ヨコハマ シーガールズ

高橋右手

先輩とシチュー

 綾女先輩が好き。

「いいわ、私を殺すことができたら。あなたのモノになってあげる」

 試すような綾女先輩の声が、二人だけの図書館にどうしようもなく響いて聞こえた。

「えっ……ころ? す?」

 美羽の喉から素っ頓狂な声が漏れる。

 勇気を出した本気の告白の答えがこれだ。普段からけっこう適当なことを言っている綾女先輩だからって、あんまりだ。

 しかも、読んでいる本から目を離そうともしない。その本は美羽が薦めたミステリーで、クライマックスがとても盛り上がることを知っている。綾女先輩をそこまで楽しませられたのは嬉しいけれど……。

 こんなタイミングで告白した自分もいけなかった。だって、面と向かって言う勇気なんてなかったんだから仕方ない。

 冗談だと思われてさらりと流されるか、振られても冗談だと自分から言おうなんて考えたのがいけなかった。

 心の中を読んだみたいに綾女先輩は美羽が用意していた逃げ道を全部塞いで、さらに爆弾まで仕掛けてきた。

「そう私を殺すの。それが唯一、永遠を手に入れる方法」

 綾女先輩は読んでいたページに栞を挟み本を閉じる。スーッと動いた瞳だけが美羽を捉える。先輩の瞳は黒真珠のような色合いをしていて角度によって美しく色が変わる。

「で、でも死んだら……一緒にいれなくなっちゃいます」

「過程も愉しめばいいのよ。でも、本当に重要なのは終わりがあること。どんなに面白い小説でも、完結しないとモヤモヤするでしょ?」

 閉じた本を置くと、綾女先輩は胸元のスカーフを外す。それから貸出カウンターの引き出しを開けて、大型のカッターナイフを取り出した。ほっそりとした綾女先輩の手には不釣り合いな無骨な文房具だ。

 カチカチカチ。押し出されたカッターナイフの刃は五センチほど。ダンボールを開けるのには長すぎる。

「手を出して」

 黒い瞳に魅入られるままに、美羽は差し出し出されたカッターナイフを受け取る。

「最初のハードルは私が越えさせてあげる」

 美術品のように整った手が美羽の手を包み込む。綾女先輩は握らせた手を、そのまま自分の首にもっていきカッターの刃を皮膚に当てる。

 白玉やギュウヒを押すみたいな感触、刃が食い込み血が浮かぶ。

 赤い球が破れて、紅いひと筋になる。

 皮膚が裂け刃先が軟骨に当たる感触に、美羽の手が震える。

「大丈夫、痛くないから」

 そう言って、綾女先輩は美羽の握るカッターナイフを強引に引かせる。

 軟骨と軟骨の間を削るように刃が抜け、気道を切り裂いた。


 それから一ヶ月後。


 綾女先輩が好き。

 腰まである黒髪はいつもお風呂上がりみたいに艷やかで綺麗。綾女先輩が腰掛けた後の椅子に残っていた一本の髪の毛は美羽の宝物だ。九三センチのうち三〇センチは食べてしまって、残りはカプセル型のキーホルダーに入れて肌身離さず持っている。

 ほんの少し上向きでうるうるしている唇は憧れ。冬になるとカサカサになってリップクリームが必須の自分と違って、きっとマシュマロみたいに柔らかいのだろう。居眠りしている綾女先輩のほんの数ミリのところまで近づいたのに、結局触れる勇気が美羽にはなかった。

 お狐さまみたいな切れ長の目は畏れ。目尻に向かってキュッと引かれた二重のラインに、くっきりと浮かぶ長いまつ毛。不純物のないガラスのような白目に黒真珠の瞳。太陽の光で劣化なんて一切していないのだ。ふとした時に、綾女先輩の視線を感じるとゾワッと総毛立つ。魔眼とか邪視なんて生易しいものではない。きっと運命の糸を見て、その愚かしさを冷笑しているに違いない。

 磨き上げられた貝殻のようにキラキラとした爪と長い指は官能。あの指先に触れられると、毒針で刺されたように美羽の身体はピリピリと痺れてしまう。毒は熱くなった患部から心臓へと流れ込み、さらに全身へと広がっていく。やがて脳が毒に犯され、もう綾女先輩のことしか考えられなくなってしまう。

 今、その指が美羽以外の女子に触れている。

 同じ図書委員の加藤さんの解いたおさげを結び直している。

「私の髪で遊ばないでください」

 加藤さんはそう言って手櫛を払おうとするけれど、綾女先輩は無視して髪をいじり続ける。諦めた加藤さんが目を伏せるのが、美羽には満更でもない様子に見えた。

 美羽が気にしていることを知っているのに、綾女先輩はこちらを見ようともしない。これ見よがしに、ああでもないこうでもないと髪型を弄っている。

 ショートヘアーで癖っ毛の美羽の髪ではできない戯れだ。

「つむじが少し右側にあるのね」

 綾女先輩の指先が頭頂部を指の腹で撫で回す。

「んっ、やめて下さい……」

 漏れた加藤さんの恥ずかしそうな声に、美羽の中で何かがプツンと切れる。

「あああああああああ、もうダメです! ダメなんですううううう!」

 美羽は自分のスクールバッグをひっくり返し、隠していたナイフを手に取る。

「図書委員が図書館で騒がないでください」

「それどころじゃないんです! もう限界なんです!」

 注意する加藤さんを押しのける。何事かと図書館を利用している生徒たちの目が集まっているけれど、もう止められない。

 美羽は握ったナイフを綾女先輩のお腹に突き立てる。

 ぐじゅっという肉を刺す感触。死んでいる牛肉や鶏肉を包丁で切るのとは違って、温かくて柔らかい。

 白いセーラー服に血の染みが広がるけれど、綾女先輩は蚊に刺された程も気にしていない。

「聖別してあるみたいだけれど、これじゃダメね」

「ま、まだあります!」

 無駄だろうなと思いながらも、握った柄についているスイッチをカチッと入れる。柄頭のLEDがピカッと光る。それを確認した美羽はカウンターの後ろに身を投げ出した。

「何かしら?」

 綾女先輩はお腹に刺さったナイフを見下ろす。

 その直後、柄に仕込まれた炸薬が爆発を起こす。

 パンッという乾いた音が響きベチャッと血の花が咲く。

 えぐり取られたような痕から赤みがかった腸をでろんと垂れる。

 整理中だった貸出カードが血塗れになってしまった。

「夜店で買ったのかしら? 面白い玩具ね」

 何事もなかったかのように、綾女先輩は腹の穴に手を突っ込む。ぐちゅぐちゅと内臓を掻き回し折れたナイフの刃をつまみ出し、ポイっとゴミ箱に捨ててしまった。『爆発は小規模だ。しかし、ナイフの金属片が散弾銃のように肉体をズタズタに切り裂く!』と通販サイトに書かれていたのに、実際はただの爆弾と変わらないようだ。

「図書館で火器の仕様は禁止です!」

 さっきよりも大きな声を上げた加藤さんが、カウンターをドンと力いっぱい叩く。肉片のついた頬がピクピクと痙攣している。

 いつもは我関せずの加藤さんがかなり怒っている。その所為で周囲の気温が急速に下がり始めている。飛び散った臓腑の湯気が見え、美羽の吐く息も白くなり、空気が音を立てて凍りつく。外見こそ人間と変わらないので忘れていたけれど、彼女は雪女の家系だ。

「す、すぐに片付けます……」

「手伝うわ」

 綾女先輩はすでにバケツと雑巾を用意していた。お腹の方はうねうねと再生中だけれど、動くのには問題ないみたいだ。

「そんな! あたしがしたことなのに……」

「フフッ、いいのよ。だってこれ私のお肉なんだもの」

 何が楽しいのか綾女先輩は上機嫌に雑巾で血を拭き始めた。

 血も肉も綾女先輩の思う通りに呼び集めて再吸収できるはずだ。でも床に落ちたものを、そのまま吸収する気には慣れないのだろう。

「ありがとうございます」

 美羽はお礼を言うと並んで雑巾がけを始めた

 失敗してしまったけれど学年が違う綾女先輩と一緒に掃除をするのは新鮮で、美羽にとってはご褒美のようなものだった。


 その翌日。


「あんた、またやったんだって?」

 朝のホームルームが終わってすぐに美羽の席までやってきた加奈子は開口一番、責めるように言った。

 短い黒髪に部活で焼けた肌、ボーイッシュな見た目の加奈子だけれど結構な心配症だ。新しいことにチャレンジするのも苦手で、コンビニでは定番のお菓子しか買わない。

「別にいいでしょ」

 問い詰めるような目線から、美羽は逃れるように横を向く。

「諦めなって。綾女先輩って正式にカテゴリーされてないけど、特S級存在なんでしょ? 神祇庁もハンター協会も放置するしかない相手にあんたが何かしたって無駄だってさ」

「他人がどうするかなんて関係ないの! あたしは絶対に先輩を殺してあげるんだから!」

 いくら小学校からの親友の言葉でも譲れないことはある。

 綾女先輩の代わりになるものなんてこの世界には存在しない。だから、求めるものを得るためには挑戦し続けるしかない。

「はー……ま、頑張んなさい。ゆるふわな見た目なのに、頑固さだけは超合金よね」

 このやり取りなんてもう十回以上繰り返している。加奈子だって、他人のことをどうこう言えないぐらい頑固だ。

「ハ~イ、そんな無茶な運命と戦うユーにこのドラッグがぴったりデース!」

 二人の会話に割り込んできたのはクロエ・クライレイだ。絵に描いたような金髪碧眼の美少女で、さらに魔女というオーバースペック気味のクラスメイトだ。魔女として優れているらしいけれど、それを碌な事に使わないトラブルメーカーでもある。

 そんなクロエが妖精モチーフの細工が絡んだ小瓶を差し出していた。

「それは?」

 怪しいと思いながらも美羽は尋ねる。加奈子がやめておけと目線で言っているけれど、この怪しいクラスメイトのマッドな実力だけは誰もが認めている。

「タイム感覚パラライズドラッグ」

「タイムパラドクスドラッグ?」

「ノー、ノー、パラライズ」

「パラララズ?」

 美羽とクロエの不毛なやり取りに、加奈子が大きなため息をつく。

「全部日本語にすれば時間感覚麻痺薬だってさ。どういう効果なの?」

「これを飲んだ人は時間の感覚が狂うのデス。少しの間だけ動きがとってもおそくなりマース」

「あれか、RPGでスロウの魔法をかけたみたいに?」

「ザッツライ! ちなみにワタシはシックスが好きデスネ!」

 加奈子の補足のお陰で美羽も頷く。

「あたしはセブンが好き!」

「いや、そういうことじゃないから……。それでいくらで美羽に売りつけるつもりなの?」

「今ならスペシャルプライス、なんと五〇〇円デース!」

「安っ!」

「買った!」

「早っ! ちょっとどう考えても怪しいって。序盤の魔法ショップでも、もう少しお金とるって!」

 不信感たっぷりの加奈子の視線に、クロエは人差し指を振る。

「チッチッチッ、加奈子はベリースイート。これはあくまでテスト販売デース。SSクラスに試せるチャンスなんて他に無いデス。もし効果があったら、それを広告にして、ハンターとか向こう側とか、もっとマネーを持ってる連中に高く売りつけマス! 女子高生から稼ごうなんてチャンチャラ思わないデース!」

「テストさせるためなら、逆に美羽がお金もらっても良いんじゃないのか」

 加奈子のジトーっとした視線にクロエがバツの悪そうに顔をそらす。

「今月のお家賃払ってお金ありまセーン。今日のA定食……」

 学食の日替わりメニューはワンコインだ。

「分かった、払うよ! クロエちゃん、いっぱい食べてね!」

 美羽は財布から五百円玉を取り出し、クロエに差し出す。

「毎度デース!」

 加奈子はまだ何か言いたそうにしていたけれど、美羽は納得して謎の薬を手に入れた。


 そして翌日。


 お家デートと称して美羽は綾女先輩のマンションに押しかけた。

 突然の訪問にも、綾女先輩は嫌な顔ひとつせず部屋に招き入れてくれた。前に来たときは極度の緊張で、お茶を飲んだことしか覚えていなかったけれど今日は大丈夫だ。緊張より興奮が勝っている。ドキドキと高鳴る心臓とちょっとだけ早い呼吸が、美羽の頭に十分な酸素を送り込んでいる。

 2LDKの室内には余計な物がほとんどなかった。一人暮らしなので十分なのだと綾女先輩は言っていた。ヌイグルミや本で雑然としている美羽の部屋とは大違いだ。

 リビングに入るとガランとしたテーブルの上に、美羽が貸した恋愛小説が読みかけのままぽつんと置かれているのが少し嬉しかった。

 前回来たときはなかった大きなクッションが二つあった。通販のダンボールが片付けられないまま残っている。綾女先輩がわざわざ買ってくれたのだと分かって、美羽のお腹はいっぱいになってしまう。

 二人は身を寄せ合うようにして、一つのクッションに腰掛けお喋りをした。放課後の図書室と変わらないけれど、ずっと距離が近い。そのせいか、綾女先輩は意外と美羽の話を聞きたがってくれた。

 小学校の頃は飼育委員をしていて、ウサギに噛まれてウサギが苦手になったこと。加奈子と同じクラスになって最初は大喧嘩したこと。遠足で迷子になって違う小学校のバスに乗った話では、綾女先輩が珍しく声を出して笑ってくれた。

 美羽が五つぐらい話をするたびに、綾女先輩も一つだけ昔話をしてくれた。それは美羽が生まれるよりもずっと昔のこと。砂漠に一晩でお城を建てた話やマリー・アントワネットと子猫の話、エジソンの会社で大儲けした話。冗談のような逸話ばかりだけれど、綾女先輩が話すと嘘には聞こえない。

 やがて薄闇がフローリングを這い上がってくる。

 綾女先輩が電気をつけてくれたタイミングで、美羽は立ち上がった。

「料理つくっちゃいますね。綾女先輩は本でも読んでて下さい」

「そう、ありがとう」

 綾女先輩は読みかけだった本を手に取ると、二人で使っていたクッションに座り直す。

 殺風景な室内に比べて、キッチンは道具と調味料が充実していた。綾女先輩は気が向くと料理をしたり、手作りのお弁当を学校に持ってきたりしている。お弁当の卵焼きを食べさせてもらったことがあるけれど、料亭かと思うような本格的な味付けで驚いた。

 美羽も料理やお菓子作りは得意だけれど、綾女先輩の方がずっと上手いだろう。それでも綾女先輩に自分が作った料理を食べて欲しかった。

 目的と手段が一緒なんてステキだと思う。

 ジャガイモの皮をむくシャリシャリという音、包丁で人参を切るトントンという音、それらに時々綾女先輩が本のページを捲る音が混じる。なんだか一緒に作業をしているみたいだ。

 お鍋で鶏肉、野菜の順番で軽く炒めて、ヒタヒタになるぐらいの水とコンソメを投入。煮立つまでの時間を利用してホワイトソースを作る。

 フライパンでバターを溶かして小麦とまぜまぜ。焦がさないように気をつけて木べらを動かす。お菓子作りみたいな香ばしい匂いがしてきたら、牛乳をドバっと投入してまたコトコト。クリーム状になるまであと少し。この行程が一苦労だ。

 トロリとなったら、アクを取りつつお鍋の様子を見る。もう少し火を通した方が良さそうだ。

 この間にちょっとお片付けと食器の準備。包丁、まな板、ボールと洗う。食器棚を覗くとなんだか高そうなお皿が並んでいる。

「食器ってどれを使えばいいんですか?」

「どれでもいいわよ」

 綾女先輩は本から顔を上げず答える。

 高そうな花柄のお皿は避けて、ホームセンターで売ってそうな青い縁取りのお皿を使うことにした。

 大皿の一つにはフランスパンを切って並べておく。マンションに来る途中のベーカリーで買ったパンで、小麦のいい匂いがする。

 野菜に火が通りお鍋の方からスープの匂いも漂ってくる。早く一緒にさせてと訴えてくるようだ。

 少し冷めて重くなったホワイトソースを木べらでかき集めて、水分の減ったお鍋の中へ。くるくる回し入れると、ほんの僅かに色づいていたスープが白濁していく。

「あっ、緑がない!」

 忘れていたブロッコリーを慌ててレンジで調理。ホカホカの湯気に気をつけながら、お鍋の中に。軽くかき混ぜ、塩コショウで味を整え、最後にひと煮立ち。

 一度冷ませばもっと味が滲むのだけれど、夕飯には丁度いい時間になっていた。綾女先輩も本を読み終わったようだし、待たせるのも、待つのも嫌だ。

 熱々のシチューをお皿に盛って、最後に乾燥パセリをひと振り。先輩のお皿にだけは、秘密の薬を垂らせば完成だ。

「できました!」

 テーブルに運ぶと、綾女先輩がコップに水を注いでくれていた。

「いい匂いね。さあ、食べましょう」

 促されて美羽は向かい合ってテーブルにつく。

 美羽が手を合わせ、綾女先輩は手を組む。

「いただきます!」

「いただきます」

 綾女先輩はスプーン一杯のシチューに、ふーっと息を吹きかける。赤い唇が開いて白いシチューに塗れた人参が綾女先輩の腔内へ消えていく。それから二度三度としっかりと咀嚼、先輩の喉がコクリと動いて胃へと飲み込まれた。

「どうですか?」

「普通に美味しいわ。あなた、少しおっちょこちょいな所があるから、失敗するかもって少し期待してたのに残念だわ」

 意地悪な笑みを浮かべて綾女先輩は二口目をすする。

「そんなー、ちゃんと料理できるんですよ」

 非難の声を上げながらも美羽はほっと胸をなでおろす。

「私の口ばかりみてないで、あなたも食べたら?」

「は、はいっ!」

 握ったままだったスプーンを慌てて咥える。シチューは丁度いい温度になっていて、野菜とホワイトソースの甘味が口に広がった。

 味見した通りのはずなのに、綾女先輩にお墨付きをもらった効果で1.5倍は美味しく感じる。

 スプーンを口に運びならも綾女先輩をチラチラ。そのたびに視線が合ってしまう。

(あれ? 薬が効いてない?)

 やっぱり駄目だったのかと思って視線が落ちる。お皿に浮かぶジャガイモが笑っているように見えた。

「あら? これ…………は……?」

 綾女先輩のシチューを掬う手が止まる。正確にはゆっくり、それこそ一秒間に数ミリという速度でだけ動いている。

「綾女先輩?」

 問いかけて顔の前で手を振ってみる。綾女先輩の視線は動かず瞬きもしない。

(ありがとう、クロエちゃん!)

 美羽は椅子から飛び降りると、持ってきたバッグを開ける。

 汚れが付かないようにブルーシートをリビングに広げ、食材とは別に持ってきた道具たちを並べる。

 自分より身長の高い綾女先輩を椅子から降ろすのも一苦労。机の角や床にぶつけて、綾女先輩の美しい尊顔に傷なんてつけたら大変だ。腰をぐっと抱きかかえて、肩に押し付けられる胸のフニっとした感触にドキドキする。それでもなんとか、ブルーシートの上に仰向けに寝かせることに成功した。

 目を開けたまま横たわる綾女先輩は作り物のマネキンのようだけれど、触れると温かくて肉の柔らかさがある。

 背徳の興奮に心臓がバクバクと早鐘を打つ。でも一息ついている余裕はない。薬を自分で試したとき、効果は三〇分ほどで切れてしまった。綾女先輩ならもっと早く正常な意識に戻ってしまうだろう。

 シャツのボタンを一つ外すたびに、徐々に綾女先輩の下着があらわになっていく。白地に青い薔薇をモチーフにしたレースがついたブラジャーだ。大人っぽい先輩によく似合っている。

 興奮に毛細血管が耐えられなくなったのか鼻の奥がツーンと痛くなる。

(はぁはぁ……ずっとこのまま……ダメダメ、綾女先輩が起きる前に……)

 震える指先でホックを外すと、解き放たれた果実がたゆんと溢れる。ダメだと思いながらも、指先はその果実に触れてしまう。

「プッ、プリン?!」

 興奮が言葉となって飛び出す。美羽のささやかな胸では感じることのできない、感動が綾女先輩の推定Cカップ以上の胸には宿っていた。

 思い切り指を食い込ませて柔らかさを味わい尽くしたい欲望にかられるけれど、そんな破廉恥なことはできない。

(しっかり、美羽! 綾女先輩が見てるんだから!)

 虚ろな瞳は天井に向けられたままだけれど、見られている感覚がある。どうにか自制心を働かせ禁断の柔肉から思考を切り離す。

 ごくりと唾液を飲み込み、バッグから取り出したナイフを右手で握る。左手で柔肉の谷間を掻き分け、金属の刃先を綾女先輩の肌に当てる。谷間の中心ではなく、左乳房の方に3センチほど寄っている。

 ぐっと力を入れるとナイフの刃が皮膚に食い込み、血が流れ出す。鶏肉と違ってすぐに骨に当たってしまうけれど、構わず縦に切り開いていく。溢れる血と皮下脂肪の合間に、白い骨が覗く。

 左側が終わったら、今度は同じように右側にもナイフを入れる。ぐにぐにと動く皮膚が動くせいで綺麗に平行には切れなかった。それでも、お医者さんでも肉屋でもない自分にしてはよく出来たほうだと思う。

 最後に下側を切り離し生皮をべろりと捲りあげる。ネクタイかサボテンかプラナリアみたいな形の胸骨と、そこから左右に伸びる肋骨が露わになる。蛍光灯の下で見ると影が濃くて、一つ一つの繋がりがはっきりとしない。

 それでも胸骨の下で脈打つ肉塊の存在だけは分かった。

(綾女先輩の心臓、動いてる……)

 これこそが美羽の狙いだ。人間はもちろん、A級に分類される吸血鬼だって心臓に杭を打ち込まれれば死ぬという。

 鼓動は10秒に1回ほどとゆっくりだ。薬の影響なのか、先輩はそういう体質なのか分からない。美羽がナイフで刺したり、手首を切り落としたりしても出血が少なかったので、後者なのかもしれない。

 人間の骨はただのナイフ程度では切断できない。宮本武蔵のような大剣豪ならできるのかもしれないけれど、美羽の細腕では無理だ。だからちゃんと用意してある。

 電動ノコギリだ。ちょっとした木工に使うようなハンドタイプのものだから、美羽でも扱える。

 コンセントを差して握り部分のスイッチを入れると、ギザギザの刃が大きな音を立てて上下に動き出す。腕に伝わってくる頼もしい振動が、こいつならやってくれると思わせてくれる。

 細動するノコギリ刃の威力は抜群だ。赤い血と白い骨粉を盛大に撒き散らし、骨をギュインギュインと切断していく。時々、ぶれた刃先が骨以外の場所に当たってしまって、ビチャッと生肉が飛んで来る。綾女先輩の傷口が轢き潰された肉みたいに醜くなるのは嫌だけれど、作業の速さを優先した。

(すごい! これならあっという間に……あっ!)

 調子に乗り始めたところで甲高い金属音が響き、ビュッと何かが美羽の頬を掠めていった。右手に握った電動ノコギリの刃が無くなっていた。正確には根本の五センチぐらいを残して、バキッと折れてしまっている。

 作業を急いだせいで、刃先の骨への当たり方が悪かったのだ。

「八千円もしたのに! うぅ、こんなことなら二万円のやつにしておけば良かった……」

 安物買いの銭失いなんて言葉が脳裏を過る。

 それでも電動ノコギリのお陰で胸骨と右側の肋骨は切断し終わり、左側もあと一本半を残す所となっている。

 あと少し。なのに、切り開いた肉の縁が小さな触手か虫のように蠢き、再生を始めている。天井を見つめていた瞳が美羽の方を向き、笑っているようにも見える。綾女先輩の意識が元に戻ろうとしているのだ。

「まってまってまって! あと少しだけ! ああ、もう無い! ノコギリ無いの! 無いのっ! だから、まってぇえええ!」

 組んだ両手をハンマーのように打ちつける。

 べちゃ、べちゃ、べちゃ、べちゃ、ぼき。

 一本折れた。小指と肋が。

 あと一本。

 ぐちゃ、ぐちゃ、ぐちゃ、ぐちょ。

(駄目、切り込みが無いと折れない! あ、でもグラグラしてるから押せば)

 ぐっ、ぐっ、ぐっーーーー。

 出来た骨と肉の隙間に右手を突っ込む。折れた小指が痛いけれど気にしてられない。

 指先でビクって感じる肉。その肉の塊を掴んで引っ張る。他の肉と張り付いていて剥がれない。

(綾女先輩のナカ……すごく、あったかい……包まれてる……)

 そのまま引き抜くのを諦めて、左手でナイフを握ってずらした骨の間から刃を入れる。

 牡蠣の身を剥がすみたいに、張り付いた肉やら管やらを切って心臓を引き剥がす。

「やった!」

 引き抜こうとする手首が肉の壁に阻まれる。

 再生した傷口が美羽の手ごと閉じ始めていた。

「これ、くださいっ!」

 無理やりズボッと手を引き抜くと、血管や筋とは明らかに違う肉の管が心臓を求めるように追ってくる。

 視線を胸から上に移すと、血色の良い綾女先輩が眼だけをぐりんと動かしていた。

「なんで……死なないですか……」

 握った心臓からトマトジュースのパックみたいにビュッと血が飛び出る。

「返さない……先輩をあたしのモノにするんです!」

 切り離されてもなお脈動を続ける心臓を、美羽はシチュー皿に叩きつけるように乗せる。

 食器ケースから取り出したフォークを心臓に突き立てる。冷めきった白いシチューに温かい血液が注ぎ込まれる。

 右手で握ったステーキナイフの刃を当てる。筋肉の塊なので張りがあって、刃がなかなか通らない。それでも、両手にぐっと力を込めて引きちぎるように肉を切り離す。

 歪な楕円型の肉片を口に放り込む。一瞬だけシチューの牛乳の匂いがした後に、濃い血の味が広がる。血抜きのされてないレバーより、もっと鉄分たっぷりに感じる。油っこさはまったくなくて、血の舌触りは良い。

 急いで二口、三口と綾女先輩の肉片を噛んで飲み込んでいく。

(こんなのもったいないよ……。綾女先輩をもっと美味しく食べたい……。あ、濃い味付けよりシンプルな方が合うかも……)

 とにかくぷりっとした弾力があって歯ごたえを感じる。煮込み料理より焼き料理。小さめに切って塩コショウをまぶして、香草焼きにすると良いかもしれない。

 でもそんな時間はない。

 顎が痛くなっても、飲み込む喉と舌が疲れても、とにかく食べ進む。

 時間制限ありのケーキバイキングで、アップルパイを取りすぎてしまったときのことを思い出す。あの時は加奈子が文句を言いながら手助けしてくれたけれど、今はたったひとりだ。

 できるだけ小さく切って、形だけ噛んで、あとは水で無理やり流し込む。

 それでも間に合わなかった。血を踏む音を背後に聞いた美羽は残っていた五センチほどの心臓の肉を口に含んだ。

「私の心臓の味はどう? 最近、少し太ってしまったから心配なのよ」

 一滴の血も付いていない綺麗な手が美羽の首筋に触れる。

 振り向くと、先輩は優しい表情を浮かべていた。胸の傷はもう完全に塞がり、血塗れのシャツから形の良い乳房と小さなおへそが覗いている。

「へんはい……」

 肉片のせいで、美羽はもごもご喋ることしかできなかった。

「なんれ死なないんれすか……」

「そうね、なんでかしらね……死ねないの。たぶん、まだほんの少しだけ人間が残っているのね」

「死んれ良いのに……」

 開けっ放しの口の中に、しょっぱい涙が流れ込む。

「フフッ、可愛いお顔が大変ね」

 綾女先輩の顔が近づき、頬を伝わる涙に唇がそっと触れる。

「えっくっ……んっ?!」

 舌先でツーっと移動した綾女先輩が、そのまま美羽の唇を塞ぐ。そして腔内に残っていた心臓の欠片を吸い出そうとする。

「んっ……らめれす……んんぅ……入っれこないれくらさ、あっ……んん……」

 美羽も舌を擦り合わせるようにして抗ったけれど、綾女先輩のうねる舌の前では無力だった。無垢な修道女のように組み伏せられ、大事な肉芽を奪われてしまう。

 それだけでは物足りないと綾女先輩は、さらに奥へと舌を突きこんでくる。

「んっっ!! おくぅっ、やめへっ……くるしいれすっ、せ、せんぱ、うぅっ! んんんっ!」

 蛇のように伸びた舌が、美羽の喉を擦りそのまま食道を下っていく。太くて張りのある肉塊に喉を内側から押し広げられ、息ができない。口の端から泡立った唾液がジュブジュブと卑猥な音を出して漏れる。

「んうぅ! んえぇぅ! んぅぅっ! んんんんんっ!」

 胃に達した舌は心臓の欠片を求め暴れまわる。分泌される酸性の液体を気にせず、むしろそれを潤滑油にするようにして内壁を舐めまわす。

 膨らんだ綾女先輩の舌先が美羽のひだ一枚一枚を嫐る。服の上からでも、お腹が膨れ上がっているのが分かる。いくら胃に痛覚が通っていなくても、揉みしだくような動きは周囲の臓器に伝わる。胎児が暴れるのはこんな感覚なのかもしれない。

「んぅうぅ?! んぉおっ! おっ! んぼおぉおっ!」

 全ての肉片を吸収した舌がずるずると、美羽の中から引き抜かれていく。

 やっと苦しみから解放される安堵。

 それと同時に失われる熱。

 窄めた唇から酸っぱさと共に綾女先輩の舌が抜けてしまう。

「んぼっ! げほっげほっ……はぁ……はぁ……」

 血の匂いが漂っている。ポッカリと空いてしまった部分を埋めるように、美羽はその空気を胸いっぱいに吸い込んだ。

「フフッ、とっても気持ちよかったわ」

 綾女先輩は満足そうに小さく頷くと、キッチンに立ってシチューの鍋に火を入れ直す。

「晩餐を再開しましょ。少し質量が減ったから、お腹も減ってしまったわ」

 何事もなかったかのように、綾女先輩はパンを切り分ける。

「ほら、あなたも口直し。人の肉ってあまり美味しいものではないでしょ」

「綾女先輩のは……美味しいです……」

「そう? なら良かったわ」

 意固地になる美羽に綾女先輩は相好を崩す。

 コンロに火を灯すガスの音、おタマが鍋に触れる音、シチューが煮え始める音。

 血に満たされていた鼻腔を優しいシチューの匂いがくすぐる。

「どうすればいいんですか……」

 運ばれてきたシチュー皿とパンを前に、ようやく美羽は口を開く。

「さあ、分からないわ。斬られても、焼かれても、すり潰されても、粉微塵になっても、私は私のまま。中途半端に人間のまま」

 耳に響く諦観を払うように美羽は首を振る。

「中途半端とかじゃなくて……先輩は先輩です……ずっとずっと」

「ずっとは寂しいわ」

 綾女先輩がシチューを啜る。

 美羽がそれに倣うと、少しだけ口に残っていた血とシチューが舌の上で混じり合う。

「先輩といっしょになりたい……」

 このシチューは塩を入れすぎたみたいだ。

「いいのよ。あなたの想いだけは、こうして私がとどめておくから」

 抱きしめられたように美羽の身体は暖かくなっていく。


 綾女先輩が好き。

 だから、絶対に先輩を殺してあげる。

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