第三十六頁 グリーン・カーニバル 2

「いやああああああああやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめて取って取って取って嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だあああああひぎゃあああああああああ」


 ゴキブリの大群だ。全部で百、いや千匹はいる。それが今現在、自分のワンピースの隙間という隙間から潜り込み、数匹はおそらく下着と皮膚の間にまで入ってモゾモゾと動いている。サシは完全に気が狂う一歩手前だった。


 以前に家にゴキブリが一匹、出た事がある。ゴキブリは特に危害を加える事はなくむしろ人間を恐れて隠れてしまう性質があるのだが、同居人の街田康助は「クソが」とだけ言い放って殺虫剤で殺してしまった。しばらくの間のたうちまわり、脚を折り畳んで動かなくなったゴキブリをサシは心から汚く、醜いと思った。一匹いたら他にもいるような気がした。それが今、千の大群になって自分の身体という身体を這い回っている。気持ち悪い、不快を通り越して恐怖に全身を包まれ、蝕まれる感覚だった。

「サシさん!!サシさあああん!!ちくしょうなんスかこれ、ほどけねえっす!」

 一方カインは無数の植物の蔓にがんじがらめに縛られ、完全に動きを封じられていた。つい先程まで部屋の隅に大人しく存在し、お洒落に雰囲気を作っていた観葉植物の蔓が、ここの住人、帽子の男の合図で突然伸びてカインの手足に巻き付いた。たかが植物と思って引きちぎろうとしたが意外にその力は強く、カインの全身を締め上げた。

「君達はやはり敵だ。これだから人間は嫌いなんだ。いや、人間が創り出した存在と言った方が正しいか。どっちでもいい。ここで虫達と植物の餌になってもらうぞ」


 何が良くなかったのだろうか。

 さきほどカインとサシは公園の奥にある森のまた奥に、謎の家を発見した。妙にお洒落で魅力的な家だったので、近くまで行ってみる事にした。全体的に白くて、屋根や窓のデザインは変わったデザインをしており、いつまでも見ていたかった。庭にも見た事のない美しい花や木が植えてあった。最初は庭の外から見ているつもりだったが、2人はいつしか庭に入り込み、玄関まで来てしまったのだった。悪いと思いながらも、中にはどんな人が住んでいるのだろうという好奇心の気持ちがあり、帰ろうかどうしようか2人で言い合っているうちに玄関が開いて、この男が出てきて、2人を中に通してくれた。

 男の名は具生(ぐにゅう)ダズル。人間を極度に嫌っていて、ここでひっそりと暮らしていた。サシと共に暮らす小説家の街田康助も大概の人嫌いだが、おそらくそれ以上だ。彼のはたまにいるひねくれ物といった言葉で片付くが、ダズルにおいては憎悪にも似た感情を感じたのが少し怖かった。ただ、穏やかで知的な話し方や、自作の帽子を軽く自慢する姿は憎めないものがあった。


 男はおもてなしなのか、コーヒーカップを用意してくれたがそれは全くもって異様な物だった。コーヒーカップの上に、カップの縁より少し小さい大きさの茶色い奇妙な甲虫が居て、6本の足でカップに乗っていた。ダズルが人指し指でトンと虫の体を軽く叩いて合図をすると虫は震え出し、全身から汁がジワジワと溢れだし、カップに注がれた。汁からは湯気が出ており、美味しい紅茶のように透き通った赤色をしていた。

「巧茶虫(こうちゃちゅう)の体液は美味しいし、身体にもいい。どうぞ」

 ダズルは無愛想に、しかし親切に勧めてくれたが、2人はさすがにこれを飲む気にはなれなかったので、せっかくなのに申し訳ないと思いつつ拒否してしまった。男は残念そうにしていたが、片方の汁をグイッと飲み干した。


 しばらくすると、サシは足下に何かが居る事に気付いた。一匹の大きめなゴキブリだった。彼女がヒャッ!と叫ぶやいなや、カインはゴキブリの真下に小さな魔方陣を出現させ、紫色の炎が出たと思ったらゴキブリは燃やされ、そこには死骸も焦げ跡も残らなかった。

「ふー…ありがとうカインさん…私、どうもこれは苦手で」

「お安い御用っすよ。あ、ダズルさんお騒がせしました。ゴキブリが居たんで、やっつけました。やっぱ森の中だから、居るっすよね。あ、焦げ跡とかは残らないすから、安心してくださいっす」


 そこからだった。男の顔は怒りに震え、まるで自分の家族が殺されたかのようにカイン達に敵意をむき出しにした。


「グリーン・カーニバル!」


 ダズルが手を挙げて合図した瞬間、どこに居たのか奥からはゴキブリの大群が現れサシを襲い、植物の蔓が伸びたと思えばカインをきつく縛り付けた。ゴキブリの大群はみるみるうちにサシの服の中に入り込み、蔓は皮膚が裂けそうなほど強くカインを締め付けた。それだけではない。サシが悶える真上の天井には大量のミミズが這っており、一斉にサシに向かってボトボトと落ちた。サシは更なるショックでうっかり閉じていた口を開けてしまい、ミミズとゴキブリが待ってましたとばかりにその中に数匹入りこんだ。入れ替わりにサシの口からは泡が溢れ、目の焦点は既に合っていなかった。仰向けに倒れ、手足に力を入れる事はもうできないようだった。

「妖怪は再起不能なようだね。全く私は何故人間がゴキブリを嫌うのかが分からない。素直で正直で無害な子達なのに。彼らは自分達が人間に嫌われているのを知っているから、それを逆手に取ってこうして群れて襲うのだと私が教えたんだよ。それこそが誇りを守る術だとね。なに、喰われやしないよ。その娘は再起不能にしただけだから燃やして庭の肥料にでもしてやろうかな」

 ゴキブリの群れに我慢して近づき、カインの能力"D・T・D(ダーカー・ザン・ダークネス)"でサシに群がる連中を遠くに移動させる事も考えたが、"D・T・D"の射程範囲の決定はあまり精密に決める事ができず、ゴキブリ達に範囲を合わせるとしても奴らが密着するサシの服どころか皮膚まで一緒に削り取って移動させてしまう恐れがあった。

まして、カインを縛る蔓はその強さを増し、手足に血が通う感覚が無くなってきた。腹も締め付けられて胃液が逆流しそうだった。

カインは最近人間のことわざという物を勉強していたが、"泣きっ面に蜂"という言葉は面白くて気に入っていた。しかしそれがまさか現実になろうとは、目の前に本物のスズメバチの群れが現れるまで思ってはいなかった。動けなくしてスズメバチに刺し殺させるという作戦だったのだ。

 しかしこれくらいなら"D・T・D"で移動させる事が出来る。移動先はあの具生ダズルという男だ。彼が何をもってここまで激昂したのか分からないが、彼を倒せばこの植物や虫達の猛攻は治まるという感覚があった。カインの前にはどす黒い魔方陣が現れ、一気にスズメバチ達を飲み込んだ。移動先はダズルのすぐ近く。ダズル本人は"D・T・D"の射程距離外だが、スズメバチが彼を射程距離内に入れるほどまで移動させる事はできる。ダズルがカインの射程距離を伸ばしてくれたと言ってもいい。

「お前たち、何をやってる。遊んでやるのはあちらのお客さんだよ」

 ……無駄だった。少し考えれば分かる事だった。ダズルはこの家の中の植物や虫を完全に飼い慣らしている。それはスズメバチだって例外ではなく、彼らがダズルを攻撃するはずなど無かった。いきなり場所を移動させて戸惑うスズメバチ達だったが、カインを確認すると再度彼の方へ向かった。

「うおおおっ!"悪の華(イーヴィル・フラワー"ッッッッ!」

 咄嗟にカインは自身の真下に魔方陣を出現させ、そこからは大きな紫色の火柱が放出された。先ほど、サシに近寄った1匹のゴキブリを殺した炎である。技の名は"悪の華(イーヴィル・フラワー)"。この炎はこの世の生あるもののみを焼き払う。ゴキブリのみを焼き去り、フローリングの床には焦げ跡ひとつつかなかったのはこの為である。この炎により、カインを締め上げる蔓、そしてスズメバチ達までもが業火により消滅した。が、この世に干渉する生体であればカインとて同じ事であり、カイン自身も消滅こそしないが火傷を負った。服は何ともないが全身をヒリヒリとした火傷のダメージが襲った。この技もサシには絶対に使えない。この男に使うとしても、ネタを見られている以上すぐにかわされてしまうだろう。

「君は…君はいくつ私の同胞を侮辱すれば気がすむのかねッ!」

 鬼の形相でダズルがサッと手を挙げると、また別の観葉植物の蔦がカインの動きを止めようとその身を伸ばしてきた。二度も同じ手を食う事はない、という具合にカインは火傷の痛みに耐え身をかわした。

 避けた先、カインは肘に若干柔らかい感触を感じた。みぞおちだった。ゴキブリにまみれて仰向けにぐったりするサシのみぞおちにエルボー・ドロップを食らわせる形になっていた。

「うわっ、す、すいませんサシさん!……げっっ!!」

 衝撃で数匹のゴキブリがカインの手に乗り、反射的に彼は払いのけた。しかし、みぞおちに一発入れたショックでサシは目を覚ました。ゴフッと鈍い音と同時に、口から胃液らしきものと同時にゴキブリが飛び出した。飲み込んではいなかったようだ。目を覚ましたものの、何が起こってるかは把握出来ていないらしく、ぼーっと宙を見つめている。


 カインはゴキブリの山から間合いをとろうとしたが、最悪な事に気付いてしまった。カインとサシの周りを、新たな"同居人"が取り囲んでいたのだった。

「さて…これで最後だよ。ただ、悪魔と妖怪に効くのかは謎だがね。実験させてもらうとしよう」

 それが何であるか理解するのに数秒かかった。それぞれの大きさはゴキブリやスズメバチよりも大きく、空を飛ぶ事はなかったがずんぐりとした体型におぞましい体毛、8本の脚が確認できた。


「タランチュラ…っすねえ…こいつはハリーアップモード(緊急事態)って奴っすね……」

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