賢者の手

関川 二尋

序章

プロローグ ~194X 北欧州の森にて~

 細かな地響きが足元から伝わってきた。

 ビリビリと地面が震えている。


 少し遅れて森の向こうからドーンという音が聞こえてきた。

 一度、それから続いて二度、三度。

 森に棲む鳥たちが一斉に羽ばたいて空へと散り散りに逃げてゆく。


   👆


「来た……ここまで来たんだ……」


 赤髪の少女は震えだした自分の手を胸元でぎゅっと握りしめた。

 それがなにかよく分からないけど、とかにく怖い。

 

 感じたことのない恐怖、圧倒的な不安に吐きそうになる。

 それでも耐えられたのは、彼女にはまだ幼い弟がいたからだ。

 その弟は少女のスカートにつかまり、不思議そうに見上げている。


   👆


『センソー』と『ボーリョク』と『ヘータイ』がやってくる。

 それからみんなが捕まえられて『ギャクサツ』が始まる。


 大人たちが何度もそう話していた。


 その言葉の意味はよく分からないが、とにかく恐ろしいものなのだろう。

 いつも陽気な大人たちがあんなにも不安になっているのだから。


   👆


 ドーンとまた音が響いた。


 あの音、あれが嵐の中心。

 少しづつだけど、こっちに向かってきている。


 森の天蓋の向こうに、細くて黒い煙が立ち上るのも見えた。


   👆

 

「おばあちゃんのとこに行こう!」


 少女の言葉に弟は深刻な顔でコクリとうなづいた。

 しっかりと弟の手を引き、急ぎ足で深い森の中を抜けてゆく。


 密生した大木の間を走り、絡みつく蔦をかきわけ、倒木をくぐり乗り越えてゆく。

 やがて十分ほどで二人は我が家にたどり着いた。

 

 ここまで着て、ようやく少女は緊張の詰まった息を吐きだした。


   👆


 ここまでくればひとまず安心だ。


 森の中の少し開けた場所に馬車を寄せ合い、一族のみんなが集まっている。

 夏の旅を終えてから、ずっとここをホームにしてきた。


 ここは綺麗な地下水が湧き出ていて、木の実や果物がたくさんとれた。

 街にも出やすくて、森の中にはウサギや鳥などもたくさんいた。


 少女にとってはもちろん、一族のみんなにとってもここはお気にいりの場所だった。


   👆


 だが今日はちょっと様子が違っていた。

 みんながすでに異変に気付いていたのだろう。


 ホームの真ん中にあるおばあちゃんの馬車にみんなが集まっていた。


「なぁ、このままじゃ見つかるんじゃないか? あのレンチュウに」

「捕まったらどこかへ連れていかれるという話じゃ」

「なぁ、ノーマンばあさん、どっちへ逃げればいいんだ?」


 集まった大人たちはパニックと恐怖に震えていた。


   👆


「まぁ、まずは落ちつきなさいな」


 おばあちゃんは皺だらけの顔でにっこりと笑った。

 それだけで大人たちからパニックの波が引いてゆく。


「このノーマンばあさんが、ちゃんと占ってあげるから」


 その言葉にさらに安堵の声が漏れ、大人たちには笑顔まで戻ってきた。


   👆


 そう。


 


 それはこの場にいるみんなが知っていることだった。

 おばあちゃんの占いに従っていれば大丈夫。


 これまでずっとそうだったのだから。


   👆


 と、老婆は群衆から離れていた少女のことを見つけ出して手招いた。


「なぁに、おばあちゃん?」

「ジー、お前が一番きれいだと思う木の枝を二本、葉っぱを三枚持ってきておくれ」

「わかった!」


 それはいつもの少女の役割だった。

 急いで辺りを見回し、老婆の言った木の枝と葉っぱをさがす。


 パっと目についたものをすぐに選んで老婆の所へ戻る。


   👆


「これでどう? おばあちゃん」

 老婆は耳がずいぶん遠くなっているので、耳元で叫ぶようにして聞く。


「ありがとうよ、ジー。どれ占ってみようかね」


 老婆は枝を膝の上に並べ、それからパラリと葉っぱをその上にそっと落とした。

 枝の上に並ぶ葉っぱの向きや表裏、そう言ったものから占いをするのだ。

 もっともその結果と意味はおばあちゃんにしか分からない。


 それから老婆は手袋を脱いで、しわくちゃの両手を開いた。

 その両手の真ん中に赤いアザが見えた。


   👆


 『セイコン』


 一族のみんなはそう呼んでいた。

 代々一族の長に引き継がれてきた大事な『シルシ』だという。


 少女は少し緊張してそれを見守った。


   👆


「行先だったね? 北か、西か?」


 老婆はそう言って目を閉じる。

 それから

 パン、と両手を合わせた。


 一同が固唾をのんで見守り、老婆の言葉を待つ。


 そう、この占いは当たる。

 この選択に一族の未来がかかっているのだ。


   👆


「北。北へ逃げるんじゃ」


 老婆の言葉にみんながホッとしたのも束の間、大人たちは急いで立ちあがり、それぞれの馬車に戻っていった。


 これからまた旅が始まるのだ。

 いつもだったらワクワクした気分になるものだが、今回ばかりは違っていた。

 みんなの顔に焦りと恐怖があった。


「さぁ、お前たちも早く支度をはじめなさい……おっかない『センソー』がくるよ」


   👆


 とそこで少女は老婆の異変に気が付いた。


 なんというか老婆の目から光が消えていた。

 たぶん、そう。

 おばあちゃんの目が見えなくなっているみたいだった。


「おばあちゃん、大丈夫? 目が見えないの?」

「どうやらそうなったみたいだねぇ、でも心配しなくてもいいんだよ、あたしの役目はもうすぐ終わるからね」


 老婆はそう言って少女の髪を撫でた。


「もうすぐ『コーケイシャ』がやってくる。あたしの役目もそこで終わるのさ」


   👆


「コーケイシャ? 誰なの? おばあちゃんの知ってる人?」

「知らない人だよ。遠くの国からやってくるんだ、女の人みたいだね」


 少女にはさっぱり訳が分からなかった。

 だがおばあちゃんの言葉はいつだって正しくて絶対だった。


 それにおばあちゃんは微笑んでいた。

 穏やかに幸せそうにニコニコとしていた。 


 だからこれから始まることはきっといいことなのだろう、と少女は思った。


「さぁ、あんたたちも早く支度をしなさい。長い旅になるわよ」

「わかった! 行こうジェイ!」


 少女はふたたび弟の手を引いて父と母の馬車に走ってゆく。


   👆


「……長い旅になるわね……」


 老婆はそう言って森のはるか向こうに目を向けた。


 その見えない目で、はるか先にある運命を見通すように…… 

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