消せない思い -バタフライ・モノクローム2-
西條寺 サイ
第1話 まだ
見慣れているはずの室内に満ちた空気に、是俊は肌でしか感じ取れない程度の違和感を覚えることが多くなった。
涼が、いない。
それだけのことだった。
彼が出て行くことは、互いに了承していた。送り出す日も、至って爽やかな別れ方をした。涼も今は、新しい恋人の傍で幸せにしているだろう。そして何より自分の隣には、愛しくてたまらないはずの恋人がいた。
付き合い始めてから是俊は、如が人前でどれほど猫を被っているかを思い知ることになった。神経質で、我儘で、そのうえ少し変わっている。今までどうして気付かなかったのかと何度となく首を捻ったが、恋は盲目という。ならば、今現在も自分は如の何も見えていないはずだ。
考えるのを放棄して、是俊は自分にもたれて居眠りを始めた体温を心置きなく感じることにした。
愛しい、と、この気持ちを愛していると呼ぶのだろう。そう確信を持って言えるのは、相手が今までで一番我儘でプライドの高い彼だからなのかもしれない。手ごわい相手であることに間違いないが、それでこそ不足はないというものだった。
何でも思い通りになると信じてきた自分にはふさわしい相手とも言える。もっとも、相手はその上をいく認識の持ち主のようだったが。
「如」
DVDを一時停止させ、是俊は眠そうな如の耳元に唇を寄せた。
「眠いんだろ?」
柔らかな髪の感触を楽しみながら囁くと、如は眠そうに気のない返事をする。
「んん……」
「泊まってけよ」
んん、と如は繰り返し小さく欠伸をした。
「何時?」
「一時半」
そう、と呟いて如はぼんやりと宙を見つめる。是俊に肩を抱かれていることも、誘いを受けていることも、全てを素通りしてしまうような、どことなく退屈そうにも見える無表情だった。
この顔だ、と是俊は内心舌打ちする。
如のこんな表情が、自分を不安にし、魅了する。誰の手も届かないのではないかと思うほど、ぼんやりとしている時の如の横顔は、世界を拒んでいた。世界を拒んでいるというより、世界に無関心になっているという方が正確なのかもしれない。如の心の中にはどこかに何人も立ち入れない桃源郷があって、本人さえも気付かぬうちにふらりとそこへ迷い込む。傍らに誰がいようと、何が起ころうと気付かないのだ。例え、大空が降ってきたとしても、如は桃源郷に心を遊ばせたまま、崩れる空に埋もれるかもしれない。
如の我儘も、時としてひどく素っ気ない態度も、如の全てを許せるのはもしかすると如が見せるこの表情のせいかもしれないと是俊は密かに思っていた。
勿論、愛しい。しかし、それだけでは足りない。如を愛しいと思えば思うほど、彼の隠そうとする影に目が向く。如はその存在さえ隠し通すつもりなのだろう。それに気付いていればなおさら、悔しくなる。意固地にもなる。いつか如が全てを見せてくれるまで、決して離れずにいようと思う。
無理をして、笑っているのだと気付いたのはいつだったか。柔らかく全てを受け入れる如の、本当の顔。繊細で、臆病で、それ故に自尊心を手放せない、優しい如。だから嘘つきになる。嘘をつく時の、曖昧な笑顔。それが、如の発する悲鳴に思える。親しくなるにつれわかってきた、如のこと。声音や表情の持つ本当の意味。如が自分のことを知っているよりはるかに、自分は如を理解していると是俊は信じていた。
そして、難しい相手を好きになった、と今だからようやく思う。
「寝ようか」
如がふと是俊を見た。
桃源郷から戻ってきたらしい如を、是俊は抱きしめ口の端にそっとキスをした。
ベッドにもぐりこむと、是俊は如の体を抱き寄せた。抱きなれた誰かとは違う、高い体温。香水はつけていないと言っていたが、如からはいつもシャンプーか石鹸のような香りがした。
「寝難いよ」
苦笑しながら是俊の腕の中で顔を上げ、如は言った。
「何でだよ?」
「息苦しい」
女性のように扱われることを如は嫌った。是俊にしてもベッドで腕枕をするのはあまり好みではなかったのだが、如と眠る時は他に方法も思いつかなかった。
涼が出て行って、如が初めてこの部屋に泊まった夜、是俊は思わぬ宣言をされていた。
「まだ、したくないんだ」
長い、情熱的なキスの後で、是俊の胸にもたれながら如は言った。想像したくはないが、そう言われた時の自分は間抜けな顔をしていただろうと是俊は思う。当然のように、どうして、と尋ねると
「心の準備ができてない」
そんな生娘のようなセリフを如は口にした。おずおずと顔を上げた如は、そのまま笑い出すのではないかと思ったほどだ。しかし、如は表情を崩さなかった。沈黙が息苦しくて、心にもないことを簡単に誓った自分を、是俊は呪った。
「わかったよ。お前の、気のすむまで待つ……」
「ありがとう」
如の柔らかな微笑。微笑んだ如の顔に、全ての疑問も不満も押し流されそうになりはしたが、わだかまりが残ったのは事実だ。
いつかの如の言葉が蘇る。セックスは、好きな人とした方がいい。
それから……涼の新しい恋人に街で偶然出会う日まで、自分と如にはそれについては触れないという暗黙の了解がなされていたように思う。今にして思えば、ということだが。
「是俊君?」
如を抱く腕に力を込め、是俊は柔らかな髪に顔を埋めた。不思議そうに顔を上げて、如はどうしたの、と小さな声で聞いた。
「愛してる。お前が……好きなんだ」
「僕も、好きだよ……」
何度も、今までだって飽きるくらい繰り返した告白。如はその度に同じ言葉を返した。
温かな体。如の細い指に髪を弄ばれるのが是俊は好きだった。目を細め、やがて閉じると腕の中の如が身じろぎをした。
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