第三十七頁 グリーン・カーニバル 3

 そもそもサシは虫自体が苦手だった。星凛町は言っても田舎ではないのでそこかしこに虫が出てくるわけではないが、だからこそ呑気に生活している中で突然虫が登場したら驚くし怖い。ゴキブリなど言語道断だったし、蟻や蝿であっても家の中で現れたら辛い。蟻や蝿は実害があるわけではないので、これはおそらく虫のフォルムもだが、"普通は出ない場所"で出る事に恐怖の秘密があると思う。この例は極端だが、例えば草むらに寝転がっていたら芋虫が居るという時と、家でトイレに入ったら芋虫が居るという時は決定的に感覚が違う。意表を突かれるというか、こんな所でも出たりするのだという絶望感がある。

 そのような事はもうどうでも良くなるくらいに、今は最悪の事態だった。いきなり現れたゴキブリの大群が次々と自分の身体を這い上がり、服の中へ、下着の中へまで入り込んだ。ゴキブリの動きは二種類あり、モソモソ、ノロノロ動くものと、サーーーッと動いては止まり、サーーーッと動くという動作をするもの。前者は茶羽根とか言われるものがそうだ。後者はちょっと一般的な名称が分からないが筆者も検索する事が躊躇われたので勘弁願いたい。サシは後者が特におぞましいと思っており、今回現れたのは残念ながら後者だった。服と皮膚の間をサーーーッ!サーーーッ!と動いては止まりを繰り返す物体が数百。さらに天井から大量のミミズが降り注ぎ、口の中にゴキブリと一緒に入った。

 サシがよろめいたカインにみぞおちを突かれて目を覚ましてもその状況は変わらない。一度は驚いて…ゴキブリはとにかく臆病なものだ…一部がサシから離れたが、再び体制を立て直すと彼女の身体を這い上がった。

 ただ、不思議だった。サシの気持ちは妙に清々しく、この身体を這う醜い虫達の感触も、まあ、そういう事もあるよね…という気持ちひとつで片付けられる気がした。


「仕上げと行こうかね。ご存知かもしれないがタランチュラは人間を殺す程の毒を持っている訳ではない。しかしお前達の体力を少しずつ少しずつ奪って身体を動けなくする事は造作もない。その後、可愛い蟻達の餌にでもなるというのが、君達下等な生物ができる数少ない大自然への貢献ではないかね」

 不敵に言葉を投げかけるダズルの声をバックグラウンドに、タランチュラの群れの中から、更に蟻の群れが現れた。蟻と言ってもその辺の公園で、春になれば行列を作ってせっせと食物を運ぶ…あんな可愛らしいものでは無い。半透明の赤い身体に、独特のくびれと強烈に鋭い顎。タランチュラ共々星凛のこんな所に生息しているはずはないのだが、世間ではグンタイアリと呼ばれる危険な種族だった。

 カインは既に大量の虫が気持ち悪いだとかそういった生ぬるい感情よりも、本格的な命の危険が完全に勝っていた。ダズルは余裕といった具合で椅子に腰掛け、テーブルの巧茶をすすりながらカイン達と無数の虫達のバトルロイヤルを観察している。

「あのよォーダズルさん。ちょっと取引をしないっすか」

 カインの逆立った髪を既に1〜2匹のゴキブリが昇っていたが、カインは冷静にダズルに問いかけた。

「取引?」

「今この家…いや敷地全体に"悪の華(イーヴィル・フラワー)"の魔方陣を敷いてるんすよ。家の中じゃ分からないと思うんすけどね」

「ほう?」

「あの炎は"生きてる者"のみを燃やす事が出来るんすよね。家とか、コーヒーカップはキレーイに残りますよ。この場合…対象はこの虫達と、アンタと…」

「君達ではないのかね」

「…その通りっすよ。"悪の華"を発動させれば俺らもろとも丸焼けっすね。特に俺なんて一度食らっちまってるんで、再起不能は必至じゃないすかねェー。でも"悪の華"を発動させる瞬間に"D・T・D"で俺とサシさんだけを移動させれば、大勝利ってやつなんすよね。けっこう難しいんすけどね…このおぞましく危険な虫共を引き上げてくれるんなら、そんなリスクでかい事やらずにすむから、俺としちゃ有難いっすね」

 無論そんな事は出来ない。D・T・Dの範囲指定は大雑把にしか出来ないし、転送距離もせいぜい10メートル先だ。この家から出たとしても庭にある無数の植物や、森に生息する虫をこのダズルという男は操り、攻撃をしかけてくるだろう。そもそもカインには2つ以上の魔方陣を同時に出現させる事はできなかった。無論ダズルだって馬鹿ではないから、これが"ハッタリ"だという事はもちろん理解できていた。

「ブラフをかますならもう少し練ってからにしてくれよ、悪魔。お前が言った事は"それが出来るならとっくにやっているだろう"と思わせるような内容ばかりだ。君は複数の魔法…?なのか?を同時にあやつる事はできないし、さっきスズメバチを私の方へ追いやった転送術も至近距離がせいぜいだろう。馬鹿にしているのかね」

「ダメなんすか」

 ダメだね、と目で語るようにダズルは虫にまみれて這いつくばるカインを見下ろした。それは彼らに群がる虫以下の何かを見るかのような、憎悪と侮辱が混ざった眼差しだった。既にタランチュラの群れの先頭はカインのマントの裾、サシのブーツにその毛むくじゃらの足を引っ掛けて皮膚を目掛けて登りだした。

「ダメなんすね。そりゃもう申し訳ないとしか言いようがないっす。"ハリー・アップ・モード"……」

 カインが諦めの表情を落とすと同時に何か呪文のようなものを呟いた。その直後、彼らの真後ろの空間に小さな黒点が現れた。黒点はズズズとこの世のものとは思えない音を立て、家中を振動させながら広がった。しばし驚くダズルの目の前、テーブルの上からコーヒーカップが落ちて割れた。

 黒点は大きな穴となり、カインとサシがすっぽり入るくらいの大きさに広がった。穴には"D・T・D"や"悪の華"よりも複雑な魔法陣が刻まれており、バチバチと電流のような光が全体を駆け巡っている。ダズルは椅子に座った姿勢を崩さずにいたが、さすがにその表情は先程からは微妙に硬くなり、余裕をほんの少し欠いているように見えた。

「ちぃぃーーっす。ありゃあ今日はカイン君?てことはここは人間界?マジで?」

 魔法陣の中からゆっくりと巨大な生物が姿を現した。ガシャ、ガシャと今まさにカインとサシに毒針を向けおそいかかろうとしているタランチュラの数倍、いや100倍はあるであろう巨大な蜘蛛。ただ、蜘蛛は頭が無く代わりに人間の少女の上半身がついていた。少女自体は裸であったが、腰から下、蜘蛛になっている境目の部分まで長い髪が被さって服の代わりを担っていた。

「久しぶりっすね、"アラクネ"のマリア。相変わらずイカツい見てくれっすよねェ」

「うっさいなあ!食い尽くしちまうぞ!ダラダラと骨になるまえに!」

「食べるのは俺じゃあないっすよ、ほら」

 アラクネの少女は蜘蛛の下半身の上からカインとサシの方を見下ろした。ゴキブリ、タランチュラ、ミミズ、軍隊蟻といったおぞましいラインナップの虫達がまさにカイン達を亡き者にする為、彼らの大きな体を這い上がらんとする所だった。

「な、なにこれ?マジ?いいの?私の?カイン君いらないの!?」

「いるワケないでしょ…」

「おおおおおおおおおやったあああああ!いただきまああああす!!」


 その後は凄惨なものだった。ただでさえ見るだけで不快な虫が大量に溢れているこの家のリビングルームを、上半身は人間、下半身は蜘蛛の少女が駆けずりまわり、尻から出した粘液に捉えられ身動きができなくなった虫達を次々と口に運んでいった。

 マリアという少女はアラクネと呼ばれる下級の魔物だった。人間と蜘蛛の二つの身体をもち、人間の知能と蜘蛛の身体能力を有している。好物は虫であり、特にここに数千も散らばるゴキブリは大好物であった。捕食の仕方は人間が食事をする時と同じだから、上半身だけ見れば素っ裸の少女がまるで凄腕のパティシエが作った高級スイーツを食べ放題を楽しむかのように、ゴキブリやタランチュラをバリバリと素手で、次々に口に運んでいるという世にもおぞましい光景が広がっていた。ダズルは固まっているだけなのか諦めてしまったのか椅子から動く事をせず、ただ唖然とその光景を見つめていた。余裕があるから動かないわけではないという事だけは確実だった。やがて部屋の中の虫という虫、ついでに植物、さらについでに庭の木々や花々までもが全て、どういう仕組みかは謎であったがマリアの小さな腹の中に収まった。人を喰う趣味は無かったので、サシやダズルを食べようとはせず、満足した様子で魔法陣から帰ってしまった。「まっ、せいぜい人間界(こっち)で頑張んなよカイン君」と捨て台詞だけ残して。

 なおも唖然とするダズルの前にひとつの小さな影が立ちはだかった。それは猫の耳を怒りに震わせながら、血走った目でダズルを見下ろした。彼女の口の中からはアラクネの"食事"から生き残ったゴキブリが1匹、顔を出した。「ペッ」と痰でも吐くようにそれは彼女から吐き出され、ささっとボロボロになった家具の隙間に逃げ込んでしまった。

「妖怪と悪魔…か。君達とて人間と同じ。まったく…これだから人間は嫌になる。私は誇り高き"妖精"だ…憎き人間の化身どもめ。二度と私の前に顔を出してくれるなよ…」

 そこまで言って、ダズルは完全に怒りで我を忘れたサシの鋭い爪にズタズタにされ、気を失った。


 ……


 猫のサシはこれ以来、あるものに耐性がついた。

「む、ゴキブリか」

「待ってください先生。無駄な殺生はいけません」

 素早い手つきでむんずとゴキブリの黒光りするボディを掴み、窓からポイと外に投げるサシを、街田康助は呆然と眺めていた。

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