらない、もしくはそれ以上に気合の入ったキャリアウーマンといった体だ。そんな彼女は世界からはみ出したような、通勤に忙しない群衆には見向きもされない少し寂れた公園で、朝から膝に腕を突いて詰まらなそうに紙コップのコーヒーを飲みながら時間を無駄にしている。
いつもなら誰よりも先に出社して、1日のスケジュール帳を持って、上司の為に車を出して送迎をしている時刻だ。
紙コップの中で無意識に動く手の振動で波紋の出来るコーヒーの、黒い表面をじっと見つめる。何とは無しに見詰めながら物思いに耽っていると、やがて通勤ラッシュを過ぎて人が少し疎らになり始めた。そろそろ子供と一緒に井戸端会議を開く為主婦たちが公園に集結しだす時間だなと頭の隅で考えていると、1週間ほど震えっ放しの携帯が飽きもせずにまたもや着信を告げる。
「……はい、金崎です。」
綺麗に整っているのだろう顔は無表情の所為で何処か虚ろな印象を抱かせる。彼女が携帯を耳に当てると、電話越しに焦ったような声が漏れ聞こえる。周囲に人が居れば緊急事態だと想定できそうな程の焦り具合だ。
「あっ、金崎さん!?
今どちらですか!社長がもうお怒りで……」
部下の焦った声を遮って、彼女は目の前に広がる景色を眺めた。
「私の仕事って今どうなってる?」
「はっ?
仕事も役職も何も、このままじゃ首ですよ!!」
もう1週間、無断欠勤を繰り返している。朝家を出る時間は以前と変わらない。ただどうしても会社まで足が向かず、家まで引き返す途中にあるこの公園で足が止まった。朝は忙しさで通り過ぎ、夜は人気がなく物騒な印象を抱くこの公園に足を踏み入れたのは、無断欠勤をした初日の朝だった。
「クビにしても退職手当が役職で違うでしょ。」
公園に初めて足を踏み入れた日と、その直前の出来事を思い出しながら電話に応対する。
「え……先輩、辞める気なんですか?」
呆気にとられたような声に、少し自嘲めいた笑をこぼす。辞めるも何も、一週間の無断欠勤だなんてそれ以外の何があるのだ。事故に遭ったとしても、一週間も連絡がないだなんてことはあり得ない。知り合いでも保険会社でも、もしもの時には会社へ連絡するように言ってある。
それでも部下は、何か事情があって連絡ができない状態なのだと思っていたのだ。そう思われるくらいには仕事に没頭してきた自覚のある彼女は、自分の生き甲斐とも言える居場所でクビを切られるかもしれないという状況にあって、やはり何処か浮世離れしたような表情で景色を眺めている。
「私のデスクの引き出しの鍵、君のファイルケースの中に入れといた。多分私の仕事は君に引き継ぎだと思うからお願いね、急に内容変わっちゃうから迷惑かけるね。ごめんなさい。
鍵の事は社長に言わない方がいいと思うから、もし報告するなら君は何も見てないしデスクの引き出しの中身は見てない事にしてね。」
矢継ぎ早にそう口にすると、まだ引き止めるような声が聞こえる携帯を耳から離す。暫く応答を求める声を伝える画面を見ていたが、軽く画面に触れて通話終了のボタンを押す。
「ふぅ……」
溜息をついてベンチの背に凭れる。振り仰いだ空は眩しくて直視出来ない。
眩しさで目の奥に感じた痛みに目を眇めると、僅かに光が弱まるのを感じた。
雲が掛かったのだろう、青かったはずの空は灰色になり、まだ眩しさでよく見えない目はまともな色を映さないが、周囲の空気が変わった事で雲が掛かったことを感じた。
「今日は雨だなぁ」
朝の二ュースキャスターの声が蘇り、今日は雨が降ると言っていたのを思い出す。まだ目がチカチカするが、曇り空になったようだし家へ帰らなければすぐに雨が降るだろう。ギュッと目を瞑ってやっと痛みの引いた目を開ける。
「え……」
眩しい空の見過ぎでまだ目がおかしいのかと思い、空を振り仰いだままメイクが崩れることも御構い無しに目を擦った。
「曇りすぎでしょ…」
余りの曇り空、余りの暗さ。
思わず戸惑いの声が出るほどには動揺して、周囲を見渡す。そんなに曇り空が広がっていないならまだもうすこしだけ、雨が降るまで猶予があるかと期待して見渡した先で、今度は驚愕の言葉さえもでない。
「………」
手入れされていない長さの疎らな公園の生垣越しに見える道路、道路を走る車に歩道を歩く人、等間隔にある電柱にオフィス街ならではのビルの陰。
そんなものはどこにもない。
さっきまで見ていた公園の砂場も、少し錆びたブランコも、低すぎて頭を打ちそうな鉄棒もない。
目の前には巨大な木、前も後ろも左右のどちらを見ても木。樹木と蔦植物のオンパレード。頭上を覆う巨木が、何故か彼女の頭上だけぽっかりと空いていて空を覗かせている。僅かにも人の気配などなさそうな場所に、仕事と生き甲斐を失った彼女は立っていた。
そう、先程までベンチにだらしなく凭れて居たはずなのに、何時の間にか立っていたのだ。
「何で……」
足場を踏みしめる自分の力を感じて見下ろした足元には、柔らかな苔が生えている。地面を覆う程の苔はここが余程の山奥であり、人の足が入らないことを意味していた。
見下ろした時視界に入った自分の足元に、更に違和感を感じると、先程までのベージュのスーツの色合いではない。白いパンプスのヒールの高さも感じない。彼女の足先は皮らしき茶色のブーツを履いており、ピッタリと足に添う明るい緑のパンツに皮のベルト、ベルトはポシェットの様になっており小さな鞄が付いていて、他に小袋がぶら下がっている。白いワイシャツまでを確認して、車のシートベルトの様に胴体を斜めに横断して掛かっているベルトに手を掛けようとするが、布が邪魔で思う様に手が動かない。
……布?
布を払う様に腕を上げて、鎖骨辺りで布が固定されている事を感じて首元を見ると、葉っぱの形をデザインしたブローチで固定されていた。背中や足に当たる布の感触からして自分が身に付けているものが馴染みのないマントである事を推測した。全身をマントが覆い、マントの下で斜めがけに何かの紐が横断している。後手に確認しようとして、手にコーヒーのカップを持ったままだった事を思い出す。
ここで初めて彼女はずっと違和感を感じていた持ち物を見た。
「弓……」
映画でよく目にする、狩猟の為に考案された弓を、彼女は手にしていたのだ。
考える事が多過ぎで、変化について行けずに脳が考える事を放棄し始めた。
何で?何で弓?ていうかここどこ??何で服変わってるの?あとここどこ?
同じ様な思考回路でグルグルと自分の状況を推し量ろうとするが、情報の何をもっても不可解さが深まっていくだけで解決の糸口が全くと言っていいほどない。
色んな物を振りほどく様に頭を振ると、纏めていた筈の髪は解けていた。胸元まで落ちてきていた毛に、今度こそ目が零れ落ちるかと思った。
私の髪は……
「黒よーーー!!!」
もはや夢としか思えない状況に、取り敢えず彼女は叫び、そして思考を拒絶した脳によって、彼女の意識は急激にブラックアウトしていく。
ああ良かった……これで目が醒める……
柔らかい苔はしっとりとしていて、だが不快さは微塵も無い。ひんやりとしているのに木々の生命を感じた様に何処か温かい。意識が遠ざかって行き、完全に意識を手放す直前彼女の考えた事は、ベンチの上の鞄の中身の無事であった。
お財布、大丈夫かな……
そして苔に身を沈めたまま、完全に意識を手放した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます