第八十六頁 火の鳥3

 テニスは力んではいけない。腕力ではなく、技術のスポーツだ。

 それを理解したのか、桜野はおっかなびっくり…ではなく、「ではこうしよう」という具合、至って冷静にボールを真っ直ぐ天空に向かって放り投げた。黄色い軌跡を描いて落ちてくるボールに、タイミングよくガットを当ててみる。童の頭を撫でるように、優しく。

「むっ!」

 ポーン、とボールは弧を描き、ネットの少し向こう、クライス側のコートに落下し、弾んだ。

「やった!サーブ成功だよ!」

 どるが思わず声を上げた。

 クライスはニヤリ!と笑みを浮かべ、地面を蹴る。


(あれ…?)


 次の瞬間、ボールは桜野の右斜め後ろの地面に鈍角のVの字を描き、そのまま後方へ飛んで行った。

「?む?」

 桜野は何が起こったのかイマイチ分からない、という様子で後ろを向いた。

「今何を…」

「何をって君。ボールを打ち返したのさ。あのくらい造作もない」

 クライスはやはり不敵に笑いながら、シンプルに桜野に説明して見せた。

(え、えぇ〜…見えなかったけど…)

 どるは不思議だった。あの瞬間、クライスのラケットを持つ手が動いたようには見えなかった。

 まるでボールがひとりでに、透明の壁に当たったかのように桜野のコートへ舞い戻った。

 どるにも、おそらく桜野にも全く見えなかった。

「このくらいはテニスの世界では当たり前だ!熱くなれよ!」

 クライスの叫び声と共に、彼の頭上にボールが出現した。どうやっているのか分からないが、おそらく魔力のようなよく分からない力でその辺りはオートマチックなのか。

「俺のサーブ権だっ!いくぞ!」

 クライスのラケットにボールが触れた瞬間、どるには見えてしまった。

(光ってる…?)

 ボールがではない。光っているのはラケットのガットのあるはずのスペースだ。

 たった2本だけがクロスしているスッカラカンなはずの楕円形のスペースが、シャボン玉の膜でも張っているように薄く光り輝いていた。

 ボールは光の膜に当たったとたん、真っ直ぐ加速して桜野の目前、その地面目掛けて飛んでいった。

「くっ!」

 間一髪、桜野が振ったラケットにボールが当たった。

 だがそれだけだった。

 当たりはしたが、ボールの勢いが強く、明後日の方向へ向いて飛んでいってしまう。

「ちょっとクライスさん!それ…なんか細工してるんじゃあないの!?」

 どるが精一杯叫んだ。

「細工?それは人聞きが悪いね。これは俺専用の特注品さ!テニス魔協会の規約を違反してはいないよ。ラケットの特注など、一流のプレイヤーなら当たり前さ!」

 魔協会って何よ。明らかに不自然に加速してるんだけど!

 という叫びをどるは飲み込んだ。桜野が強い笑顔で、驚きのコメントを返したからだ。

「なるほど面白い!たとえ細工でも構わぬよ。拙者は正々堂々やり、勝つのみでござるからな」

 この脳筋、ジャパニーズサムライが〜〜〜〜っっっ!!

 どるは呆れるしかなかった。


「サーブ、クライス様!」

 またサーブ権はクライスだ。また光るラケットを宙を落下するボールに向けて、彼が優しく一振りしたその瞬間。

「つっ!!!!」

(え!?)

 桜野の頬を、一筋の血が流れた。

 いや、落武者の幽霊だから元々痛々しいくらいに流れているのだが、そうではない。反対側の頬がスッパリ一文字に切れ、ツツッ、と血が流れている。

「貴様…」

 桜野は傷を抑えるでもなくクライスを睨み返したが、

「サーブ、クライス様!」

 気にせず試合は進行する。

 クライスがラケットを一振りする。

「うっ!!!」

 桜野の右二の腕、セーラー服もとい"セーラー服のような装束"がズバッと避け、血液が噴き出した。ボールがかすっただけにしては、鋭い包丁で切りつけでもしたような深い傷だった。

 桜野は痛みに少々顔を歪めたが、体勢を崩す事はない。

(や…やばいよこれ…)

 どるは試合開始辺りから感じていた違和感が、段々と確信に変わっていく嫌な感覚に襲われた。


 "10-0"


 いつのまにかお互いの差は絶望的なほどに開いていた。サーブだけで。

 野球ならもう負けを確信するレベルだろう。テニスでまだ良かった…

 そもそもテニスの1セットが決まる点数って何点だっけ?10点?もっとあったかな?

 スポーツをやらないどるは流石にテニスの点数システムについてはいまいちうろ覚えだった。


「いくぞ!サムライよ!」

 サーブ、サーブ、サーブに次ぐサーブ。

 その度に桜野の装束は敗れ、痛々しく血液が噴き出る。

 気付けば審判の小悪魔が表示した互いの点数は43-0。もちろんクライスが優勢だ。


「ハ……ハァ、ハァ………ハァ……」

 ついに桜野は膝をついた。元々顔半分を赤い血で覆われていたが、もはや全体をドロドロとした血液が流れ落ちていた。前髪はべっとりと血で額に張り付いている。

 かろうじてクライスを見る目は流石サムライと言ったところだが、それもこの状態では強がりにしか見えない。彼を見る眼球も、どことなく焦点が合っていないように見える。

 ダメージが大きすぎる。

 桜野は幽霊であるが、物理的なダメージが大きすぎると死んで、もとい成仏してしまう。どるもそれを知っていた。

「お、おかしいよこの試合!?点数の上限なんか無いんじゃあないのッ!?」

 周りの悪魔の思考が、ノイズと共にかすかにどるの頭に入ってきた。

 その通り。この試合は元々、正々堂々など無い。

 相手がコート…クライスのテリトリーに入れば最後、魔界テニスのルールにのっとった虐殺が始まる。

 真面目な桜野はそれをしなかったが、棄権をすればその場で魂を抜き取られ、死ぬ。その刀で相手に斬りかかるなど、ルールを破っても死ぬ。

 このクライスという悪魔、最初から桜野さんをなぶり殺すつもりだったんだ!


「う………くっ…………」

 桜野は立ち上がろうとしたが、更にクライスのサーブがその膝を直撃する。

 グシャッという嫌な音が桜野の耳に届いた。

「あああぁぁぁぁーーーーー!!!」

 そのまま無様に四つん這いになる。既にボールの直撃を受けた脚には力が入らず、同時にこの世のものとは思えない激痛が走った。


 "121-0"


「おっと!!今のは膝の骨が砕けているな。感覚で分かるぞ!例えボールが我が身を離れても…常に俺の体の一部のようなもの!熱い熱い!熱いぞおお!」

「な、何が熱いよ!これルール違反じゃあないの!?ねえ!」

 たまらずどるが文句を飛ばす。

「体に当たりそうなら、避ければいーだろ。ケラケラ」

「そうそう!あの幽霊がのろいだけなんだよ。ケラケラ」

「幽霊の呪いじゃなくて鈍(のろ)い?ケラケラ」

 周りの悪魔達が次々に囃し立てる。

「うっさいわねーーーー!」

 普段からそこそこ温厚などるが、遂にキレた。最後につまらない駄洒落を飛ばした雑魚の悪魔の頭につかみかかり、頭突きをした。

「いてぇっ!なんだこの娘!」


 なおもクライスの殺人サーブは続く。鋭く飛ぶボールはうつ伏せになる桜野の背の肉をえぐり、肩を粉砕した。

 1ミリも動けず、息をするのが精一杯の桜野を少しずつボロボロの雑巾に変えていく。


(桜野さんが…桜野さんが成仏(し)んじゃう………!)

 どるは次々と周りの悪魔につかみかかり、突き飛ばし、客席を移動しながら友達の身を案じた。

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