異世界見聞録

王水

第壱話

その昔、数多あまたの生き物がうごめくこの世で、あまねく知れ渡る奇々怪々な噂。


「異世界地図が存在する」


逆さの街や、海底都市、宝石の地盤や太陽のない国。その世はじつに美しく、有象無象のためしなし。


これは、いやしくも平凡の身に生まれながら、例のごとき噂の種となってしまった者の物語である。



ここは城下町の寂びれた一角。この私、「一一進にのまえいっしん」の現在の拠点である。

ひどく読みにくく珍しい名前なのだが、自分ではいたく気に入っている。この名は母上から頂いたもので、「一つ一つ進み続ける」といった意味を持つ。今の私の業にぴったり合致していると言えよう。


私が最初に喋った言葉は「地図」であった。


地図好きの父上がよく発していた言葉だ。

私の職は一言で言えば測量家であり、二言で言えば地図を作成しているものだ。国中の町々を行脚あんぎゃし、拠点を借りては地図を書く、そんな生活をもう十年以上続けている猛者とは、他でもなくこの私である。


しかし、腹が減っては戦もできぬ。背と腹がくっつく前にと握り飯を頬張っていた私は、わらべどもが何かに群がっているのを発見し、米粒を頬につけたままその群がりの中心を眺める。するとそこにあったのは、珍しい光るかわずであった。どうやら童どもはその蛙をつつくなどして虐めているらしい。ここは一喝してやらねば。私は一匹の蛙のために立ち上がり、童どもの背後で高く拳を振り上げた。

「天!誅!」

言いながら童の頭に一つずつ拳骨げんこつを下していく。

「いってー!何すんだこの野郎!」

殴りかかってくる童を華麗にかわし、更に拳を加える。大人げがないのである。

「糞!覚えてろよ、顔洗って待ってろい!」

威勢の良い台詞を吐きながらばたばたと走り去っていく姿は滑稽である。

「フン、糞餓鬼め…あっ」

そういえばと虐められていた蛙の方を振り返ってみてみると、そそくさとくさむらに逃げ込む寸前であった。光る蛙というのも面白いものだと思い、少し追いかけてみるとトポンとかわいらしい音を立てて近くの池に飛び込んだようだった。



さて、今しがた恐ろしく大きく、深そうな池を見つけた私はその周長を測ろうとしていた。

「しかし、こんなところにこれほど大きな池があったとは。今日の晩飯は魚でも釣るとするか。」

独り言をつぶやきながら、測り道具をそろえる。手始めに基準点に杭を打ち、間縄けんなわ(導線法で用いられた距離を直接測る麻縄などの道具)を取り出した。が起きたのは、杖先羅針つえさきらしん(杖の先に羅針盤の応用である方位盤を取り付けた方位を測る道具)を地に突き立てた、その瞬間であった。

「うわっ」

杖の刺さるべき地面が簡単に崩れ落ちたかと思えば、私の足場までもがガラガラと脆弱な音を立てて崩れていくではないか。慌てて違う足場を確保しようとするが、その努力もむなしく、私は池に墜落した。



ほとりから落ちたにしてはやけに深い。全身がどっぷりと沈み、水面が遠のいてゆく。泳ごうにも着物が水を吸い込んで、うまく泳ぐことができないのだ。私は必死になってもがいていたが、いたずらに泡を生むだけで、どうにも助かりそうにない。万事ことごとく休す。とうとう観念してもがくのを止めると、意識はだんだんと遠のいていった。ついに命が途切れようとしたとき、ゆがむ視界に見たのはあの光る蛙であった。おのれ蛙め。恩を仇で返すその根性、童より先に叩き直すべきであったか。


と、その時、何かが私の胸ぐらをつかみ、力強く引っ張り上げたのだった。陸にあげられて必死に水を吐く。肺の焼けるように熱くなるのを感じた。暫時ざんじ地に伏していた私は周囲への留意につとめた。はて。ここはどこだろうか。あきらかに先ほどの池の周りではない。そして、ぼやける視界の中見えるこれは中年男ではないだろうか。眼鏡をかけた白髪交じりのその男は、どこか物腰のやわらかい様子で私に話しかける。

『だ、大丈夫かい。どうしたんだい、こんなところで溺れて…。』

「…」

男が発した言葉はじつに難解であった。およそ私の知るところのそれではない。先ほどまで溺死する寸前だったため頭が回らなくなっているのかとも考えたが、そのわりに意識ははっきりしていた。私が何も答えずにいると男は私を介抱し、小さな小屋へと連れて行った。ひどく年季の入った布団に寝かされ、かゆがだされる。見慣れぬ食器だ。陶器のようだが、細長い長方形の形をしている。真ん中に仕切りのようなものがあり、右半分と左半分にそれぞれ別の粥が入っていた。右側の粥はとろみが強く、薄紅色。左側はさらりとして黄色がかっている。未だかつて見たことも無い粥を黙って観察していると、また男が、やはり私の解せぬことばで語りかけてきた。

『そんなに物珍しそうに見て、もしかして初めて見るのかな。』

何を言っているかはわからないが、兎も角、それらを口に運んでみることにした。柔らかな湯気が顔を撫で、心地よい。まずは薄紅色の粥からとさじすくいあげる。それから口をあけて食そうとしたとき、男が首やら手やらをぶんぶんと横に振った。

『あぁ、違う違うよ、これはね、混ぜていただくものなんだ。』

何かを訴えているようだが私にはへんてこなことを言っているようにしか聞こえず、怪訝そうにその様子を眺めていると、男は諦めたようすで粥の入った容器に手を伸ばした。真ん中の仕切りをすっと上に持ち上げ、二種類の粥を匙でゆっくりと混ぜ合わせる。しだいに先ほどよりも良い香りがするようになり、淡い橙色へと変わっていた。最後にちょこんと小さな青菜を乗せ、私に食べるよう促してきた。

『さ、どうぞ。』

いそいそと粥を匙から舌の上へと移すと、味蕾みらいでよく味を確かめる。優しい塩味に、ほのかな甘味がシンプルな旨味を編み上げる。ぷちぷちとした触感とふわりとした舌触りが筆舌に尽くしがたい。

「美味い…。」

あまりの美味さについ、そう口にしてしまった時だった。男が過敏にその言葉に反応したのだ。

「…君、その言葉がわかるのかい。」

「!」

突然、男は私の知り得ることばで小さくささやいた。そして何かを察して押し黙っていた私に、更にこう続けた。

「あぁ、いいんだ。喋らないで。ここではこの言葉を話す者は殺されてしまう。」

周りに人影がいないか注意しながら男はぼそぼそと話す。しかし、言葉はわかっても私にはこの男の言うことが理解できなかった。「ここでは」「殺される」どういうことだ。ここは異国か何かなのか、私は池を通じてそれほど遠くまで流されてきたというのか。否。あの短時間でそんなことがあるはずもない。第一流された感覚も無かったのである。

人はいないことを確認し安心した様子の男は、しかし尚、小さな声で続ける。

「混乱するのも無理はないよ、だけどこれから言うことをよく聞いて。ここは君がもといたところとは違う…なんだ。」

「違う、世界?」

思わず復唱する。違う世界。異なる世界。ここではほとんどのものが私がもと居た世界とは異なるものであると男はいう。

「…へぇ、それは実にアホらしいことだ。して、この夢は何時なんどきにさめるのだろう。」

信じられるか。そんなことがあるわけがないのである。からかわれているに違いない。夢に違いない。

「それがうつつなのだから、信じてくれよう」

「ええい、嘘を吐くな、俺は信じないぞ!」

「わっ、そんな大声を出してはまずい、静かにしてくれ」

正直のところ、泣きそうになりながら私をなだめる男の様子は、からかっているようには見えなかった。情けなく慌てふためく様子にいささか申し訳なくなり、落ち着いて床に座った。

「それで、ここがなんだと。」

「異世界だよ、まったく別物の世界なんだ。その証拠に、君の知らない言語や、食べ物もみただろう。あたりの風貌だって違っていたはずだ。」

「まあ、そうだな…。」

「やっとわかってくれたかあ。」

「しかし、それではお前は何者なんだ。」

「ああ、ああ、僕はおそらく、君とおなじ世界にいたものだよ。もう二十年前の話だけれどね。名前は、ええっと、なんだったかな。そうだそうだ、春風しゅんぷうといったかな。」

「自分の名を忘れるほど年なのか。」

「し、失礼だな、僕はまだ五十手前だ。この世界で春風なんて名前はおかしいんだよ、だから今は『ハル』と名乗っているんだ。旅をしながら学者をやっていてね、地形やら気候やらの研究をしているんだ。」

もし、ここが本当に異世界なのであれば、この男、ハルにしばらく匿ってもらうことが得策かもしれない。二十年もここに居るということは相当この世界に精通しているはずである。

私は少しの間をおいて、ハルを真っすぐ見据えた。

「俺は一一進にのまえいっしんだ。測量家で、地図を作成している。ここが異世界というのならば、しばらくここにおいてくれないか。ここについて、教えてほしい。」

ハルは一瞬目を丸くし、その後にまた穏やかな表情を見せた。

「帰りたい、とは言わないのかい。」

「もちろん、いつかは帰る。しかし、お前も二十年帰ることができていないのだ、そう簡単なことではないんだろう。それに…まあまあ面白そうじゃなかろうか。を作るのも。」

それを聞くと、ハルは少し噴き出した後、口を大きく開けて笑った。

「ははは、君、僕の若いころとよく似ているよ。いいじゃないか、地理学者と地図書き。いい旅になりそうだ。研究もはかどるよ。よおし、まずは言葉を覚えなさい、話はそれからだよ。研究する前に殺されたらたまったもんじゃないからね。」

そういいながら物置をあさり始めたハルは、「たしかここらへんに」とぶつぶつつぶやきながら物置の奥へとあたまを突っ込んでいった。

「ああ、あったあった、これ、僕がここの言葉を覚えるときに使った本なんだ。いつか拾ってね。」

言いながら、ハルは本に覆いかぶさった埃をふうっと吹いて咳き込んだ。

「かたじけない。言葉か、まぁ、すぐに覚えるだろう。」

「それはどうかなあ、結構難しいんだよ、ここの言葉は。」

「心配ない、俺は頭がいい。」

「自分で言っちゃうのかあ」

実際、頭はきれるほうであった。まずは言葉を覚えなければ殺される…待てよ。

「そういえば、何故なにゆえ我々の言語を話していると殺されるのだろう?」

「言語を話さずとも、異世界の者であるとわかればここの人たちは殺そうとしてくるみたいだよ。その理由も今調べているところなんだ。」

「理由はわからないということか。話す言葉で判断しているということは、ここの人間はそう我々と大差のない姿をしているのか。」

「まあ、そうだね。一見区別がつかないな。だけど内部構造は結構違っていてね、こちらの世界の人間は心臓が二つある。」

「そりゃ凄い。」

面白い世界だ、殺されなければずっといてもいいかもしれない。

そんなことを考えながら先ほどの本をぱらぱらとめくっていると、突然ハルが「そうだ」と声をあげた。

「君、名前はなんにしようか。」

「俺は一一進にのまえいっしんだ。」

「そうじゃなくて、ここでは人間の名前ってのは二音か四音の名前が主流なんだ。」

「いいや、俺は一一進にのまえいっしんだ!」

「声、声大きいってばもう、わかったわかった、じゃあ、『ニッシン』にしよう。ねっ。」

「嫌だ。なんだその魚の名前のような名は。」

「わがままだなぁ…じゃあ何がいいの」

「…強いて言うならば『イッシン』だ。母上にもらった名だ。」

「ええ、そのまま?面白くないなあ。」

「名前が面白くてどうする。」

まあそうだけど、と悄気返しょげかえるハルを横目に、本を読んでいると、ふと目を惹かれる文字列があった。

「おい、これはなんていう意味の言葉だ。」

「ん、どれどれ。」

ハルは私の指がさす文字を見るなり、はははと笑い、「君ってば本当に面白いなぁ」と呟いた。


「これはね。『地図』って意味さ。」


私が最初に覚えた異世界語は『地図』であった。

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