アリアドネの糸


 

 少年は怯えていた。

 目の前で、ティンカーベルが踊っている。

 全身銀色のタイツに、歌舞伎役者のようなクマドリ風の厚化粧。背中には針金で作られた蝶のような羽がついている。

 踊りを際立たせる様に時折通る電車の光が、廃ビルの小さな部屋に入り込んで、消えていく。

 ティンカーベルは踊り続けていた。バレエダンサーの様に、大きく足をひろげ飛び跳ねたり、千鳥足で少年の周囲を歩いたり。


 少年は強く思った――縛られていなければ即刻この部屋からとび出して、もう二度と自分の父親を自慢するもんか、ザ・セカンドスター・トゥ・ザ・ライト……こんな曲、二度と聴くもんか――。


「元気がないね! またトイレにいきたいの? それとも、お腹がすいてきたのかなぁ?」

 電車が通り抜けて、部屋が暗くなった。

 ティンカーベルの声は、女の声だった。

 少年はティンカーベルを無視しようとした。するとカチリ、と音がし、クマドリ顔が少年の目の前に、ぬっと出た。


 懐中電灯で浮かび上がったティンカーベルと目が合って、少年は、ひぃ、と小さく悲鳴をあげた。

「……お家に帰りたい」少年の目線に合わせるため、かがんだティンカーベルに対し、少年は精一杯の声を絞りだした。

「うーん」

 ティンカーベルは腕組みして立ち上がると、少年の横腹を蹴った。一瞬、少年は呼吸ができなくなった。

「ダメだよ! ネバーランドへの扉がもうすぐひらくのに!」

 そう言って、少年の横腹を何度も蹴飛ばした。

「ひ・ら・く・の・にぃ!」

「ぐ、ぐ、ぐ、ぐ、ぐぅ!」

 少年はグッタリとなって、ぽつり、「ごめんなさい」と呟いた。

「わかればいいんだよ」ティンカーベルは蹴るのをやめた。

 

 少年はこんな虐待を何時間も受けていた。意識を失わない程度に蹴られているのだろう、痛みだけが腹に残る。最初はもっと騒いだりしていたが、両手足を縛られて、踊りを見る事を強要させられた。

 

――もう、家に帰れないんだ。


 そう思った瞬間、少年は気付いた。ティンカーベルのこめかみに何かがある。

 

 ティンカーベルは懐中電灯を持ったまま、腕組みし少年を見下している。


 だが彼女のこめかみに蛍のような赤い光がちらちらしている。


「もうすぐ十二時だね! ピーターパンがやってくるよ。そうしたら」


「ブタ箱行きね」

 どこからか声がした瞬間、風船がわれるような、パン! という音がした。

 ティンカーベルは少年の目の前に倒れこんだ。

「警察です。神田かんだ勇気ゆうき君ね、怪我はない?」

 懐中電灯がカラカラと転がって、窓の一区画を照らしだした。

 窓の外には女性の姿があった。その女性はオートマチックの銃をしまって、窓を飛び越えて入ってくる。

 ティンカーベルはぴくぴくと体を震わせていた。

「安心して。プラスチック弾よ……死んじゃいない」

 そう言って少年に微笑む女性は警察手帳を見せる。

 

 顔写真の下に〝阿久津あくつカオリ〟と書かれていた。

 少年には彼女……阿久津カオリが天使に見えた。



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