第五十六頁 パール・リバー 4

 昔から、この岸田川には"主"がいるとされていた。しかしその"主"は捕まえるどころかどのような姿なのかさえ知られておらず、噂が噂を呼び、常人には見えない未確認生物であるとか、河童が潜んでいるとか、この川自体が"主"ではないのか、など様々な憶測が飛び交っていた。

 という内容をサシは本で読んだ事もあったし、ガガだってこの岸田川の側でライブハウスをやっているのでそういう話は聞いた事があった。

「に、人魚……?」

 自分を人魚だと言う男は"何を今更驚いとんねん"という表情で3人を見ている。しかしこの見た目はどこからどう見ても人間の、橋の下で暮らすホームレスだ。とても映画や漫画のような、美しく怪しく、耽美なイメージが無い。庶民的すぎるというか、以下かもしれない。

「人魚ってのは、下半身が魚なんじゃないのかよ…」

 男にはしっかり二本の脚がある。調理の際の異常なジャンプ力を除けば普通の人間の脚だ。

「そらおとぎ話の話やん。そやったら何、あんたらの中では普通桃からは赤ん坊が出てくるもんなん」

 無茶ながら妙に納得がいかないでもない理屈だった。

「で、でもさっきのとんでもない料理とか、めちゃくちゃ長い事水の中に居たのとか、確かに人魚っぽいというか魚っぽい…それと…」

 サシはじっと目を凝らして彼の首筋を見た。

「ああ、そうそう。わかっとるやん。君らには無いやろ、"これ"」

 襟を引っ張って男が見せた彼の首筋には数本の切れ目があった。鋭利な刃物でスッパリいったような切れ目があるが、血などは出ていない。

 それは"えら"だった。首筋の両側に3本ずつの切れ目があり、それは男の息に合わせてかすかに開いたり閉じたりしている。

「うええ〜ッマジで!?えら呼吸なのかよ、あんた」

「それ言うたらサイボーグの君は何呼吸やねん」

「サイボーグじゃあない!改造人げ」

「この岸田川はな、一見綺麗やろ」

 ガガの毎度の主張を完全に無視して男は続けた。

「しかしやな。実際はけっこう汚いんよ。僕はええ奴やからな、しょっちゅう川の中を自分で掃除しとる」

 男はサラサラと、何事も無かったかのように流れる川を見つめながら言った。ポチャン、と数メートル先の水面を小さな魚が跳ねた。

「しかしや。ここにゴミを捨てに来る輩は後を絶たんねんな」

「それさ、あんたが目撃したらどうするわけ」

 恐る恐る尋ねるガガに、男は軽々と答える。


「どうって。さっき食べとったやないか」


「………」


 しばしの沈黙があった。


「冗談やがな」

「………」

「え、なに、冗談通じへんの自分ら…」

 サシとガガはさすがに一瞬だが引きつったし、笑えなかった。かつて、物を粗末にする人間をプラモデルに変える九十九神に散々な目に遭わされたのを鮮明に思い出してしまった。忘れかけてたのに。男も淡々と表情ひとつ変えずに話すので冗談に聞こえなかった。酷い。


「なんやびっくりさしてすまんな。僕の名前はアマガサキや。君らは気に入ったから、また寿司食いに来(き)いや。ほんなら、さよならストレンジャー」

 アマガサキと名乗った人魚の男はそのまま川にザブザブと入り、沈んでやがて見えなくなった。また川面に静寂が戻り、そこには夕焼けに照らされた娘3人が取り残された。

「あの人…」

「人魚な……ま、居るだろうな…ここなら」

「んん…」

 ぐうぅーとまた地鳴りのような音。それは相変わらず寡黙ならいふの腹から聴こえる。

「宇宙人ちゃん…今飯を食ったじゃん」

「ま…またはらがへったべいびー…」


 …


 カラン、と男は手に持っていた角材を落とした。地面は草が茂っていたが、たまたま角材が落ちた場所はマンホールだったので甲高い、良い音が鳴った。

 この状況を、男は何が何だか理解ができていなかった。それは見た目どおりと言っては失礼だが、男の頭があまり良くなかったというのもある。しかしおそらくこの状況は、大学教授でも何かを発明するような偉人でも理解に苦しむだろう。

 自分は、確かにあの時あの赤髪の娘に向かって角材を翳した。本来女に手を出す事はしなかったがあの赤髪の娘は何かがおかしかった。ただの女と思って相手をしてはいけないと思ったのだ。

 そして気付けばここに立っていた。

 ここは所謂"反対側"だ。星凛町と都心を隔てる川の、星凛町ではない方。さっきまで星凛に居たのに、気付けば都心側の河川敷に立っていた。あの瞬間、物凄い勢いで川の上を移動した記憶がかすかにある。身体に痛みは無いので、何かの衝撃で吹っ飛ばされたというよりは、移動させられたと言うべきかもしれない。

「あの女…」

 男の頭にはふと"彼女"の姿が浮かんだ。赤髪の女ではない。その向かいに居た、何故あんな所に居たのかという謎も残る銀髪の子供。

 あの娘にが自分に向かって何か言いながら、指をクイッと動かした。犯人は彼女だ。仕組みは分からないが、男は難しい事を考えると頭痛がするのでやめておいた。ただ、あの娘の仕業だということはハッキリしていた。

「あの娘がァ……」

 男の顔は真っ赤だった。怒りで血が上って赤くなった、程度ではない。まさに真紅。そして頭…自慢のリーゼントの剃り込みから、二本の角がグググと顔を出した。

「あの娘なんじゃァ!!」

 男は咆哮したが、ある事に気付いた。

 ここから星凛に戻るには、都心から電車に乗る必要がある。

 運賃120円。

 悲しいかな、男の財布には110円しか無かった。

「わりゃァーー!」

 大喧嘩の後の徒歩はさすがに疲れたが、橋の上を一歩ずつ、男は星凛町に向けて戻っていった。

 夕日は沈み、夜が始まろうとしていた。

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